離婚状を突き付けてきたはずの神様

「り、離婚……?」
「左様に御座います」

 佐一郎の使いだと名乗った男は野上千鶴に一枚の手紙を渡した。そこには「離婚」の二文字があった。千鶴はそれを見て驚きのあまり体を震わせた。

「これは本当で御座いますか」
「はい」
「そうですか」

 何度も確認をした千鶴が立ち上がる。右手で紙をくしゃりと潰し、両手を挙げて叫んだ。

「やったわ────!」

 その声は山の奥の奥にまで轟いたという。



 時は明治、まだ江戸の名残を色濃く残す間宮村に生まれた千鶴は、十七で佐一郎に嫁いだ。

 この結婚は千鶴が望んだものではなく、村から命令されたものだった。

 佐一郎は人ではなく、村にある間宮山にいるとされている神様だ。されている、というのは今までその姿を誰も見たことがないためである。それなのに何故、その身を捧げなければならないのか。全く理解に苦しむ。しかし、千鶴は父親がいなく、貧しかった。母は必死に抵抗してくれたが、嫁がなければ命は無いと脅され、泣く泣く受け入れることとなった。

 千鶴は佐一郎の妻として、山にある社に住まいを移した。ここが佐一郎の住処らしい。その日は母と二人、別れの時間がやってくるまで泣き続けた。

 嫁いでから山には三十年経つまで人間が入ることは許されず、三十年前に嫁いだという女がどうなったかは誰も知らない。社には誰も住んでいなかったので、逃げ出したか、はたまた佐一郎に頭から食べられてしまったのか千鶴には分からない。きっと、数日のうちに自分もそうなってしまうのだろうと怯えて暮らした。

 しかし、一日経っても二日経っても佐一郎は現れなかった。三日も経つと村から用意された食べ物が底を突き、千鶴は空腹に襲われ、佐一郎が来る前に飢え死にしてしまうだろうと思った。

 もういっそ逃げてしまおうか。ここに骨が無いのだから、きっと前の花嫁も逃げたのだ。村としては女を差し出しさえすればそれで終い。その後のことは知ったことではないだろう。

 母の元へは戻れない。千鶴が戻ったとあれば、今度こそ殺されてしまう。佐一郎からの絶縁状でも届かない限り。

 そんなある日のことだった。千鶴は這うように外へ出てみれば、社の前に果物がいくつか転がっていた。千鶴は土が付いているのも構わずにむしゃぶりついた。食べ物何日振りだろう。もうすぐ腹が抉れて背中に付いてしまうところだった。

「美味しい」

 久々の食事のなんと美味いことか。生きていて初めて食べながら涙を流した。

「それにしても、誰が持ってきたんだろう」

 木から落ちて転がったにしては都合が良すぎる。誰かが運んだと考える方が自然だ。

「もしかして、佐一郎様……?」

 千鶴は首を振った。今日まで何も音沙汰のない彼が施しをするはずがない。それならば、最初からしてくれるはず。

「あ、狸とかかな」

 見れば、点々と野イチゴが落ちている。きっと狸か狐が採って落としていったのだろう。それを辿っていくと、野イチゴ畑があった。近くに林檎の木もある。もう少しで収穫できそうだ。

「よかった。しばらくこれで生活できる。冬になるまでに他に食べるものがあるか探してみよう」

 体力が戻ってきたため、あちこち歩きまわる。どうせ佐一郎は社に来ないのだ。社から離れ山を彷徨ったところで文句は言われないだろう。

「小川だ」

 水の音がしたと思ったら、小川が目の前に現れた。覗いてみるが、魚らしきものはいない。たまたまいないだけで住んでいる可能性はある。また今度来てみようと思った。

 とりあえず、二日分だけ果物を持って帰る。一度に取ってしまえば、たちまち食べるものは無くなってしまう。食べる量もできるだけ少なくしなければならない。

「美味しい」

 先ほどは涙が出る程美味しかったのに、今はどこか味気ない。千鶴はとぼとぼ帰った。

 翌日、その翌日も山で見かけた食べ物を少しずつ食べて生き延びた。しかし、一向に佐一郎は来ない。もしかしたら、ここが住まいではないのかもしれない。もしくは自分はいらないか、はたまた佐一郎という神など存在しないのか。

 佐一郎がいないとするならば、山を下りてもいいだろうか。しかし、万が一いるならば、たちまち村は災いに溢れるだろう。

 母に会いたいと思う一方、会いに行けば自分の所為で命を脅かすことになるかもしれない。千鶴は何もできず、山で静かに暮らすしかなかった。

 どれだけの日が過ぎただろう。一人きりの生活は寂しく、嫁いでから何日経ったのかも分からなかった。その生活のたった一つの救いは一匹の子狐だった。

 たまにやってきては食べ物を社の前に置いた。最初に運んできたのもこの子だったのだろう。しかも、姿を見せてくれてからだんだんと慣れ、今では頭を撫でさせてくれるようになった。一人ではない、そう思えた。

 しかし、いったいいつまでこうして暮らしていくのだろう。季節は秋になり、寒さを覚え始めた頃、そんなことを考えていたら件の使いが千鶴を訪ねてきたのだ。

 本当に佐一郎はいるらしいこと。それなのに会いに来ないこと。その上、一度も会ったこともないのに離婚を突き付けられたこと。何もかもが想像の斜め上をいってしまい理解できなかったが、とにかく離婚したということはもう山にいなくてもいいということだ。

 村に帰って責められたとしても、この離婚状があれば問題無い。母ともまた暮らすことができる。

 いてもたってもいられず、千鶴は走り出した。

「お母ちゃん……!」

 その視界の端、子狐の姿があった。思わず立ち止まる。

「狐さん、ありがとう。元気で!」

 子狐はぷいと山の奥に入っていった。

「ああ、残念。ごめんね」

 千鶴が山を下りることで子狐が一人になってしまったらどうしようかと申し訳なく思ったが、来るまでも元気にやっていたのだからきっと家族がいるはずだ。千鶴は子狐に謝って歩みを進めた。

 山を下りると、すでに陽が傾き始めていた。千鶴は走った。かかとが擦れて血が滲んでも走り続けた。

 そうして辺りが暗くなった頃、見慣れた我が家が眼前に現れた。しんと静まり返っていて千鶴の心がぎゅう、と小さくなったが、奥の部屋に明かりが灯っているのを見つけてほっと胸を撫で下ろした。

 こんこん。

 玄関を叩く。ややあって、か細い声で「どなたですか」と聞こえた。母の声だ。

「お母ちゃん、千鶴よ」

 すると、慌ただしい足音が近づくとともに玄関の引き戸が開かれた。

「千鶴!?」

 いつ振りだろうか。一か月ほどに思えるが、何か月も経っているに違いない。記憶より痩せこけた顔が痛々しく、細い体に抱き着くと母は静かに涙した。

「本物だ。千鶴……よく戻ってきてくれた……でも、このままでは貴方の命が」
「大丈夫」

 自分よりも娘の命を心配してくれる母が愛おしい。千鶴は件の手紙を取り出した。

「佐一郎様から離婚状が届いたの。だから、私は自由の身よ」
「り、離婚!?」

 母はへなへなとその場に座り込んでしまった。

「どうしたの?」
「佐一郎様に無礼な真似をしたの……?」

 なるほど、今度は神に背いたとして呪いが待っているのではないかと心配しだしたらしい。

「そんなことないわ。だって私、佐一郎様に一度も会っていないもの。今日だって佐一郎様の使いの方がこれを持っていらっしゃっただけで」

「そう。そんなことが……信じられないけど、千鶴が言うのだから間違いない」

 母に促され、家に入る。しかし、玄関の戸を閉めようとしたところで男たちの声がこちらに届いた。

「千鶴が帰ってきたというのは真か!」

 二人して出ると、村の男たちであった。後ろには村長もいる。皆一様に恐ろしい表情を浮かべていた。

「ただいま戻りました」
「何故、戻ってきた! 神との約束を破り、我々を殺すつもりか」
「そんなことはありません。こちらをご覧ください」

 離婚状を両手で広げて見せる。男たちに動揺が広がった。

「おお、離婚とな……」

 千鶴の予想とは裏腹に、男たちの表情は暗いままだった。

「千鶴、何かしたのか?」
「いいえ」
「佐一郎様に無礼を働いたのでは。これはいかん、村に災いが起きる!」
「いいえ!」

 どんどん大事になっていく様子に、たまらず声を上げる。千鶴が右手を控えめに上げて説明した。

「佐一郎様とは一度もお会いしていません。この離婚状も使いの方が持っていらっしゃいました。ですから、離婚したからといって何か起きるとは思いません」

「しかし……」
「あ、おい。もう一枚あるぞ」

 離婚の二文字に喜びすぎて、もう一枚あるとは思ってもみなかった。千鶴も開かれた紙を覗き見る。そこにはこう書かれていた。

『万が一千鶴を責める者があれば、たちまち呪いが末代まで降りかかるだろう』
「ひいいぃッ」

 男がたまらず持っていた手紙を落とす。そのあと、必死に拾い上げて丁寧に土を払い、封筒に手紙を入れて千鶴に返した。

「分かった。分かったから、俺たちは関係ない。千鶴も佐一郎様から解放された。これでいいな?」
「は、はい」
「では、これで!」

 慌てた様子で男たちは走り去っていった。残された母娘が顔を見合わせる。

「佐一郎様、優しい人だね。一度もお会いしなかったけど」
「そうね。千鶴を返してくださって。しかも、村の人たちにも牽制してくださって」

 これを見る限り千鶴を嫌っていたわけではなさそうだ。しかしそれならば何故、千鶴を返す気になったのだろう。理由を考えようにも会ったことすらないので全く分からない。

「とにかく、これからはまた二人で過ごせるよ」
「いつか佐一郎様にお会いできたらお礼を言いましょう」
「うん」

 きっと懐の深い、優しい方なのだろう。二人はそう言い合って家に入っていった。



 いつか。そう思っていた。それがやってきたのはその日の晩であった。

「夜分にすみません。こちらに千鶴という女性がいると聞いたのですが」
「はい、何用でしょうか」

 母が戸を少しだけ開ける。そこには随分大柄な美丈夫が立っていた。

「千鶴とお知り合いで御座いますか?」
「はい」
「そうですか。少々お待ちくださいませ。千鶴、千鶴、いらっしゃい」

 奥から千鶴の声が聞こえると、男の肩がぴくりと動いた。すぐにぱたぱたと小さな足音が近づいてくる。

「お待たせしました。私に用事があるとか」

 そっと顔を出した千鶴の前で、男が真顔でこう答えた。

「佐一郎だ。改めて求婚しに参った。私と夫婦(めおと)になってくれ」

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