カラフルなのにモノクロな女の子と交わした。
 “ふたりで一枚の絵を完成させる”という約束を。

 それは、僕が女性アレルギーを発症してから迎えた5回目の夏のことだった。
 

 * * *
 

 午前中に高校の授業を終え、帰路についている僕は夏服からのぞく二の腕をさすった。バスの冷房が効きすぎて肌寒いからだ。
 この街に来て半年。7月にも涼しい風がそよぐことを知った。そして、エアコンの風は東京にいた頃の方が不思議と心地よく感じるものだったということも。

 バスがトンネルに差し掛かると、漆黒となった窓ガラスに、僕の顔が映し出された。
 少しクセのあるミディアムの黒髪。伏せがちな長いまつ毛の下で、母から受け継いだ“青い瞳”がぼんやりと僕自身を見つめている。
 このままウィッグを被れば「女の子です」と言っても誰も違和感を覚えないだろう。中性的というには女性側の引力が強い。僕はいわゆる、そういう系統の顔つきをしている。女性アレルギーの患者としては喜ばしくはないけれど。
 
 ふいに、窓ガラスの向こうの僕が話しかけてきた。

 (きみは……蘇我葵(そがあおい)くん。だよね?)
 (そうだよ)
 (もうひとつ名前があるよね?)
 (あるよ。デンマーク人の母がつけてくれた名前。トロンって言うんだ)
 (きみって、美少年らしいね。幸せそうには見えないけど)
 (そうだね。余計なお世話だけど)

 陰鬱、気だるげ……よく言えばアンニュイな男の子。
 僕はそんな自分が好きではない。16歳の男子高校生なのだからもっと──僕は窓ガラスに映る不機嫌そうな美少年に向かって、笑顔を向けてみる。
 返ってきたのは、呆れるほどに下手くそな作り笑いだった。

 バスがトンネルを抜けた。
 それと同時に、もうひとりの僕は消え去り、突き刺すような光が車窓から飛び込んでくる。
 反射的に目を瞑った僕の耳に、話し声が聞こえてきた。トンネルの中では音の反響でかき消されていたのだろう。それに合わせた音量なのか、わりと大声での会話のため内容をクリアに聞き取れた。
「なんだっけ?生糸とか?」
「そそ。この街は明治・大正にかけて随分栄えてたんだわ。製糸工場がいくつもあってさ」
 珍しいな。と僕は思った。
 運転席付近に立っている高校生くらいの男子の会話だ。このショート動画がウケるとか、インフルエンサーがどうだとか。そういったありふれた話題でなく、歴史?の話みたいだ。
 僕は興味を惹かれた。というのも、僕はこの街に引っ越してきたばかりの他所者だからだ。少しでもコミュニティに馴染もうという本能的なものかもしれない。
 無礼だとは思いつつ、僕は聞き耳を立てた。
「んで、湖畔の一角にさ。ナントカの砂浜ってのがあって。知ってる?」
「あー、聞いたことあるかも。湖に身投げした女工さんの遺体が流れ着くとこ……だっけ?」
「そう。それよそれ」
 
『賽の砂浜』
 そう呼ばれているらしい。
 僕は聞き耳を立てながら、携帯で検索して情報を得ていた。
 半ば売られるような形で製糸工場に就職した女工さんたち。その中には、湖に身投げして自ら命を絶った者もいたという。
 湖のいずれの地点で身投げしたとて、最後には必ず賽の砂浜にたどり着く。それゆえの呼称なのだとか。
「出るらしいぜ……ガチでさ」
 なんだ。幽霊の話か。
 僕は幽霊には興味がない。けれどせっかくだから最後まで聞こう。
「幽霊?つまんな」
「そんなんじゃねえよ……そんなんじゃねえよ……!」
 え?なんだ?何が出るって言うんだ?
 僕はバスの後部座席にいながら、つい身を乗り出してしまう。
「ミイラだよ!」
「は?」
「ただのミイラじゃねえぞ。セーラー服を着た……JKのミイラだ!包帯グルグル巻きのよぉ!」
 ……僕は小さくため息をついた。
 ひどいオチだ。湖に首長竜が棲んでいる。とかの都市伝説のほうがよほどマシ。

 バスが停車し、先ほどの男子高校生たちが戯れあいながら仲良く下車してゆく。
 まだミイラ伝説の話題を続けているようで、彼らの会話が否が応でも耳に入ってくる。
「しかも、絵を描いてるらしいぜ!砂浜に立って夕陽に向かってよぉ!」
「それもう、ミイラじゃねぇわ」
 
 JKのミイラ……包帯グルグル巻きで、セーラー服着て……絵を描いてる……
 どこでどう変遷して出来上がった都市伝説だろうか。
 はじまりを知りたいな。そんな風に思いながら、ぼんやりと外を眺めていた僕は、次の瞬間には身をすくめて身構えることになる。

「ねぇ、ひとり?うちらと話そーよ」
 ──女の子に、話しかけられたからだ。

 *

「ね、ガチでしょ?美形じゃんね」
「やばぁ〜。加工なしでこれなん?」
 ひとりバスの後部座席に座っていた僕に、話しかけてきた女子高生の2人組。
 制服を見るに、同じ高校だ。
 そして夏服のブラウスに結ばれたリボンの色からして、僕と同い年の2年生だろう。
 僕は彼女達から目を逸らし、小さくため息をつく。
「葵ってどこのハーフなん?アメリカとか?」
「ねぇ、東京から越してきたんでしょ?向こうでもモテたん?」
 なれなれしい。
 田舎の女の子はみんなこうなのだろうか。だとしたら、僕の目論見は見事に外れたことになる。
 引っ越した理由は“他”にあれど、相対的に人口の少ない田舎町であれば、女の子に接する機会も少なくて済む。そうタカを括っていたのだが……

 車窓に映る湖の街。
 かつては東洋のスイスとも呼ばれた静謐な街の姿を眺めながら、僕は小さくため息をついた。
「ねぇ、聞いてんの?葵〜」
 気づけば、隣にアレルゲン(女の子)が座っていた。
 二の腕あたりの産毛が逆立つような感覚。僕にはわかる。アレルギー反応だ。
 僕は無意識に、胸ポケットに触れた。そこには抗ヒスタミン薬を忍ばせてある。じんましん程度ならこれで治まるからだ。
 アレルゲンが去ったら、薬を飲もう。
 そう思った矢先──
「葵ってさ、もしかして……」
「あーね。それでシャイなん?」
 クスクスと顔を見合わせて笑う2人。
 僕は察した。
 ──何を考えているのか。何を言わんとしているのか。
 僕は”それ“を知っている。
 恐怖が、僕のカラダを縛りつけた。
 ぬるりと。隣に座る女の子が身をよせ、僕の太ももに触れる。
 そして耳元で囁いた。
「ねぇ……シよ?うちらと──」


 * * *
 

「……ッ!ゥ、ォォエ!」
 僕は嘔吐していた。街路樹の木陰に突っ伏して。
 幸い、昼食はまだだった。戻したのは液体だけ。その中に緊急で飲み込んだアレルギー薬のカプセルだけが溶けることなく転がっている。
 ──僕はあの後。
 彼女たちを跳ね除けて、バスの運転手さんに無理を言って降ろしてもらった。
 そして、胸ポケットに忍ばせた薬を飲み込んで、走った。胃の中のモノが込み上げてくるまで……。

 少し気分が落ち着いてきたのか、周囲の音が耳に入ってきた。
 蝉の声が聞こえる。真上からだ。街路樹に止まっているのだろう。
「ねぇ、あなた。大丈夫?」
 肩に触れる手の感触。蝉の鳴き声がノイズになり、振り返るまでわからなかった。
 その声の主が女性であると。
「これ。よかったら飲んで──」
 差し出されたペットボトルの水。僕はそれを手で払い落として、走り去った。無意識に。怖かったからだ。
 わかっている。最低だ。
 親切にしてくれた人にこんな仕打ちをするなんて。
 押し寄せる罪悪感に打ちひしがれ、顔を上げることもできぬまま、ただひたすらに僕は走った。
 ──息が切れたあたりで、僕は地面から顔をあげた。
 はっと息を呑む。
 眼前に広がる景色が目に飛び込んできて、カラダの凝りが取れてゆくのを感じる。
 湖と光のアンサンブル。まるで額縁に閉じ込めたかのようなその絶景が、僕の心のモヤを吹き消してくれたのだ。

 傍らに、錆びた看板が立てかけられている。
 そこには小さな文字でこう書かれていた──
 『賽の砂浜』

 *

 長野県のちょうど中心部に位置する守矢(もりや)湖。
 周辺3市にまたがるこの湖は、かつては”信濃の海“と呼ばれたほどに広大な湖だ。
 海。まさしくそう感じる。僕は砂浜に膝を抱えて座り、波が行き来する様をじっと眺めていた。
 ふいに、立ち上り靴を脱ぎ捨て、砂の上を裸足で歩く。波の来る場所まで。
 そして砂の上に名前を書いた。

『Trond』

 Trond(トロン)
 僕は葵じゃない。きっとトロンが僕の本当の名前、本当の僕なんだ。
 けれど、波は”僕“をさらっていった。
 砂に書いた名前を。いとも簡単に。跡形もなく。
「消してくれたらいいのに。僕の傷も」
 僕は左肩をさすりながら、どこかへ帰ってゆく波を見つめて、ポツリとつぶやいた。
 いつまで、こんなままでいるのだろう。女性アレルギーだなんて。
 いつまで……女性を恐れて、怯えては逃げて。
 ”この傷“は決して、消えることなどないと言うのに。
 一歩……二歩……無意識に足が動いていた。
 僕は何かに招かれるように、湖の中に歩みを進める。
 水が腰のあたりまでくる。びしょ濡れになってもかまわない。むしろ心地よいくらいだ。
 僕は進んでゆく。
 ──それは一瞬だった。
 階段を踏み抜いたかのように、僕は”落ちた“
 気づけば、湖の中にカラダが沈みきっている。驚いて口を開けてしまった僕は少量の水を飲み込んでしまった。パニック状態だ。
 溺れている……!
 何かにすがりつこうともがく僕の手は、虚しく水を掻くばかり。
 やがて息が限界に達し、無駄な抵抗も終わった。
 全身の力が抜け、意識が遠のいてゆく。
 いつまでそうしていたのだろう。一瞬か、永遠のようにも感じる。
 一歩その先には、確実に”死“が待っているだろう。けれど恐れではなく、甘美なものに感じる。
 欲しい……手を伸ばそうとしたけれど、それに届くことはなかった。何かが僕の腕を掴んだからだ。
 ぼんやりと開かれた僕の目に映ったのは──

 指先まで“包帯”が巻かれた細い腕。
 それは少女の腕なのだと。僕にはわかった。


 * * *
 

「ゴホ……ゴホッゴホ!……ぅぅ」
 視界が戻ってきた。砂の感触。波の音……ここはもう水の中じゃないんだ。
 肺に入り込んだ水を吐きだして、ようやく楽になってきた呼吸をじっくりと味わうように大きく二度、三度と深呼吸した。
 バチャ!という音と共に、僕の頭に何かがぶつかり、それが目元に落ちてくる。
 ボールのようだが、手に取るとハラリと形が崩れて正体を露わにした。
 包帯だ。どうやら水に濡れた包帯を、毛糸玉のように丸めたもののようだ。
「迷惑なんだけど」
 不機嫌な猫がぶっきらぼうに鳴いたような声だった。
 ──女の子の声だ。
 それは僕に向けられているとわかる。僕は意を決してゆっくりと声の方を向いた。

「ジサツなら、他所でやんなよ。ここは私のシマなんだ」
 そこにはひとりの女の子……?が背を向けて立っていた。
 女の子……だと思う。今まさに頭から被ろうとしているセーラー服は見たことがある。他校の制服だ。ということは僕と同じく高校生なのだろう。
 だが、ほかの一般的な女の子と明らかに異なるのは……
「あんたのせいで“巻き直し”。大迷惑だよ」
 彼女がゆっくりと振り返った。
 その姿に……僕は息を呑む。
 包帯。
 そう。包帯だ。包帯が巻かれていた。
 それも、顔からつま先まで……髪の毛と目と口元以外は全身余すことなく。である。
 たしか、何かの漫画だったかアニメかで、こういうキャラクターを目にしたことがある。ギラついた眼光に、全身包帯が巻かれているという、地獄の悪鬼のような出立ちのボスキャラ。

 しかし、この子に限ってはインパクトはあれど、禍々しさはさほど感じない。
 それどころか可愛らしさを感じるのは、やはり女の子だからだろうか。
 キレイな頭の形に、ぱっつんに切り揃えた黒髪のおかっぱヘア。
 そこに彼女のスラリとした高身長な体躯も相まって、その姿はまるでお人形のよう。『これはこういうファッションなんですよ』と言われたら納得してしまうかもしれない。
「そんなに珍しい?」
「ものすごく。あっ!ごめんなさい……」
 どのくらいの時間、彼女の姿を眺めていたのかわからないが、僕が視線を突き刺していたことはとうに知られていたようだ。
 彼女は腕を組み、口角を片方だけ上げて、冗談っぽく言った。
「あんたさ、この辺の人じゃないでしょ。私みたいなのはこの街じゃザラにいるからね」
「えぇ……」

 そんなわけあるかい。
 セーラー服を纏った包帯グルグル巻きの……
 ──ッ!
 僕は思い出した。
 バスの中で聞いた、男子高校生の会話。例のミイラ伝説を。
 (ミイラJK……この子が……?)
 
 はらり。とミイラさんの右足の包帯がほどけた。
 太ももの辺りの結び目が緩かったのだろうか。巻かれた包帯は地面に引っ張られるようにずり落ちてゆく。
 そして露わになった。
 彼女の、包帯に隠されていた素肌──
 僕は思うより速く、この言葉を口走ってしまった。
「綺麗……」
 あの包帯は、きっとヤケドを隠すためのものだろう。そう無条件に考えていた。爛れてしまった肌を隠しているのだと。
 ──けれど違った。
 思いもしなかった。

 描かれていたのだ。
 いや“彩られている”というべきか。
 それはあまりにカラフルに。彼女の肌をキャンバスにして、この世のありとあらゆる色を用いて。
 人なのか、獣なのか、鳥なのか、魚なのか……空なのか、海なのか……
 わからない。わからなくていい。

 そして何より“下地”のように肌を覆い尽くしている『青色』の美しさは、心に残影を縫い付けるだろうと僕は思った。

「綺麗……って……私の、コレのこと?」
「えっ、あ……」
 ミイラさんは、僕から目を逸らし、おかっぱヘアを手櫛で整えながら言う。
「ん。ありがとよ」
「いや……あの、ごめん」
「ん。許す」
 彼女はそう言って、少しはにかんだように笑った。
 そして包帯を再び器用に巻き直してゆく。
 僕は覆われてゆく彼女の“素肌”から目を逸らした。そうだ。女の子のカラダをジロジロ見るなんて間違っていた。だから僕は謝ったんだろう。
 ミイラさんはものの10秒たらずで包帯を巻き終え、太もものあたりでキュっと結び目を作った。
「タトゥーだよ」
「え?」
「刺青ってコト。あんたが綺麗だって言ったのはね。がっかりした?」
「イレズミ……じゃあ、包帯の下は……全部?」

 まあね。
 と小さくつぶやきながら笑うミイラさんの表情は切なげだった。
 僕にはわかる。たとえそれが包帯の上からであっても。

 
 * * *

 
 カポー……ン
 木霊する謎の音。何の音かわからないが、こういう場所では必ず耳にする効果音。
 そう。ここは銭湯。大衆浴場だ。
 営業再開は夕方からとなるため、客はいない……はずであるが、ドクダミ風呂の湯船からはプクプクと泡がひとつ、ふたつと浮き上がってきている。
 ──湯船の底まで沈んでいる僕の仕業だ。

 44……45……46……

 ドクダミは解毒効果がある。このまま100まで数えるのだ。そうすれば女性アレルギーで傷ついたカラダも癒される。
 しかし、僕の脳裏に浮かんでいたのは、都市伝説のミイラJKだった。

 (綺麗……だったな……)

 あの包帯の下に隠された、溢れる色の世界。
 タトゥーは……全身にあるってことだよな?すごいな……
 なにより、あの“青色”
 どこかで見た気がする。どこだったか……

 79……80……81……

 僕は湯船の中で自分の両肩を抱いた。
 その感触は滑らかではない。手のひらに感じる幾つものスジ。それは切り傷が塞がった後に皮膚が硬化したものだ。
 僕自身の手によって付けられた。いくつもの──

 そうだ。

 そう。僕は女性アレルギー。
 女の子に思いを巡らすなど!
 女はアレルゲン、女は敵、女なんて……

 97……98……99…………
 100……!

 女なんて──!

「嫌いだぁぁぁッー!」
 100数え終えるのと同時。僕は湯船から立ち上がった。
 豪快に水柱が上がる。さながら、鯨が海中からジャンプするかの如くに。
 そして反響する僕の「嫌いだ」
 カポーン……と木霊するのは謎の効果音。

「嫌いて?傷つくやん」

 ハスキーボイスな女性の声が前方から聞こえた。
 いや、この声は……”女性の声ではない“
 モヤが晴れ、視界がクリアになってゆく。
 そこに立っていたのは──
「叔父さん……」
 ウェーブのかかった艶やかな金髪のロングヘア。
 袖を幾重にも折った半袖のTシャツとショートパンツから伸びる、ほっそりしなやかな白い肢体。
 僕を見つめる”青い瞳“は、大きくて切れ長で爛々と輝いている。
 その姿は紛れもなく……白人の美少女だ。
 ──見た目だけは。

 
 * * *

 
 銭湯の入り口に「清掃中」の看板が立っている。叔父さんの指示を受けて、僕が立てたものだ。
 この銭湯は叔父が経営しているのである。

「真昼間から、優雅に風呂とはまあ〜」
 浴場にハスキーボイスな女性の声が木霊する。
 いや……女性の声ではない。
 “叔父さんの声”だ。
「いいご身分でゲスね!」
 パチン!とお尻を叩かれた。
 僕はいま、女湯の掃除中だ。四つん這いになりブラシでタイルを擦っている。
 お尻を叩いたのは、僕の叔父『カイ・ハーランド』その人だ。
 母さんの弟で、デンマーク人の彼は日本に来て20年あまり経つ。そのせいだろうか。彼がこんな“見た目”になったのは……

「叔父さん……」
「オジサンていうな!」
 パチィィン!
 再び叩かれるお尻。
 叔父さんは「オジサン」と呼ぶと怒る。その理由は明快だ。
「美少女やろがい!どこがオジサンやねん!」
 そう。彼は“男の娘”というやつだ。
 それもとてつもなく完成度が高い部類で、見た目は本当に白人の金髪美少女にしか見えないのだ。これはお世辞ではなく“誰がどう見ても”である。
 弟とはいえ、母さんとは随分と歳が離れていると聞いている。それでも大人の男性であるはずなのに、頭のてっぺんから爪先まで……まったくもって少女の骨格なのだが……妖怪の類か?

「働かざる者、食うべからず。やで!」
 このようにして日々、見た目美少女の“オジサン”にこき使われているのだが、決して逆らうことはできない。なぜなら、いまの僕は親元を離れ、叔父さんの家に居候しているからだ。

 *
 
 あらかた清掃が済んだところで、僕と叔父さんは開店までの休憩時間に入った。
 ちょうど3時のおやつ時だ。
 コーヒーをドリップで淹れ、お茶菓子として僕が手作りした“ラングドシャ”を備前焼の小皿に並べる。
 それを銭湯の屋上へと運ぶのだ。屋上は平坦なスペースとなっており、ウッドデッキを設置してある様はちょっとしたお洒落なビアガーデンである。
「治ったんか?女アレルギー」
「なに、いきなり」
 叔父さんはラングドシャをくわえ、ロングの金髪をサイドテールに結びながら、ショートパンツから伸びる自慢の“おみ足”でテーブルの隅を指し示す。
 そこには一枚の便箋があった。風で飛ばないように縄文土偶の重石が乗っている。
「親父さんからやで」
「……読まないよ僕は」
「せやろな。ま、内容は同じや。帰ってこいて」
「絶対に嫌だ」
「親父さんの再婚相手。悪い人やないで?挨拶にも来てくれはったし」
「知らないよ。僕は女と一緒に暮らしたくないだけだから」
「女が嫌いて……16歳やろ?恋のひとつくらい知っとかな。気になる子とかおらんの?」
 気になる子。
 ──僕の脳裏に、彼女が。ミイラさんの顔が一瞬よぎった。
「……いるわけないよ」
 はぁ〜。と叔父さんがため息をつく。
 コーヒーを一口飲み、僕をじっと見据えた。
「……男が好きなん?」
「は?」
「気づいとったで?ここ最近、わてのことえっちな目で──」
 僕もまた、小さくため息。
 そして美少女のような叔父さんである『カイちゃん』を見つめる。
「おじ……カイちゃん」
 叔父さんの大きな青い瞳に、僕が映っているのがわかった。表情が見て取れる。僕は切なげな顔をしていた。半身、カラダを前に乗り出す。
「カイちゃん……あのさ……」
「えっ、ウソ。ちょ、ウソやん……やめや、やめ……」
 ゆらりと迫り来る僕を前にして、美少女な叔父さんは怯えたような表情を浮かべた。
 胸の前に添えられた両手はTシャツを掴み、プルプルと震えている。
「アカンて。戻れなくなるて……味を……”蜜の味“知ってまうて!」
 目をぎゅっと瞑り、あかーーーん。と消え入りそうなほど小さい声で悲鳴をあげる叔父さん。
 僕はその耳元でそっとつぶやいた。
「ひげ。剃り残しあるよ?」

 ボォォォーン!
 と絶妙なタイミングでお寺の鐘が鳴り響いた。

 *

 パチィィィィン!
 と乾いた音が鳴る。それは僕のお尻が上げた悲鳴だ。
「もう一発じゃボケェ!」
「ごめん!ごめんて、叔父さんっ」
「オジサンていうな!」
 パッチィィン!
 再び叩かれる僕のお尻。今度は“ハエ叩き”を使っている。
「ヒゲなんて、とうの昔に根絶しとんねん!20年は見てへんわ!」
「20年?自称18歳じゃなかったの?」
「やかましいッ!」
 
 僕へのお仕置きは永遠に続くかと思われた……だが罰として、後日『女装して、客におにぎりを振る舞う』ことを受け入れ、ようやく解放されたのだった……。
「美少年の甥っ子さんを女装させて!おむすび握って!」とのリクエストがお客さんから多数寄せられていたのだとか。
 望むところだ。僕には自信がある。叔父さんより可愛くなる自信が。
 せいぜい悔しがらせてやろう。僕はヒリヒリするお尻の痛みに復讐(リベンジ)を誓った。

 *

「今日は晩ごはん抜きや」
 叔父さんは僕から顔を逸らし、口をとんがらせて言い放った。中身を知らなければ、美少女がいじけているようで、これはこれでカワイイ。
 僕は痛めつけられたお尻をさすりつつ、テーブルに乗っている父親からの手紙を手に取る。
 そして、ためらいがちに叔父さんへ問いかけた。
「カイちゃん」
「謝っても聞かへんで。腹ペコで反省せぇ」
「……カイちゃんはさ、迷惑だよね?これ以上、僕がここにいたら」
 もうすぐ夕暮れ時になる。ほんの少し涼しい風が通り抜けた。
「カイちゃんには感謝してる。逃げ場のなかった僕を助けてくれたから」
 僕はTシャツの上から肩を掴み、力をこめた。
 硬化した筋状の皮膚……傷の跡が痛みを感じるほどに。
「だから、言ってくれれば出ていく──」
「バカタレ」
 叔父さんが僕の額に何かを貼り付けた。
 お金だ。5000円札が一枚。
「えっと?」
「給料や。そういや、はじめてちゃう?」
「あ……」
「やっすい労働力でありがたいわー」
 叔父さんは、そう言って意地悪な美少女のように笑うと、僕の胸をポンと叩いた。
「安心せえ。こき使ったるから。な?」
 僕は何の返事もできなかった。叔父さんの言葉を噛み締めていたからだ。
 それが意味するところを。
 ずっと聞きたかったことだから。
「それで晩ごはん買い〜」
 その声に顔をあげると、屋上に叔父さんの姿はもうなかった。
 カツン、カツンと階段を降りてゆく足音だけが聞こえる。

 よかった。叔父さんがこの場にいなくて。
 だって恥ずかしいから。
 僕だって一応、男なんだ。泣いている姿なんて見られたくない。
 気づけば、叔父さんがくれた5000円札は僕の手の中でクシャクシャになっていた。

 
 * * *

 
「トロン。これをあげる。大切にしてね」
 ──それが母との最後の会話だった。
 病に侵され、痩せ細った母が震える手で差し出した一振りのナイフ。それは母が、ヴァイキングだった先祖から受け継いできたという、刃渡り10cm程度のオモチャのようなナイフだった。
 僕は当時7歳。母の死を受け入れるには、あまりにも幼い。けれど、憔悴する父をこれ以上苦しませまいと気丈に振舞っていた。
 それは哀しみを押し殺した道化芝居に過ぎなかったが、僕の気持ちを慮る者など誰もいなかった。

 そして、僕にとって最悪の出来事が訪れる。
 新しい“母親”ができたのだ。父の再婚によって。
 小学6年生に上がったばかりで、僕は11歳だった。
 
「葵くんは、可愛いね。大好きよ、葵くん。本当に大好き」
 “あの女”はいつもそう言っていた。僕のカラダに触れながら……。
 おかしいと思っていた。怖くて、気持ち悪くて。子供心にも、それはわかっていたけれど。逃げることなどできなかった。誰にも、打ち明けることなど……できるわけない。
 ある時、僕は“啓示”を受ける。
 乱暴な友達が窓ガラスを割り、飛び散った破片で僕は裂傷を負ったのだ。
 その日の晩から、傷がある程度塞がるまで、あの女は僕に触れようとしなかった。
 ──そうか。こうすればよかったんだ。
 肩を切り付けるのだ。母が僕に遺したナイフで。
 古いナイフだ。切れ味もさほどない。けれど何度も何度も重ねて切りつけると、患部が厚ぼったい感覚になり、やがて痛みが心地よさに変わる。
 いつしか僕は、自傷行為に耽るようになっていった。

 それは間違った行為であり、ある意味では正解でもあった。
 ──あの女を追い出すことができたから。
 父と離婚したのだ。僕の異変を察知して、それまでの“行い”が明るみになることを恐れたのだろう。まるで鼠が尻尾を巻いたような逃げっぷりだった。
 だが、それでも僕の自傷行為が止むことはなく、むしろ加速することになる。
 思春期となり、目につくようになった情報の数々が、忌まわしい記憶にラベルを貼るようになったのだ。
「あの時のあの行為は、こういう名前だよ。忘れないように」と。
 その度に、僕はナイフでカラダの“毒”を抜いた。
 左肩が傷で埋まれば、今度は右肩だ。その先はどこを切ろうか。できるだけ人目につかないところを……そんなことで思い悩んでいた高校一年生の僕のもとに、再びの凶報が舞い込む。
 父がまた、再婚するというのだ。
 無論、父とは衝突した。
「やだよ。知らない女なんかと……一緒に暮らせるわけないだろ!」
「女……なんだその言葉遣いは?葵、お前の母親になる人だぞ。敬意を持ったらどうだ!」
「僕の母さんはひとりだけだ!この裏切り者──」

 もう限界だった。
 父に生まれてはじめてぶたれたその日、僕は家を出た。
 1月の中頃。長野行き特急列車の最終便に飛び乗って。僕は一路、叔父さんの住む湖の街を目指した。
 母の葬儀で一度だけ目にした叔父さん。記憶ではベールを被った喪服姿の少女に見えたけれど……いや、あれはきっと別の女性だろう。叔父さんはヴァイキングの末裔。身長210cm体重170kgくらいの熊のような大男のはずだ。ヒゲもモジャモジャだぞ──
 しかしながら、ようやく辿り着いた目的地で、僕の期待は見事に裏切られることになる。
 雪がこんこんと降る中、銭湯の軒先で僕を待っていたのは、ちゃんちゃんこを着て、ボンボンのついたニット帽を被った白人の美少女だった。
 女性アレルギーの僕は、距離をとって恐る恐る問いかけた。
「あの、娘さん……ですよね?あなたのお父上……カイ・ハーランドさんは、ご在宅ですか?」
「わて」
「えっ?」
「わてが、カイ。ちなみに独身やで」
「……叔父……さん?」
「誰がオジサンやねん」
 期待は外れた。でもこれが正解だったのかもしれない。
 叔父さんの白人美少女な見た目に、僕は母さんの面影を見たような気がしたからだ。
 ふいに、涙が溢れ出し、もはや止めることはできなかった。
 母さんが亡くなってから味わってきた不安や孤独。痛みや苦しみ……その全てが混在する涙だった。
「叔父さん……僕……トロンです……僕は……」
「ええやん。美少年の涙ええやん。おら、もっと泣かんかい……ってオジサンいうなや!」
 叔父さんは僕のお尻を叩きつつ、銭湯の温泉に入れてくれた。
 大きな湯船の中で人目も憚らず泣いて、泣いて……長湯しすぎたためか、足裏の皮膚もふやけ、脱水症状になりかけたところでお風呂から上がった僕に、叔父さんはこう言った。

「話つけといたで。今日から、ここにおってええよ」

 *

 少し昔のことを思い出したのは、よほど嬉しかったからだと思う。
 叔父さんにもらった初給料の5000円札は僕の宝物となった。これから晩ごはんを買いにゆくけれど、このクシャクシャの5000円札を使うわけにはいかない。
 僕は現金やキャッシュカードを閉まってあるタンスを開け、そこに宝物のお札をそっと置いた。お札の入れ物を用意しないと。ぼんやりと思いをめぐらせる僕の目にある物が映り込む。
 “ナイフ”だ。母が僕に遺した。もうひとつの、僕の宝物。
 僕はナイフを手に取った。ノルディック調の美しい紋様が彫刻された柄と鞘。こんなに小さかったかな。と久しぶりに触ったナイフを見てそう思った。
 ──僕は、叔父さんと住むようになってから自傷行為をなんとか我慢できている。もちろん女性は変わらず怖い。血の毒を出したいという衝動にも駆られる。けれどそれ以上に、叔父さんを悲しませたくない気持ちの方が強いから。
 “かゆみ“に苛まれた時は、アレルギー薬を飲む。プラシーボ効果だろうけど、気分が楽になるような気がするのだ。
 それでいまは、なんとかなっている。そう。今は……

 出かける準備は1分とかからなかった。
 叔父さんが僕におさがりでくれたヌメ革のサコッシュに、スマホやら現金やらアレルギー薬やらを詰め込めば完了だ。女性もののサコッシュだけれど、サイズ感も使用感もお気に入りだ。デザインも僕にはしっくりくる。
 そしてもうひとつ……僕はあのナイフをサコッシュに入れた。
 今日はやたらと女の子に遭遇した。だからきっとお守りが欲しかったのだろう。

 
 * * *

 
 午後5時を知らせるチャイムが街を包み込んでいる。
 市の広報が定時を知らせるために、午後5時になると決まってベートーヴェンの『エリーゼのために』を各所から流すのだ。
 陽も落ちはじめる時間帯。その寂しげなBGMは夕暮れを迎える田舎街によく似合っていた。

「ほらよ。サービスしといたぜ」
「ありがとうございます」
 僕は街の小さなハンバーガー屋さん『タケミナカタ』で、オリジナルバーガーをテイクアウトで2つ買った。ふんわりしたバンズに、県内産のブランド牛肉100%使用の肉厚なパティが贅沢に2枚挟まれた逸品だ。なにより秘伝のソースがとにかく美味しい。
 ここは一度、叔父さんに連れてきてもらって知った名店。きっと喜んでくれるだろうと思い、僕は叔父さんの分も買って一緒に食べることにした。
 ニコニコとほっこりしながらハンバーガーにかぶりつくであろう、叔父さんの美少女顔を思い浮かべて僕の顔も綻ぶ。
 
 温かいうちに帰れたらいいな。と専用の小箱に収まったハンバーガーが中でズレないように、提げた袋を胸の前に両手で抱えてバス停まで小走りで向かった。
 ──その足はバス停にたどり着く前に止まることになる。
 “あの女子高生”がいたのだ。昼間に、バスの中で僕に迫ってきた2人組。その内のひとりだった。
 心臓が高鳴る。僕は踵を返し、走った……逃げるように。いや、その場から逃げたのだ。
 (次のバスまで時間を潰さないと。ハンバーガーが冷めちゃうけど)
 情けなさに押しつぶされそうになりながら、僕は湖畔をトボトボと歩いていた。
 顔をあげると、湖の水面と反射する日の光が額縁に収まった油絵のように見えた。
 ふと、この光景は覚えがあるな。と気づく。
 ──やっぱりそうだ。
 立てかけられた錆びた看板が目に入った。そこに小さくこう書かれている。
『賽の砂浜』

 
 * * *

 
 波の音が昼間に聞いたよりも大きく聞こえる。
 鼻先をくすぐるのは、波が運んできた微かな夜の匂いだ。

 賽の砂浜。
 湖のいずれの場所で身投げしたとて、最後にはここにたどり着くという。
 ──僕も、死んだ身。ということだろうか。
 そうなのかもしれない。僕はもう死んでいて、それに気が付かぬまま生きているフリをしているだけなのかもしれない。
 一瞬。脳裏に“あの女”の記憶がよぎった。
 僕はサコッシュの中に手を差し込む。そしてナイフを掴んだ。
 耐え難い”かゆみ“に襲われたからだ。
 (切りたい……いまここで。きっと誰もいない……)
 僕は周囲を見渡す。
 人はいない。いけそうだ……けれど、目に入ったのだ。
 イーゼルに立てかけられたキャンバス。そこに描かれた一枚の絵が──
 なぜだろう。僕はナイフから手を離し、吸い寄せられるように絵の前に立った。
「これ……夕陽?」
 たぶん、夕陽を描いた風景画だと思う。写実的な絵だ。とても高い技量を感じる。ただ、明らかに違和感を覚えるのは、その絵が“緑一色”で描かれているということ。
 例えるなら、暗視ゴーグルで見るビジョンといった感じだ。
 もしかしたら現代アートとして、実際に暗視ゴーグルを装着して描いたのかもしれない。

「いったい、どんな人が──」
「こんな人」
 本当にビックリした時、声など一切出ないものなのだな。と僕は知った。
 耳元から聞こえた声。背後にピッタリとくっつくように立っていたのは──
「ミイラさん……」
「不正解。ちゃんと名前あるから」
 ドンッと背を押された。相当な力だ。僕はそのまま勢い余って、湖に頭から突っ込んでしまうのだった。

 *

「たたみ。物部(もののべ)たたみ」
「……変な名前」

『物部たたみ』
 それが、この包帯グルグル系女子の名前だという。
 ルックスも変わってるけど、名前も変わってるんだな。と、ずぶ濡れの僕はクシャミをしつつ思った。
「うまっ。タケミナカタのハンバーガー。はじめて食べた」
 たたみさんは今、僕が買ったハンバーガーに舌鼓を打っている。
 背中を押され湖に突っ込んだ時、たたみさんは僕のカラダからサコッシュとハンバーガーを、まるでその道40年のスリがやってのけるようにスルスルっと抜き取っていた。この2つに罪はないということだろう。罰は僕だけが受けたのだ。
 濡れネズミとなって重いカラダを引きずりながら陸に上がった時、たたみさんはハンバーガーの入ったビニール袋の前に、ちょこんと正座していた。
 何をしているんだろう?と思って眺めていると、その理由はすぐにわかった。
 キュルルルン。と彼女のお腹の虫が鳴いたのだ。
「食べる?」と聞くと、コクリと頷き、今に至る。というわけだ。
 
「おいしゅうございました」
 誰が置いたものかわからないが、賽の砂浜には3人ほど座れるサイズの木製のベンチが置かれていて、僕らは2人並んでそこに腰掛けている。
 たたみさんは両手をそっと合わせて「ごちそうさま」をすると、隣に腰掛けている僕の目をじっと見つめた。
「……もう一個あるよ。食べる?」
 コクンと頷き、僕からハンバーガーの入った小箱を受け取るたたみさん。
 そういえば、命を救ってもらった礼もしていないのだ。これでツケを払おう。ハンバーガーはまた買えばいいのだから。
「名前。聞いてないんだけど?」
「そういえば言ってないね。僕は……」
 『葵』と言おうとして思いとどまった。
 普段は葵と名乗るようにしている。子どもの頃、トロンと名乗ってバカにされたことがあったからだ。それ以来、僕はトロンという名を知ってほしい人にしか教えないようにしている。
 だからこそ、彼女には──
「トロン。蘇我トロン」
 特別な名を、僕は伝えた。
「……変な名前。そっちも」
 たたみさんはジロっと僕を睨み、口角を片方だけ上げて言った。
 確かにそうだ。
 可笑しくて、2人とも同じタイミングで吹き出した。
 賽の砂浜。そのおどろおどろしい名にふさわしくないような笑い声が響いた。僕ら2人の笑い声だ。それはまるで、子どもが屈託なく笑い転げているように聞こえたことだろう。

 *

「物部と蘇我……こりゃ殺し合う宿命かもね」
「はっ!?」
 ハンバーガーにかぶりつきながら、たたみさんがぽつりと言った。
 唐突に発せられた物騒なワードに僕は戦慄する。
「日本史。勉強してないの?」
「え?えぇっと」
 僕はさっと携帯を取り出し、検索をかけようとした。現代人にはネットという知の図書館があるのだ。
 瞬時に答えを──
「はい。没収」
 たたみさんはスルっと僕から携帯を取り上げ……放り投げた。湖へと。
 ポチャっと悲しい水没音が聞こえた。
 固まって呆気に取られる僕に、たたみさんは語りかけた。
「私はスマホじゃなくて人と話したいの。わかる?」
「……あ、あぁ。はい……たぶん……」
「ん。よかろう。じゃあ続きね」

 物部と蘇我。
 この姓を持った貴族は、古代の日本で国家を二分して争った。
 古よりの神々か、伝来した新興の仏教か。どちらを国の根幹に据えるかで対立し多くの血が流されたのだ。
 この宗教戦争において、蘇我氏を勝利に導いたのが、かの有名な聖徳太子。
 そして敗れた物部氏は滅ぼされた……。
 
 と、たたみさんは僕に語った。身振り手振りチャンバラを交えた迫真の講義。途中、包帯がほどけそうになったほどだ。
 その間、ハンバーガーは僕が預かっていた。
「滅んだけど、生き残ってる」
「たたみさんは、その末裔なんだね?」
「らしいよ。知らんけど。トロスケだってそうなんじゃない?」
「僕が……!って、なにトロスケって」
「蘇我もかなりグロい感じで滅ぼされたけどね。昔の日本エグいよねぇ」
「……怖いので……僕は無関係でお願いします……」
 噂の真相は定かではないけれど、納得がいったことがある。
 たたみさんは、所作に品があるのだ。姿勢を正して、両手を添えて。ハンバーガーの食べ方ひとつとってもそれは明らかだった。
 全身包帯グルグル巻き。その下はタトゥーで埋め尽くされている女の子。見た目はかなりトガっているけれど、この子はやはり何か違う。

 *

「色々試したけど、包帯がいちばん肌に優しいの。あとはかぶれちゃってさ」
「なるほどねぇ」
 なんで包帯グルグル巻きなの?という僕の無粋な質問だった。
 タトゥー肌に触れる素材は重要だという。
 
「トロン……。ねぇ、どんな漢字書くの?」
 オレンジジュースの入ったカップにストローを刺しながら、たたみさんは僕に問いかけた。
「カタカナだよ。デンマーク人の母がつけてくれた名前なんだ」
「デンマーク?えっ、トロスケって外国人なの?」
「ハーフってことになるかな。父は日本人だから」
「ふぅん」
 じぃ〜っと目を細めて僕を見るたたみさん。
 同時に、ちゅ〜っとストローでオレンジジュースを吸い上げている。
「見た目フツーに日本人ぽいね。ハーフってそういうもんか」
「えっ?」
 フツーの日本人ぽい……?
 いま、確かにそう言ったよな?
 強烈な違和感を覚えた。だってそうだろう。僕は“普通の日本人”には持ち得ない特徴を持っている。
 ──この“青い瞳”だ。
 心臓が高鳴ってゆく。
 もしかして……そうだ。さっき見た緑一色の風景画。あれは……
「あのさ、たたみさん。僕の目って変な色かな?」
「フツーだってば。黒ってか茶色ってか?」
 ドクン。と心臓が跳ね上がった。
「あの風景画。たたみさんが描いたんでしょ?」
「そうだよ。勝手に見やがりましたねぇ。スケベ盛りか?」
「夕陽……だよね?」
「ったりまえじゃん。それしか描かないもん」
 僕は生唾を飲み込んだ。
「……夕陽は緑色じゃないよ」
 ピタリと、たたみさんが停止したように見えた。
「僕の目は……青色だ。母譲りの」
 いうべきではないのかもしれない。けれど……僕は彼女のことが知りたかった。
 だから聞いてしまった。
「たたみさん……色が……わからないの?」

 ドボンッ!と湖から大きな水音が聞こえた。
 大きな魚が……いやもっと巨大な何かが跳ねたようだ。僕は気を取られ、たたみさんから目を離した。
 再び視線を戻すと、ベンチにたたみさんの姿はない。
 僕は立ち上がり、周囲を見渡すと、立ち去ってゆくたたみさんの後ろ姿が見えた。
 僕は追いかけようとしたが──

「ねぇ、ひとり?うちと遊ぼうよ」
 呼び止められたのだ。
 その声の主は……バス停で見かけた例の女子高生だった。

 
 * * *

 
「さっさと脱げよ」
 ニヤニヤと卑しい笑顔でスマホのカメラを僕に向けるのは、あの女子高生だ。
 名前をレイナというらしい。知りたくもなかったが。
「あーそれとも、うちが脱がしてあげよっか?」
 僕は湖の波際まで追い詰められ、レイナに服を脱ぐように強要されている。
 逃げることはできそうもない。彼女の背後には体格のいい不良が3人も控えているのだから。
「謝ってるんだから……もう許してよ」
「はぁ?あのさぁ〜」
 レイナが僕に歩み寄り、髪の毛を掴んだ。尖ったネイルが僕の顔を引っ掻く。
 強すぎる香水の匂い……とてつもなく不快だ。僕は込み上げる吐き気を必死に堪えていた。
「うちに恥かかせたんだ。ごめんなさいで許すわけねーだろ」
 さらに僕の目を覗き込むように睨みつけて言う。
「葵に選ばせてあげる。ここで裸になるか……それとも……」
 レイナが僕に耳打ちした。
 僕は大きく目を見開く。
「あんたの保護者。あの“白人女”。痛めつけてやろうか?うちの連中、女をボコすの好きなんだよねぇ」

 カイちゃん……!
 叔父さんは女性ではない。けれど少女みたいな華奢な骨格をしているんだ。寄ってたかって暴行などされたら……
「……わかったよ」
「お?いい子じゃん〜。あー、でもこれで終わりじゃないから」
「え?」
「葵のカラダは今日から”みんなでマワす“から。まずはうち。明日は他の子。いいよねぇ?」
 マワす?あぁ、そういう意味か。
 ……いい。それで。
 もとより汚れたカラダだ。こんなモノで大切な人を守れるなら。
 僕は左肩を掴み、力を込めた。感覚でわかる。古傷が開き、血が滲んでいるのだと。
「……いいよ。わかった……」
 僕はTシャツに手をかけた
 ──その時だった。

「はい。没収」
 それは不機嫌な猫がぶっきらぼうに鳴いたような声だった。
 僕は顔を上げた。
 ──たたみさん
 彼女はレイナの背後に立っていた。気配すら感じとらせなかったのだろう。するりとスマホを取り上げると、一切のためらいなく湖に放り投げた。
 そしてレイナが振り返ると同時。たたみさんはノーモーションの右ストレートをレイナにお見舞いした。
 その拳は正確に顎の先端を捉え、レイナの体は糸の切れた人形のように崩れ落ちた。“脳が揺れた”のだ。
「トロスケ」
 呆気に取られる僕に、たたみさんが歩み寄ってくる。
 そして僕の額に、包帯が巻かれたおでこをコツンとぶつけた。
「逃げるよ」
 ──鈴が鳴った。音がした。
 スタートを切る合図だ。それはきっと、僕にとっての。

 気がつけば──
 僕の手のひらには、包帯が巻かれた彼女の手が添えられていた。

 *

 僕は走っていた。たたみさんに手を引かれて。
「テメー、何してくれとんじゃ!」
 しかしタダでは逃してくれないか。不良2人が僕らの前に立ち塞がった。
 残りのひとりはレイナを介抱しているようだ。
「包帯にはこういう使い方も──」
 たたみさんの左腕の包帯がハラリとほどけた。
 彼女はその伸び切った包帯をうならせて、不良の顔面をムチのように叩きつける。
 乾いた破裂音が響き、包帯の鞭打を喰らった不良は裏返った悲鳴をあげると、顔を抑えてその場にしゃがみこんだ。さらに、返すカタナで残りのひとりも沈めたのだ。
 まるで武道の演舞をみているかのような美しく洗練された所作だった。
「すごいよ、たたみさん!どこかで習ったの?」
「ん。ネット」
「……ネット嫌いだって言ったくせに……」
 ともかく道は開けた。僕らは一目散に走る。
 しかし
「たたみさん。どこに逃げるの?ただ走ってるだけだと……」
 そうだ。怯ませたとて一瞬。不良たちはすでに追撃体制に入っていた。
 たたみさんは息を切らせながら、湖の方にキョロキョロと視線を送っていた。そこにはヨットが何隻も停泊している港があった。いわゆるヨットハーバーだ。
「あった。あれ!」
 たたみさんが指差したのは、停泊しているヨット……ではなく、小型のクルーザーだった。

 
 * * *

 
 ゆるやかに頬を撫でる風。空を見上げれば、翼を広げた鳥がゆったりと旋回している。
 先ほどの恐慌状態が嘘のようだ。穏やかに揺れる甲板で、僕らは並んで座っているのだ。
 あの後、たたみさんは当然のようにクルーザーを動かした。湖の真ん中あたりまで来たところで今はこうして停船しているのだ。
 ちなみにこのクルーザーは、たたみさんのお母さんが所有していたのだとか。子どもの頃に母の操舵を見ていたという。今の所有者については……聞かないでおいた。
「トロスケ。なんか私たち……冒険したね」
「そうだね。冒険した」
「……楽しかった……ね」
 楽しい。か。さすがだなと僕は思った。
 隣の女傑に目をやる。さぞ晴々した横顔だろうと思って。
 しかし違った。
「たたみさん……」
 ほどけたままの左腕の包帯を、彼女は巻き直していた。けれどその手は震えている。
 ──怖かったんだ。本当は。
 
 震える手で上手く包帯が巻けないたたみさんの姿を見て、僕はたまらなく切なくなった。だから自分の意思でそうした。
 はじめて……だと思う。
 生まれてはじめて。僕は女の子に、自ら触れた。
「えっ、トロスケ?」
 僕はたたみさんの震える腕を下から支えるように左手を添え、右手で包帯を巻いていった。腕から指先へと。
 指の一本一本まで器用に包帯を巻けないだろうと思った僕は、不格好で申し訳ないと思いつつミトン手袋のような巻き方をして結んだ。
 ──途中で、僕はたたみさんの腕に描かれたタトゥーに目を奪われていた。
 脚とはまた違う“色”で彩られている。
 そして知った。彼女の手のひらには、タトゥーは入っていない。その肌の色は、たたみさんの持って生まれた、彼女だけが持つ色なのだ。
「ごめん。下手くそで」
「ん。許す」
「たたみさん、ありがとう。僕を助けてくれて」
「……ん。許す」

 *

 もう、空は茜色だ。船上から見える夕陽が切ないくらいに美しい。

「答え合わせ」
 ぼんやりと夕陽を眺めていた僕に、たたみさんが語りかけた。
「答え合わせ?」
「そ。聞いたでしょ。色がわからないのかって」
「ごめん。失礼なこと──」
「大正解」
 やるじゃん。と彼女はイタズラっぽい笑顔を僕に向けた。
「それも一番あかんやつ。いわゆる全色盲でさ。つまり私の目に映るのは──」
 モノクロの世界。
 こんなにもカラフルに彩られた彼女から、世界は色を奪っていたのだ。

「たたみさん、ひとつ聞いていいかな?」
「ん。許す」
「色がわからないのに、風景画を描いてるのはどうして?」
「ったく。勝手に見やがるから……」
 たたみさんは、ため息混じりにセーラー服の胸ポケットに手を入れ、古めかしい懐中時計を取り出した。
「そろそろかな……6時ちょっと過ぎ」
 文字盤をじっと見つめながら呟く。腕時計でなく懐中時計というのが、いかにもたたみさんらしい。
 彼女は懐中時計をいじりながら、僕に問いかけた。
「トロスケ。お母さんはどんな人?元気にしてる?」
「母さん……僕の母はもう亡くなってるよ。僕が7歳の時にね」
「そう、だったんだ。ごめん」
 たたみさんはスッと立ち上がった。
 そして敬礼をするように手を額に当て、山の一角を眺めながら言った。
「私のお母さんね。アルツハイマーなんだ、若年性の。今は施設に入ってる」
 僕も立ち上がり、たたみさんの見ている方向を見る。そこには背の高い建物が立っていた。
「私のことも、もうわからない。たったひとりの娘なのにね」
 この見た目を忘れるかな、フツー。とおどけた口調で呟くたたみさん。
 けれど、その横顔からは穏やかな感情は読み取れなかった。
 悲しみなのか怒りなのか、もっと複雑な何かを孕んだような表情に、僕は少し怯んだ。
「こう言うことがあるんだって──」
 たたみさんが僕に話してくれた。
 戦争に従軍経験のある認知症の老人に、ライフル銃の模型を持たせる。するとかつての記憶が呼び起こされ、それが刺激となってハキハキと話し出したりするそうだ。
 一時的であるとはいえ、治療効果がある。ということらしい。
「私が夕陽の絵を描く理由。もうわかったでしょ」
「お母さんのため……風景画を見せれば……ってこと?」
「ん。絵よりも、この色かな」

 夕陽が水面にこぼれ落ちそうだった。
 たたみさんは、両手の親指と人差し指を合わせてカメラの形を作り、その光景を“レンズ”に収めた。
「私はこの色を閉じ込めたい。この夕陽の色は、お母さんにとって特別だから」
「夕陽のオレンジ色が?」
「そ。お母さんね。画家だったんだよ、それも有名な。物部筵って言うの」
「え……」

『物部(むしろ)
 僕はその名を知っている。母さんが好きだった画家の名前だからだ。最後は病室にも絵を飾っていた。
 母は絵を眺めながら『月下の青』が美しいとよく言っていた。その色は物部筵の代名詞だという。
 青……僕はハッとした。たたみさんのタトゥーを初めて見た時。”綺麗“だと思ったのは、僕がそこに『月下の青』を感じ取ったからだと。僕は今になって気づいた。
 肌を覆いつくす……あの青色。あれは間違いなく……。
 なぜ、たたみさんのタトゥーに……妙な胸騒ぎが、僕の胸を這いずり回ってゆく。

「その物部筵がね。唯一表現できなかった色。それこそが、賽の砂浜から見る夕陽のオレンジ」
「だから特別……」
「気が狂うほどに追い求めていた色だからね。特別も特別」
「そんなに。じゃあ、きっと効果あるよ!」
「でしょ?ま、もしこの色が出せたらね。奇跡が起こるかも」
 ふと、脳裏をよぎる。僕が見たあの絵。
「でも……僕が見た絵の夕陽は、緑色だったけど。あれはどうして?」
「絵の具のラベルは隠してるから。だからどの色を使ってるのか、謎のまま描いてるわけ」
「でもそれじゃあ、いつまで経っても……」
「いいの。奇跡が必要だから。ただオレンジ色に塗っただけじゃ、どうせたどり着けないし」
 そう言ってケタケタと笑うたたみさん。
 ──たどり着けない。
 僕もそう思う。今のままでは絶対に。
「たたみさん、あのさ」
 たたみさんの努力を無にしたくない。願いが叶ってほしい。
 だから、僕は──
「ダメ」
「えっ」
「手伝いたい。そうでしょ?」
 ──先手を打たれた。
 僕の心中を見抜かれていたようだ。僕は食い下ろうとする……けれど。
「トロスケは勘違いしてる。私がお母さんに抱いてる感情は、トロスケが思うのとは。違うから」
「そんな……お母さんが好きだから……違うの?」
「ははっ。冗談でしょ」
 たたみさんが僕をまっすぐ見つめた。
 包帯の上からでもわかる。とても悲しい表情をしていた。

「私をこんなカラダにしたのは……”あの女“だから」

 *

 物部筵には、夢があったという。
 色彩を極めた天才。そう呼ばれた自分が唯一辿り着けなかった色である“夕陽のオレンジ”を、我が子に描かせるという夢が。
 それが叶わないと知った日。娘が全色盲だと判明したその日から、物部筵はたたみさんのカラダにタトゥーを入れ始めたのだ。10年以上の歳月をかけて、少しずつ。モノクロの彼女を、持てる色全てで塗り潰してゆくように。
 それはまるで、キャンバスに絵を描くが如くであったことだろう。

「欠陥品だって。そう言って私をぶってた。でも、刺青を入れた後は……いつも抱きしめてくれた」
 愛されている。タトゥーはその証拠だと。そう思っていたという。
 だからこそ全身タトゥーまみれにされたとて受け入れてきたのだ。
 だが、認知症となり、会話もまともにできないようになってはじめて。母への押し殺していた感情が湧き立ってきたという。
 ちょうど半年前のこと。たたみさんは17歳だった。それは悲しいほどに遅く訪れた反抗期だったのかもしれない。
「だからね、聞きたいの。私はあんたの何だったの?ただの“作品”に過ぎなかったの?って」
 僕は、気づいた。彼女が期待しているであろう、母親からの答えに。
 だからこそ──
「怖いんだね?」
「……え?」
「だから本当は辿り着きたくないんだ。お母さんの真意を聞くのが怖い。そうでしょ?」
 一瞬の静寂……。
 突然、僕の左肩に刺すような痛みが走った。
「痛ッ──!」
 たたみさんに掴まれたのだ。彼女は僕にすがりつくような体勢で両肩を掴んでいた。
 左肩に痛みを覚えたのは、そこに古傷があるからだろう。
「知ったようなこと、言わないでよ」
 たたみさんは顔を下に向けたまま言う。その声は震えていた。
「あの女のせいで……外にも出られなかった。学校も友達も……ずっとひとりで……」
「たたみさん……」
「今だってそう。このセーラー服……コスプレだよ。笑えるでしょ?女子高生の気分だけ味わってるってわけ。同年代の子が……羨ましくてさ」
 たたみさんの肩が震えている。下を向いたままでもわかる。泣いているのだと……。
「わかるはずない。トロスケには……こんなに……綺麗な、あんたなんかに……!」
 両肩に力が込められてゆく。
 左肩の傷が裂けた。それは、たたみさんにも伝わったようだ。
「えっ」
 たたみさんが顔を上げた。涙で、包帯が濡れている。
 そして、右手の手のひらの包帯は赤く染まっていた。僕の血だ。
「トロスケ……怪我……してるの?」
「ううん、大丈夫だよ」
 そう。大したことない。たたみさんの“傷”に比べたら。
「いま、包帯を──」
「たたみさん」
 僕はたたみさんの手のひらに、ナイフを乗せた。
 母が遺してくれたナイフを。
「昔……いや、つい最近まで。それで自分を傷つけてた」
「え……?」
「母が亡くなった後。僕は継母に……殺されたんだ。心を」
 僕は左肩をさすった。出血が思ったよりも多いようだ。じっとりと湿っている。
「何をされたか……させられていたか……言えないけど。それ以来、僕は女の子が怖くなって──」

 ポツリ、ポツリ……
 雨粒がひとつ、ふたつ。僕の顔に当たった。
 鼻先を雨の匂いがくすぐる。その直後にはオセロの盤面をひっくり返したように空模様が変わった。
 夕立が、僕らを閉じ込めたのだ。
「だけど、たたみさんのことだけは怖くなかった。触れても、触れられても」
 勢いの増した雨が、たたみさんの体を濡らしてゆく。
 濡れた包帯は肌に張り付き、タトゥーが浮かび上がっていた。彼女にとって呪いでしかない“月下の青”は、いままでに見たどの青色よりも美しかった。
「綺麗だと思った。女の子を、はじめて──」
 
 だから──と言葉を続けた僕の声は、一段と強まった雨にかき消された。
 不信心ゆえか。雨に邪魔されてしまったのは。
 守矢湖に棲んでいるという水を司る龍神。僕がこの街に越して以来、一度としてお参りの類をしていなかったから、お灸を据えられてしまったのだろう。
 雨は大粒だ。視界さえも遮るほど。目の前に立っているたたみさんのタトゥーどころか、目を開けているのか、瞑っているのかすらわからない。
 僕は空を睨んだ。すると、少し怯んだようで、雨はほんのちょっぴりその勢いを弱めた。
「帰ろう」
 たたみさんの声が左耳から聞こえた。雨音のノイズに遮られていないことに驚いた僕が横を向くと、彼女は僕の左肩に包帯を巻いてくれていた。
 そして形見のナイフを僕に返して、操舵室へと向かって行った。
 僕を一瞥もすることもなく。
 何も洒落たことを言おうとしたわけじゃない。
 ただ、伝えたかっただけだ。
 僕ですら、ほんの少しだけ変わることができたことを。それが、たたみさんのおかげだということを、知ってほしかった──

 
 * * *

 
 意地悪な雨だ。
 タイミングを見計らったように、ヨットハーバーに着く頃には雨雲すら綺麗に消え失せている。
 後日お参りに行かなければ。と僕は思った。
 まだ空は茜色だ。
「暗くなる前に、投げ捨てた携帯を探そう」とたたみさんに言われ、僕らは賽の砂浜にまたまた舞い戻っていた。
「心配しなくていいよ、トロスケ。あのアホども。今頃、詰められてるとこだと思うから」
 アホども。というのはレイナ軍のことだ。
 この街には、いまだ“侠客(きょうかく)”というものが存在しているらしく、ああいった外道どもは耳に入り次第、彼らによって“お説教”されるという。
 ともかく、叔父さんの身に危害が及ばずに済んで僕は安心した。

「どう?トロスケー。見つかった?」
「いや……全然」
 僕らは太もものあたりまで水に浸かって捜索に励んでいる。
 たたみさんは、先ほどのことなど忘れてしまったかのような表情と態度だ。
 それを僕は、残念に思っていた。
「天才かも」
 そういうと、たたみさんは自分の携帯を手に取った。
「トロスケ。電話番号教えて」
「え?……あ!」
 なるほど、そうか!
 携帯の着信音で場所を特定しようというわけだ(もっと早く気づいてもよかったけれど)
 僕はたたみさんに電話番号を教えた。
「ほいほい。じゃあ、かけるよー」
 耳をすませる……聞こえた!
 さすが日本製。防水機能は本物だったようだ。僕は音の方へ向かう。
「この辺っぽいけど……」
 湖の水は澄んでいるが、それゆえに夕陽が水に混ざったように淡いオレンジ色になっている。
 顔まで入れないと見えないな……僕は仕方なく顔を水中に入れた。
 ──見つけた。
 湖底でひとり佇む携帯を手に取り、僕は水から顔を出した。
「たたみさん、ありがとう。見つけた……」
 目を奪われた。
 とても、絵になっていたからだ。顔を横に向け、夕陽を眺めるたたみさんの姿が。
 
「オランジュ・タンゴ」

 たたみさんがポツリと言った。
「そういう名前の色なんだって」
 そして今度は僕を見つめてから続ける。

「橙がこぼれて、水の青と混ざり合った末に浮かび上がるオレンジ。それが──」
「オランジュ・タンゴ……」
「そ。お母さんが辿り着けなかった色。私が閉じ込めたい夕陽のオレンジ」

 それこそが、たたみさんの求めるオレンジ色。今この瞬間の、どこかにそれはあるのだ。

「なんで、そんな名前なんだろうね?」
「え?」
「タンゴって、ダンスのことでしょ。男女で踊るダンス」
 たたみさんが右腕の包帯をほどきはじめた。手のひらの包帯には僕の血がまだ染み込んでいる。

「たどり着くためには、踊りなさいってことなのかも。ひとりでなく、誰かとふたりで」
 ──だから
 と、たたみさんが僕に手のひらを差し出した。
 包帯はほどけている。タトゥーでもない、彼女の素肌が僕に向けられている。

「私と、踊りませんか?」

 あの時の声が、届いていたのだろうか。
 一緒に見つけよう。夕陽のオレンジを。それが彼女の意思だ。
 僕の答えは、決まっている。

「よろこんで」

 僕はたたみさんの手を取った。
 
 ドボンッ!と、いつか聞いたような大きな水音。
 僕はまた気をとられた。やはりこの湖には何か巨大生物が──

 すると気を逸らした僕の手がグイっと引き込まれた。バランスを崩し、前のめりに湖へとダイブする。
 慌てて起き上がった僕を、下手人であるたたみさんが微笑みながら見ていた。
 今日はよくずぶ濡れになるな。と思い、僕は苦笑いを返す。

「あのさ、私もうひとつ決めたことあるよ」
「決めたこと?なに?」
「高校。通おうと思ってるんだ……トロスケと同じとこ!」

 ──また、どこかで大きな水音がした。
 それはもしかしたら、僕に取っての。夏がはじまる合図だったのかもしれない。