頬がビリビリするほどの寒さだ。
頬の痛みをこらえて白銀の雑木林を抜けると、急に目の前の土地が開けた。
天から差し込む雪の粒が結晶となり、光る太い柱が空と大地の橋渡しをしている。
先頭を歩いていたクワが不意に足を止めて、私たちを振り返った。
「あそこに見えるのがクンネチュプさまの本殿です。」
「わぁ…。」
そこに居た全員が、思わず息をのんだ。
クワが指し示す先には、柱の光に覆われた大きな大御殿。
その煌々とした明るさは灯火や太陽の熱にも負けない輝きを放っているというのに、なぜか寒々しい。
そして疲れで霞む目にも、ひと目でクンネチュプの本殿だと確信できる神々しさだった。
私たちは、自然と笑顔になりながらお互いを見合わせた。
「ここまで、よく頑張ったな!」
「ああん…信じられない!」
私が背中を叩いた途端、ポンは堰を切ったように恨み事を吐き出した。
「もう、一生分歩いたわーッ!!
ほら、見てよこの草履。
こんなに大きな穴が開いてるッ!!」
「おやまぁ、それはそれは。」
困った顏の私に気がついたサッテが、ポンの話に横やりを入れる。
「仙女になる前に気がついて良かったよ。」
いつものサッテの皮肉にもトゲは感じられず、むしろ温かみのある言葉にも聞こえるのはなぜだろう。
達成感という大きな絆が、私たちの心理的な距離を縮めてくれたのかもしれない。
ポンとサッテのやりとりを微笑ましく眺めていると、耳の奥にか細い呻きが聞こえた。
(今度はなんだ?)
そちらを見ると、赤い目のレラが嗚咽を漏らしている。
「ッ…。」
辛い想いをしながらもやっと念願の目的地に到着したというのに、具合でも悪くなったのだろうか。
私は黙って隣に寄り添い、彼の背中をさすってやった。
やがてレラは、喉の奥から枯れた声を絞り出した。
「俺はもう、自由を手にしたんだ。」
レラの態度で私は確信を得た。
人間は喜びで泣くこともあるのか、と。
私も腹の奥からこみ上げる不思議な感情に支配されそうだったが、レラが滝のように泣き出したのでそれどころではなくなった。
人間は、感情がクルクルと変わって忙しい生き物だと思う。
私はそれをとても好ましく思っていたことを思い出した。
(そう、ヤマトも昔…。)
その瞬間、喜びをあらわに跳ねていたポンが、糸が切れた人形のように急に砂利が敷かれた地面に突っ臥した。
「もうヘトヘトよー!
あたし、甘いものが食べたーい‼」
「もう歩けない。」
サッテも珍しく弱音を吐いてポンの横に身を投げ出した。
レラは荒い息を吐いて耐えているようだが、本当は体力の限界だろう。
途中、太陽光を受けたときの加護の力がこの本殿を見た瞬間から消えうせてしまったように感じた。
やはり、太陽と月が同時には居られないように、神の力もお互いの力を打ち消してしまうのかもしれない。
しかし、その本殿の佇まいをあらためてまじまじと見た私たちは、猜疑心を抱かずにはいられなかった。
「でも、本当にこれが本殿なの?」
ポンが思ったことを口に出して、隣に居たサッテに激しく小突かれた。
「ちょっと!」
そのような感想が浮かぶのも無理はないと思った。
今まで見てきた絢爛たる大御神殿とは違い、クンネチュプの本殿は木の素地そのままの柱を利用した簡素な造りだったからだ。
ただし、その支柱に使われている大木は地上に生えているどの木よりも太く、ここが人間の暮らす地とは違い神が降り立つ場所であるということを暗に示している。
神が生活する場においては対外的な装飾は意味がなく、私が仙界で暮らしていた頃の神殿も同じように簡素な佇まいであった。
木の温もりと自然との調和を感じられるこの住まいは、むしろ神には好ましいともいえる。
そしてこの本殿は、拝殿と同様にヒノキの千木が外殺に向拝部分に設けられている。
そこに鰹木が7本あることで、男性神を祀っていることはひと目で分かるようになっていた。
「ご安心してください。
間違いなく、あなたたちの主となるクンネチュプさまのお住まいですよ。」
クワがスッと参道の脇にある石造りのつくばいを指さした。
「手水鉢で身の穢れを清めてから、一人ずつお入りください。」
「いっちばーん!
あ、つめたッ!」
ポンは、相変わらず騒がしく身を清め始めた。
ポウポウと鳥の鳴き声だけが響く白く広い本殿の静けさに、私たちは不似合いな輩のようだった。
(クンネチュプは、なぜ私たちを助けてくれたのだろう。)
一列に並んだ最後尾で、私はボウッとしながら物思いに耽っていた。
人間として転生してから、私は孤独だった。
忌み嫌われ弾かれることはあっても、周囲から手を差し伸べられたりすることは皆無だった。
気づけば、いつも頭の隅にいたヤマトの顏がクンネチュプの百合のような顏に置きかわってしまう。
私は驚いて頭を数回、左右に振った。
(私は何を考えているのだ…。)
疲れて思考の元栓が緩んでがおかしくなったのかもしれない。
着物の襟を正そうと自分の胸元に手を伸ばすと、ユクの呼吸が急激に荒くなったことに気がついた。
「どうしたユク?
具合でも悪いのか。」
「大丈夫です…。」
ユクの鼻は上下に激しく動き、その大きな目の半分には白い膜がかかっている。
順番に切妻屋根の妻側の入り口に入っていくみんなに気づかれないように、私は素早く建物の横の陰に入った。
その瞬間、ユクは私の胸から飛び出した。
人型になったユクは、二足歩行になった瞬間、力が抜けたように雪の上に血を吐いて両ひざをついた。
「おい!?」
思わず助け起こそうとした私に、ユクは手のひらを向けて制止した。
「さすがに本殿ですね。
ここに在らずともクンネチュプさまの神気が招かれざる者を排除しようとする。」
肩で息をしているユクの白い肌は青ざめて見えた。
「神気にあてられただけでもこのザマ。
このままでは、このかりそめの肉体が滅ぶのも時間の問題でしょう。」
「なっ、どうしたら…?」
「ご心配には及びません。
私がここで滅んでも、クンネチュプの力が及ばない山里まで魂が降りれば私の体は回復します。
ただし、完全に元に戻るには月日を要しますが。」
「あいわかった。
では、急いでここを離れるのがいいだろう。」
口では心配そうに言いながらも、私は心の中でほくそ笑んだ。
(よし。)
本殿なら他の神を拒絶し攻撃することは分かっていた。
そして、人祖人の監視が及ばなければ、ヤマトの情報が集めやすい。
そうわかっていながらも、目の前で苦しむユクの姿に私の胸はキリリと痛む。
「それでは、ここでお別れだな。」
「いえ。例えこの身が滅ぼうと、レンカさまを一人にはさせません。」
ユクの目がギラリと光り、強い意志がそこに見えた。
「なぜ…。」
(そこまで私を恨む理由はなんなんだ?)
という言葉が喉から出そうなところで、私は言葉を飲み込んだ。
ここで自分の胸の内を明かしてしまえば、百年前のヤマトの無念を晴らすことが叶わなくなる。
いや。
(それだけはダメだ。
絶対に…!)
私は取り繕った儚い笑顔をユクに向けた。
「安心してくれ。
私は必ずここで仙女になり、お前たちがくれた第二の生を謳歌するよ。」
一瞬ユクの顏が曇り、すぐに無表情になった。
「戻ります、必ず。」
そう言い捨てるとユクはたちどころに鹿の姿になり、雲のように消えた。
♢
本殿に全員が入ると、休む間もなくクワが私たちを着替えさせた。
久しぶりに絹の衣に手を通した私は、その柔かい肌触りに感謝した。
女官の着物と袴は地味な色味で飾り気がないが、その分効率よく作られている。
「あら、レンは着物が着られるのね。」
ポンとサッテがお互いの着付けを手伝っていたが、私だけが着こなしていることに驚いたようだ。
「ああ、まあ。」
「では、レラの着付けを手伝ってよ。」
サッテに言われてレラを見ると、着物が大きすぎて布に埋もれているようだった。
「私は、こんなもの着たことがないだけだ!」
ポンたちに嗤われていることに腹を立てたレラが袴を引きずって衝立の向こうに消える。
私がレラの居る場所に入るとクスクスと忍び笑いが追ってきて、レラの白い肌がみるみるうちに朱色に染まった。
「もう少し、小さな袴はないのだろうか。」
「大丈夫。少し折り曲げれば小さくできる。」
私がレラを着付けると、背は小さいが佇まいは立派な神官に見えた。
その証拠に、衝立を出たレラを見てポンとサッテが息を飲んだ。
「おお、馬子にも衣装ね。」
「なかなか良く似合っているじゃないか。」
ポンとサッテがレラを褒める。
耳まで真っ赤に染めたレラが、急に私の背中に隠れて肩の辺りで小さくつぶやいた。
「あいつら、何なんだ。
けなしてみたり褒めてみたり。」
私は正直に胸の内を吐露した。
「あのものたちは、単にオマエと仲良くなりたいのだ。」
すると、レラはますます小さく身を屈めて、腹が痛い子どものように腰を折り「うー。」と唸った。



