石が、割れた。

 悪意が、怨みが、憎悪が、妬みが、死臭が、この世のありとある闇が。

 空から降り注ぐ。


  ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞

「こら〜! 橙子(ちぇんず)、逃げるな〜!」

「ハッハー! 悔しかったら追いついてみな!」

 だらしなく着崩した橙色の胴着の懐には、かっぱらった肉饅頭がたらふく。武芸の修行などしていると腹が減ってしかたないのだ。
 人混みの大通りを橙子はヒョイヒョイと猿のように瓦屋根からレンガの屋根へ、次々に飛び移り逃げていく。
 育ての親である饅頭屋のオッサンを軽く撒き、橙子は山に逃げ込んだ。

「お前なぞ、屍に食われてしまえ〜」

 オッサンの叫びは、すでに山に駆け入った橙子の耳には届かない。後には、いつもの騒動だなと一顧だにしない通行人と、今日もかっぱらい被害に遭ったオッサンの悲哀だけが残った。

「へっ。これで俺の九十九勝だな」

 橙子は丈高く生い茂る草をものともせずに踏みしだき、山の奥へ奥へと登っていく。懐から、まだ湯気の立つ肉饅頭を取り出しかぶりつく。

「やっぱオッサンの肉饅頭は、うめぇ〜」

 浮かべる満面の笑みは、十六歳にしては幼く見える。育ての親から肉饅頭をかっぱらうというアホ丸出しの行為も、精神的な幼さゆえと言えるだろう。

「おーい、画嬢(がじょう)

 橙子の声に応えて、草むらからガサガサと生き物が這い出してきた。巨大な白蛇。金色がかったその胴体は、大人が両手で抱えきれないほどに太い。体長は大人が二人縦に寝そべっても比べられないほどだ。

「ほら、食え」

 橙子がポイポイと投げる肉饅頭を、画嬢は次々とうまくキャッチして呑み込んでいく。巨大な画嬢の腹は橙子が抱いてきた肉饅頭ごときでは膨れない。
 まあ、画嬢は山で獲物を狩るのだから、肉饅頭なぞ食べずとも生きていける。だが昔、孵化したばかりで橙子から与えられた肉饅頭の味は、画嬢にとって母の味のようなものなのだ。画嬢は満足げに橙子の体に巻き付き甘える。

「お前、本当に大きくなったなあ。しかもすごく強いしな。よっし! 今日も力競べするか」

 橙子の言葉を聞くと、画嬢は猛然と力み、橙子を締め付ける。橙子は両腕を押さえつけられた状態のまま、平然としている。

「ほら、ほら。そのくらいか? ちっとも効かないぞ」

 余裕の橙子に腹をたてたのか、画嬢はますます体をよじり橙子を絞り上げようとする。

「ははは、画嬢は奥ゆかしいなあ。力を出し渋って」

 揶揄しているのか天然なのか。どちらにしろ画嬢のやる気は大きく削がれた。力が抜けてシュルシュルと橙子から離れていく。

「もうギブアップか? そんなことじゃ、蒼天の頂上には行けないぞ」

 からかい口調の橙子に、画嬢は牙をむき出しにしてみせる。

『アタシはそんな遠いとこ、絶対行かないって何度も言ってるでしょ』

 ギロリと睨まれても橙子はどこ吹く風だ。

「蒼天に行けば世界一強いって認められるんだぞ」

『知らんわ、そんなん』

「蒼天には、世界中の美食が集まるんだぞ、食いたくないのか?」

 ニヤつく橙子を憎たらしく思いながらも、食通の画嬢は舌をチロチロとせわしなく出し入れする。

「な? 本当は行きたいんだろ?」

『でも、アタシはこの山から出たくないよ。ここより居心地良いところなんか、あるわけないもん』

「住めば都って言葉があるんだぜ。とにかく、鍛錬を欠かすなよ」

『その言葉、そっくり橙子に返すわ。道場を抜け出してばっかりじゃない。そろそろ破門されるんじゃないの?』

「まさかあ。俺がいなかったらあんな道場、屍に襲われたらひとたまりも……」

 橙子が恐ろしい勢いで街の方に向き直る。

『どうしたの?』

「悲鳴だ。画嬢、街に近づくな!」

 言うと橙子は風よりも早く駆け出した。画嬢が声を出す間もなく姿が見えなくなる。

『まさか、こんなところまで、屍が……?』

 画嬢は心配そうに橙子の消えた方を見つめた。


 阿鼻叫喚。
 まさにその言葉がピッタリだった。橙子が街境にたどり着いたとき、そこには血の海が広がっていた。

「オッサン!」

 幾体も転がるシカバネの中に育ての親の骸を見つけ、橙子は飛びついた。
 食いちぎられた腹から内臓が飛び出し、握りつぶされた喉はぶらりと垂れ下がっている。

「オッサン!」

 呼んでも返事のあるはずもない。それでも橙子はオッサンの身体を揺さぶる。
 信じられなかった。あり得ないと思っていた。
 世界に屍があふれていると聞いても、この最果ての聖地、翫苑(ぐぁんいぇん)にまで穢れた存在が現れようとは。

 ずぷちゅ。

 腐臭。不気味に粘った足音。振り返らずともわかる呪われた気配。
 おぞましい、汚らわしい、生命を屠るためだけに動くバケモノ。屍。
 橙子は立ち上がる勢いを活かして後ろ蹴りを繰り出す。鋭い蹴りはあやまたず、屍の顔にめり込んだ。振り返って見た屍の、あまりの醜悪さに橙子は吐き気を覚えた。
 海底の泥が死んだ魚の鱗をまとい人の真似をしようと二足歩行している。そんなイメージがわかないこともないが、ごぽりごぽりと内部から毒性の気泡が湧き出している様は、あまりにも禍々しい。巡礼者が噂する以上の醜悪さだ。

 ずちゅ。

 頭部には、目らしい球体が六つついている。そのうち二つは橙子の蹴りで吹き飛んだのだが、気泡とともに内部から湧き出し、へこんだ泥もまた張りを得る。

 ずぷちゅ。
 ずぷちゅ。
 ずぷちゅ。

 屍は一体だけではない。生きて動く橙子に気づき、二体、三体と集まってくる。どれもが手らしきものを差し出して、まるで橙子を優しく抱こうとしているかのようだ。

 橙子は手近な一体の脚部に横蹴りを入れる。やすやすと蹴りは決まる。だが、地に落ちた屍はごぽりと気泡を吐くたび、もとの形に戻っていく。
 それどころか、橙子の胴着についた泥状の屍の一部が、ごぽり、気泡を吐いた。
 見る間に広がり橙子の脚を覆い尽くす。脚を振り屍を払い落とそうとしても、べっとりと絡み付いた腐臭を放つ泥は取れない。
 それどころか、どんどん伸び続け、厚みを増し、とうとう目ができた。
 ギロリと動く屍の目と、橙子の目が合う。

 嗤っている。
 屍は、橙子を嘲笑っていた。今にも屠ろうとする弱い命を、どういたぶろうかとニヤついていた。

「このやろっ……!」

 剥ぎ落とそうと伸ばした橙子の手に屍がからみつき、歯をたてた。

「っグアア!」

 思わず強く腕を引くと、屍は簡単にノコギリ状の歯を引っ込めた。
 橙子の腕は肘のあたりの肉がえぐれ、大量の血がしたたり落ちる。その血を屍が吸収していく。美味そうにその目を細めながら。
 他の屍も橙子の周りに集まり、手を伸ばす。

「……来るな」

 激痛に襲われ、弱々しい声しか出てこない。それでも橙子は戦おうと腰を落とし、ぶじな左拳を握りしめた。

「ぎぁ!」

 二体目の屍が驚くほどの素早さで腕を突き出した。錐状にするどく尖った手が橙子の腹に突き刺さる。錐はそこで二股に裂け、腹の肉を真横に引き裂いた。
 声にならない叫びが橙子の喉から絞り出される。立っていることなどできない。どうと地面に倒れ込む。
 屍が嗤う。
 ゆっくりと手を伸ばす。
 首にドロリとした屍の手を感じたとき、世界が白光に包まれた。 


  ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞


「お気づきになりましたか」

 か細い声がする。

「聞こえますか?」

 聞こえていると答えようとしたが、力が入らず口を開くことができない。かろうじて瞼を少しだけ開けることができた。

 茅葺きの屋根裏が見える。翫苑に茅葺き屋根の建物は一つだけ。聖殿だ。

「今しばらくお休みください。ここは安全です」

 なぜ自分は聖殿にいるのだろう。この声は誰だろう。ちらりと思考が動いたがすぐに意識は途絶えた。


 次に目覚めると、しっかりと目を開くことができた。しかし起き上がるだけの力はなく、静かに首を回して辺りを見る。
 いつも見慣れた聖殿の中。修行の始め、終わりに翫神に祈りを捧げる場所だ。その壁にも柱にも血がべっとりと染み込んでいる。

 反対方向に首を回すと、自分を見つめる少年がいた。同じくらいの年ごろだろう。真っ白な巡礼者の外套をまとい、ただじっと橙子を見ている。金の髪と白い外套が、どことなく画嬢に似た雰囲気を醸し出している。

「……だれ?」

 かすれて声にはならなかったが、口の動きを読んだ少年が答えた。

「不動士見習いの白隠と申します。主人の不動士は屍が残っていないか街を見回っております」

 屍。
 橙子の顔が青ざめる。腕を食われ、腹を裂かれた恐怖が蘇る。体が小刻みに震えだした。
 白隠はそんな橙子を無機質な瞳で、ただ見つめ続ける。

「白隠、もう一枚、毛布をかけておあげなさい」

 突然の声に橙子がビクリと震える。見ると、部屋の入り口に壮年の大柄な男性が立っていた。やはり巡礼者の外套に身を包み、手にした長杖を軽く床に突く。
 杖の先がキラキラと光り、部屋中にその光が広がり橙子に降り注ぐ。
 懐かしいような甘い香り。湯に浸ったような暖かさ。橙子の震えがすうっと止まった。

「あなたが無事でよかった」

 男性は橙子の傍に跪くと両手を床につき深々と頭を下げた。

「翫神の御子、お迎えが遅くなり心からお詫び申し上げます」

 いったい何が起きているのかわからない。橙子はただ、せわしなく瞬きするばかりだ。

「御子、この世に闇のとばりが降りようとしております。どうぞ、人のためにお力をふるってくださいませ」

 力とは、いったいなんのことだろう。自分などに力などあろうはずもない。街で最強だなどと奢っていただけ、屍の一体も倒せはしなかった。
 街人を救えはしなかった。

『橙子! 無事だったのね!』

 聞き慣れた声に見やると、画嬢がスルスルと滑るように橙子に近づき、身を寄せた。

「画嬢……」

 やはり声は出なかったが、画嬢は橙子の頬をペロリと舐め、いつものように橙子に頭をあずけた。

「金蛇まで揃っているとは。御子、お力が回復なさったら、すぐに出発いたしましょう」

 どこへ? 目で問う橙子に巡礼者はまた深く礼をする。

「この銀針、御子を蒼天へお連れいたします」

 橙子は黙って小さく頷いた。いつか行かねばと身を切るほどの強い思いをかき立てられていた蒼天という名前。
 街人を守れなかった自分が、本当に目指すべきところなのだという思いとともに、心の底から力が湧いてきた。

 橙子は身を起こす。傷はすべて消えていた。