最初は気づかなかったんだ。
 俺もなんか、距離取っちゃってたのもあるけど。イノリが、普通に振舞おうとしてくれてたからだと思う。

「トキちゃん、大丈夫? 顔色わるいよ」
「平気平気。また数学の小テストあっからさー、ちょっと寝不足なだけ」
「そう? ……でも、無理しないでね」
「おう」

 まふまふとパンを齧った。なんとなく会話がぎこちない分、メシに逃げてしまう。
 イノリも、静かにパックの紅茶を飲んでいた。
 会話がないときの方が、メシって早く終わるよな。パンの袋を片付けてると、イノリが「あっ」と声を上げた。

「トキちゃん、ほっぺにクリームついてるよ」
「えっマジで?」

 イノリが、自分の頬を指でしめす。
 俺は、慌てて手の甲で頬を拭う。見当違いだったらしく、イノリが柔らかく目を細める。

「そこじゃなくて、もっと上の方」

 と、ティッシュを渡してくれた。「サンキュ」って貰ってから、俺は違和感に気づいた。いつものイノリなら、拭ってくれるところだって。
 いや、顔ぐらい自分で拭けよって話だけども! 
 今、状況があれだから、ちょっと動揺しちまったわけ。あれ、もしかして、って。
 一回、違和感覚えちゃうと、いろいろ気づいてきて。イノリは、もともとよく触るから顕著だったんだと思う。
 決定的だったのは、帰り際のこと。
 窓を閉めるイノリに、カーテンを引っ張ってた俺が、近づいたんだよな。
 したらさ、イノリ、一歩避けたんだ。腕が、ちょっと触れそうになったから。
 驚いて、ギシッと動きを止めた俺に、イノリは曖昧に笑った。

「五限、始まっちゃうね。トキちゃん、先にどうぞ」
「あ、うん」

 俺は、ぎこちなく頷いて、すごすご305教室を後にしたのだった。



「もう、だめだー!」
 
 俺は、ベッドにガバリと突っ伏していた。
 あんな、ひどい態度ばっかりとってたから。ついにイノリに愛想つかされたんだ。
 枕に顔を埋めて、「ううう」と呻く。
 俺って、ずるい。
 ちょっと避けられたくらいで、めちゃくちゃショック受けるなんて。俺の方が、よっぽど態度悪かったくせに。
 しかも。
……イノリに触られなかったことが、すげえ辛いなんて。
 触られるのが怖くって、避けてたくせに。いざ、触られなくなったら、寂しいなんて。
 自分勝手すぎだろ。
 やな奴すぎて、もう自分に引くよ。ドン引きだよ!

 「俺、馬鹿だ……」

 イノリはいつも、「トキちゃん大丈夫だよ」って。あのでっかい手で、俺の手を握ってくれてた。そこにはあったかい励ましと、優しさしかなかったのに。
 なんで、避けたりしたんだろう。
 やたら悲しくって、マットをどすどす叩いた。


 絶望の感慨で、うじうじと一夜を明かした翌日。
 俺はもう、散々だった。
 補習では、けっつまづいて転んだ。派手にゴロゴロ転がって、ジャージの膝がビリッと破けちまうし。 
 午前の授業でも、なんと教科書を全部忘れてくる始末。
 っていうか、曜日自体を間違えてて。
 明日の授業の用意をしちまってたから、今日が数学の小テストだってことも、忘れてた。
 もともと馬鹿なうえに、ここんとこウダウダしてて勉強不足。
 当然の結果というか、もう、笑えるくらい解けなくて。
 お昼前に、葛城先生から返ってきた答案には、あかあかと「零点」の字が書かれてた。

「吉村。放課後、僕の部屋に来い」

 零点とか、さすがに初めてだったしさ。
 いつもはガミガミ怒る葛城先生に、静かな声で言われたのも地味に怖かった。


 まあ、でもさ。
 今から21号館に行くことより怖いもんはないと思う。
 食欲ねえけど、手ぶらは変だから。一応買ったパンを携え、とぼとぼと歩く。
 イノリに会うのが怖い。
 昨日のことは、気のせいだって思うには、身に覚えがありすぎる。
 けど、もっと怖いのは。
 イノリが、怒ってるんじゃない、って場合だった。
 ただ単に、俺に触りたくなくなっただけなら……もう取り返しがつかないんじゃないか、って。
 俺は、ぎゅっと胸を押えた。
 そんなの、嫌だ。
 嬉しさにまかせて抱き合うことも、あのあったかい手を握ることもできないなんて。
 どうしよう。考えただけで、めちゃくちゃしんどい。てかすでに、これがほぼ現実になろうとしてるわけで。

「ううう」

 けど、俺が変な態度取ってるうちに、イノリが嫌になっちゃったんなら。
 触って欲しいとか、ただの俺のわがままだよな……。


「おはよー」

 カラカラ、と305教室の戸を開ける。
 緊張したわりに、イノリはまだ来ていなかった。ホッと胸を撫でおろし、適当な机に座る。
 シーンとする教室に、なんか落ち着かない。
 そういえば、いつもイノリが先に来てたから、ここに一人でいることってなかった。

『トキちゃん、おはよー』

 授業とか、どうしてんのかってくらい、いつも早く来てて。ニコニコ笑って、出迎えてくれた。
 イノリのあんな風に笑う顔、もうずいぶん見れてない。

「……なんとかしねえと」

 どうしたらいいのか、わかんねえ。
 でも、とにかく謝って。自分勝手だけど、元みたいに戻りたいって、気持ちを伝えないとって、思った。

――けど、この日。
 いつまで待っても、イノリが教室にくることはなかったんだ。