時はいつか。どこかの王朝。
きらびやかな後宮の片隅。色とりどりの水草が揺らめく大きな水槽の前で、私は深く深くため息をついた。
「はぁ……」
この、あまりにも大きすぎるため息。誰かに聞かれたら、間違いなく叱責ものだ。でも、仕方ない。だって、私の耳には、いや、頭の中には……。
『鈴麗に言ってみるか! 金魚だけに、緊急出費……ってね! がはは!』
……まただ。また、この、つまらない駄洒落が聞こえてくる。
私には特殊な能力がある。触れた相手の心の声が、頭の中に「駄洒落」として流れ込んでくるのだ。しかも、その駄洒落のつまらなさといったら、天下一品。もし仮に「この世で一番つまらない駄洒落選手権」があれば、優勝間違いなしの、極寒レベルなのだ。
「勘弁してほしいわ、まったく……」
思わず愚痴がこぼれる。でも、すぐに口元を引き締めた。いけない、いけない。ここは後宮。皇帝陛下のお膝元。下働きの私が、こんな失礼な態度をとってはいけない。それに、この能力のことは、後宮では誰にも話していない。知られれば、どんな目に遭うか……。
私は、後宮の最下級女官。仕事は、金魚の水槽の世話係。……そう、金魚。
『金魚だけに、緊急出費』
ああ、もう! さっきから、この駄洒落が頭から離れない! これは、私の上司である宦官、李さんの心の声だ。李さんは、この水槽で泳ぐ、伝説の金魚「金玉」の世話係の責任者。いつもは尊大な態度で、周りの者たちを困らせている李さん。彼には、緊張しやすい性格を隠すために、どうでもいい駄洒落ばかり思い浮かべるという、変わった癖があるのだ。
皇帝陛下が溺愛する金魚「金玉」は、この国の守り神とも言われている。はるか昔、この国がまだ小さく、戦乱の絶えなかった頃、どこからともなく現れた一匹の黄金の金魚が、争いを鎮め、国に平和をもたらしたという伝説がある。その金魚こそが「金玉」の先祖であり、以来、この国の皇帝は、代々「金玉」を大切に祀ってきたのだ。「金玉」の鱗がひときわ輝く時、この国に吉兆が訪れるとも言われている。そんな大事な金魚の世話を、私のような下っ端が任されている理由は……ただ単に、人手不足なだけ。
後宮では、常に何かしらの事件が起こる。妃たちの権力争い、皇帝の寵愛を巡る女の戦い、毒殺、呪詛、密通……もう、数え上げたらキリがない。そして、そのたびに、誰かが消えていく。
そんな危険な後宮で働こうなんて人は少なく、結果として後宮の人手不足は、慢性的な問題なのだ。表向きは華やかでも、その裏では、嫉妬と陰謀が渦巻いている。妃たちの派閥争いは熾烈を極め、少しでも目立つようなことがあれば、あっという間に蹴落とされてしまう。女官たちも、常に誰かに怯え、互いに疑心暗鬼になっている。この息苦しい環境から、いつか抜け出したい。それが、私の密かな願いだった。
「それにしても……」
水槽の中を優雅に泳ぐ、ひときわ大きな金魚、「金玉」を見つめた。黄金に輝く鱗、優雅に揺れる尾ひれ。確かに美しい。でも……。
『金魚だけに、近況報告……』
……まただ。李さんの駄洒落攻撃。もう、やめてほしい。私は周りの女官に聞こえないように、小さな声で言った。
「金玉様、お願いですから、今日は静かにしていてくださいね……」
もちろん、金魚に言葉が通じるはずもない。でも、こうでも言っていないと、やってられない。私の異能は、幼い頃から私を苦しめてきた。触れた相手の心の声が、全部、つまらない駄洒落として聞こえてくるなんて、誰が信じてくれるだろう? 気味が悪いと、村を追い出され、両親にも気味悪がられて捨てられたのだ。
まだ幼かった私は、村はずれの森の中で、一人泣きじゃくっていた。何も悪いことなんてしていないのに、どうしてみんな私を怖がるの? お父様、お母様、どうして私を置いて行ってしまったの? 空腹と寒さに震えながら、私は何度も何度も両親の名を呼んだ。でも、誰も私を助けてはくれなかった。あの日、もし、通りすがりの行商人が、私を拾ってくれなかったら、私はきっと、あの森の中で、一人寂しく死んでいただろう。
それから私は、人目を避けるように生きてきた。人に触れれば、つまらない駄洒落が聞こえてきて、気分が悪くなる。だから、なるべく人と関わらないように、目立たないように、息を潜めて生きてきた。この能力を隠すために、いつも俯いて、人と目を合わせないようにしてきた。それなのに……それなのに! なんで、こんなことに……!?
*
翌朝、私は、いつも通り、金魚の水槽の世話をしに行った。
「金玉様、おはようございます」
水槽を覗き込む。でも……。
「……あれ?」
水槽の中には、いつもいるはずの金玉の姿が、ない。
「き、金魚が……いない……!?」
私は、水槽の中を、何度も何度も確認した。でも、どこにも、金玉の姿はなかった。
『金魚だけに、緊急出費……』
李さんの駄洒落が、いつも以上に頭に響く。彼は、責任感の強い人物ではあるが、その実、小心者で、何か問題が起こると、すぐに周りの者に責任を押し付けようとする癖がある。今回も、真っ先に私を疑ってくるに違いない。
「ど、どうしよう……」
私は、パニックになった。金玉がいなくなるなんて、前代未聞の大事件だ。皇帝陛下の逆鱗に触れたら、どんな罰が下るか……想像しただけで、恐ろしい。
「金玉様が、いなくなった……!?」
騒ぎを聞きつけた、他の下働きの女官たちが集まってきた。
「そんな馬鹿な……」
「誰か、李様を呼んで来て!」
「早く! 急いで!」
女官たちは、大騒ぎになった。私は、その場で立ち尽くすしかなかった。
(どうしよう……どうしよう……どうしよう……!)
頭の中は、真っ白。心臓がバクバクと音を立てる。
『金魚だけに、緊急脱出……とか……?』
……え?
その時、私の頭の中に、今まで聞いたことのない駄洒落が流れ込んできた。
緊急脱出……? これは……誰の心の声?
私は、ハッとして、周りを見渡した。女官たちは、皆、パニックになっている。李さんは、まだ来ていない。
まさか……この中に、犯人が?
私は、一人一人の顔を、じっと見つめた。皆、動揺している。でも、その中に、一人だけ。
『金魚だけに、緊急脱出……成功、成功……』
……いた!
下働きの女官の一人、小蘭の頭から、その駄洒落が発信されていた。
小蘭……あなたが、金玉様を……?
小蘭は、後宮に来る前は、どこかの貴族の屋敷で働いていたらしい。しかし、何か問題を起こして、後宮に流されてきたという噂だ。彼女は、いつも不満げな顔をしていて、周りの女官たちとも、あまりうまくいっていなかった。
私は小蘭の顔をじっと見つめた。小蘭は、私と目が合うと、サッと視線を逸らした。
間違いない……!
でも、どうやって? どうやって、証明すればいいの? 私には何の証拠もない。ただ、駄洒落が聞こえるだけ。そんなこと言ったとて、誰が信じてくれる?
その時、李さんが、息を切らして駆け込んできた。
「金玉様が、いなくなったというのは、本当か!?」
李さんは、血相を変えて、水槽を覗き込んだ。そして、顔面蒼白になった。
「な、なんと……」
李さんは、その場にへたり込んだ。
「一体、誰が……」
「あ、あの……」
私は意を決して声を上げた。
「金玉様を盗んだのは……小蘭です!」
一瞬、その場が静まり返った。そして、次の瞬間、皆の視線が、私と小蘭に集中した。
「何を馬鹿なことを! 証拠はあるのか!」
李さんが、私を睨みつける。
「証拠は……」
私は、言葉に詰まった。証拠なんて、あるわけない。私が、そうだと確信している、その根拠は……。
「あいつの頭の中に……駄洒落が……」
「は? 駄洒落……? お前は何を言っているんだ……」
李さんが怪訝そうな顔をした。
「とにかく、金玉様を盗んだのは、あいつです!」
私は、必死に訴えた。でも、誰も、私の言葉を信じてくれなかった。
「たわけたことを申すな! この、大罪人が!」
李さんは、私の頬を、思い切り叩いた。
「お前だ、お前が金玉様を盗んだんだな……!」
……え?
「ち、違います……私は……」
「黙れ! お前が、金玉様を盗んだに違いない! お前が犯人だ!」
李さんは私を指差して叫ぶ。いつもの、事なかれ主義はどこへやら。別人のような剣幕だ。
「この女を捕らえよ!」
李さんの命令で、屈強な宦官たちが、私を取り囲んだ。
「違います……私は、私はやってない……!」
必死に抵抗した。でも、多勢に無勢。私は、宦官たちに、腕を掴まれ、引きずられるように、連れ出されていく。
どうして……どうして、こんなことに……。涙が止まらない。
「その女を、牢屋へ叩き込め!」
李さんの、冷酷な声が、後宮に響き渡った。
(私は、やってない……信じて……お願い……)
私の心の叫びは、誰にも届かなかった。
*
そして私は、暗く冷たい牢屋に閉じ込められた。李様から「沙汰を待て」と言われて三日が経った。
(これから、どうなるの……? 私……)
絶望が、私を襲う。生まれて十六年、泥水をすすって生き抜き、やっと仕事にありつけたというのに。あんな告発しなければよかった。でも、あのまま黙っていたら……。頭の中で同じ問いと答えがくるくる回る。
その時、牢屋の扉が、ギィと音を立てて開いた。
「誰……?」
薄暗い牢屋の入り口に、人影が見えた。
「……お前が、鈴麗か?」
冷たい石の床、鉄格子の窓から差し込むわずかな光。逆光で顔は見えない。でもその声は、皇帝の弟、翔蓮様だった。
「は、はい! どうして……」
私は、驚きのあまり、言葉を失った。牢屋の中だというのに、まるで、そこだけが光り輝いているかのように、翔蓮様は、美しく、そして、どこか人を惹きつける、不思議な雰囲気をまとっていた。
切れ長の目、高い鼻梁、そして、薄い唇。その顔立ちは、人形のように整っている。しかし、その美しさの中に、どこか冷たいものを感じた。
「ふっ、面白い女だな」
翔蓮様は、そう言うと、私の顎をすくい上げた。突然のことに、私は、されるがまま、見つめ返すことしかできない。
「お前が、金魚を盗んだ、という噂は本当か?」
「ち、違います! 私は、何も……」
必死に否定する。しかし、翔蓮様は、私の言葉など、まるで意に介していない様子。
「ほう……では、なぜ、お前はここにいる?」
「それは……」
口ごもる。私の異能……触れた相手の心の声が、つまらない駄洒落として聞こえてくる、この能力のことを話しても、信じてもらえるはずがない。
「ふっ……お前が盗んだかどうかは、どうでもいい」
「え……?」
「それよりも……お前、面白い能力を持っているそうじゃないか」
「なっ……!?」
翔蓮様は、私の異能のことを、知っていた! どうして……? 誰が、このことを……?
実は、翔蓮様は、後宮内だけでなく、帝都中に情報網を持っており、様々な噂や情報を集めているという。その情報収集能力は、皇帝陛下をも凌ぐと言われている。どうやら、その情報網によって、私の能力のことを知ったらしい。
混乱する私に、翔蓮様は、さらに言葉を続けた。
「お前のその力……この私に、役立ててみせよ」
それは、私にとって、思いもよらない申し出だった。
*
一方その頃、後宮の一室では、怪しい人影が、ほくそ笑んでいた。
「金魚を手に入れた……今夜が決行……フフフ……」
黄金に輝く鱗を持つ、伝説の金魚「金玉」を手に、下働きの女官に変装した男、小蘭は、不敵な笑みを浮かべていた。
実は、彼女は、後宮に潜入した、隣国の間者だったのだ。金玉を盗み出し、後宮に混乱を引き起こすことが、彼女の任務だった。そして、その混乱に乗じて、皇帝を暗殺し、この国を内側から崩壊させようと企んでいたのだ。
「金玉様さえいれば、この後宮は、私の思いのまま……」
小蘭の野望が、静かに、しかし、確実に動き出していた。
*
「私を……どうするおつもりですか……?」
私は、翔蓮様に、恐る恐る尋ねた。
「心配するな。お前に、危害を加えるつもりはない」
翔蓮様は、私に、自分の計画を語り始めた。
「実は……私は、ある人物を探している」
「探している……人物……?」
「ああ……この後宮に潜む、裏切り者をな……」
翔蓮様の言葉に、私は息を呑んだ。
翔蓮様は、皇帝の弟という立場でありながら、決して現状に満足してはいなかった。兄である皇帝は、優柔不断で、政治にも無関心。その結果、後宮では、妃たちの権力争いが激化し、国政は腐敗しつつあった。このままでは、この国はいずれ滅びる。そう考えた翔蓮様は、自らが皇帝となり、この国を立て直そうと決意したのだ。しかし、そのためには、まず、皇帝の側近として、後宮で権力を握る者たちの中にいる、裏切り者を排除する必要があった。
「そ、そんな……まさか……」
「お前の力があれば、その裏切り者を、見つけ出せるかもしれん」
「私に……できるでしょうか……」
不安げに尋ねる私に、翔蓮様は、優しく微笑んだ。
「やってみなければ、わかるまい?」
そして、一つの条件を提示した。
「もし、私の期待に応えてくれたら……お前の無実を証明し、自由の身にしてやろう」
「ほ、本当ですか……!?」
「ああ……ただし……」
翔蓮様は、私の耳元で、囁くように言った。
「お前は、今日から私の『所有物』だ……」
「しょ、所有物……!?」
私の顔が、真っ赤に染まる。
「嫌とは言わせんぞ……?」
翔蓮様は、悪戯っぽく笑い、私の頬を、指先で優しくなぞった。
その、あまりにも整った顔立ち。そして、どこか人を惹きつける、不思議な魅力。
でも、この人は、皇帝の弟。私とは住む世界が違う……。それに、この人は、何を考えているのか、わからない。冷酷な野心家かもしれない。
でも、このままだと、私は、無実の罪で処刑されてしまうかもしれない。牢獄で一生を終えるよりは……。
私は、翔蓮様の目を真っ直ぐ見つめ、力強く言った。
「私……やります……!」
この人なら……信じても、いいのかもしれない……。
「必ずや、裏切り者を見つけ出し、翔蓮様のお役に立ってみせます……!」
「ふっ……よかろう」
翔蓮様は、満足そうに頷いた。
「では、早速……」
翔蓮様は、私の手を取り、牢屋の外へと連れ出した。牢屋の外に出た私は、久しぶりの外の世界に、目を細めた。
「さあ、行くぞ」
翔蓮様に手を引かれ、私は、歩き出す。
(これから、どうなるんだろう……)
不安と期待が入り混じった気持ちで、私は、翔蓮様の後ろ姿を見つめた。
そして、心の中で、密かに決意する。
(絶対に、無実を証明して、自由になってみせる……!)
その決意を胸に、私は翔蓮様と共に後宮の闇へと、足を踏み入れていくのだった。
きらびやかな後宮の片隅。色とりどりの水草が揺らめく大きな水槽の前で、私は深く深くため息をついた。
「はぁ……」
この、あまりにも大きすぎるため息。誰かに聞かれたら、間違いなく叱責ものだ。でも、仕方ない。だって、私の耳には、いや、頭の中には……。
『鈴麗に言ってみるか! 金魚だけに、緊急出費……ってね! がはは!』
……まただ。また、この、つまらない駄洒落が聞こえてくる。
私には特殊な能力がある。触れた相手の心の声が、頭の中に「駄洒落」として流れ込んでくるのだ。しかも、その駄洒落のつまらなさといったら、天下一品。もし仮に「この世で一番つまらない駄洒落選手権」があれば、優勝間違いなしの、極寒レベルなのだ。
「勘弁してほしいわ、まったく……」
思わず愚痴がこぼれる。でも、すぐに口元を引き締めた。いけない、いけない。ここは後宮。皇帝陛下のお膝元。下働きの私が、こんな失礼な態度をとってはいけない。それに、この能力のことは、後宮では誰にも話していない。知られれば、どんな目に遭うか……。
私は、後宮の最下級女官。仕事は、金魚の水槽の世話係。……そう、金魚。
『金魚だけに、緊急出費』
ああ、もう! さっきから、この駄洒落が頭から離れない! これは、私の上司である宦官、李さんの心の声だ。李さんは、この水槽で泳ぐ、伝説の金魚「金玉」の世話係の責任者。いつもは尊大な態度で、周りの者たちを困らせている李さん。彼には、緊張しやすい性格を隠すために、どうでもいい駄洒落ばかり思い浮かべるという、変わった癖があるのだ。
皇帝陛下が溺愛する金魚「金玉」は、この国の守り神とも言われている。はるか昔、この国がまだ小さく、戦乱の絶えなかった頃、どこからともなく現れた一匹の黄金の金魚が、争いを鎮め、国に平和をもたらしたという伝説がある。その金魚こそが「金玉」の先祖であり、以来、この国の皇帝は、代々「金玉」を大切に祀ってきたのだ。「金玉」の鱗がひときわ輝く時、この国に吉兆が訪れるとも言われている。そんな大事な金魚の世話を、私のような下っ端が任されている理由は……ただ単に、人手不足なだけ。
後宮では、常に何かしらの事件が起こる。妃たちの権力争い、皇帝の寵愛を巡る女の戦い、毒殺、呪詛、密通……もう、数え上げたらキリがない。そして、そのたびに、誰かが消えていく。
そんな危険な後宮で働こうなんて人は少なく、結果として後宮の人手不足は、慢性的な問題なのだ。表向きは華やかでも、その裏では、嫉妬と陰謀が渦巻いている。妃たちの派閥争いは熾烈を極め、少しでも目立つようなことがあれば、あっという間に蹴落とされてしまう。女官たちも、常に誰かに怯え、互いに疑心暗鬼になっている。この息苦しい環境から、いつか抜け出したい。それが、私の密かな願いだった。
「それにしても……」
水槽の中を優雅に泳ぐ、ひときわ大きな金魚、「金玉」を見つめた。黄金に輝く鱗、優雅に揺れる尾ひれ。確かに美しい。でも……。
『金魚だけに、近況報告……』
……まただ。李さんの駄洒落攻撃。もう、やめてほしい。私は周りの女官に聞こえないように、小さな声で言った。
「金玉様、お願いですから、今日は静かにしていてくださいね……」
もちろん、金魚に言葉が通じるはずもない。でも、こうでも言っていないと、やってられない。私の異能は、幼い頃から私を苦しめてきた。触れた相手の心の声が、全部、つまらない駄洒落として聞こえてくるなんて、誰が信じてくれるだろう? 気味が悪いと、村を追い出され、両親にも気味悪がられて捨てられたのだ。
まだ幼かった私は、村はずれの森の中で、一人泣きじゃくっていた。何も悪いことなんてしていないのに、どうしてみんな私を怖がるの? お父様、お母様、どうして私を置いて行ってしまったの? 空腹と寒さに震えながら、私は何度も何度も両親の名を呼んだ。でも、誰も私を助けてはくれなかった。あの日、もし、通りすがりの行商人が、私を拾ってくれなかったら、私はきっと、あの森の中で、一人寂しく死んでいただろう。
それから私は、人目を避けるように生きてきた。人に触れれば、つまらない駄洒落が聞こえてきて、気分が悪くなる。だから、なるべく人と関わらないように、目立たないように、息を潜めて生きてきた。この能力を隠すために、いつも俯いて、人と目を合わせないようにしてきた。それなのに……それなのに! なんで、こんなことに……!?
*
翌朝、私は、いつも通り、金魚の水槽の世話をしに行った。
「金玉様、おはようございます」
水槽を覗き込む。でも……。
「……あれ?」
水槽の中には、いつもいるはずの金玉の姿が、ない。
「き、金魚が……いない……!?」
私は、水槽の中を、何度も何度も確認した。でも、どこにも、金玉の姿はなかった。
『金魚だけに、緊急出費……』
李さんの駄洒落が、いつも以上に頭に響く。彼は、責任感の強い人物ではあるが、その実、小心者で、何か問題が起こると、すぐに周りの者に責任を押し付けようとする癖がある。今回も、真っ先に私を疑ってくるに違いない。
「ど、どうしよう……」
私は、パニックになった。金玉がいなくなるなんて、前代未聞の大事件だ。皇帝陛下の逆鱗に触れたら、どんな罰が下るか……想像しただけで、恐ろしい。
「金玉様が、いなくなった……!?」
騒ぎを聞きつけた、他の下働きの女官たちが集まってきた。
「そんな馬鹿な……」
「誰か、李様を呼んで来て!」
「早く! 急いで!」
女官たちは、大騒ぎになった。私は、その場で立ち尽くすしかなかった。
(どうしよう……どうしよう……どうしよう……!)
頭の中は、真っ白。心臓がバクバクと音を立てる。
『金魚だけに、緊急脱出……とか……?』
……え?
その時、私の頭の中に、今まで聞いたことのない駄洒落が流れ込んできた。
緊急脱出……? これは……誰の心の声?
私は、ハッとして、周りを見渡した。女官たちは、皆、パニックになっている。李さんは、まだ来ていない。
まさか……この中に、犯人が?
私は、一人一人の顔を、じっと見つめた。皆、動揺している。でも、その中に、一人だけ。
『金魚だけに、緊急脱出……成功、成功……』
……いた!
下働きの女官の一人、小蘭の頭から、その駄洒落が発信されていた。
小蘭……あなたが、金玉様を……?
小蘭は、後宮に来る前は、どこかの貴族の屋敷で働いていたらしい。しかし、何か問題を起こして、後宮に流されてきたという噂だ。彼女は、いつも不満げな顔をしていて、周りの女官たちとも、あまりうまくいっていなかった。
私は小蘭の顔をじっと見つめた。小蘭は、私と目が合うと、サッと視線を逸らした。
間違いない……!
でも、どうやって? どうやって、証明すればいいの? 私には何の証拠もない。ただ、駄洒落が聞こえるだけ。そんなこと言ったとて、誰が信じてくれる?
その時、李さんが、息を切らして駆け込んできた。
「金玉様が、いなくなったというのは、本当か!?」
李さんは、血相を変えて、水槽を覗き込んだ。そして、顔面蒼白になった。
「な、なんと……」
李さんは、その場にへたり込んだ。
「一体、誰が……」
「あ、あの……」
私は意を決して声を上げた。
「金玉様を盗んだのは……小蘭です!」
一瞬、その場が静まり返った。そして、次の瞬間、皆の視線が、私と小蘭に集中した。
「何を馬鹿なことを! 証拠はあるのか!」
李さんが、私を睨みつける。
「証拠は……」
私は、言葉に詰まった。証拠なんて、あるわけない。私が、そうだと確信している、その根拠は……。
「あいつの頭の中に……駄洒落が……」
「は? 駄洒落……? お前は何を言っているんだ……」
李さんが怪訝そうな顔をした。
「とにかく、金玉様を盗んだのは、あいつです!」
私は、必死に訴えた。でも、誰も、私の言葉を信じてくれなかった。
「たわけたことを申すな! この、大罪人が!」
李さんは、私の頬を、思い切り叩いた。
「お前だ、お前が金玉様を盗んだんだな……!」
……え?
「ち、違います……私は……」
「黙れ! お前が、金玉様を盗んだに違いない! お前が犯人だ!」
李さんは私を指差して叫ぶ。いつもの、事なかれ主義はどこへやら。別人のような剣幕だ。
「この女を捕らえよ!」
李さんの命令で、屈強な宦官たちが、私を取り囲んだ。
「違います……私は、私はやってない……!」
必死に抵抗した。でも、多勢に無勢。私は、宦官たちに、腕を掴まれ、引きずられるように、連れ出されていく。
どうして……どうして、こんなことに……。涙が止まらない。
「その女を、牢屋へ叩き込め!」
李さんの、冷酷な声が、後宮に響き渡った。
(私は、やってない……信じて……お願い……)
私の心の叫びは、誰にも届かなかった。
*
そして私は、暗く冷たい牢屋に閉じ込められた。李様から「沙汰を待て」と言われて三日が経った。
(これから、どうなるの……? 私……)
絶望が、私を襲う。生まれて十六年、泥水をすすって生き抜き、やっと仕事にありつけたというのに。あんな告発しなければよかった。でも、あのまま黙っていたら……。頭の中で同じ問いと答えがくるくる回る。
その時、牢屋の扉が、ギィと音を立てて開いた。
「誰……?」
薄暗い牢屋の入り口に、人影が見えた。
「……お前が、鈴麗か?」
冷たい石の床、鉄格子の窓から差し込むわずかな光。逆光で顔は見えない。でもその声は、皇帝の弟、翔蓮様だった。
「は、はい! どうして……」
私は、驚きのあまり、言葉を失った。牢屋の中だというのに、まるで、そこだけが光り輝いているかのように、翔蓮様は、美しく、そして、どこか人を惹きつける、不思議な雰囲気をまとっていた。
切れ長の目、高い鼻梁、そして、薄い唇。その顔立ちは、人形のように整っている。しかし、その美しさの中に、どこか冷たいものを感じた。
「ふっ、面白い女だな」
翔蓮様は、そう言うと、私の顎をすくい上げた。突然のことに、私は、されるがまま、見つめ返すことしかできない。
「お前が、金魚を盗んだ、という噂は本当か?」
「ち、違います! 私は、何も……」
必死に否定する。しかし、翔蓮様は、私の言葉など、まるで意に介していない様子。
「ほう……では、なぜ、お前はここにいる?」
「それは……」
口ごもる。私の異能……触れた相手の心の声が、つまらない駄洒落として聞こえてくる、この能力のことを話しても、信じてもらえるはずがない。
「ふっ……お前が盗んだかどうかは、どうでもいい」
「え……?」
「それよりも……お前、面白い能力を持っているそうじゃないか」
「なっ……!?」
翔蓮様は、私の異能のことを、知っていた! どうして……? 誰が、このことを……?
実は、翔蓮様は、後宮内だけでなく、帝都中に情報網を持っており、様々な噂や情報を集めているという。その情報収集能力は、皇帝陛下をも凌ぐと言われている。どうやら、その情報網によって、私の能力のことを知ったらしい。
混乱する私に、翔蓮様は、さらに言葉を続けた。
「お前のその力……この私に、役立ててみせよ」
それは、私にとって、思いもよらない申し出だった。
*
一方その頃、後宮の一室では、怪しい人影が、ほくそ笑んでいた。
「金魚を手に入れた……今夜が決行……フフフ……」
黄金に輝く鱗を持つ、伝説の金魚「金玉」を手に、下働きの女官に変装した男、小蘭は、不敵な笑みを浮かべていた。
実は、彼女は、後宮に潜入した、隣国の間者だったのだ。金玉を盗み出し、後宮に混乱を引き起こすことが、彼女の任務だった。そして、その混乱に乗じて、皇帝を暗殺し、この国を内側から崩壊させようと企んでいたのだ。
「金玉様さえいれば、この後宮は、私の思いのまま……」
小蘭の野望が、静かに、しかし、確実に動き出していた。
*
「私を……どうするおつもりですか……?」
私は、翔蓮様に、恐る恐る尋ねた。
「心配するな。お前に、危害を加えるつもりはない」
翔蓮様は、私に、自分の計画を語り始めた。
「実は……私は、ある人物を探している」
「探している……人物……?」
「ああ……この後宮に潜む、裏切り者をな……」
翔蓮様の言葉に、私は息を呑んだ。
翔蓮様は、皇帝の弟という立場でありながら、決して現状に満足してはいなかった。兄である皇帝は、優柔不断で、政治にも無関心。その結果、後宮では、妃たちの権力争いが激化し、国政は腐敗しつつあった。このままでは、この国はいずれ滅びる。そう考えた翔蓮様は、自らが皇帝となり、この国を立て直そうと決意したのだ。しかし、そのためには、まず、皇帝の側近として、後宮で権力を握る者たちの中にいる、裏切り者を排除する必要があった。
「そ、そんな……まさか……」
「お前の力があれば、その裏切り者を、見つけ出せるかもしれん」
「私に……できるでしょうか……」
不安げに尋ねる私に、翔蓮様は、優しく微笑んだ。
「やってみなければ、わかるまい?」
そして、一つの条件を提示した。
「もし、私の期待に応えてくれたら……お前の無実を証明し、自由の身にしてやろう」
「ほ、本当ですか……!?」
「ああ……ただし……」
翔蓮様は、私の耳元で、囁くように言った。
「お前は、今日から私の『所有物』だ……」
「しょ、所有物……!?」
私の顔が、真っ赤に染まる。
「嫌とは言わせんぞ……?」
翔蓮様は、悪戯っぽく笑い、私の頬を、指先で優しくなぞった。
その、あまりにも整った顔立ち。そして、どこか人を惹きつける、不思議な魅力。
でも、この人は、皇帝の弟。私とは住む世界が違う……。それに、この人は、何を考えているのか、わからない。冷酷な野心家かもしれない。
でも、このままだと、私は、無実の罪で処刑されてしまうかもしれない。牢獄で一生を終えるよりは……。
私は、翔蓮様の目を真っ直ぐ見つめ、力強く言った。
「私……やります……!」
この人なら……信じても、いいのかもしれない……。
「必ずや、裏切り者を見つけ出し、翔蓮様のお役に立ってみせます……!」
「ふっ……よかろう」
翔蓮様は、満足そうに頷いた。
「では、早速……」
翔蓮様は、私の手を取り、牢屋の外へと連れ出した。牢屋の外に出た私は、久しぶりの外の世界に、目を細めた。
「さあ、行くぞ」
翔蓮様に手を引かれ、私は、歩き出す。
(これから、どうなるんだろう……)
不安と期待が入り混じった気持ちで、私は、翔蓮様の後ろ姿を見つめた。
そして、心の中で、密かに決意する。
(絶対に、無実を証明して、自由になってみせる……!)
その決意を胸に、私は翔蓮様と共に後宮の闇へと、足を踏み入れていくのだった。

