「こんにちは。このクラスの担任になる、卯野月です」
「ちなみに僕は、催眠術が使えます」
「じゃあ手始めに……うん。決めた。今夜君たちは『クラゲが出てくる夢』を見ることになるから。楽しみにね」
———ヤバイ教師が来た。
たぶん、クラスメイト全員がそう思った。
肝心の先生はというと、丸い銀眼鏡の奥で、穏やかにキラキラとブルーの瞳を光らせている。
怖くないですよ、というオーラを全身から存分に発揮している。
そして口から出てくる言葉の全てが、そのオーラを完全否定している。
まるで白い団子に黒い小豆スープをぶっかけ、「これは白い団子です。決して黒いスープなどではありません」とにこやかに力説されているかのような珍妙極まりない気分である。
当然の如く、ざわざわと好奇と不安のない混ぜになった囁きが交わされた。
自己紹介って、こんなふうにするものだったっけ? いやいや、もっとこう、好きなものとか、得意な教科とか、意外な趣味とかを公開して、親密度を上げるものだったような? そもそも教師なんだから、できるだけ無難な手本を見せるべきなんじゃないのか?
四月。
新生クラスで行われる最初のイベント。
自己紹介。
困惑。混乱。
そして、先行きの見えない未来へのひそやかな高揚。
私の———中川葉子の人生を決定付ける、大事な一年の始まりだった。
*
「高二だよ。うちらもう、なんだかんだ背水の陣じゃない?」
「そうかもねー」
「文理選択どうするよ? 私全然心定まらんって感じなんだけど。……ってかさ、よっちゃん、冷静沈着なジャムなし蜂蜜なしバターなし食パンみたいな顔してるけど。あんただって、人ごとじゃないんだぞ?」
「うーん」
「で、ほれ、結局どうよ?」
「んー?」
「だから、将来の見通し。よっちゃんはどうなのかい?」
「あー、まあ、ぼちぼちかなぁ」
「ぐはっ、なんだって! よっちゃんはこっそり書類提出完了とかしてるタイプだろーに! ほら、あれだよ、『親友のくせに抜け駆けだと!?』『裏切ったな!?』とか言われて、よゆーのよっちゃんって感じで涼しい顔してるタイプに違いないのに! まさか私の分析が間違っていただと!?」
「ぬふふ……裏切りの裏切りだぜ……」
「騙されたー」
現在時刻、一時十分。
昼休憩の真っ最中に、私は友人の山根砂月とどうでもいい会話のキャッチボールをしていた。
お互いにどうでもいいと思っているので、本当にどうでもいい会話である。
しかしそれがいい。
私は例えば、バースデーケーキに『お誕生日おめでとう+名前』だけでなく、よくわからない赤血球やら血小板やらの落書きがチョコペンで描かれている方が気分が盛り上がるタイプなのだ。
その辺をよくわかっている砂月は、さすが私との付き合い方をわきまえていると言える。さすがは砂月。頼もしいぞ砂月。
そう。気だるげにあーとかうーとか言っている私を見ると、大抵の人間は、私が退屈していると勘違いしてしまうが、そうではないのだ。内心で、けっこう楽しんでいる。
だから遠慮せずガンガン話しかけてくれる砂月は、とても貴重な友人だ。
彼女は私が別の作業をしていようが、眠そうな顔をしていようが、遠慮なしに「いよっ」と挨拶してくれる。こういう関わりを嫌がる人も多いのだろうが、私は違う。喜んでこの遠慮ポイ捨てガールと仲良くしたいと思う。というか、実際仲良くさせていただいている。
「……なーんちゃって。もう理系で提出してます」
「なっ」
「私、将来は医者になるんで。ドヤッ」
「出たぞよっちゃんの『裏切りの裏切りの裏切り』……」
私はスケッチブックへ色鉛筆でカラフルな骸骨を描きながら、ふふん、と不適な笑みを浮かべた。
今スルーしてしまったかもしれない読者のために、一応もう一度言う。
骸骨だ。
私は手慰みにスケッチブックを開いて骸骨を描きつつ、同時進行で、砂月とどうでもいいおしゃべりをしている。
……よく、一人で骸骨を描いているクラスメイトに話しかけられるものだ。と、ひそかに私は砂月への尊敬の念を抱いている。
ふいに、隣で頬杖をついている砂月が、「なあ、話変わるんだけどさー」と言った。
「そういやあよっちゃん、絵描きになんないの?」
「……!?」
いきなりの発言に、思わず咳きこみかけた。
「んぐっ……な、なんて?」
「いやあ、何というかさ。美術系の学校とか行って、本気でプロ目指さないのかなあって気になって。よっちゃんって、こう、アーティスティックなの好きなんじゃないの?」
「絵が好きかで言えば、そりゃ好きだけど……」
こっちが慌てて、砂月が落ち着いている。
普段と真逆になっていて、なかなか混乱させてくる状況である。
というか、私の定期テストと模試の成績を知っていて、よく『絵描きにならないか?』などという提案ができたものだと思う。
普通、もったいないって思わないか? この天才的に明晰で努力家な頭脳を生かした方がいいよって思わないか?
……うん、思わないんだろう。砂月はそういうやつだ。
単純で、素直で、そして遠慮がない。
「あっ、そういやあ、よっちゃんの父ちゃんも医者だったっけ? やっぱそいつの影響か?」
「ぐはっ!」
……本当に、遠慮がない。
私は今度こそ本当に咳き込み、手の甲で口を拭いながらようよう体勢を立て直した。
「……あ、あいつは全っ然、関係ないから」
「えー、そうなのかあ?」
「あいつ、夢みる子供がそのまま大人になったようなやつだから。机の引き出しに宝箱入れててさ、そんなかに紙切れ一枚入ってんだけどさ。ぐしゃぐしゃに折り目ついてるそいつに、一体なんて書いてあると思う?」
「んー、なんだろ」
「“僕は医者になりたい”だってさっ」
「えー、なんかそれ、いい話っぽくない?」
「全然違う! その紙切れの文字、明らかに子供の頃に書いたでしょって感じの幼い字なんだよ? それを後生大事に持ってて、ことあるごとに見返してジーンとしてやがんの。……あれ、絶対あいつが子供の頃に固めた決意の証だよ。あいつ見てたら、ほんと、なんであんなに純粋に生きてられるんだって感動間違いなしだから!」
「うわあ……よっちゃん、やっぱぐちゃぐちゃのメチャメチャにお父さんの影響受けてるよね……?」
「受けてないっ! あいつは意味わかんなすぎる別の生き物だって、今説明したばっかりだから! そんなやつに影響とかもう意味わかんないから!」
「どうどうー、語彙が死んでるぞ。ってか、半分くらい言ってることの筋が通ってない気がするぞ? さてはよっちゃん、実は父親大好きだなっ?」
「好きじゃないっ!」
砂月に噛みつきながら頭を抱える。
何がどうしたらこんな意味不明な会話の流れになってしまったのか……。
そうだ。
将来の話をしていたからだ。
そして、私が絵を描くことが好きだからだ。
私は冷静になろうと心の中を整理する。
医者になりたい。それは本当。
絵描きになりたい。それも……本当。
(………っ)
ダメだ。
こんなことを今考えていたらおかしくなる。大事な友人の前で、おかしくなった自分を見せてしまう。
……まず一旦この話はしまいにしよう。
私はふっと息を吐いて、わざとらしく口を手で覆った。
「そっ、それより今は、ミスタームーンの話をしようぜ」
「おっ。露骨な話題逸らしか……いいぜ、乗ってやるっ」
「助かるぜ」
砂月は空気の流れを察して、すっぱり私の話に乗ってくれた。
私は安堵の息を吐く。
そして私たちは仲良く手を取り、新たな話題へ乗り出した。
ミスタームーン。
それは、担任の卯野月のことである。
このあだ名の由来は、もちろん彼の下の名前だ。一文字でシンプルに、月。読み方も普通で、つき。空にぽっかり浮かんでいるあの天体の名前そのままである。
彼自身の神秘的な雰囲気も相まって、催眠術が使えるとか抜かしたあの教師は、すでに生徒の間にこのごたいそうな呼び名を浸透させていた。
ヤバイ教師だ、とクラス全員が察したのは、まずは自己紹介の時である。
第一、催眠術が使えます、と宣言した。
第二、証拠はあるんですかー、と嘲笑気味に発言した生徒に向かって、あります、と穏やかに返答した。
第三、それから、証拠が欲しいと手を挙げた生徒全員を前に呼びつけずらりと一列に並ばせた。
そして第四に……
「じゃあ手始めに……うん。決めた。今夜君たちは『クラゲが出てくる夢』を見ることになるから。楽しみにね」
……その場でささっと、列に並んだ生徒の人数分の折り紙を折り、くらげの形をしたそれを彼らに配った。
それだけのことを、自己紹介の時間を使って三分ほどで完了させた。生徒が唖然とするのもやむなしである。
そして、話はそれで終わりではない。
本当の意味で先生がクラス中を震撼させたのは、その翌日のことだった。
「俺……マジでくらげの夢見たわ」
「えっ、冗談じゃなく?」
「私も……」
「示し合わせてるとかでもなく?」
「いや、ホント、マジのマジで……」
「うん……いや待って、心の整理がつかないんだけど……」
先生は有言実行したらしい。
くらげの夢を見せる、と言って。くらげの夢を見せたのだ。
証拠は揃った。卯野先生は、マジのマジで催眠術を使えるらしい。
とんでもねえヤバイ教師だ、と。
クラス全員が心の声を一致団結させた瞬間だった。
……とはいえ、である。
生徒たちの緊張は長くは続かない。
人間、永遠に緊張し続けることはできないのだ。
「じゃあ聞くけどさ、よっちゃん、ミスタームーンに術かけてもらうなら何がいいと思う?」
「んー。……なんだろ」
「私だったら、まずプレゼンの授業で緊張しない術かけてもらいたいよなあ」
「おやおや。さっちゃんにしては、案外素朴じゃないか」
「素朴で悪かったのうー。……でもほら、この前田中さんやってもらったって言ってたけど、かなりいい感じだったっぽいじゃん? 頼り切りもまずい気はするけど、一回くらいは体験してみたいっつーか」
「あー、なるほどねー」
初めクラスの警戒心を打ち上げ花火より派手にぶち上げてきた卯野先生だったが、その後の行いにより、かなり印象をマイルドに修正されつつあった。
学校を乗っ取って新興宗教を作るつもりじゃないかとか、実はテロリストなんじゃないかとか、その類の物騒な噂が流れたのはほんの一瞬のこと。
今ではもう、ちょっと不思議な力が使えるだけの、あんまりうだつの上がらない数学教師、という程度の評価である。
わかりやすい例として、卯野先生が実際に使ったと噂される術を、箇条書きに並べてみる。
・くらげの夢を見る術
・プレゼンで緊張しない術
・幼い弟が留守番の時に寂しくならない術
・眠気を覚ます術
・100m走でこけない術
・クッキーのチョコの香りが長持ちする術
・マンションの隣の工事の音が気にならなくなる術
などなど……。
うん、しょぼい。
いや、地味に助かるものが多いのだけれど、全然社会の脅威になりそうなものがない。
闇の力により君臨する魔王を想像して震えていた時間が無駄だった。ということで、当初の異様な熱気が冷めていったのだ。
しかし未だ、彼が使うのは本当にただの催眠術なのか? ちょっと威力や範囲が常識の範疇を逸脱していないか? といった数々の問いには、答えが出ていない。
警戒している人は、まだ多い。
というより、ほぼ全員が腹の奥底ではかなり警戒しているだろう。
あまり本気で緊張できなくなっただけで。
「……てか、ミスタームーン、あんな怪しい感じなのによく学校に就職できたよねー?」
「ずっと猫被ってたんじゃない?」
「でも今は被ってないじゃん。いまに首になるぞ、首に」
「首が怖くないんかねえ?」
「それか、すでに校長を洗脳済みだったりしてー?」
「……。……ないない、そんな度胸あいつにはないよ、さすがに」
「一瞬黙ったなよっちゃん! その迷いを我は見逃さないぜ!」
「ちょちょっ、冗談でもそういうこと言うのはやめて!」
私が砂月の口を抑えると、彼女は、おー悪かったなあ、と言ってすぐに黙った。
私は、はーっと息を吐く。
こんな発言が先生の耳に入ったらと思うと怖い。なんというか、……無事では済まないかも、みたいな考えが一瞬頭をよぎる。どうしても。
余裕を装いながら、私は砂月に言う。
「まーねえ。ミスタームーンがちょっと変なやつだってのはそうなんだけど、あれでも一応は教師だし? 誰にも迷惑かけず、金も取らず、先生として真面目に働きながらすこーしだけ催眠かけてるくらいでしょ? あまり悪し様に言ってもなあって思うわけですよ」
「なるほど。将来のお医者様はお優しい心をお持ちなのでございますな」
「そーいうことよ……ほいっ、完成」
「あ。カラフル骸骨がいつの間にか魚をくわえてる!」
「どーよ」
いつもながらだけど、独特な絵を描くねよっちゃん、と砂月が言う。
お褒めに預かり光栄の極み、と私はおどけてお辞儀をして見せる。
スケッチブックには、色鉛筆でささっと仕上げた骸骨の絵が出来上がっていた。
私は人間が好きだ。
人体の構造にはとても興味がある。
だからこんな、とびきりシュールな絵ばかり描いている。
人間ってものは単純なのに複雑で、わけがわからなくて、そして美しいものだと思うから。
———そういやあよっちゃん、絵描きになんないの?
……もう、さっきと同じことを砂月は言わない。
だって彼女は能天気に見えて、かなり空気を読むから。
だから、言わない。
もう……言ってくれない。
はあ、と私は深く息を吐く。
スケッチブックを閉じる。
ポフン、という軽い音が、空虚に宙へ溶けていく。
今日も長い一日になりそうだな、と私は思った。
*
———先生って、くらげ好きなんですか?
———そうだなあ。両親が好きだったからねえ。僕もいつの間にか愛着が湧いたって感じかな。
———先生は、誕生日にもらえるとしたら何がいいですか?
———うーん。今が幸せすぎて、特に欲しいものはないかなあ。
———先生が、どうしても苦手なことってありますか?
———ああ、それは、折り紙の鶴を折ることかな。他はなんでも折れるんだけどね。なんでかあれだけはダメなんだ……。
一言で言えば、優しそうな人、である。
穏やかな声。線の細いすらりとした姿勢。銀色の眼鏡の奥で、キラキラと純粋に光る瞳。
白いシャツと黒いスラックスを完璧に着こなす。
決して大それたオシャレをしない。
ほのぼのとした空気。
それが、常に卯野月という人間の周囲にふわふわ漂っている。
おかしな発言さえしなければ、彼はごく普通の……もはや普通よりも脅威がないくらいの人間である。
そう。
おかしな発言さえ、しなければ。
「……今朝のホームルーム、久しぶりに緊迫感すごかったわ」
「ね。自己紹介の日を思い出した」
「怖かった」
「うん」
「なんかね。ピリピリッてしてたし。いや、ビリビリ?」
「ピーラーで芋の皮剥けそうな効果音だ」
「うん。ホント、それな」
こそこそと、私は砂月と囁きあっていた。
教室の中には、私たちと同じようにひそひそ話をしているクラスメイトの姿が数名見られる。
話は、卯野先生が今朝、思いっきり遅刻してきたことに遡る。
バタバタと教室に駆け込んできて出席を確認した先生を、生徒がからかった。
『先生のくせに遅刻するとか、いけないっすよー?』
『なんで遅刻したんですかー? もしや寝坊?!』
すると先生は、当然の如く慌てた。
———違うんだよ! なんか駅でふわふわ、ぼーっ? みたいな感じになって、気づいたら反対方向の電車に乗ったまま三十分経過していたんだってば!
『ええー、嘘だあー』
『何それー』
『おっちょこちょいすぎるー』
『先生が遅刻魔って、言いふらしちゃおっかなー』
———言いふらす?! それはやめてよ!? 親御さんの耳に入ったらすごい怖いんだって!
『ええー』
『どーしよっかなー』
———ダメだよ! そんな意地悪言うんだったら、みんなに催眠術かけて僕の遅刻を忘れてもらうから!
しーん。
そういうわけで、教室の空気が、死んだ。
卯野先生は、戸惑ったようにキョロキョロと教室を見回した。
そしてようやく、自分の発言がかなり一線を超えたものだったことを理解したらしい。
記憶消去。
要するに、そういうことだ。
強制的に、何かを忘れさせること。どんなにマイルドに言葉を飾っても、発言の本質は誤魔化せない。
それをする。されることの恐怖を、生徒たちが理解していないはずもなかった。
———えっ。冗談だよ?
『………』
『………』
『………』
———いや、本当に。もし万が一百歩譲ってそういう術使えるとしても、絶対使わないからね? 僕、“本人の心の持ちようでどうにでもなること”以上の催眠術を使わないって、校長先生と約束してるし……それに、そんなことしたってバレたら本当に首になっちゃうから……ってか、いや、そもそも僕は使えないからね! そんなデタラメにすごい術!
あわあわと自己弁護する卯野先生だったが、教室の凍てついた空気はしばらく直らなかった。
そういえば、そうだった。
卯野先生は、得体のしれない催眠術師だった。
その事実を、生徒たちが再び思い出したのだった。
「……でもさ、確かに“本人の心の持ちようでどうにでもなること”以上の催眠術、確かに一度も使ってないんだよね……」
「例外もあるんじゃない? クラゲの夢とか?」
「いや、それも当てはまる。だってよくあるじゃん。寝る前にクラゲのことばっか考えてたら、夢にクラゲが出てくる……みたいな」
「あー。なるほど」
「病は気からって格言もあるしさ? 要するにミスタームーンは、『僕の催眠術の力です』じゃなくて、『みんながそう信じたからうまくいったんですよ』って説明できる範囲内で力を使ってるわけだよね」
「クッキーのチョコの香りが長持ちする術使ってもらった……とかって噂もあるけどね?」
「それも思い込みで説明できる!」
「じゃっかん横暴だぜ……」
「まあまあ」
砂月は、卯野先生の自制心を信じているようだ。
私自身は、自己紹介で強制的にクラゲの夢を見せる発言をした時点でかなり危ない人だと思っているのだけれど……。
「それより、ミスタームーンの遅刻についてなんだがな?」
「あー、うん?」
先生があの怪しげな術をどう扱うかより、先生の遅刻について砂月は気になるようだ。
やはり相変わらずの能天気である。
しかし私は砂月の一番の友人なので、素直に彼女の話に乗ることにする。
「ほら、“ぼーっとして反対方向の電車に乗ったら三十分経ってた”ってのがあいつの証言じゃん?」
「うん。それこそ冗談みたいだよね」
「私はこれ、事実だと思うんだよなー」
「えー。それ本当だったら、ぼんやりしすぎで危ないでしょ」
「でもさ、実はこの前、こんなことがあったんだけど……」
どんなこと? 聞けば、砂月は声をひそめたまま話をしてくれた。
どうやら、放課後のことだったらしい。
掃除をしていたら、ゴキブリが出てきた。
ぎゃーっという叫び声を聞いて駆けつけた卯野先生が、箒で掃いてうまいことそいつを追い込み、外へ追い出すことに成功した。
生徒はみんなで、卯野先生にお礼を言った。
『ありがとうございます!』
『ほんと助かりました』
———うんうん。いや、びっくりしたよね。
『ええ。いきなりゴキブリですもん。心臓止まるかと思いましたよ』
かちん。
固まった。何が? 卯野先生が。
ギョッとした生徒たちが、卯野先生の肩を叩いたり揺すったりして、ようやく彼は硬直から抜け出した。
しかし、先生は完全にケロッとしていたらしい。
自分がいきなり固まったことも、その時の目が虚ろにぼんやりしていたことも、一切自覚していなかった。
———えっ? 僕が固まってたって……本当に?
そして、その現場を目撃した生徒の中に、砂月はいた。
彼女は思った。“心臓止まるかと思った”という生徒の発言をトリガーに、本当に卯野先生の心臓が止まったのではないかと。
かなり怖かったらしいが、当たり前だ。
いきなり目の前で教師が硬直したのだから。
「……ね? だから、ぼーっとして電車間違えるってのも、案外嘘じゃないような気がするんだよね。今朝のミスタームーン、本当に電車の中で意識なくなってたんじゃない?」
「ええ……」
そういうことも、あるのだろうか。
まあ……催眠術師は、他人の暗示にもかかりやすいのかもしれない。些細なきっかけで、意識を飛ばしてしまうことくらい、日常茶飯事なのだろうか。
そうだとするなら、あまり嬉しくない能力の代償だ。
「そっか……」
卯野先生も、大変なのかもしれないな。
心の中で、ひそかに彼に同情してみたりする。
「よっちゃん、心の中で変なこと考えてない?」
「まさか」
私は笑って否定した。
ふと、砂月が「あ、そういえば」と言った。
「話は変わるんだけどさ」
「うん?」
「よっちゃんには言ってなかったけど、文理選択は文系に決めたよ。迷ってるって親に言ったら、『アホタレか……!?』って素で罵倒されてさ。ほら、私って好きな教科が国語と歴史で、嫌いな教科が数学と物理じゃん? とりあえずそこで悩む必要ないだろって言われて、あーなるほどなと納得したっつーか」
「え、それはさすがにアホタレ……」
「よっちゃんまで!」
私は、くすくすと笑った。
最初はムッとしたポーズを装っていた砂月も、つられて噴き出す。
声を抑えて、二人で存分に笑い合った。
しばらくして、砂月が「いやあ。でもさ」と話し始める。
「私、よっちゃんとは違うじゃんか。なんていうか……将来の夢も目標も、なーんもないし。空っぽで、真っ白で。それが実際のところは……その、すごく、不安でさ。だからこうやって『今決断しろ!』みたいに迫られることがあると、あれれ、こんな自分が、将来に影響するかもしれない選択をしていいのかって、けっこう迷ってしまったわけで」
「………」
「つまりは、あれなんだ。よっちゃんが眩しくて、羨ましいって話かもな」
だって、そうじゃん? と、砂月はなんでもないことのように言う。
「ほら。よっちゃんは、夢も目標も、両方持ってるわけだから」
「………」
「……なーんちゃって」
私は、唐突に空気を緩くした砂月の声に、ハッと意識を戻される。
砂月は笑っていた。いつも通りの、無邪気で純真な表情で。ごめんよ、と彼女は言って、拝むように手を合わせる。
「私だって、本当は知ってる。よっちゃんだって、楽じゃないよなって。夢があるってことは、叶わないことへの苦悩も存在するってことだし。目標があるってことは、そこに辿り着くまでの嫌なことを振り切っていく強さがいるってことでもある。よっちゃんにとっては、私みたいに空っぽな生き方が、逆に羨ましいって思うことだってあるよな」
「……さっちゃん」
「ちょっとした八つ当たりだから、絶対気にすんなよ? ……でもまあ、本音を秘め事として内側に燻らせてるのは、なんか健康に悪そうだからさ? まあ、この辺で吐き出させてもらったってわけで」
やり返すなら今だぜよっちゃん? と、砂月の目は語っている。
ああ。彼女のこういうさっぱりしたところが、私は昔から好きなのだ。
砂月の前にいると、私は少しだけ、爽やかな人間になれるような気がする。
「あのさ、さっちゃん」
「おっ。よっちゃんも本音吐き出し大会か?」
「なんだそのゲロゲロしてそうなネーミングは……じゃなくて!」
んんっと咳払いをして仕切り直す。
ニヤニヤする砂月に、私はふわっと微笑んでみせた。
「決めたわ。私の将来は、医者と絵描きの二足の草鞋だから」
「えっ……」
えっとは何だ、とジト目で睨みつける。
砂月は、きょとんとした表情で私を見つめた。が、徐々に私の言葉の意味を理解すると、その顔に笑顔が戻ってくる。
「へえ」
砂月は言った。
「いいんじゃね?」
いいだろ、と私は言う。
さっちゃんの分まで、私が夢と目標に生きるから。両方の志を胸に、全力で二人分を頑張る。未来が空っぽだと言ったきみが、いくらグダグダ生きてても大丈夫なくらいに。
ふふん、と砂月は答える。
よっちゃんがヘトヘトのヨロヨロになってるところを、私は現実に足つけて着実に進んでくもんな。いつか疲れ切ってへたり込んだきみを、お姫様抱っこで寝かしてやるよ。
私たちは見つめあった。
私たちは同志だった。
がっしりと握手をした幻を見る。それは実際に手を出さずとも伝わる思い。互いの心の手を握った幻は、まるでそこで起こった明白な事実のように、重く響く。
……ああ。
でも。
いや。だからこそ、だろうか。
———今まさにそれを裏切る私は、多大な罪悪感を覚えずにはいられないのだ。
*
放課後の教室で、私と卯野先生は向かい合っていた。
しーんと静かで、薄暗く無機質な教室。時刻は五時半を回っており、本格的に夜に突入していく頃合いである。
……薄く桃色に染まっていた上空は、紺色の空へと移り変わり、星が瞬き始める。
「それで、どうしてこんな遅くなってから僕を呼んだのかな?」
「先生が忙しそうだったので」
「本音は?」
「……目立ちたくなかったので」
「わざわざ教室まで来なくても、数学科準備室とか使えたのに。閉め切っちゃえば、誰も来ないよ?」
「でも、そんなこと知りませんでした」
「うん。わかった」
卯野先生は、頷いた。
そして、静かに私へ問いかける。
「……で、本音は?」
誤魔化されてはくれなかったか。私は内心でため息を吐きながら、気まずそうに口を動かす。
「も、……」
「も?」
「……。……悶々として、時間を無駄にしました」
「うん。まあ、そういうことだろうね」
先生の意地悪、と、私は口を尖らせる。
本音を言うのが恥ずかしいから、言い訳を被せたのに。なんとなく知っていたみたいな雰囲気を出すくらいなら、なぜわざわざそれをむき出しにされなければいけないのか。
まあいい。
本題はそこではない。
「僕に頼みたいことがあるって言ってたよね。それほど迷っていたのは、なぜ?」
「———先生。記憶を消す術が使えないって、嘘ですよね」
スバッと切り込むように言う。こういうところで遠慮はいらない。コミュニケーションのテンポは、砂月との会話の中で学んだ。
卯野先生が、えっと戸惑うような声をあげた。
私は何も気にせず、淡々と彼を追い詰める。
「冗談だって誤魔化してたけど、先生は嘘をつくのに向いてないと思いますよ」
「……そうかな」
「ええ。そうですとも。だって先生、普段から力を抑えてるんでしょう? 本当はもっとすごいことがたくさんできるのに、他人を怖がらせるからやらないだけ。催眠術なんて魔法みたいな力は、先生にとって当たり前のことで、むしろ力を使わないことの方が不自然なくらい。だけど周りにいる人たちはそうは思わないから、周りの『当たり前』に合わせている」
「……そうかもしれない。でも、仮にそれが事実だったとして、きみたちに何か困ることでも?」
「そもそも先生、教室中が静まり返るまで、記憶消去術をそこまで悪いことだとも思っていなかったでしょ」
初めて、卯野先生が黙った。
面白い意見だ、とでも言うように、その優しげな瞳がこちらをじっと観察している。
ここまでズバズバと言われても、彼は私に、なんら害意も敵意も感じていないようだった。いつもの優しく穏やかな卯野月が、夜空の月のように静かなまなざしで見下ろしている。
気に入らない。
私は鼻白んだ。
そして固く決意する。その揺らがない態度を、次の十秒がたたないうちに壊してやる。
私は一切表情を動かすことなく、突如彼へ結論を叩きつけた。
「———先生。私の記憶から、私の夢を、消してください」
眼鏡の奥の目が見開かれる。
本当の意味での驚きが、彼を突き飛ばす。
「えっ」
「聞こえませんでしたか? 忘れさせて欲しい夢があるんです。叶うはずもないのに諦めきれない、私に苦しみだけをもたらす……そういう類いの、将来の夢です」
まさか、今になって、術が使えないなんて言いませんよね。先生は、そんな意地悪をする人じゃありませんよね。私、知ってるんですよ。先生が、怪しげなまじないのかかった折り紙を生徒に渡す時、手作りクッキーを渡すかのような気軽さでいたことを、ずっと見ていたんですから。ためらうとしても、それはただのポーズであって、実際は記憶の操作程度なんとも思わないイカれた人間なんでしょ?
私の無言の圧力が、卯野月を下から睨み据える。
彼が、しばししてから、ゆっくりと口を開いた。
「……バレなければ、問題ない。そういうことだね?」
「わかってるじゃないですか。先生」
「いいや。全然わかってないと思うよ」
「ん?」
卯野先生が、腕組みをする。
そして、私を近くの椅子に座らせた。先生も別の椅子を持ってきて腰掛け、私たちは机を一つ挟んで向い合う。
「……どういうつもりですか」
「勘違いしないで欲しいんだけど、僕は別に、どっちでもいいんだ。きみが夢を捨てる決断をすることに対して、賛成でも反対でもない。好きなようにしたらいいと思ってる」
「じゃあ……」
「でもね」
意外な重さで、その『でもね』は響いた。私は思わず、口をつぐむ。
卯野先生は頷くと、ゆっくりとその続きを喋り始めた。
「記憶ってのは、繊細なんだ。忘れたいと強く願うくらいに、自分の心と深く結びついたものがあったとして。それをなんの脈絡もなく、パッと消してしまうと、どうなると思う?」
「………」
「心にぽっかりと大穴が開く。その穴はある程度埋められるかもしれないし、取り返しのつかない虚ろが残され続けるかもしれない。本来その部分が起こす災厄を防ぐことができるかもしれないが、緩んだ地盤で土砂崩れが発生するように、また別の災害を呼び起こすかもしれない」
まあ、でも。と、卯野先生は静かに言って。
「慎重に考えた末の結果なら、やっぱり僕は止めないよ。さっきも言った通り、より良い結果になる可能性だってあるんだからね」
ふっと笑った先生は、「ほら」と言って、マジックのようにどこからか折り紙を取り出した。
薄い水色の紙だった。なんの変哲もない、四角い紙。
しかしそれは薄暗い教室の中、ぼんやりと光っているような奇妙な怪しさがあった。
キラキラと光る卯野先生の瞳が、メガネの奥からじっと何かを問いかけているかのようだった。
「ここに、忘れたい夢を書いてくれればいい」
たったそれだけだ、と卯野先生は言う。
そうすれば僕が、紙飛行機を折る。出来上がったものを窓の外へ飛ばしてしまえば、それで終わりだ。手から離れた紙飛行機が、遥かかなたの空へと紛れて消えていった時。きみはもう、この紙に書いた夢を忘れてしまっているだろうね、と。
「……この術を使う時の媒体は、紙飛行機なんですね」
「ん? そうだけど、紙飛行機に何か思い入れでも?」
「いえ。……ただ、ご大層な術の割に、なんか簡単そうだなって思っただけで」
「あぁ。確かに、クラゲよりは簡単だよね」
でもねぇ、と。卯野先生は言った。
折り紙が簡単であるほど、術が難しいんだよねぇ。
「そうなんですか」
「まあね」
私たちは、しばらく黙っていた。
高校の教師として忙しい身分であるはずの卯野先生も、ひたすらに無言でぼんやりしているようだった。
ふいに、私が口を開いた。
「私は、父を尊敬してるんです。あの人みたいになりたいと思うけど、でも……最近気づいてしまったんです。彼と私は、全然違う人間なんだってことに」
「………」
「父は、夢を叶えるため。私は、自分を安心させるため。根本的に全く違う理由で、私は彼と同じ職業を目指そうとしている。それがどうしようもなく皮肉的で笑えてきちゃって、悔しくて。でも……私だけは、私という人間を否定しちゃいけない。だから、時間をかけて、『私はこうなんだ』って心に浸透させ続けました。自分で自分に納得して、胸を張れるようになるために」
「………」
「だけど、一つ困ったことがありました。私は父と違って、夢を追えない。というより、夢を追うための足がないんです。だというのに、夢だけは立派に見てしまう。宇宙にキラキラ輝く北極星に手を伸ばして、どうしても掴めないでいる子供のように、ただ憧れだけが先走ってしまうんです」
すう、と私は息を吐く。
囁くように、最後の言葉を虚空に落とす。
「……辛くて、辛くて、たまらない」
「………」
卯野先生は、何も言わずに聞いていた。
ただじっと、耳を澄ませている。口を挟まず、私の話を聞いてくれた。
それが私には、なんだか嬉しかった。
辛い苦しいと口にしながら、今がここ最近で一番救われた心地でいるような気がしていた。
「先生に、こういう気持ちはわかりますか」
「……うん。正直に言ってわからないかな」
「わかったつもりにもなれないですか」
「うーん。多分ね。なれないと思うな」
「もしかして先生って、子供の頃の将来の夢とか覚えてるタイプの人ですか」
「僕の夢は昔からずっと、先生になることだったよ」
その瞬間、私は反射的に顔を上げた。まじまじと卯野先生の顔を見る。先生が戸惑ってしまうくらいに、じっと。視線でビームが出るなら、間違いなく穴が開いて貫通してトンネルができるであろうほどにまじまじと。
そして、十分すぎるくらいの時間がたった頃のこと。私は、ぷっと吹き出した。
「え、どうしたの……?」
「いや。なんでもないですよ」
明らかに何かあっただろ、という困惑顔をしている卯野先生へ、私はスッキリとした表情で笑ってみせた。
「やっぱり私、二足の草鞋でいきますね」
「え、それってつまり、紙飛行機の術いらないってこと……?」
「だからそう言ってるんですよ」
「別にいいけど、なんでいきなりそういう結論に……?!」
「さあ。先生には教えてあげません」
脈絡がなさすぎる! という私への不服の気持ちと、せっかくだから紙飛行機の術使ってみたかった! という子供みたいな欲求不満の気持ちが、卯野先生のオーラとしてびんびんに発散されている。
ああ、この先生もこんな顔するんだ。と、私は新たな宝物を発見をしたような心地に満たされていた。
勇気を出してよかった、と、私は思う。
放課後に卯野先生を呼び出して、記憶を消せと要求すること。
かなり怖かったが、実際にやってみれば案ずるより産むが易し。なんてことなかったように思う。
恐るべし、悩める青春パワー。
「さて、と。明日さっちゃんに会ったら、なんて言おうかな……」
……まずもって、医者と絵描きの二足の草鞋なんて、自分には到底できない不可能な約束だったのだ。それを私は、ずっとわかっていた。
自分には絶対できないのにそれをやりたくて、やりたいのにやっぱりそれができなくて。
悶々とする時間がただ苦しかったから、催眠術で夢を消してもらおうと試みた。
でも、結局やめた。
なんか悔しいから、やっぱり二足の草鞋作戦は諦めないことにした。
……うん。
めちゃくちゃだ。
こんなこと、どう説明すればいいんだろう。
まあ、これと同じくらい意味不明な話は、今まで星の数ほどしてきた。しかし、これほど自分の心を曝け出すような話題は、砂月の前では展開したことがない。
でもやっぱり、私にはそういう機会が必要だったのだと思う。
だから明日は、砂月に、色々と話してみようかなと思う。
だって、砂月は私にある程度の心を許していた。私も少しずつ、許していくべきだ。
なんといっても、砂月は私にとって、二人といない重要な友人なのである。
それにしても、なぜ、こんなにも私が前向きになっているのだろうか。
その理由の一つはきっと、卯野月という人間の秘密を、ほんの少しだけ見抜いたことにある。
その結果が、これだ。
でもまあ、それは些細なきっかけでしかない。残りの大部分の理由は、自分でもよくわからないままだ。
気付けば津波のように色々な感情が湧いてきて、あっという間に押し流されていた。
いちごのパックをスーパーで見かけた瞬間、むらむらとやる気が湧いてきて、小麦粉と生クリームとバニラエッセンスを同時に買い物かごへ放り込み、家に帰ってすぐさま巨大なデコレーションケーキを焼き上げたくなる! ……という類いの、少々前後関係が曖昧な気持ちの変化だった。
……もしかすると催眠術師は、そういう化学変化を起こすのが得意な人種なのかもしれない。
私は窓の外の空を見て微笑みながら、真っ暗になった学校の廊下を歩く。
そろそろ、他の教員に見つかれば軽い叱責を免れない時間帯だ。さっさと学校の門をすり抜けて、帰宅しなければ。
気付けば泣いていた。
どうして泣いているんだろう、と思いながらも、涙が止まらない。
「夢も目標も……ただの、夢や目標なのに」
どうしてこんなにも、人は苦悩しなければならないんだろう。
そんなことを、ふと思う。考えてもせんのないことなのに、どうしても考えてしまう。
医者になりたい。それは、本当。
絵描きになりたい。それは、本当。
私の心境は、これから一体どう変化していくのだろうか。医者も絵描きも諦めるかもしれないし、どっちかだけを実現するかもしれないし、なんなら今はどっちも叶えてしまえる気もしている。
もしかして自分はまた、卯野先生に泣きつきにいくかもしれないし、今度は砂月に向かって恥も外聞も投げつけるようなことになるのかもしれない。
未来のことはわからない。
それでいい、と私は思う。
叶うかもしれないし叶わないかもしれない。
……そんな心地で夜の学校を去った私は、何十年後かに、結局あの日の自分が有言実行したことを知ることになる。
医者として、仕事をしながら。
小さな本を、出版した。
その挿絵を自分で描いて売ったのだ。
あまり売れはしなかったが、私は奇妙な満足感に包まれていた。
だからその本を一冊、卯野月先生の元へと送りつけた。
返事は折り紙付きで、『ぐっすり眠れる魔法です』と几帳面な文字でメモ書きがあった。
枕の下に入れて寝てみると、本当にぐっすり眠れたし、目覚めもよかった。やたらクラゲが登場する夢だったのは、お愛嬌である。
*
卯野月。
その名前の由来は、両親が好きだった生き物である。
クラゲ。漢字で書くと、海月。
珠のような双子の赤ちゃんを授かった夫婦は、女の子の方に海、男の子の方に月と名付けた。
月は勤勉で、いつも誰かの役に立ちたいと考えている、心優しい少年だった。
海はどこか子供時代をすっ飛ばして成熟したような深みを持つ少女だった。
二人とも両親の自慢の子供だったが、一つだけ問題があった。
海は生まれつき、心臓病を患っていたのだ。
発作を起こしては病院に担ぎ込まれる。いつ死んでもおかしくない。いつもいつも、三途の川のこっちとあっちで綱渡り。
ゆえに。
『僕が治す』
心優しく勤勉な月は、とても正気とは思えない目の色をして宣言した。
もちろん、周囲は驚く。そして月は、その程度のことでは揺らがない。
『お医者さんになるの?』
『うん。誰よりもすごい医者になる』
『でも、何年もかかるよ?』
『海が死なないうちになればいい』
『………』
月は勉強が得意だった。手先も器用で、なんでも人並みよりは上手くできる子供だった。
しかし、“誰よりもすごい医者”になれるかと問われれば、首をかしげざるを得ない。死ぬほど努力しても、天才ではなく、秀才で止まってしまうくらいの人間だった。
しかし、彼は本気だった。
誰よりもすごい医者になるつもりだった。
そして奇跡的なことに、その可能性はすぐそこに転がっていたのだ。
『ほら、海。今日もいい夢を見て、ぐっすり眠れるようにおまじないをかけたよ』
『……いつもありがとうね。月』
少年には、魔術的な才能があった。
自分で作った折り紙を通して、宣言通りの効果を発揮させる。
どうやって? 一体どんな仕組みで? 理屈を聞いても、本人は首を傾げるばかり。
“こうすればできると思った。やってみたら、その通りになった”
それだけを、オウムのように繰り返す。
そして。月が十歳になった時。
ついに彼は『海の心臓を癒す術』についての天啓を得た。
『千羽鶴を、折ればいい! そうすれば、海は治る!』
できる、と確信した。
そして彼が確信したなら、失敗は万に一つもあり得なかった。
それからの月は、鶴を折ることに没頭した。
丁寧に折らなければならない。一羽一羽、心を込めて折らなければならない。
が、同時に、急がなければならない。できるだけ速く完成させなければならない。
海の容態は悪化していた。タイムリミットはどのタイミングで訪れてもおかしくなかった。
月は学校も休み、寝食を削って、文字通り全てをかけて鶴を折った。
九九九羽が完成。
……残り、一羽。
その時、月の精神がふっと揺らいだ。残り、一羽。そう思った瞬間、ゆるめてはならない気が緩んだのだ。
元々無茶な挑戦だった。十歳の子供の限界。
月は机に突っ伏し、意識を失うように眠りについた。
そして、その夢の中で……彼は、海に会うことになる。
海は、水色のネグリジェのような服を着ていた。
エンジェルのように光をまとい、仏のような静かな微笑みを浮かべていた。
そして彼女は、ゆっくりと口を開いた。
口が動く。声が、言葉が、発せられる。
———ごめんね。間に合わせて、あげられなかった。
———え……?
海? と、月のつぶやきが漏れ出る。
しかし海の表情は変わらず、彼女はただ、次の言葉を繋ぐ。
———これが、最後のお喋りだよ。月。あんまり時間はないけど……でも、何も言わずにいくよりは、いいと思ったんだ。
———いくって……それって……っ? 海!? 待って、どこにも行くんじゃない! もうすぐ、本当にすぐだ! 千羽鶴ができるから! あとほんの少しだけでいいから、そこで待ってろ!
———ごめん。
———そ……そんなっ!
なんで。どうして。あんまりだ。そんなのってない。
状況をようやく理解し目の色を変えた月の悲痛な叫びを、海は悲しそうな表情で受け止めた。
———月。知ってるでしょ。人生っていうのは、全部がうまくいくなんてあり得ないんだよ。
———それは……そうだけど!
———乗り越えていくしかないんだよ。それがどんなに辛いことであろうとも。
———でも……っ、そんな! 僕はずっと、海を治したくて、そのために生きていこうって思ってたんだ! これはもう、失うには、あんまりにも大きすぎる目標だし……これがなくなったら、僕はどうやって生きていけばいいっていうんだよ!
———ハア。
仕方ないわね。
海は、慈愛のまなざしで双子の片割れを見やった。
———じゃあ、私から一つ、お願いをしようかな。
———お願い……?
———そう。月は優しいでしょ。その優しさが形を持ったのが、『私を治す人になる』ってこと。だからそれを、少しだけ広げて欲しいんだ。
海は、静かに微笑んで言う。
———『みんなを治せる人』になって。どんな病気にも怪我にも、平等に向き合ってあげて。私を失う悔しさまでを、その人たちを癒す原動力にして。
———すがれる目標がないというのなら、当分はこれを目標にして。
———あなたならできると、私は信じているからね。
今までありがとう。
さようなら。
月。
『あああああぁぁああっ!!』
叫び声を上げながら起きた月は、自分の顔を両手に埋めた。
クラゲは……海月は、半分が欠けてしまった。
もう二度と、その半分が戻ってくることはない。
悔しくてやるせなくて、ただ慟哭だけが、獣の叫びのように喉から漏れ出る。
……『みんなを治せる人』になって。どんな病気にも怪我にも、平等に向き合ってあげて。私を失う悔しさまでを、その人たちを癒す原動力にして。
……すがれる目標がないというのなら、当分はこれを目標にして。
……あなたならできると、私は信じているからね。
長い長い時間が経って、ようやく月は泣き止んだ。
両親が海の訃報を届けた時には、月はもう、赤くなった目も治っていたし、不思議なくらい落ち着いていた。
九九九羽の折り鶴の山の中で、彼はぼんやり、自分の新しい夢について考えていたのだ。
『月くん、大丈夫?』
『うん』
『これから、色々大変だろうけど。みんなで頑張ろうね』
『うん』
「……頑張ったんだよ。僕は。本当に」
「………ああ。きっと、そうなんだろうね」
夜空の星の美しい丘で、少年と老人が並んで座っていた。
草が揺れる。春の香りが風に流れ、静かに彼らの服がひるがえる。
二人は、たまたまこの丘で会った見知らぬ者同士だった。
「そういえばおじいさん、どこで何してる人なの?」
「しがない駄菓子屋の店員だよ。まあ、趣味でおやつを作って、知り合いや子供にあげたりはしているけれど」
「そうなんだ」
「食べる? 甘酸っぱいのがあるよ」
「うん。食べる」
ただ、少しの共通点があったから、こうして話が弾んでいる。
少年とは、言わずもがな、卯野月である。
不思議な才能があり、しかしそれを活かしきることができずに、双子を死なせてしまった子供。
老人は、そんな彼の才能を、一目で見抜いてみせた。
“星みたいに光っているね。きみ、すごいな”
“それを言うなら……おじいさんも、なんか電球みたいに光ってるけど”
“きみの方がすごい。眩しすぎる。超古代でも、それほどの術者は、そうはいなかったと思うな”
老人は、驚愕したように月を見つめる。
月は、首を傾げた。
“……術者って何?”
“催眠術を使う人だよ。知らないのかい?”
“それ、もしかして、僕が使える変なおまじないのこと?”
“ええっ……なんだ、誰にも教わらずにやってたのかい? まあ、その力と才能なら、納得ってところだけれど。”
どうやら催眠術の力を持つ者同士が出会うと、お互いの姿が光って見えるらしい。
そういうことで、なかなか奇妙な出会い方をした二人は、一緒に星を眺めていた。
そして月は、今までほとんど誰にも話したことのない身の上話を、初対面の老人へと語ったのだ。
「それで僕は、医者になろうと思ったんだけど。でも……うまくいかなかった」
「そうなのかい?」
「鶴が折れなくなったから。どうしても指が震えて、他のすべての折り紙は折れるのに、鶴だけが折れなくなかったから」
「つまり、千羽鶴が完成しないのか」
「うん。だから僕は……医者になれない」
夜風がゆるやかに吹いている。
老人は、月へ無言で『甘酸っぱいお菓子』を渡した。
それを口に入れた月が、小さく涙ぐむ。
「……なんでだろう。一番使いたい術が使えないなんて。僕には才能があって、失敗する要素なんかどこにもないはずなのに。催眠術って、絶対おかしいに決まってる」
「催眠術に限らないよ。世の中、理由のない理不尽は山ほどあるんだ」
「じゃあ、どうしろって言うんだろう。……あいつに、信じてるって言われたんだ。きみならできるって。じゃあ頑張ろうって、僕も前向きに立ち上がることができたんだ。それを、今さらまた捨てるなんて……っ」
あの日と同じように、月は自分の顔を両手に埋める。
老人は、少年の肩を抱いた。
温もりが伝わる。年月という深みを抱えた温かみが、じんわりと少年の体へと伝わっていく。
「……ごめんなさい。こんなこと、おじいさんに言ってもどうしようもないのに」
「いいよ。気にしないで、なんでも言ったらいい」
「僕はどうしたらいいかわからないよ」
「それでいい。存分に迷ったらいいさ」
「僕、医者になるために勉強を頑張ったからさ。友達に、勉強を教えてってせがまれることが多いんだ。それで最近、学校の先生になるのもいいかなって、思い始めたんだ」
「そうなんだ」
「でも、もう一つの夢が忘れられないよ」
「それは、忘れなくちゃいけないことなのかい?」
初めて、少年はまともに老人の顔を見上げた。
びっくりしたように、彼は目を見開く。
そして。
彼は、初めて自力で解を見つけた数学者のようなポカンとした表情で、静かに言った。
「……うん。忘れなくちゃいけないことみたいだね」
……そして、卯野月は折り紙を折った。
文字を書き記し、丁寧に紙飛行機を作り上げ、空の彼方へ飛ばした。
子供の字で書かれたその文字とは、一体なんだったのか。
———“僕は医者になりたい”
その紙は、遠く旅をして、とある病院の窓へと舞い込んだ。
病気で入院して退屈していた青年のベッドの上へ、ひらりと着地する。
興味を持って紙を開いた青年の名は、中川聡介。中川葉子の父親である。
夢は捨てられたのではなく。
その夢を必要とする誰かの元へ、届けられたのであった。
*
私が見抜いた卯野先生の秘密?
そんなもの、簡単なこと。
“卯野先生は、自分の夢を忘れている”。
あまりにも大事な記憶がぽっかり抜け落ちてるから、それに関連する記憶全てが影響を受けて捻じ曲がってる。だから、自分の夢を思い出しそうになると、硬直してぼーっと虚ろな目になってしまうのだ。
私が卯野先生の夢について尋ねた時もそうだった。
『僕の夢は昔からずっと、先生になることだったよ』
そう言いながら、卯野先生は自分の目がいかに虚ろだったか、気付いていなかったんだろう。
そしてその直後に訪れた硬直の時間。
私は彼が意識を取り戻すまでしばらく待っていたが、その間に悟った。
ああ、そういうことだったんだ。と。
なんでわかったのか?
さあ。直感としか言いようがない。
でも、確実に事実だ。
この人は、自分を保つために、自分の大切なものを犠牲にしたんだな。
私と同じで、夢や目標が重荷でしかなくて、だからこそ捨てなければならなかったんだな。
そう、理解した。
卯野先生が、生徒の記憶を捻じ曲げることに、大した忌避感を持っていなかったのも頷ける。
だってこの人は、すでに自分の心を盛大にいじっているのだから。
———やっぱりヤバイ教師だって評価は間違っていなかった。
私はなんだか愉快な気分になりながら思った。
———でも。そのおかげで、助かったかもしれないな。
私は思った。
“悔しい”と。
この先生と同じ選択をするなんて、どうしても嫌だ、と。
私は私であり、こんな変で危なっかしい大人と一緒の枠に収まるなんて耐えられない。
だから、と私は決意した。
夢も目標も全部抱えて、残りの人生歩んでやる。
それが私の、中川葉子の生き様だから。
「ありがとう。ミスタームーン」
おどけるように呟いて、私は学校の校門をくぐったのだった。



