放課後。昇降口の前を通りかかった時、彼女と下校しようとしている田中に遭遇した。彼は少し気まずそうに私から目を逸らした。
「ラッブラブ」
 私がそんなふうにちょっかいを出すと、田中は唖然とこちらを見た。それから口角を上げて言った。
「うっせえバーカ」
 二人は恥ずかしそうに手を繋いで帰って行った。
 あれが幸福というやつか、と思った。それ以外の感情は一切わいてこなかった。そのことに自分でちょっと驚いた。
 私はそのまま校内を移動し、物理室にやって来た。助けてもらったお礼を改めてしたいからと、放課後にここを訪れるように言われていた。
 関町先生は物理準備室にいた。今日はゆったりと椅子に腰掛け、コーヒーを飲んでいた。
「いいコーヒー豆を頂いてね。あんまりおいしくないけど、高級なやつだから君もどうぞ」
 いまいち飲む気をそがれる前置きをして、先生はコーヒーを淹れてくれた。私も席に座って飲んだ。すぐに彼の言葉に納得できてしまった自分が少し悔しい。
「僕は人気者になれただろうか」
「先生がそう思うなら、そうなんじゃないですか」
 先生はどうでもよさそうにコーヒーを啜った。その態度が不思議で、私はカップから顔を上げた。
「ところで君はもう、失恋を乗り越えられたかい?」
「いきなり何を言い出すんですか」
 思わずコーヒーをこぼしそうになる。
「そんなの、あの日に乗り越えてますよ」
「そうかい? 数日前に君がここへ来た時はそうは見えなかったけれどね。だから君の企てた計画では不十分だったんだと、僕は判断していたよ」
「……つまり何が言いたいんですか」
「思い悩むのは悪いことじゃない。でもね、それを乗り越えるために、自身を危険に晒す手段をとるのはあまりおすすめしない。公衆の面前であんな艶めかしい格好をして、おまけに変な被り物をかぶって変わり者を演出。あれをはじめ見た時、痴女が現れたのかと僕は思ったよ」
 急激に顔が熱くなる。
「そんな。私、別にそんなつもりじゃなかった」
「君はそうでも、世の中には色んな人がいるからね。例えば、あの日の君を撮影した映像データが、いくつかSNSに投稿されている。そのコメント欄を読み上げてみようか?」
 スマホを掲げる先生に、私は首を振った。
 先生の言葉が頭の中で反芻される。本当は自分でもわかっていたのだ。気づかないふりをしていただけだった。下を向いたまま、顔を上げられなくなる。
「君もすでに知っているかもしれないけれど、今朝確認したら、あのストリートピアノは当面の間、使用禁止になっていたよ。昨日はどこかの変態が、好き勝手にやったみたいだからね。当然の結果だろう」
 私は先生を見た。
「もしかして、あれはそのために?」
「君がまたやらないという保証は、君の言葉しかなかったからね」
 そう言われてはたと気づいた。
 昨日以前にも一度、先生はあのコンコースでパンダ姿で演奏していた。ああすれば、私が自ら先生に接触しに行くことを見越していたのかもしれない。そして会話の中で私の心境をはかり、再発の可能性を危惧していたのだろうか。
「だけどそれなら、わざわざあんなことしなくても。もう二度とやめろって、口で直接言えばよかったじゃないですか」
「あんな大胆な行動をとる子が、言葉だけで従うとは思えない。他人からの命令には反発するけれど、自分の好奇心には極めて素直。きっと君はそういうタイプだろう」
「よくわかりますね」
「僕も同じだから」
 図星だった。私は何も言えなくなる。
「まあ昨日に関して言えば、僕がああいうやり方をとる必然性は全くなかったがね」
 でも、と先生は相好を崩した。
「楽しかっただろう? 僕のコンコース・ショーは」
 そう言われると、正直、楽しかった。
 あんな経験、今までにしたことがなかった。日常の問題が全部どうでもいいことのように思えるくらいに衝撃的だった。振られた相手に、平然と軽口を叩けるほどの胆力さえついた。
「楽しかったです」
 私は素直に答えた。頬のあたりが微熱を帯びていた。
「へこんだときは、とびきり新鮮な経験をするといい。馬鹿みたいに気が晴れる」
 先生は言った。
 私はコーヒーを飲み干して一息ついた。胸にわだかまっていたものがなくなった気がした。
 清々しい気持ちで窓越しの空を見上げていると、ふと気になったことがあった。私は先生に尋ねた。
「そういえば先生。あの日、なんで私のあとをつけてきたんですか? 私がここの学生だってことは、制服に着替えてトイレから出てくるまでわからなかったはずですよね?」
「ああ、それね。あまり深い意味はないよ」
「知りたいです」
「実を言うとね、彼女に興味があったんだ。はじめこそ痴女だと思っていたけれど、演奏を聴いているうちに、だんだんと女性的な魅力を感じ始めてね。気づいたら、被り物の下が気になって気になってじっとしていられなくなった」
「……それで後をつけたと?」
「気になったことは明らかにしないと気が済まないたちでね」
「先生って、やっぱり変態じゃないんですか?」
「ふむ。それはそうかもしれない」
 はは、と気の抜けた笑いがこぼれた。
 とんでもない教師だ、と思った。
 だけど、私は嫌いじゃない。

   了