私の歓喜をすみやかに返還せよ。
そう叫びだしたくなったのは、あれから数日後のこと。あのコンコースに再び奴が現れたのである。
健闘虚しく、検討虚しかった。
夕方で混雑した駅構内。ピアノの音が聞こえてきた段階で、嫌な予感はあった。そしてその姿を認めた時、自分の目を疑いたくなった。
現れただけならば、まだ良かった。願いを無碍にされたことへの怒りはもはやなかった。ただせめて、あの濃紺のスーツとパンダの被り物で、大人しくアップライトピアノと戯れていてほしかった。しかし現実は厳しかった。
──参考にさせてもらうよ。
先日、物理準備室を訪れた時に、彼が言っていた言葉が想起される。何を参考にするんだろう、と私は思っていた。だけど追求はしなかった。それは、藪蛇をつつく行為に他ならないのではないかと危惧したからである。
そんな私の憂いをあざ笑うかのように、蛇は出てきてしまった。
蛇どころか、怪物が出てきてしまった。
その時、コンコースにはストリートピアノを取り巻く人垣ができていた。何台ものスマホのカメラが、その中心でピアノを演奏するドレス姿のパンダに向けられていた。
かつて、あれは私だった。
そして現在、あれは彼だ。
私よりも一回りは大きい背丈に、がっしりとした肩幅。袖から延びた腕は程よく引き締まった筋肉質で、節くれだった指が鍵盤の上を舞う。そこから紡がれる音色は恐ろしいほど繊細で、そのギャップに全身がぞわりとかゆくなる。
やがて彼は、席を立ちあがった。そしてミュージカル映画のワンシーンさながらに、歌いながら機敏な踊りを披露し始めた。あの日見たのは、きっとこのための練習だったのだろう。どこからか手拍子が聞こえ始め、まもなく観衆全体に伝播した。
前回とは見違えるほどに盛り上がっている。おそらく私の時よりも。しかしこの状況を、はたして人気の獲得と捉えてもいいのだろうか。
例えば人々が彼に向けているのは、憧憬や尊びの眼差しではなく、変質者を刮目する色合いが強いのではなかろうか。芸術鑑賞ではなく、色物見物──いや、見物よりも監視の呈をなしているかもしれない。あの怪物が外界に解き放たれないようにと。
これでは衆人環視ならぬ、衆人監視である。
と、そんなくだらない思考に耽っていると、騒ぎを聞きつけた駅員がやって来た。もはやストリートピアノとは関係のない男の奇行を、これ以上は看過できなくなったのだろう。彼はまだそのことに気づいていない。
まずい、と私は思った。
別に私が助け舟を出す義理立てはどこにもない。それでも、あの人があそこまで異端化した原因の一端は、少なからず私にもあるのではないか。そう考えると、ここで彼が駅員に連行されていくのをただ傍観するだけというのは、どこか無責任な気がしてならなかった。
私は人の間を縫い、彼のもとへ駆け寄った。
「やあ、三橋さんじゃないか。君も踊りに来たのかい?」
「やあ、じゃないですよ。名前呼ばないでください」
言いながら、私は先生の腕をとって走り出した。まるでモーセの海割りさながらに、前方に道が開けていく。女装男子パンダの破壊力は伊達じゃない。序盤は恥ずかしすぎてどうにかなりそうだったけれど、なぜかしだいに愉快になってきた。
気づけば私は笑っていた。そして被り物の下で、先生も笑っている気配がした。
ていうか本当に何を考えているんだ、この人は。
そう叫びだしたくなったのは、あれから数日後のこと。あのコンコースに再び奴が現れたのである。
健闘虚しく、検討虚しかった。
夕方で混雑した駅構内。ピアノの音が聞こえてきた段階で、嫌な予感はあった。そしてその姿を認めた時、自分の目を疑いたくなった。
現れただけならば、まだ良かった。願いを無碍にされたことへの怒りはもはやなかった。ただせめて、あの濃紺のスーツとパンダの被り物で、大人しくアップライトピアノと戯れていてほしかった。しかし現実は厳しかった。
──参考にさせてもらうよ。
先日、物理準備室を訪れた時に、彼が言っていた言葉が想起される。何を参考にするんだろう、と私は思っていた。だけど追求はしなかった。それは、藪蛇をつつく行為に他ならないのではないかと危惧したからである。
そんな私の憂いをあざ笑うかのように、蛇は出てきてしまった。
蛇どころか、怪物が出てきてしまった。
その時、コンコースにはストリートピアノを取り巻く人垣ができていた。何台ものスマホのカメラが、その中心でピアノを演奏するドレス姿のパンダに向けられていた。
かつて、あれは私だった。
そして現在、あれは彼だ。
私よりも一回りは大きい背丈に、がっしりとした肩幅。袖から延びた腕は程よく引き締まった筋肉質で、節くれだった指が鍵盤の上を舞う。そこから紡がれる音色は恐ろしいほど繊細で、そのギャップに全身がぞわりとかゆくなる。
やがて彼は、席を立ちあがった。そしてミュージカル映画のワンシーンさながらに、歌いながら機敏な踊りを披露し始めた。あの日見たのは、きっとこのための練習だったのだろう。どこからか手拍子が聞こえ始め、まもなく観衆全体に伝播した。
前回とは見違えるほどに盛り上がっている。おそらく私の時よりも。しかしこの状況を、はたして人気の獲得と捉えてもいいのだろうか。
例えば人々が彼に向けているのは、憧憬や尊びの眼差しではなく、変質者を刮目する色合いが強いのではなかろうか。芸術鑑賞ではなく、色物見物──いや、見物よりも監視の呈をなしているかもしれない。あの怪物が外界に解き放たれないようにと。
これでは衆人環視ならぬ、衆人監視である。
と、そんなくだらない思考に耽っていると、騒ぎを聞きつけた駅員がやって来た。もはやストリートピアノとは関係のない男の奇行を、これ以上は看過できなくなったのだろう。彼はまだそのことに気づいていない。
まずい、と私は思った。
別に私が助け舟を出す義理立てはどこにもない。それでも、あの人があそこまで異端化した原因の一端は、少なからず私にもあるのではないか。そう考えると、ここで彼が駅員に連行されていくのをただ傍観するだけというのは、どこか無責任な気がしてならなかった。
私は人の間を縫い、彼のもとへ駆け寄った。
「やあ、三橋さんじゃないか。君も踊りに来たのかい?」
「やあ、じゃないですよ。名前呼ばないでください」
言いながら、私は先生の腕をとって走り出した。まるでモーセの海割りさながらに、前方に道が開けていく。女装男子パンダの破壊力は伊達じゃない。序盤は恥ずかしすぎてどうにかなりそうだったけれど、なぜかしだいに愉快になってきた。
気づけば私は笑っていた。そして被り物の下で、先生も笑っている気配がした。
ていうか本当に何を考えているんだ、この人は。
