翌日の放課後、物理室を訪ねた。馴染のない場所なので少し空気が固く感じられる。
 鍵が開いていたので中に入ると、誰もいなかった。かわりに、隣接した物理試験室の方から控え目なダンスミュージックが聴こえてきた。
 中を覗くと、物理教師である関町先生の姿があった。決して広くはない室内で、そこそこ広範な動作の振り付けで音に合わせて踊っている。やや大げさにも思える挙動が見栄え、思わず拍手を送りたくなる練度だった。
 それにしても危なっかしい。右往左往する腕や蹴りあげられた足が、今にもガラスのショーケースをかち割りそうで、見ているこっちがひやひやさせられる。
 少しして私の来訪に気づくと、関町先生は音楽を止めた。
「やあ、三橋奏子さん。数日ぶりだね」
 彼は濃紺のスーツのポケットからハンカチを取り出し、額の汗を拭った。
「どうも。とても優雅な放課後をお過ごしですね。その素敵なダンスもお給料に?」
「もちろん入るとも。実にやりがいのある仕事だよ、教師というのは」
 私の皮肉を軽くいなすと、彼は尋ねてきた。
「その後、彼との恋路は順調かい?」
「馬鹿にしてます?」
「とんでもない。君の、あのいじらしい計画が結実したのか、気になっただけさ」
 相変わらず鼻につく口振りだな、と私は思う。どこか相手を手玉にとるような物腰。これだからインテリ系はあまり好きになれない。眼鏡をかち割りたくなる。
「結実もなにも、別に私は彼とどうにかなりたくて、あんなことをやっていたわけじゃないので。前にもそう説明したでしょう」
「ふむ、そうだったかな。ではなんのために?」
「彼に、私のことを可愛いと思わせるためです。二度も説明させないでください」

   *   *   *

 先週のことである。
 顔が好みで告白した田中に、顔が好みじゃないという理由で、私は振られた。
 田中の振り方は、ある意味では合理的だったのかもしれない。相手に未練や再アプローチの機会すら与えない、極めて冷酷で優しい拒絶だった。
 理解はできた。好みの話になれば、結局は受け手の主観しだいだ。だから納得もいった。それでも感情は別だった。
 舐めやがってこの野郎。
 わりと可愛いほうでしょ、私。
 沸々とこみ上げてくる怒りは、やがて報復欲求へと変わった。田中と付き合う未来はもう望まない。ただ、あの発言は撤回させたい。一度でいいから、私のことを可愛いと思わせたい。しかし顔面はすでに玉砕済み。
 さて、どうしましょう。
 私は悶々と悩みながら、居間のテレビで流れていた音楽番組を見ていた。
 僥倖だった。
 その番組の中で、人気沸騰中の覆面女性アーティストが出演した。テレビ初と銘打ち、彼女は顔以外のすべてを露出して歌を披露した。当然だけどとても上手で、その上魅惑的なスタイルだったので、きっと顔も可愛いに違いない、と私は自然と予想していた。
 SNSでも同様の意見が多く、輪郭すらほとんど不明瞭な彼女の容姿に関して、大多数がポジティブな印象を抱いていることがわかった。観測対象にいくつかの魅力的な要素があれば、見えない部分は観測者自身の理想像で補完する、という心理的な傾向が人間にはあるのかもしれない。
 ……なるほど。
 私は自室の全身鏡の前に立ち、両手で顔を覆った。そして指の隙間から、鏡面に映る自分の姿を覗き見た。
 うむ、悪くない。
 いや、顔出してても全然悪くないけど。
 しかし、これだ。
 天啓に打たれた思いで、計画の考案に取りかかった。名付けて「覆面美少女ストリートピアニスト」計画である。
 顔を可愛いと思わせるために、あえて顔を隠す。
 決行の舞台は、田中も通学に使う高校の最寄り駅。あそこにあるストリートピアノを利用されてもらおう。ピアノは中学まで習っていた。といってもそれだけで、あの忙しない往来の爪先が私に向けられるとは思っていない。なので恥ずかしいけれど、ここは恥を忍んで女の強みを前面に押し出すことにした。
 つまり、多少の露出は厭わない所存である。
 前に演奏会で着たドレスを色っぽく着くずして、客寄せにちなんでパンダの被り物でもかぶって、流行りのポップソングでも弾けば、中高年の男性陣を筆頭に注目を集められるに違いない。
 そして注目を浴びている存在は、それだけで魅力的に映るはず。加えて、洗練されたこのボディ。もはや死角はない。
 あとは田中の関心を惹けるかどうか。そしてパンダの中身に、至高の女性像を思い描いてくれるか。その素性を知ることができないもどかしさに彼がやきもきした時、私はこの上ないカタルシスを感じられるだろうとも。
 結論を言えば、計画は奏功した。
 私が計画を実行した日、コンコースにはストリートピアノを取り巻く人垣ができていた。何台ものスマホのカメラが、その中心でピアノを演奏するドレス姿のパンダに向けられた。
 さらに幸運なことに、前もって協力を頼んでいた友人が、観衆の中に田中を含む男子集団の姿を確認し、
「あれは絶対に可愛いだろ。顔見てえ」
 そう言って熱視線を私に送り続ける彼の姿を、動画に収めてくれていた。田中は完全に私の虜だった。その様子を見て、私の腹の虫はようやくおさまったのだった。
 ところが、そこで話は終わらなかった。
 演奏を終え、私は光の速さで撤収し、少し離れた場所にあるトイレで着替えを済ませた。これでパンダの素性は永遠に秘匿とされる、はずだった。
 観衆から抜け出した一人の男が、なぜか恐ろしいほどの執念で私の後をつけて来ていたことを知ったのは、学生服姿でトイレから出た直後のことだった。
「うちの生徒だったのか。これはなんとも驚いた」
 さして驚いてもいない様子で、その人は話しかけてきた。それから本当に驚いている私に、にこやかに尋ねてきた。
「ところで、あの可愛らしい被り物はどこで買ったんだい?」
 なんだこいつ。
 素朴にそう思った。

   *   *   *

 ああ、と関町先生は思い出したように言った。
「そうだ、そうだった。『顔が好みじゃないから』と君の告白を一蹴した男子生徒に、一矢報いるための計画だったね」
「デリカシー、腐ってます?」
「おいおい、僕は教師だよ。あまり口が過ぎると、僕の口も言うことをきかなくなるかもしれないね」
「それでも教師ですか」
「これぞ教師」
 つい舌打ちが漏れた。
「パンダの正体を彼に明かす気なら、どうぞお好きに。もう私の気は済んだので」
「つれない子だ。冗談だよ」
 たぶんこの人あんまり友達いないだろうな、と私は思った。会話をしていると無駄に疲れる。
 私はここへ何をしに来たんだっけ、と考え、はたと思い出した。
「ところで先生、昨日のあれは一体どういうつもりですか」
「あれ、というと?」
「コンコースの」
「ああ、君も見ていたのか」
 関町先生はあっけらかんとしていた。わざわざ顔を隠してパフォーマンスしていたわりに、正体を看破されたことは彼にとって問題ではないらしい。少し考える様子を見せて、彼は言った。
「人気者になりたかったのさ」
「……なるほど」
 何がなるほどなのかは、自分でもよくわからなかった。
 人気者になりたいという気持ちは理解できる。ただ、二十代も半ばに差しかかろうという大人の口から発せられる欲望としては、いささかミスマッチなものに感じられた。
「意外に思われるかもしれないけれど、僕は昔から自分に自信がなくてね。とりわけ、人前に出ることがすごく苦手だった。ほら、こんな容姿だしさ」
 それは確かに、意外な告白だった。
 そもそも容姿という観点から、教師を評価しようと考えたことがなかった。そう言われて改めて彼の顔を見てみると、しかしそんなに悲観するほど酷い印象は受けない。格好いいと言う人もいるかもしれない。
 それでも、自分だけにわかるコンプレックスというのは、おおよそ誰しも抱えているものなのかもしれない。私はそのおおよそには含まれない人間だけれど、他人を尊重する心は人並みに持っていた。
 なので、己を醜いと自認している関町先生の感性を、私は肯定することにした。
「そうですね。先生の顔はとても醜悪です」
「別にそこまでは思っていないさ。君はそんなふうに思っていたのかい?」
 これは失言。
 関町先生は特段気を悪くした様子もなかったので、私はほっとした。
「三橋パンダを見てピンときたよ。これなら僕にもできるかもしれないって。君みたいな子でも、あれほど大勢の人に囲まれて、拍手喝采を浴びることができるんだから」
「君みたいな、の部分をもう少し詳しく」
「ご想像にお任せするよ」
「想像しました。さっきの仕返しですか」
「仕返しとは心外だね。本心さ」
 この眼鏡……。
 はしたない言葉が口をついて出そうになるのを、私はぐっと堪えた。
「しかし三橋さん、君はすごいね。同じスタイルで同じことをやったはずなのに、僕と君との集客数の差は歴然だった。一体どんな魔法を使ったんだい?」
 私は少し考えて言った。
「先生には絶対に使えない魔法ですよ」
「ほう。ご教示願っても?」
「若い女の香りです」
 実際、その要素が計画を成功に導いてくれたと私は分析している。昨日の関町先生のパフォーマンスに対する通行人たちの反応の希薄さを見て、それは改めて実感した。
「なるほど。参考にさせてもらうよ」
 妙案だ、というような調子で先生は指を鳴らした。
 その態度に多大なる不安を覚えつつも、これ以上の問答を続けるエネルギーが私には残っていなかったので、今日は伝えることだけ伝えて退散することにした。
「あの、先生。ちょっとご相談なんですけど」
「なんでも言いたまえ」
「私、もうあんなことをするつもりはないんです。正直、めちゃくちゃ恥ずかしかったので。ただ、やってしまった事実は消えません。だから同じようなやり方をされると、その、色んな人に仲間だと思われるかもしれないじゃないですか。実際はそう思われていなくても、そう思われているんじゃないかって想像するだけで、なんとなく、あの駅を使いづらくなるんですよ。一応通学路なので、それは困ります」
 先生は真剣な面持ちで頷いた。彼は頭の良い人だ。私が言わんとしているところを、きっとすでに察してくれているのだろう。
「違う場所でやるか、覆面のスタイルを大きく変更するか、とにかくあの日の君と共通性のないやり方で取り組んでほしい。つまりそういうことだね?」
「まさしくその通りです。先生の試みは応援するので、どうかわかってくれませんか」
 すると、少しの躊躇いもなく先生は言った。
「三橋さんの気持ちはよくわかった。それはその通りだ。今後についてはしっかりと検討しておくよ」
 なんだろう。
 あの日はじめて関町先生と言葉を交わしてから、今ようやくこの人とわかりあえた気がした。
 私は無性に嬉しくなって、心穏やかな家路に着いたのだった。