その人物の正体にはすぐに気づいた。
 私の頭をもたげていたのは、なぜ彼がそんなことをしているのかという疑問だった。
 高校からの帰り道、私は駅に向かっていた。時刻は夕方過ぎ。東西にのびる立派な駅舎に近づくにつれ、周りを行き交う人の数が多くなっていく。高校の最寄り駅は、この地域における中心機能をもつ大きな駅だった。
 その音が聞こえてきたのは、駅の中に入って間もなくのことだった。
 ピアノの音だ、と思った。
 建物の中央部、南北を横断するコンコースを歩きながら、私の足は自然とその音の方へと向かっていた。人の波を避けながら、規則的に並んだ建物の支柱を目印に進んで行くと、往来のただ中に小さなエアポケットのような場所が出現する。幾人かの人々が足を止め、視線を向けるその中心には、一台のアップライトピアノ。
 どこかの学校で不要になったピアノを自治体がこの場所に設置した、いわゆるストリートピアノである。誰でも自由に使えるため、埃が被らない程度には人気のあるスポットになっている。
 かくいう私も数日前、あの席に座っていた。そしてこのコンコースを忙しなく往来する通行人たちを、無防備な観衆へと変えてしまうほどの演奏を披露したものである。
 いやいや、嘘じゃないよ。
 そして目下、そのピアノを演奏しているのは、変な男だった。
 変、というのは、主にその出で立ちに対する感想である。皺のない濃紺のスーツを身に纏い、よく手入れされた革の靴でペダルを踏みながら、頭部をすっぽりと覆っているのはパンダの被り物。 
 謎の覆面ストリートピアニストだった。
 演奏そのものは実に見事なもので、流行りのポップソングにアレンジを加えながら、観衆の関心を我が物にしている。
大したものだ、と思った。ただその反面、この程度か、とも思った。足を止めている人の数で言えば、私の時の方が圧倒的に多かったからだ。
 演奏が終わると、男は立ち上がって一礼をした。小雨のようにまばらな拍手を受け、気持ちよくなっている様子だった。それから男は両腕を広げ、胸を張るようにして上体を逸らした。
 さあ、この僕にアンコールを! とでも言いたげだった。
 しかしアンコールは起きなかった。
 哀愁漂うパンダの被り物を見ながら、私の頭には一つの疑問が生じていた。
 なぜ、彼は私の真似をしているのだろうか。