人が叩かれる瞬間を見たことがある人は一体どれくらいいるだろうか。
 子どもがちょっかいを出した可愛げのあるものでもドラマで俳優さんたちが物語の演出で行っているものでもなく、ただ怒りをぶつけるためだけのそれを。

 ――バチン

 たった今ひっぱたかれた彼は、依然として人形のような美貌を保っていた。それは手を挙げた女の子が一瞬たじろくほど圧倒的なもので、少し離れたところで一部始終を見ていた私もつい魅了されそうになった。

 彼の名は右京(うきょう)蓮見(はすみ)
 お父さんが日本人、お母さんが韓国人の日韓ハーフで私と同じ高校二年生の男の子。陶器のように白くてつやつやとした肌に、気だるさを醸し出す奥二重の目とぷっくりとした涙袋。赤く熟れた薄い唇。そして日光に照らされ天使の輪を作ってる黒髪。
 言い寄ってくる女の子は数知らず、クラスが違う私の耳にも入ってくるほどの有名人だ。こんなにもじーっと見たのは初めてだけど。

 彼らがいる先のごみ捨て場に教室のごみを持って行きたかったのに、どうしたものか。
 このままここにいて2人に気づかれても面倒なので、ひとまず引き返そうとすると、たまたま顔を上げた彼と目が合った。ぱちり、と音がしそうなほどピッタリと。メガネのレンズ越しに。
 あぁやばいと本能的に感じ取った私は、彼が何か口にする前に走ってその場を立ち去った。

 これが彼と私が互いを認識した、初めての瞬間だった。

  ◇

 右京蓮見と対峙した次の日。放課後になると教室に残るクラスメイトはまばらで、今日締切の課題に追われている人やバスの時間調節をしている人が目立つ。あと、話し足りない人達が賑やかに談笑している。
 かく言う私はというと、図書委員の当番までの時間を課題をしながら潰していた。

「ねぇ藍羽(あいは)聞いたー?」
「ん?」

 目の前に座る友人の声に手を止めて顔を上げた。彼女は今日締切の課題に追われている組の一人だ。雑談してて大丈夫なのかと思いつつ、話に応じる。

「昨日の蓮見くんの話!」
「え、何それ」
「また彼女のこと振ったらしいよ。好きになれなかったからって」

 あぁ、昨日見たのはそれか。

「まったく、あの顔じゃなかったらぶん殴ってたよ~」

 昨日引っぱたかれてはいたけどね。
 そう言ったら食いつかれてあっという間に噂になりそうなので黙っておく。あの現場を目撃したのが私だってバレるのは避けたい。右京くんはまだいいとして、相手側の女の子にバレたら面倒くさそうだ。

「へぇ。これで何人目?」
「わっかんない。人数多すぎて把握してる人いないと思う」

 彼女はやれやれと言わんばかりに肩を竦める。

「どんな女の子ならいいんだろうねー」
「ね」

 右京蓮見は頻繁に彼女を変える。
 振る理由は決まってその子のことを好きになれないかららしい。場合によっては女の子の方が先に耐えられなくなって振るパターンもあるとか。

 そんなことをしてても彼に近づく女の子が絶えないのは「私は好きになってもらえるかもしれない」という淡い期待や「少しでも良い思いがしたい」「イケメンの彼氏が欲しい」というミーハーのような願望、もしくは「右京蓮見の彼女というレッテルが欲しい」という承認欲求が絡んでいるのだろう。私には共感できない感情なので推測の域を出ないが。

「わたしならイケると思う?」
「やめといたほうがいいと思う」
「ええひっどーい!」
「や、由乃(ゆの)に問題があるってわけじゃなくって、右京くんはフツーにお勧めできない」

 いくらモテるからと言って彼女をとっかえひっかえするなんて正気の沙汰じゃない。
 渋い顔をして否定する私を由乃はへらりと笑った。

「相変わらずお堅いね〜。蓮見くんを苗字で呼ぶの藍羽ぐらいよ? ってか今日のメガネいつもと違うね」
「えっ今?」
「ごめんって。藍羽似たメガネ何個も持ってるから見分けつかないんだよ」

「えー、そうかなぁ」とむくれながら丁番をつまんでメガネを外した。昨日かけてたのは黒縁のラウンド型のメガネで、今日のは同じ黒縁だがボストン型のメガネ。由乃にとっては同じようなものでも私とっては全然別物だ。
 ふとクリアになった視界で時計に目をやると、私が思っていたよりも時計の針が進んでいた。

「わ、やば。当番始まるからもう行くわ」
「おーいってら~。また明日ね」
「うん、また」

 急いでメガネをかけ直し、のっそりと課題のプリントと向き合う由乃を背に、教室を後にした。

  ◇

 図書委員会は他の委員会と比べて比較的に楽だ。
 定期的に図書室だよりを書く順番と当番が回ってくるだけで体育委員のように体育の授業があるたびに準備に駆り出されもしなければ、美化委員のように毎日トイレの備品を確認する必要もない。
 それに私が担当する曜日は職員会議がある日なので一人で悠々自適に過ごすことが出来る。一応もう1人クラスの男子も当番だが、部活があるらしく免除されていた。普通ならズルいというべきかもしれないが、あまり仲良くない人と同じ空間にいるより断然いい。

 課題を終えたところで、返却ボックスが溜まっていることにふと気づいた。授業で調べもの学習があったのか、似たような系統の本や資料が積み上げられている。
 まだ施錠するまでに時間があるので、せっかくだから片付けておこう。
 そう思い、持てるだけ持って図書室の最奥へと足を運んだ。

 窓が小さく換気が上手くいっていないのか、空気がこもっていて若干埃っぽい。
 マスクしてくればよかったかな、と思いつつ、本を読むための机と椅子がある少し開けた場所に移動すると、人影があった。

「!!!」

 反射的に本棚の影に隠れる。
 まさか人がいるなんて思ってなかった。

 ――いつ来たの? 全然気づかなかった。

 それとも私が来る前からここにいたのだろうか。
 バクバクと心臓が暴れているが、声を出さなかっただけ褒めて欲しい。
 ひとまずここは後回しにしよう。何も私が全部片す必要もないので、明日当番の人に丸投げしても――。

「ん? 誰……?」

 踏み出そうとした足が寸前で止まった。この声には聞き覚えがあったから。
 お願いだから勘違いであって欲しい。

 だがその願いは届くことなく、彼がこちらに来る気配がした。

「あれ、昨日覗き見してた子じゃん。そういうのが趣味なの?」
「んなわけあるか。あっ」

 思わずいつもの調子で返してしまった。急いで口をふさいだが後の祭りだ。右京くんは興味深そうに私を見つめてくる。
 逃げるタイミングを失った私は沈黙に耐えられなくなり、苦し紛れに口を開いた。

「……なんで、ここに?」
「ん? あぁ、今日の調べ学習のときここ発見してさ。人来なさそうだから昼寝にちょうどいいやって思って」

 ほら、と彼が指した方を見ると、椅子がぴったりとくっついて並べられていた。ここで寝ていたのか。なるほど。
 一人で納得していると、今度は右京くんから疑問を投げてきた。

「そういう君は?」
「図書委員の仕事、してた」

 さっきの口調で話すわけにもいかないし敬語で話すのも変な気がして、ぎこちない言い方になってしまった。
 右京くんは気にする素振りなく続ける。

「へぇお疲れ。名前は?」
「……左近(さこん)藍羽」

 目をそらしながら答えると右京くんは「藍羽ちゃん、ね」と呟いた。

「ねぇ藍羽ちゃん」
「?」
「今日俺がここにいたって内緒にしてくれる?」
「え、うん」

 別にそれくらいいいけど、何故?
 そう思っているのが伝わったのか、私が何か言う前に右京くんが答えてくれた。

「言ったら女の子が蔓延るようになって面倒臭くなると思うよ」

 まさかの私への気遣い。

「俺これからも時々居座ろうと思うから。ほら、俺ってモテるから一人の時間が貴重なんだ~」

 いや違った。勘違いだ。
 でも一人の時間が欲しいだけなら――。

「……家に帰った方が良くない?」
「え、やだ。遠い」

 駄々っ子か、と脳内で突っ込みながら「そうなんだ」と返すと、右京くんはキョトンとした顔で首を傾げた。

「っていうか全体的に反応薄くない? 普通俺に名前呼ばれて二人だけの秘密とか言われたらキュンってしない?」
「特には……」

 それに「二人だけの秘密」なんて言われてない。

「え、嘘だって。メガネかけてる地味子が偶然モテ男子に出会って二人だけの秘密ができるって少女漫画の王道でしょ」
「それ自分で言ってて恥ずかしくならない? もしかして右京くんって現実と妄想の区別がつかないタイプ?」

 しれっと人を「地味子」と称するあたり、性格が悪いのか客観視できない馬鹿なのか。何となく後者っぽいな。
 酷いことを言われたのは私の方なのに、右京くんが私を非難するように声を上げた。

「ほら! その時々でる毒舌も何!? 大人しそうな見た目と違って戸惑うんだけど!」
()
「えぇ……」

 自分のことを恥ずかしげもなく「モテ男子」って言う人に引かれたくない。

「あと地味子ってどの部分が?」

 ――まさかメガネをかけてるからなんて言わないよな?

「え、メガネかけてるから」

 言った。なんの躊躇もなく言い切りやがった。

「外した方が可愛いんじゃない?」

 しかも地雷を踏み抜かれた。

「……あのね」
「うん」

 ずいっと詰め寄り、本棚に手を置く。右京くんに話の途中で逃げられないように。

「私はメガネかけてる方が可愛いの。人より目が小さいし丸顔だから!」
「っえ?」

 素っ頓狂な声を上げる右京くんを無視して、メガネを外す。

「ほら見てよ。かけた方が可愛くない?」

 これでもメガネ何時間もかけて厳選して買っている。似合わないわけがない。
 それに漫画に出てくる地味子っていうのは似合わない長さのおさげだったり手入れもせずに伸ばしたロングヘアだったりする。それに対して私は月一で美容室に行ってサラサラなボブカットをキープしている。
 どうだ見たかと得意げな顔でメガネをかけ直すと、右京くんはまじまじと私を見た。

「両方、可愛いと思うよ?」
「えっ」

 あまりに自然と言うものだから、呆気にとられてしまった。
 さすが自分で「モテ男子」と言えるほどのメンタルを持った人。女の子に「可愛い」と言うなんて朝飯前か。
 でも。

「そういうの、辞めた方がいいと思う」
「なんで?」
「女の子が勘違いする」

 一人でいる時間が欲しいって図書室に来るくせに、そんなことしてたら余計悪化するんじゃないだろうか。
 私の心配を他所に右京くんが言う。

「何もしなくてもされるよ」

 それもそうか。
 たった一言で私を納得させられるほどの説得力を彼は持っていた。

  ◇

 図書室で右京くんに会ってから、彼のことをよく見かけるようになった。図書室ではもちろんのこと、校舎でも登校中でも。
 その変化に少し戸惑ったが、右京くんが急に現れたのではなく、私が意識していなかっただけで、彼は元から私の日常の景色の一部を彩っていたのだろう。
 でもそれだけでこれ以上は何も変わらないと思っていた。
 思っていたのに――、どうしてこんなことになったのだろう。

「ひぇ〜寒っ。秋どこいったよ」

 なぜか私は右京くんと一緒に下校していた。秋風に吹かれ、がくがくと震える彼を横目に、こうなった経緯を思い返す。

 遡ること十数分前。
 職員会議が長引いているのか、司書の先生が全然帰ってこないので私が施錠しようとしたときのこと。大方片付け終わったので、今日も最奥のスペースで寝てる右京くんを起こしに行った。
 猫のようにすやすやと眠る右京くんに近づき、上から声を掛ける。

「ねぇ」
「……ん?」
「もう図書室施錠するんだけど」
「え、まじ? やっば。寝すぎた」
「わっ」

 パッと起き上がった右京くんと危うくぶつかるところだった。私の反射神経、グッジョブ。
 右京くんはそのことに触れず、大きな欠伸をした。そして私を見ながら言う。

「藍羽ちゃん」
「何」
「一緒に帰ろ」
「無理」
「えっ」

 まさか断られると思っていなかったのか、右京くんは口をあんぐりと開けた。そんな顔をされても私の意見は変わらない。

「人に見られたら面倒臭い」
「この時間なら誰もいないよ」

 もっともらしい理由を述べる私に対し、右京くんはあっさりとそう言ってのけた。確かにこの時間に帰る人はほとんどいない。それはいつもこの時間に帰っている私が一番よく分かってる。
 これ以上何も言えなくなったのでそのまま彼の言葉に流され、一緒に帰ることになったというわけだ。
 もともと接点がなかったせいか次第に話題が尽きてきたので、ずっと気になっていたことを訊いてみることにした。

「右京くん」
「ん?」
「なんで彼女を取っかえ引っ変えするの?」

 右京くんは少し考える素振りを見せた。ややあって口を開く。

「好きになれる子探してるから」

 その瞳は幼い子のように純粋な光を宿していた。でも、その中に寂しさも見えるのは気のせいだろうか。

「じゃあ好きになってから付き合えば良くない?」
「まぁ、確かに? でもその方が何かと手っ取り早いじゃん」
「手っ取り早い?」
「そう。諦めてもらうのに。『別れる』って明確な終わりがあるから変に後腐れなくって楽なんだよね」

 なるほど。冷たいようで筋は通っている。
 てっきり何も考えずにとっかえひっかえしていると思っていたが、彼なりに色々考えての行動だったのか。

「俺さ」
「うん」
「今こんなだけど一応中1の頃はちゃんと付き合ってる彼女いたんだよね。浮気されたけど」

 いきなりの告白に、一瞬足が止まりかけた。

「それから好きが何なのか見失っちゃった」

 曇天のような言い方だった。耐えきれなくなるまで雨をため込んでいるところがよく似ている。
 辛いことを話したはずなのに、右京くんは目を伏せて笑っていた。
 私が感じた寂しさはここからきていたのかと遅れて理解する。

 校舎で見かけるとき、右京くんの隣には決まって違う女の子がいた。皆一様に幸せそうな顔をしている。
 でも右京くんはいつだって心から笑えていないように見えた。きっと彼女たちを好きになれない自分に焦燥感と嫌悪感を抱いているからだ。
 だから右京くんは一人になれる図書室に居座った。
 あそこには、彼女たちとの思い出がないから。

「……じゃあ尚更、そういうのやめた方がいいと思うよ」

 まるで自傷するかのように笑う彼が見ていられなくて、そんな言葉が口をついて出た。右京くんは心底不思議そうに首を傾げる。
 
「なんで?」
「右京くんが辛くなるだけだから」

 右京くんは目を丸くしたあと、立ち止まった。私も立ち止まり、肩越しに振り返る。

「ちゃんと好きになれる人見つけた方がいいよ」

 そう告げて、再び歩き出した。右京くんも少し遅れてついてくる。二人とももう何も喋らなかった。なんて言うのが正解か、分からなかったから。

  ◇

 一緒に帰ってから二週間経った。あれ以来、右京くんは図書室を訪れていない。元々私が当番の日にだけ居座っていたらしいので、私が見ていないということはそういうことだ。
 他に居場所を見つけたのだろうか。
 最近、校舎でも見かけない。

 ――もしかして避けられてる?

 やはりあの日、何か気に触ることを言ってしまったのかも知らない。
 でも、あのままじゃいけないと思った。その考え自体が傲慢だったのか。

「ね〜藍羽聞いてる?」
「ん?」

 目の前で弁当を広げながら由乃が言う。

「蓮見くん今彼女いないんだって!」
「えっあの右京くんが?」

 驚きのあまり、紙パックを握りつぶしそうになった。

「なんか噂では他校に彼女が出来たらしいけど、少なくともうちの学校にはいないってさ」
「へぇ」

 結局、私の言葉は届かなかったのか。まぁ初恋すらまだの私が言った言葉なんて説得力がないよね。
 右京くんはまた女の子と付き合って別れてを繰り返して、それで――。
 想像しただけで胸がずしりと重くなった。彼が可哀想だからだろうか。それとも。

 ――両方、可愛いと思うよ?

「ゔっ、げほ、ごほっ」
「藍羽大丈夫!?」

 唐突にオレンジジュースでむせた。由乃が慌てて背中を揺すってくれる。

 ――なんで私、今、あの言葉を思い出したの?

「え、なんか顔どんどん赤くなってない? まじで大丈夫?」
「あ、ううん、平気。ごめん心配かけて」

 そう答えたものの、頭の中は依然として右京くんで埋め尽くされていた。ここである可能性が脳裏をよぎる。

 ――もしかして私、右京くんが好きなの?

  ◇

 好きな人ができるとその人を無意識に目で追ったりその人のことばかり考えたりするようになるらしい。もちろん人によって異なるので一概にそうとは言えないが、今までの私の人生でこんなに長く一人の人について考えることはなかった。
 それにさっき、右京くんがまた女の子と付き合って別れて、それで――好きな人を見つけたらって想像しただけで苦しくなった。右京くんに好きになってもらえる女の子が羨ましいとも。

 幼い頃から目が小さいことがコンプレックスだった。だからメガネをかけて普通ぶってきた。
 それなのに右京くんはそんな私も可愛いと言ってのけたのだ。学園一のイケメンが、だ。
 そのせいで彼を好きになる女の子の気持ちが分かってしまった。でも彼女たちのように言い寄るつもりはない。相手にされないというのももちろんそうだが、これ以上彼が傷つくのを見たくないから。それにそういうのやめとけって言った人間が迫ってくるなんて、彼からしたらホラーだ。
 私は現状維持でいい。彼がここに来たら前みたいに好きに寝かしておいて、彼に誘われたら一緒に帰る。そして彼に好きな人が出来たら「よかったね。おめでとう」と言う。
 胸が痛まないと言ったら嘘になるが、私の恋は彼を傷つける可能性を無視してまで叶えたいものじゃない。

 そう感傷に浸っていた矢先。

「久しぶり」

 落ち着いた声が頭上から落ちてきた。パッと顔を上げると、カウンター越しに右京くんが立っていた。斜陽が射してるからか、茶色い瞳が蜂蜜のようにきらきらしている。それを認めた途端、頬が熱くなって目を合わせられなくなった。

「……久しぶり」
「何その間。もしかして俺のこと忘れた?」

「まさか」と呆れながら言うと、右京くんは「だよね」と伏し目がちに笑った。黒い前髪が揺れて白い肌に影を落とす。

「前、一緒に帰ったじゃん」
「うん」

 彼は少し緊張したようにそう切り出した。ややあって、告げる。

「あのときからなんか、藍羽ちゃんのことが頭から離れなくなってさ」
「っえ?」

 一瞬耳を疑った。聞き間違いじゃないと証明するように、右京くんが続ける。その頬は微かに桃色に染まっていた。

「何気にあんなこと言ってもらったの初めてだったんだよね。『わたしを好きになって』とか『わたしが好きにさせてみせる』とかじゃなくて、自分で好きな人見つけなっていうの」

 相槌を打つのは何となく気が咎めて、こくんとだけ頷く。

「あと、俺の滅茶苦茶を辞めた方がいいって言ったのも」

 右京くんは首に手を回しながら、目を逸らした。

「あのとき、なんか、こう……泣きそうになって、藍羽ちゃんのこと好きなのかもって思った」

 息を呑んだ。驚く私を右京くんがチラッと 盗み見る。

「でもこれも違ったらって思うとすげー怖くなって、今日まで避けてた」

 彼が紡いだ言葉をゆっくりと咀嚼してから、疑問を口にした。

「じゃあ、なんで今日来たの?」

 声が震えた。まるで何かを期待しているようだった。

「無性に会いたくなったから」

 真っ直ぐな目が私を射抜いた。
 嬉しさと照れ臭さで頬がじわじわと熱くなっていく。

「ね、なんで赤くなってんの? 前は何言ってもしらーっと返してきたのに」

 右京くんも期待するように私を見やる。それに応えるように、目を細めた。

「右京くんと同じ理由って言ったら嬉しい?」

 余裕ありげに笑うと、右京くんが「ま、って、それはズルい」とばばっと手で口元を隠した。耳まで真っ赤だから意味ないよ、とは言わないでおく。ふと、私のたった一言でこんなに動揺する彼が可愛いなと思った。
 右京くんがカウンターに手をついた。

「ねぇ藍羽ちゃん」
「なに?」
「キス……してもいいですか」
「……え?」
「そしたらちゃんと、分かる気がするから」

 お願い、とねだるような言い方だった。でもその瞳は揺れていた。
 きっと右京くんはまだ不安なんだ。そう思うと胸がどうしようもなく切なくないて、気づいたときにはぎゅっと目を瞑っていた。

 右京くんの骨ばった手が私の頬に触れた。

 唇に柔らかいものが重なった。

 周りから音が消えて、頭が真っ白になった。

 微かに漏れた吐息とともに、右京くんが離れていくのが分かった。

 そして恐る恐る目を開けると――彼がいなくなっていた。

「えっ……え!?」

 驚いて立ち上がると、床にしゃがみこむ右京くんを発見した。
「これ、やばいわ。破壊力……」と項垂れている。

「えっ今まで彼女たちと何回もしてきたんじゃないの!?」

 彼のあまりの動揺っぷりに、私も釣られて大きな声が出た。てっきりそういうことに関しては右京くんの方が何倍も上手だと思っていたのに。こんなに純粋に照れるとは思わなかった。

 右京くんはしばらくそうしてから、拗ねた顔で私を見上げた。

「だって……こんなにドキドキしたの、藍羽ちゃんが初めてだし」
「へっ……?」

 彼の告白に耐えきらなくなり、私もへなへなと床にしゃがみこむ羽目になった。さっきから心臓がドキドキうるさいし、涙も滲んできた気がする。まるで熱に浮かされているようだ。
 まだお互いに好きだと自覚したばかりだと言うのに、これでは前途多難だ。
 でも、今日、私たちは確かに。

 恋に触れた気がした。

〈了〉