「あ、れ……? ここは……」
気がつくと、カウンセリングルームではなく知らない場所に居た。窓のない狭い部屋の中、わたしはベッドに寝かされている。
身体が重くて動きにくい。何とか上体を起こしてぼんやりとする頭で辺りを見渡すと、光見先生の姿を見つけほっとした。
「光見先生……」
「おや、目が覚めたんだね。気分はどうかな?」
「……えっと……『死にたい』です」
ぼんやりとした頭で、ついそんな答えが浮かぶ。どうしたのだろう、近頃は先生のお陰で楽しかったはずなのに。
「そうか……なら、遺書は書ける?」
「え……?」
「鞄の中にノートがあるだろう? 空いているページに書こう。大丈夫、これまで僕に話してくれた辛い思いを、少し強めに書けばいいから」
「……、はい……」
わたしは先生の言葉に従って、傍に置いてあった鞄からノートと筆記用具を取り出し、遺書を書き始める。
先生に伝えて和らいだはずの辛かった記憶が鮮明に浮かんで、手元で震える文字となる。
やがて『死にたい』、という文字を書いて、わたしはハッとした。
「あ、の……これ……わたし、なんで……」
「おや……? 薬が弱かったかな、暗示は効いていたと思ったんだけど」
「くす、り? 暗示……?」
手が止まるのを見て、先生はわたしの目をまじまじと覗き込んでくる。いつもならときめくその状態も、今は恐怖だった。
おかしい。わたしは何故、遺書を書いているのだろう。ここはどこで、薬とは何の話だろう。尚も動こうとする手を必死に抑えながら、わたしは先生を見つめた。
「ふふ、僕が盛った薬だよ。ハーブティー、美味しかっただろう? 安眠効果のあるあれには、さらに暗示が効きやすくなる薬が入っていてね……あまり飲み過ぎると風邪に似た副作用が出るから、それはごめんね」
「え……え?」
「一応決行日に合わせて調整はしているんだけど、薬の効きは人それぞれだもんね……。あ、今日飲んだのはただの睡眠導入剤だから安心してね」
「決行、日……?」
先生に知らぬ間に薬を盛られていたと知り、呆然とする。ただでさえ頭がぼんやりとするのに、何を言われているのか理解できない。
「うん。僕には欲しいものがあってね。それを求めて学校を転々としているんだ」
「……欲しい、もの?」
「ふふ。教師はいろんな生徒と接するから、探し物を見つけやすい。それにカウンセラーをやっていると、きみ達は心を開いて、いろいろと心の内側を話してくれるだろう? 信頼されると、より暗示や催眠が掛けやすいしね……」
話しながら先生は、手袋をして何かの準備をし始めた。白衣にマスクにゴム手袋。その姿はまるで医者のようだ。
「まあ、それがなくても僕に好意を寄せてくれる子は多いから……依存させれば、僕のためなら何でもしたいって思ってくれる。薬はあくまで保険みたいなものだ」
「……っ、……」
秘めた恋心を言い当てられたようで、一瞬恐怖よりも羞恥が勝った。
心が揺れると、再び遺書を書く手が動き始める。わたしの意思とは関係なく、ノートがこれまでの不安や苦しみの文字で埋め尽くされていく。
その文字を認識して、彼に癒されていたはずのわたしの心はまた暗闇を取り戻していった。
「きみ達の年代には特に希死念慮がある子が多いからね……カウンセリングに何度も通ってくる子なんて、いつだって踏み越えるぎりぎりに立っているものだ。そんな子は……心の支えにしていた僕が唆せば、あっという間に死に傾く……脆いよね」
確かにそうだ。先生だけがわたしの心の支えだった。先生に捨てられたら、生きていけない。先生が望むのなら、わたしは命さえ差し出せる。
「……先生、は……わたしを死なせたいんですか?」
「ううん。そういう訳じゃないよ。……僕が欲しかったのはね、その綺麗な瞳なんだ」
「え……?」
先生は手袋を嵌めた指先で、わたしの頬に触れる。そして目尻を優しく親指で撫でた。今までにない至近距離に、わたしは思わず硬直してしまう。
「前にも話したかな……僕には、大切な妹が居るんだ。きみの瞳は、妹の朝澄にそっくりなんだよ。だから、欲しくなってしまった」
「……?」
「朝澄はね……三年前に死んでしまったんだ。でも身体を取り戻せば、彼女は生き返るかもしれない」
先生はうっとりと、妹さんの身体を取り戻す夢を語る。現実的にあり得ないと言いたかったけれど、妹さんを亡くしたという先生の傷を想うと、その言葉を否定できなかった。
「だから僕は、きみの瞳が欲しい。……眼球だけ摘出して帰してあげてもいいんだけど、事件になってしまうからね……もしきみが何も話さなかったとしても、世間は放っておいてくれないだろう?」
「え……?」
「質問責めにあって、傷口を調べられて……きみはそんな風に、知らない人からあれこれ取り調べられるのが苦手なはずだ。半端な状態で戻すくらいなら、楽に死なせてあげる。きみのためを想った優しさだと思わないかい?」
「え……えと……」
てっきりわたしの身体を使って、妹さんを取り戻そうとしているのかと思った。しかし、彼の言葉に思わず瞬きをする。今、彼は『眼球だけ』と言ったのだろうか。
「菊宮さんの耳もね、ピアス以外は完璧だったんだ……何事も理想通りにはいかないけれど仕方ない。ピアス穴は一年もあれば塞がるらしいし、朝澄が生き返る頃には綺麗になっているだろう」
「菊宮、さん……? 耳って、そんな……」
わたしはその言葉に、あの日見つけたピアスを思い出す。菊宮さんは、やはりカウンセリングルームに行っていたのだ。しかし、見せてもらったリストに予約されていなかった。あそこを訪れた証拠はなくて、事実擦れ違ったわたし以外、誰も彼女の行方を知らなかった。
おそらく彼女も、先生と誰にも知られずに行くという秘密の約束をしたのだろう。
友達の多い彼女がそこまで徹底して隠したのなら、他のアリバイ工作もしているかもしれない。
彼女の末路よりも、同じ道を辿る自分の心配よりも、こんな状況下でその約束がわたしだけではないことに嫉妬してしまう自分が、何だか滑稽だった。
「……先生は、最初からわたしの目が目的で、優しくしてくれたんですか? わたしに向き合ってくれたのは、嘘だったんですか……?」
彼がわたしたちを、妹さんに似た『パーツ』として見ていることに気づいたのに。そしてきっとこれから殺されて、身体の一部を奪われそうになっているのに、恐怖よりも痛む心は、いつものように彼に優しい言葉を期待してしまう。
「ああ、泣かないで。目が赤くなってしまうよ。……嘘なんてことは絶対にない。きみに暗示が効いているのがその証拠だ。……きみが遺書を一文字書くたびに、僕がきみの心を知った証を感じて欲しい」
「先生……わたし……」
これは薬や暗示のせいだろうか。ただの洗脳なのだろうか。それとも、確かにこれだけは自分のものだと唯一胸を張れる、彼への恋心のせいだろうか。
いずれにせよ、元々持ち合わせていた希望の死への誘いが、愛する人の姿をしている現実に、逃げる気が起きない。
わたしはこんなことになっても、恐怖や嫌悪ではなく、どこまでも先生の愛情を求めていた。
「ふふ……日辻さん。大丈夫。きみは僕の言葉を聞いていればいいからね」
それは気を失う前にも聞いた言葉だ。溢れる涙を拭ってくれる指先に、わたしは頬を擦り寄せる。彼の目がわたしの向こうに妹さんを見ていたとしても、今彼の視線を独り占め出来ていることが幸せだった。
「……きみの目が朝澄の目になったなら、僕はずっと、この目を見つめていられる。きみの身体が死んだとしても、その瞳を通じて、僕らは同じ世界を見るんだ……二人で同じ景色を見て、視線を交わらせて微笑み合う……それは素敵なことだと思わないかい?」
「はい……素敵です……」
「僕のために、その目を捧げてくれる……?」
「……わたしが先生の役に立てるなら、喜んで。あなたは、わたしの光だから……」
「ありがとう。日辻さん……きみのお陰で、僕はまた一歩夢に近付ける」
この目が光を失う寸前、わたしが最後に見た光景は、愛する人の幸せそうな笑顔だった。
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