その日は何だかふわふわとして、朝から足取りが重かった。
「あら、胡桃? なんだかぼんやりしてるわね。熱でもあるの?」
「ううん、平気……」
「本当に? 無理しないのよ?」
「うん、ありがとうお母さん」
風邪の引きはじめだろうか。以前なら体調不良は欠席の理由になるからと大歓迎だったのだが、今日も放課後に光見先生の予約をしているのだ。
しかも今日は「誰にも知られずに来て」なんて、秘密の約束をしてしまったものだから、なんとしても休むわけにはいかなかった。
「……ふふ、変わったなぁ、わたし」
ふらふらとした足取りで学校に向かいながら、その先に居る彼を想うと幸せな気持ちになる。
あんなにも嫌だった通学路が、光り輝くようだった。
登校すると教室の片隅で、放課後まで大人しくやり過ごす。しかし前ほど辛くなく、今日は先生と何を話そうかとイメージトレーニングをするのであっという間だった。
「日辻胡桃」
「……は、はい」
「菊宮咲梨ー……は、今日も休みか」
「咲梨、もう一週間休んでるね……」
「メッセージにも既読つかないんだけど、何かあったのかな」
「事件とか? 家出?」
「あー、何か知ってる奴が居たらあとで教えてくれ。出欠続けるぞー」
そんなクラスのざわめきをぼんやりと聞きながら、ふとあの日カウンセリングルームに落ちていたピアスを思い出す。
あの時は流されてしまったけれど、あれはやはり、菊宮さんのピアスだった。だって彼女はわたしの前の席で、よく隣の子とおしゃべりしていたから、その横顔に光るピアスは嫌でも目に入ったのだ。
そして擦れ違った彼女の足取りが、今日のわたしのようだと考えたところで、ホームルームは終わった。ふらふらの菊宮さんと、カウンセリングルームのピアス。たったそれだけのことを、やはり担任に情報提供する気にはなれなかった。
「……やば、やっぱり風邪かなぁ」
放課後になる頃には体調は悪化していて、やはりふらふらとした。壁を伝い歩くのがやっとで、わたしは何度も廊下で座りかける。
「日辻さん、大丈夫?」
「え……?」
「具合悪い? 保健室行く?」
不意に声をかけられ、驚いて顔を上げると、そこには隣のクラスの神城くんが居た。
去年同じクラスで、同じ委員会だっただけの、今は何の接点もない相手。わざわざ心配して声をかけてくれるなんて、とてもいい人だ。
「えっと……平気……」
去年は他人と話す時、俯いて、どもって、小さい声でしか話せなかった。気の利いたことは言えなくても、こうして顔を見て返事が出来るだけ、わたしにとって成長だ。これも光見先生のお陰だった。
「……本当に? ならいいんだけど……どこに行くところだったんだ? こっち上り階段だし……帰る訳じゃないんだろ? 心配だし、送るよ」
「大丈夫、自分で行けるよ。ありがとう、神城くん」
誰にも知られずに、という約束を抜きにしても、カウンセリングルームに行くと言うのは、なんとなく憚られた。
他の女の子たちみたく軽い気持ちでの先生目当てだと思われたくなかったし、かといってカウンセリングを必要とする悩みを抱えているとも知られたくなかった。
それに何より、光見先生の待つ部屋に男の子と一緒に行くのが、浮気のように思えて嫌だった。
心配そうな神城くんに階段を登りきるまでお世話になって、深々と頭を下げる。部活があるから送れなくて申し訳ないというどこまでも優しい彼と別れてから、わたしはようやくカウンセリングルームに到着した。
「光見先生……こんにちは」
「いらっしゃい、日辻さん。……おや、体調が優れないのかな?」
「あ、その、実は朝から、なんだかぼんやりとしてしまって……」
先生にも体調不良がバレてしまい、わたしは申し訳なさに俯く。もし風邪なら彼に移してしまうかもしれないとようやく思い至り、わたしは慌てた。
「あ、あの……咳とかは出なくて、その……」
「そう……無理しないで、少し横になるかい?」
「……え?」
「大丈夫、今日の予約は日辻さんが最後だから気にしないで。のんびり休んでいくといいよ」
すぐに追い返そうとせず、ここに来たわたしの意思を尊重してくれる。風邪かもしれないと理解しているのに、同じ空間に居ることを許してくれて、心配してくれる。
彼の優しさに甘えながら、わたしはソファーに横になる。好きな人の前で寝転がるなんて、何だか変な感じだ。
「……日辻さん。近頃顔色もよかったし、目の充血も目の下のクマも薄くなってたけど……ちゃんと眠れてるかな?」
「はい……先生のお陰です。おすすめしてもらった目薬もいい感じでした」
「それはよかった。きみの瞳は綺麗だから、大切にしないとね」
いつも俯いてばかりいたわたしの目を、まっすぐ見てくれる人。誰かと目を合わせると固まってしまうわたしが、初めてもっと見て欲しいと願った人。そんな彼に褒められて、何だか熱が上がってしまう気がした。
「き、きれい、なんて……そんな……」
「ふふ……今日は風邪に良いハーブティーを淹れてあげるね。これを飲んで寝れば、きっとすっきりするよ」
「はい、ありがとうございます……」
先生の淹れてくれたハーブティーは、いつもより癖が強い。けれど彼が用意してくれたというだけで、世界一の飲み物になる。
「……大丈夫、きみは僕の言葉を聞いていればいいからね」
わたしはそれを飲み干してから、意識を失った。
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