「光見先生……わたし、近頃夜に溶けて消えてしまえる気がするんです」
そんなわたしの言葉に、先生は真剣な面持ちで思案した後、優しい声で告げる。
「ああ……夜は静かで、確かに心地良いかもしれないね。けれど、朝になれば必ず、より温かな光が差し込むよ。僕はきみがその光を見つけられるように、ここに居るんだ」
「……でも、わたし、朝が来るのが怖いんです。学校に行くのが憂鬱……先生が来てからは、ここに来るのは少し楽しみになりましたけど……それでも朝起きて、制服に着替えて、玄関を出て、通学路を歩いて、校門を潜るその長い道のりで……何度も苦しくなるんです……だから夜のうちに、消えてしまいたくなる」
「うん……わかるよ、そんな苦しみを乗り越えて、僕のもとに来てくれてありがとう。けど日辻さんが消えちゃうなんて、僕には耐えられないな。どんなに辛いことがあっても、僕がそばにいるから、話を聞かせて欲しい。悲しみも苦しみも、一緒に乗り越えようね」
今年度産休に入った先生の代わりに赴任してきたばかりの、臨時教師とスクールカウンセラー兼任の『光見透夜先生』。
新学期の全校集会で、彼はどちらの道も諦められなくて、両方の資格を取ったのだと語っていた。
若くて整った顔立ちをしていて、背も高く白衣が似合う彼は、瞬く間に学校中の人気者になった。
そんな彼を独り占め出来るこの僅かな時間のために、わたしは学校に通っている。
「先生……ありがとうございます。でもわたしの辛さなんて、きっと他の子に比べたら大したことなくて……なのに、なんだか申し訳ないです……」
「おや、辛さや苦しみを誰かと比べる必要なんてないんだよ。きみの痛みはきみのものなんだから。……もしも心が沈んでしまうなら、全部僕に預けて欲しいな。その綺麗な瞳が悲しみに沈むのは、僕も苦しいから」
「光見先生……」
特にいじめられている訳ではない。しかし引っ込み思案で人付き合いの苦手なわたしは、友達も居らずクラスで居場所がなかった。
空気のように誰にも気付かれず、それでやり過ごせるならいいと思っていた。
けれど授業中何人かでチームになる必要がある時には必ずあぶれて「入れてあげて」なんて先生やクラスメイトに気を遣わせてしまう。
朗読をすれば声が小さいと言われ、体育のチーム対抗では必ず足を引っ張る。わたしの存在は、授業の進行を妨げてしまうのだ。
その度向けられる「またか」という視線に耐えかねて、さらに目立たないように縮こまるけれど、教室に居ること自体が辛かった。
そんな時に、放課後に光見先生が担当するスクールカウンセラーという存在を知ったのだ。
新任の彼が紹介された全校集会の後、クラスの女子たちが色めき立っていたけれど、わたしはその話題に乗ることはなかった。ただひっそりと、記憶の隅に留めていた。
この校舎の端にあるカウンセリングルームは、本当ならいじめだとか、もっと深刻な事情がある人が来るべき場所なのだろう。
それでも、誰にも話せないわたしだけのこの苦しみを話せるとしたら、彼にだと思った。何故かそう感じさせる雰囲気があったのだ。
最初こそ踏み出す勇気が中々出せず、彼目当ての女子生徒からの予約が多いらしいと風の噂で聞いたわたしは、放課後に予約を入れているという彼女たちの話に聞き耳を立てた。
すると「かっこいい」だの「優しい」だの、アイドルを見に行ったような感想ばかりが聞こえてきたのだ。
だから正直、そこまでカウンセリングに期待はできなくなった。カウンセラーと言っても、先生が片手間に話を聞いて、当たり障りない相槌をくれる程度だろうと思っていた。
けれどある日、廊下でたまたま先生と擦れ違った時、彼は誰も気に留めないわたしへと視線を向けてくれた。笑顔で挨拶をしてくれた。そしてふと立ち止まると、わたしを呼び止めたのだ。
「あ……、ちょっときみ」
「えっ!? ……は、……はい」
びくりとして足を止めたわたしをまっすぐ見る先生は、近くで見てもやはり整った顔立ちをしていた。やけに緊張してしまい、わたしは硬直する。
「ふふ、そんなに緊張しないで。お説教じゃないよ。……ああ、やっぱり。目の下、クマが酷い。目も少し充血しているし……あまり眠れていないのかな」
「え、あ、その……」
いつも俯いているから、誰も見ないと思っていた。親にだって気付かれなかった。それを指摘されて、恥ずかしいやら嬉しいやら、複雑な気持ちになる。
「……ねえ、よかったら、放課後カウンセリングルームに来ない?」
「え……」
「話したくないなら無理はしなくていいよ。ただ……安眠効果のあるハーブティーがあるんだ。良ければ飲みに来ない? なんて……余計なお世話だったかな」
彼の言葉に、わたしは動揺する。予約殺到のカウンセリングルームに、先生自ら声をかけて誘ってくれる。
そして、わたしが訪れやすいように気を遣っているとわかりながらも、異性にお茶に誘われるなんて、初めてだったのだ。
「いえ……嬉しい、です」
「本当? よかった。なら予約を入れておくよ。きみの名前は?」
「えっと……二年三組、日辻胡桃です」
「よろしくね、日辻さん。今日の十六時予約で大丈夫かな? カウンセリングルームの場所はわかる?」
「えっと、はい……大丈夫です」
「ありがとう。なら、待ってるね。また放課後に」
先生が立ち去ってからも、わたしはしばらくその場で立ち竦んだ。彼の背中を見送りながら、今のやり取りを思い返し放心する。
しかしふと、周りの生徒の羨ましげな好奇の視線に気付き、わたしは慌てて教室に戻った。
そして放課後になり、初めてのカウンセリングルームに足を運ぶ。カウンセリングへの期待はしていないはずだった。ただ誘われたからお茶を飲むだけ。そう思っていた。
けれどすぐに、その考えは変わった。テーブル越しに向かい合わせに座る静かな空間で、先生は約束のハーブティーを淹れてくれた。
ふかふかのソファーに腰掛け、お茶を飲んでいる内に、段々と緊張がほどけていった。ハーブティーのリラックス効果か、先生の癒しの雰囲気かはわからない。
二人きりの空間に緊張して言葉に迷っていたわたしは、気付くと口を開いていた。他人との会話に慣れず辿々しい言葉も、彼は急かすことなく聞いてくれた。
そして優しく微笑んで、俯きがちなわたしの目をまっすぐ見てくれたのだ。
「……きみはとても繊細で、深く考え込むタイプなんだろうね。なのにその強い感情を誰にも話せずに、一人で抱え込んでしまうことが多いんだろう。……自分の弱さや悩みを人に見せるのが怖いけれど、同時に心の中で誰かに理解してほしい、支えてほしいとも思っている……勇気を出して来てくれてありがとう。その誰かに、僕を選んでくれて嬉しいよ」
そんな風に、初めて会う彼はわたしのすべてを見透かすようにした。けれどその言葉は嫌味なく、わたしの中に溶け込んでいった。
誰かに頼ることも、話すことも悪いことではないと、嬉しいと言ってくれた。時にはアドバイスをくれ、弱音を吐けば親身になって寄り添ってくれる光見先生に、わたしは気付けば心を許していた。
そしてわたしは、いつしか放課後光見先生に会うことだけを楽しみに、学校に通うようになっていた。
先生が居なければ、いずれ不登校になっていただろう。
わたしにとって光見先生は、暗闇に包み込まれた日々に差し込む唯一の光だった。
「……先生、今日もありがとうございました」
「こちらこそ、話を聞かせてくれてありがとう、日辻さん。もう遅いし、気を付けて帰るんだよ」
そう言ってソファーから立ち上がり、わざわざ教室の戸を開けて見送ってくれる光見先生。
本当に優しくて、とても素敵な人だ。部屋を出て、改めて振り返ったわたしは、深々と頭を下げる。
「ありがとうございます……じゃあ、また明日来ますね」
「うん。待ってるよ、またね」
「はいっ」
緩やかに手を振る彼の姿は、クラスの女子たちが語っていたように、どこぞのアイドルよりも輝いて見える。彼の心に染み入るような柔らかな声も、蕩けそうな微笑みも、どこか品のある仕草も、どこを取っても完璧だった。
カウンセリングルームを出て、階段に向かう廊下の先で、同じクラスの菊宮さんとすれ違った。フードを被りマスクをするなんて普段見慣れない格好をして顔を見えづらくしていたけれど、ちらりと覗いたピアスには見覚えがあった。
この先にあるのはあの部屋だけだ。校則違反の明るい髪にピアスをした彼女も、光見先生のカウンセリングを受けに行くのだろうか。どうせ深刻な相談ではなく、彼との時間欲しさに予約をしたに違いない。
クラスでも目立つ彼女はわたしのことなんて見えていないみたいで、どこかふらふらとした足取りで去っていく。
「……」
クラスの女子たちとも、光見先生の話なら出来るかもしれない。彼の魅力を語れたら、きっと止まらなくて口下手なんて気にせずに済むだろう。
けれども彼との時間を、わたしだけが知る彼の素敵なところを、他の子に教えたくない気持ちもある。
そしてあの部屋を訪れるのもわたしだけならいいのにと、つい考えてしまうのだ。
わたしはきっと、心の弱いところを知って受け入れてくれる彼に、恋をしていた。
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