おれが彼と出会ったのは、じめじめとした梅雨がうそのように晴れたある日のことだった。きっかけは一本の動画。
昼休み、いつものように教室でショート動画を取っていると、幼なじみの春日颯太が何も言わずに乱入してきた。音楽が止まったあと、文句を言うおれに颯太は「へへっ」と悪びれもせず笑って頬をかく。
「これで、俺もインフルエンサーの仲間入りだなっ! 『ひなたの隣に映ってる友達って誰!? カッコいい~!』ってコメント来たらどうしよ」
「何してくれてんだよ、そうちゃん……。こんなん撮り直しだって」
「え~、いいじゃん! 楽しそうだし、ひなたもよく撮れてるよ」
「俺が盛れてるのは否定しないけどね」
「自慢かよ……はいはいはいはい」
あきれ顔で肩をすくめる颯太の隣で、おれ――相野陽向は撮ったばかりの動画をたしかめると「うん、今日も顔がいい」と自画自賛した。
陽気で赤茶けた髪の制服姿の高校生が、クラスメイトと楽しげに踊っている。
コメント欄はいつも、カッコいいとかわいいが半々くらいだ。去年から本格的に始めた動画投稿だったが、いまや自分の名前でネットを検索すると『現役イケメン高校生インフルエンサー』の17文字がかならず並ぶ。
半年前に小さな芸能事務所にも所属することになり、閲覧数といいねの数は右肩上がり。
これからどうしたいとか、将来のことは何ひとつ考えてはいなかったけれど、好きなように自分のことを発信できているこの状況がいまはすごく楽しかった。
「早くアップしてよー、ひなた」
「わかったってば。ちょっと待ってて」
おれはいくつかのハッシュタグに『今日は友達と』とつけ足して、さっそく動画を投稿する。
すぐにいいねとコメントがつき始めた。
閲覧数が上がっていくのを、まるで口座の預金でも増えていくような気持ちでながめていたのだが、ふとコメント欄に水を差すような文字が並んで息が止まった。
●よく教室でこんな動画撮れるよな
●邪魔そう
●ナルシストすぎてむり
ネガティブなコメントはそのうち颯太にまでも言及するようになって、おれはそっとアプリを閉じる。
「……アンチ?」
「そうだね」
どこまでも深くため息をついて、天井を見上げた。
人気になるにつれてネガティブなコメントが増えるのは、当然といえば当然だ。
その数だって、きっといいコメントの十分の一にも満たないと思う。
それなのに、どうしてこんなに憂鬱な気持ちにさせられるのか……自分でもよくわからなかった。
たぶん、まだ慣れていないだけ。
そのうちきっと、心に矢が刺さるような痛みにも耐性がついていくはず。
(そう思わないと、やってられないしな……)
イスの背もたれに寄りかかりながらもう一度さっきのアプリを開く。
おれはコメント欄にある、いいコメントだけを拾って目を通していった。
「なぁ、ひなたー。事務所ってさ、そういう対策はしてくれねぇの?」
「うーん……まぁ、ある程度はって感じかな。あんまりひどいと開示請求? 的なのしてくれるっぽいけど」
「ふぅん」
「何? なんかあんの」
「……まぁ、お前が興味あったらなんだけどさ。5組の南ってやつ知ってる? 南海斗」
「知らね」
「ちょっと小耳に挟んだんだけど、そいつもインフルエンサーやってるらしいんだよ。弾き語り系の動画とかやってて、バズったらしくてさ」
「へぇ~」
知らなかった。
この学校で、自分以外にもそんなことをやっていた奴がいたなんて……。
「事務所とか入ってなくて個人でやってるみたいだから、そういう対策とか詳しいんじゃね? って思って。気になるなら聞いてみたら?」
颯太の言葉は傷ついたおれの心にもまっすぐ響いた。
さすがは幼稚園からの幼なじみだ。困ったときには頼りになる。
「興味あるわ。教室にいるかな?」
善は急げだ。
さっそく5組に向かおうとするおれに、颯太がいたずらっぽく歯を見せた。
「クラスまで行けば、誰か知ってるって。行ってらっしゃーい!」
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
5組のドアを開けると、黒板近くで弁当を食べていた女子グループが急にざわついた。
「ちょっ、有名人じゃん」
「まじか。本物だ」
「……うちのクラスに用事? 相野くん」
三つ編みの大人しそうな彼女がそう聞いてくれて、おれは話を切り出した。
「南海斗くんって、いる?」
「ああ、南くんかぁ……彼ならいつも部室でご飯食べてるよ」
「そっか。ありがと」
そう簡単にお礼を言って去ろうとしたのだけど、そういえば部室っていってもたくさんあるんだよな……。
「ちなみに、彼って何部かわかる?」
「ボードゲーム部だよ」
「ボードゲーム部……!」
意外な名前が出てきた。
そもそもボードゲーム部なんて初めて聞いたし、動画は弾き語り系だというから、てっきり軽音部とか音楽系の部活なんだと思っていた。
「その反応、面白いんだけど。意外だよねわかる」
「部室は別館の三階だよー」
最初に反応していたノリのいい二人組がそう教えてくれ、ぺこりと頭を下げた。
「助かったよ。ありがとう」
弾き語り系のインフルエンサー。ボードゲーム部……。
彼の情報を整理しつつ、旧校舎である別館へと続く道を歩く。
(ついでだから、動画もチェックしておくか……)
人通りの消えた廊下で、彼の動画を検索した。
南海斗。彼も本名で活動しているようだった。
たくさんある弾き語り動画のひとつを再生してみる。
そこにはおれとは違う系統の、どこか色気のあるイケメンがいた。
黒髪が似合うきりっとした顔立ち。
アンニュイな雰囲気のある長めの前髪から、意志の強そうな瞳がのぞいている。
ギターの甘い音色に、すこしハスキーで優しげな声。
(そりゃ、伸びるはずだわ……)
一部の再生数はおれの動画にも匹敵するほどだった。
登録者の数も多く、これを個人でやっているのはものすごいことのような気がする。
三階に上がると、ボードゲーム部はいちばん奥まったところにあった。
部室の中からは何人かの声がする。
初めての場所で緊張したが、おれは覚悟を決めて軽くドアをノックした。
「こんにちは~……」
ドアをそっと開ける。
「……チェックメイト」
「え、まじ? 俺、もしかして詰んだこれ」
菓子パンをくわえたままチェス盤を囲む学生がふたり。
それを見て盛り上がる外野がひとり。
「また負けたじゃん、やっちゃん」
「まだだ……まだ生きる道はあるはず……」
「いや、どう考えたって詰んでると思うけど。……あれ、お客さん?」
さっきの動画と同じ声の主が、甘そうな菓子パンを片手にそう聞いた。
彼――南海斗の対戦相手は何やら唸りながらばりばりと頭をかいているし、もうひとりはちらりとこちらを見たものの、興味なさげにまた盤面に視線を戻してしまった。
気まずくなって、おれはぺこりと頭を下げる。
「すいません、突然……」
「いえ、べつに。……俺は席外すから、死なない道があるかどうかせいぜい考えといてよ」
「いや、お前のその言い方なぁ……」
パンをかじりながら、もごもごと反論する彼を差し置いて南くんは席を立つ。
チェスなんて難しそうなものよくやるなと思うのと同時に、彼のその姿に違和感はなく、むしろとても似合っているような感じがした。
「えっと……」
部室の外まで出てきてくれた彼が、こっちを見下ろしている。
想像した通り、おれより背が15センチくらい高かった。
「陽向に足りないのは身長だけ」。
誰かからもらった心ないコメントを頭の隅に追いやって、おれは口を開いた。
「突然ごめんね。南……海斗くんだよね」
「うん」
「俺、1組の相野陽向。……知ってるかわかんないけど、SNSに動画とかあげてるんだよね。いわゆるインフルエンサーってやつ」
彼は「知ってる」とでも言いたげに、こくりと大きく頷いた。
口数、多くないほうなんだろうか?
おれはそのまま話を続ける。
「それで……同じクラスの春日ってやつから、南くんも動画やってるって聞いてさ……その、色々と聞いてみたくて」
「そっか」
「放課後とか空いてる? 部活ないときとか、話せたりしない?」
ぐいぐい行って引かれないかなーとは思いつつ、こっちも必死だった。
毎日なんとなく気が沈んでいくのを、どうにかして変えていきたい。
彼はそれほど深く考える様子もなく、「いいよ」と低めのハスキーな声で言った。
「今日は部活ないから、放課後どっかで話そう」
「本当!? 助かる、ありがとう!」
「授業終わったらそっちのクラス行くわ。……あ、いちおう連絡先とか聞いといていい?」
「もちろん!」
さっそくスマホを取り出し、連絡先を交換する。
即答して快諾。「なんていいやつなんだ!」と、このときはそう思っていた。
「じゃ、あとで!!」
別れ際、あまり表情の見えない彼が薄く微笑んでいたのが見えて――。
それがただの純粋な好意だと信じていたし、おれはそう信じたかった。
放課後。彼がクラスまで迎えに来てくれ、どこで話そうかと迷っていたときに「ちょっと行きたいとこあるんだけど、つき合ってくれない?」と誘われた。
うなずいて着いていく。
電車を乗り継いで着いた先は話題のパンケーキの店だった。
「……ここ?」
「うん。……ひとりじゃ入りにくかったから」
「まぁ、そっか。カフェとかスイーツのお店って女子ばっかのイメージあるもんね」
「そうそう。SNSで見て、ずっと気になってて。……甘いもの嫌いじゃない?」
「好きだよ。ここのパンケーキ、ふわふわで美味しそうだったし」
自分も投稿された写真に何度かいいねをつけたことを思い出して言うと、南(くん付けはくすぐったいから南でいいらしい)はふわっと自然に笑って「……よかった」とつぶやいた。
他愛もない話をしながら、三十分ほど並んだだろうか。
入った店内は予想どおりほとんどが女性客で、インフルエンサーがふたり揃っているせいもあってか声をかけられたり、カメラを向けられたりすることも多かった。
「相野って、やっぱり人気なんだな……」
「そっちこそ。南のファン、目がハートになってる感じがする」
「そうかな? まぁ、目立ってはいるよな」
「目立ってるね。……でも、悪い気はしないかな? 注目されるの嫌いじゃないし」
「相野ってさ、なんで動画投稿始めたの?」
「うーん……単純に楽しそうだったからかな。歌ったり踊ったりするのも好きだったし、有名になりたいなって気持ちもあったし」
「そっか」
「南はどう? わりと最近だよね、投稿始めたの」
おれはさっき見た南の動画を思い出しながら訊いた。
投稿の日付は半年前からで、こんな短期間なのにすごい再生数だと思ったから、よく憶えていた。
「俺は、そうだな……好きなインフルエンサーがいたから、かな。それに憧れて」
「えっ、誰だよそれ」
「そう訊かれて素直に言うと思う?」
「……ひねくれてんのね、南って」
「そんなとこ。……相野の好きな人を教えてくれたら、言ってもいいよ」
タイミングよく、注文したパンケーキが運ばれてきた。
皿を動かすとふるふると揺れるそれは分厚くてふわふわで、写真で見るよりもずっと美味しそうだった。メープルシロップとたっぷりの生クリーム。
ふたりで写真を撮ってから食べ始めた。
「わっ、これすごく美味しい」
「美味いね。来てよかった。……で、好きな人は?」
「えぇ~……そんなに気になる? べつに、特にいないよ。そういう憧れの存在とかは」
「じゃあ、つき合ってる人は?」
「そういうのもない」
「ふぅん」
南は特に興味もなさそうにそう言って、黙ってパンケーキを食べ進めている。
メープルシロップをたっぷりかけて、生クリームを山盛りにして……。
ひねくれてはいるが、甘いものが好きなんだなというのはよくわかった。
「それで、南は? 憧れのインフルエンサー」
「……何の話だっけ?」
「こいつ」
「教えてくれたら言うとは言ったけど、いないならフェアじゃないだろ」
そいつは腹が立つほどクールに言い放ち、口の端に生クリームをつけたままニヤリと笑った。
むかついたので写真を撮って送ってやる。
「生クリーム。ついてるよ」
自分の顔を指差して教えてやると、無言でずい、と顔を前に出してくる。
まるで「拭いて」と言わんばかりだ。
「ったく、仕方ない……」
赤ちゃんかよ……。
そう思いつつ、紙ナプキンで口許を拭いてやる。
「ありがと。……優しいんだな、相野って」
「どういたしましてっ。よく言われるよ」
「知ってる」
「えっ?」
「……ううん、なんでも。それより相談があるんだろ?」
「あ……そうだった。すっかり忘れるところだった」
おれはフォークを置いて、スマートフォンを手に取った。
アプリを開いて自分のアカウントを表示する。
「SNSについて、だっけ?」
「そう。じつは最近、アンチが増えてきちゃってさ……」
話しながら、動画のコメント欄を南に見せた。
心ない言葉の数々に、彼の顔が一瞬だけ歪む。
「……誹謗中傷みたいなのもあるんだ」
「そうだね。最近は」
「相野って、こういうのは気にならないの? この『きし』ってアカウント、すごいコメントの数だろ。……ストーカーみたい」
「ああ、そのアカウントは……いちおう古参のファンなんだよ。批判的なコメントとかはあんまりないから、特に気にしてはないかな」
「ふぅん。……じゃ、気になるのはこのアンチアカウントだけってことか」
「そうなるね。南はどうしてるの? アンチ対策って」
「気にしてないよ。全部、無視してる」
「気にならないの?」
「あんまり。ふぅんって感じで、いつも流してるかな。いろんな意見もあるでしょって思うから」
「そっか……。そんなもんかぁ……」
南みたいに、さらっと流せるのは正直うらやましかった。
そうできない自分が悪いのかと思った時期もあったけど、これは性格の問題だろう。
南も「まぁ、気になる人が大半だと思うよ」とフォローしてくれた。
「相野の所属してる事務所は、開示請求とかやってくれないんだっけ?」
「前に相談したこともあるんだけど、全部そうするわけにもいかないみたいで……」
「じゃ、他の方法で……ってことか。わかった」
「何かいい案あるの?」
「まぁ、上手くいくかはわかんないけど。一週間くらい俺にくれない?」
甘々なパンケーキをぺろりと平らげた彼は、コップの水を飲み干してから言った。
おおっ……! すごく頼りになりそうな感じがする……!
おれは三つあるうちのパンケーキのひとつを南の皿に移し、そこに生クリームを乗せてから言った。
「まじでやってくれんの!? 本当に?」
「保証はないけどな。報酬は成功後にしていただきたい」
そうクソ真面目な顔でふざけつつ、「……このパンケーキはもらうけど」とうそぶいている。
動画やその見た目からは、ちょっと想像ができない姿だった。
ひねくれてて腹立たしい部分もあるけれど、案外いい奴なのかもしれない。
「よろしくお願いします、南さん」
「まぁまぁ、頭を上げてくれよ。……じつは俺からも頼みたいことあるし」
「えっ、何? 何かあるの」
「コラボ動画、出したくない? さっきから撮られてる写真もそのうち出回るだろうし……話題性があっていいかなって」
「いいね、それ! 俺もやりたい。……どんな感じにする?」
「俺がギター弾いて、相野が歌かな。やりたい曲あったら、いくつか選んで送ってほしい。練習しとくし」
「わかった!」
南のギターは聞いていて心地いいし、それに合わせて自分が歌うのも楽しそうだ。
きっと面白い動画になる――そんな予感しかしなかった。
おれはふたつ返事で了承すると、南と撮影の日取りを決めた。
撮影は翌週の金曜日。
「また何かあったら連絡する」
そう話す南と店を出て、帰路についた。
仲のいい友達やクラスメイトはたくさんいるけれど、こうして動画について話せる友達は初めてで――嬉しくて、どこかくすぐったいような気もする。
(金曜日……ちょっと、楽しみかもしれないな)
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
次の日から、南とのメッセージのやりとりが始まった。
ギターで歌うならどの曲がいいか、自分の声質や南の弾き方も考えつつ動画のリンクを送る。
『いっしょにやる曲、こんなのはどうかな?』
『いいんじゃない? 選曲が相野すぎる』
『……どういう意味だよ?』
『いい趣味だってこと。練習しとく』
『一週間で間に合うの?』
『なめんな』
授業中にも関わらず、あいつは平気でメッセージを送ってくる。
余裕を感じるセリフの後で、さっきとは180度違う内容のコメントが送られてきた。
『……フルじゃなくてもいい?』
思わず吹き出してしまい、教師にバレてスマホを没収された。
……悔しすぎる。
放課後。平謝りをして返してもらった後で、南に文句を言った。
『お前のせいで、スマホ没収されたんだけど』
『なんで』
『……フルじゃなくてもいい? って何あれ。その前の余裕どこいったの』
『べつに。相野、ショート動画がメインだろ』
『南はフルでやってるじゃん』
『そうだけど。……じゃ、フルでやるか』
『無理してない?』
『してない。俺を誰だと思ってんの』
この余裕はどこから来るんだろうか。
まさに『俺様』って感じのメッセージに、電車の中で思わず笑ってしまった。
『期待してます』
『よろしい。相野も練習しておくように』
またそう偉そうに言うので、こっちも『俺を誰だと思ってんの』と余裕ぶって送ってやる。
なんて返してくるかな、と思っていたら、意外な文字列が画面上に並んだ。
『相野陽向』
……そのままじゃん。
(どういう意味なんだろうな)
たまにこういう意味深な返しをしてくるのも、また南らしいと思う。
考えさせられるというか、ただ振り回されているだけというか……。
「考えてても仕方ないし、動画の準備でもするか……」
メッセージの画面を閉じて、イヤホンから音楽を流す。
リズムに乗りながら何気なく自分の動画のコメント欄を眺めていると、自分へのアンチコメントについたレスを見つけた。
例のストーカーっぽさがある古参のファン、『きし』だ。
欄をあさっていくと、すべてのアンチコメントに返信しているようだった。
ところどころでレスバトルが始まっているが、あまりのしつこさにほとんどの人が途中で諦めている。
(これが、南の作戦なんだろうか……?)
アンチに対して粘着気質のファンをけしかける。
一見すると、うまくおさまっているようではあるけれど……。
(これを本当に南がやったかどうかもわからないし……今度聞いてみよう)
揺れる電車の中。
おれは今度こそ画面を閉じて、翌週に歌う曲を心の中で口ずさんだ。
授業と動画撮影、コメントへの返信、南との他愛もないやりとりで、一週間はあっという間に過ぎていった。
撮影当日。どこで撮るのか聞いたおれに南は「じゃあ、うち来る?」と訊いた。
「お邪魔しまーす」
高校の近くからバスに10分ほど乗り、しばらく歩いたところに南の家はあった。
広々とした一軒家の二階。デスクとベッドがあるよく整頓された部屋には南の動画でよく見る白い壁があった。
「ここが南の部屋? ……自分の部屋で撮ってたんだ」
「そうそう。部屋、防音になってんだよね」
「へぇ~! いいなぁ。俺の部屋は……散らかってるし、防音とかないし、あんまり撮影できる環境じゃないからすげーうらやましい」
「じゃ、今度からここで撮れば? 学校からもそんなに遠くないし」
「いいの!? 神!」
抱きつこうとしたら、避けられてベッドの上に投げ出された。
布団からは太陽の匂いがする。同じ匂いがする枕を抱えてベッドの上に陣取ると、南は制服のブレザーをハンガーにかけ、淡々とギターのチューニングを始めていた。
「つれねぇな……」
「ほら、ふざけてないで動画撮るぞ。早く撮らないとギターのコード忘れる」
「本当に一週間で三曲も覚えたわけ?」
「当然」
余裕の笑みは相変わらずだったし、「こんなことすらできねぇやついないって」とでも言いたげな口調だった。
俺様キャラで態度も尊大。
なのに、ギターの音色だけはすごく優しいから不思議だった。
きっとそのギャップが受けているんだろうと思いつつも、おれは演奏を始めた南に合わせて練習してきた曲を口ずさむ。
「いいじゃん」
「本当にいい?」
「うん。もう撮ってるから」
「撮ってんのかよ!」
そんなやりとりをしながら、他の二曲も合わせていった。
途中で南がコーラスのパートを歌い出してすごく驚いたが、その色気のある歌声に何か言う気も失せてしまう。
声質が合っているのかハーモニーはすごく綺麗で、正直こうしてずっとギターに合わせて歌っていたいとさえ思うほどだった。
演奏が終わって呆けていると、南が録画の停止ボタンを押しながら訊いた。
「どうだった?」
「うん。……すげぇ、よかったんじゃない?」
「……俺もそう思うよ」
風が通り抜けるみたいに自然な笑みで、そいつは独り言のようにつぶやいた。
目が合って、黙り込む。
言葉以上の何かが通じ合った気がして、「ああ、もうだめだ」と半ば諦めたような気持ちになった。
……俺はこいつのこと、けっこう好きかもしれない。
もちろん、下心とかそういう類の好きじゃないけど、100パーセント友情とも言い切れない……恋みたいな、憧れにも似たそんな感情。
照れ隠しのようにそっぽを向くと、おれはなるべくそっけない口調を心がけて言った。
「じゃ……またやろっか?」
「いいけど。今度は俺が曲決めていい?」
「いいよ。あ、でも、キー高いやつは無理」
「いけるって。歌わせてやる」
「やめろってー」
南がキーボードを取り出してきて、「次はどんな曲にする?」とか「どこまで高いキー出せる?」と声について確かめたり、ネットで曲を探したり。
『音楽が好き』という共通の趣味はお互いの距離をぐんと縮めてくれたようで、おすすめのアーティストや南がどうして弾き語りを始めたのかという話にもなった。
「人とは違う、自分なりの表現がしたくて」
南の言葉は興味を引くのに十分で、それから嫌がる南に作曲ノートを見せてもらったり、作った曲を聞かせてもらったりした。
楽しい時間はあっという間に過ぎて、気づけば日は暮れて外は真っ暗になっていた。
「っと、もうこんな時間かぁ……早いな」
「帰るの面倒なら、泊まってけば?」
「いいの? ……じゃあ、次はそうしようかな。あらかじめ親に言ってさ」
「いいと思う」
帰りの支度を始めた頃。
おれは南に何か話し忘れていることがあったような気がして、考えを巡らせた。
「どうした? 相野」
「うーん……何か忘れてるような気がしてさ」
「さっき撮った動画なら、いま俺のアカウントにアップしたけど」
「仕事が早すぎる。でも、そうじゃなくて……他に何かなかったっけ?」
「相野のアンチの件とか?」
「そうだ、それっ! すっかり忘れてたけど、お礼が言いたくてさ……。おかげでアンチからのコメント、ほとんどなくなったよ! ありがとな」
動画の撮影が楽しくてすっかり忘れていたけれど、本来の話はこっちだった。
先週、コメント欄でアンチと『きし』のレスバトルを発見して以降、おれを傷つけるような過度な悪口や誹謗中傷は目に見えて減ってきていた。
たまに書き込まれることがあっても、自分を擁護するコメントが書き込まれ、最終的にはいなくなっていく。
「それにしても、どうやってやったんだ? 開示請求とかじゃないんだろ?」
「あの『きし』ってアカウントにDMを送ったんだよ。……粘着気質っぽかったから、アンチとも戦ってくれるんじゃないかと思って、お願いした」
「へぇ~」
「まぁ、他にもコメントの削除要請とか色々やったけど、大したことはしてないから」
「いや、すごいよ南。本当にありがとな!」
「べつに」と照れる南の肩をばんばんと叩いてから、拳を突き出す。
南は恥ずかしいのか、拗ねたように口を尖らせながらおれの拳に自分のそれを合わせた。
……褒められ慣れていないんだろうか。
こんな風に照れる南もレアなので、また写真を撮って送ってやりたい気分になる。
「礼とかいらねぇから、またコラボ動画よろ」
「わかってるって! また来週でいい?」
「いい。……駅まで送ってこうか」
「大丈夫。地図アプリもあるし」
「ふぅん」
名残惜しそうに玄関先まで出てきた南に別れを告げ、帰り道を急ぐ。
最寄りの駅から乗った電車の中で、さっきアップしたばかりの南との動画を見た。
自分で言うのもなんだが、歌もギターも最高でよく撮れている。
コメント欄には「同じ学校だったんだ!」とか「このふたり最高じゃない?」といった肯定的な言葉が多く並んでいた。
●ひなたの歌って明るくて好き
●ハモるとこ、すごい気持ちいいよね
●わかる。リピート止まらんし需要しかない
●やっぱ海斗はギター上手いな~
●かいひな最高すぎる
画面をスクロールすると、『かいひな』という単語が何度も目に留まった。
海斗と陽向。略してかいひな。
その単語で検索をしてみると、今回のコラボ動画の他にふたりでパンケーキを食べている写真や動画まで出てきた。
(いつの間に、こんなに撮られてたのか……)
たしかにカメラは向けられていたけど、こんな風に一部始終を撮られているとは思わなかった。一枚の写真に目が留まる。
(これって……)
おれが紙ナプキンで、南の口許を拭っている写真だった。
目を閉じ、されるがままにしている南と「仕方ないなぁ」って表情で顔を近づけているおれ。
『かいひな可愛すぎる』。
そう書かれた写真にも絶賛するコメントがたくさんついていて、おれはそっとアプリを閉じた。
……こういう路線で売るつもりはさらさらなかったけど、南とならそれでもいいかもしれない。
これからもあんな素敵な音楽を届けられるなら、それでも。
「俺も早く動画編集しなきゃな……」
送ってもらったもう二本の動画について「どうやって編集しようか」と考えながら、おれは電車に揺られつつ家路を急いだ。
学校の屋上は夏の匂いに満ちていた。
初夏の刺すような陽射し。澄んだ青い空にもくもくとした入道雲が浮かんでいる。
制服もブレザーから夏服の半袖に変わった。
暑いのは苦手だけど、クーラーの効いた部屋で陽向と過ごす時間はただただ尊い。
最近ではいっしょに動画を撮ったり、他愛もない話をしたりするほかに、「俺にギターを教えてほしい!」と話す陽向といっしょに楽器の練習もしたりしている。
こんな日を――俺はずっと待ち望んでいたんだ。
何年も前から、ずっと。
昼休みが終わるまではまだ20分ほど時間があった。
手すりに寄りかかって空を見上げていると、屋上のドアが音を立てて開く。
「……来たよ、南」
彼は辺りを気にしながら、おそるおそるこっちに近づいてきた。
「待ってたよ。春日颯太」
屋上に俺以外の人がいないことを確認してようやく落ち着いたのか――陽向の友人である春日は隣に並び、溜めていた息を吐き出した。
「悪かったな。呼び出して」
「……いいよ、べつに。最近知り合った仲でもないんだし」
「相野に見つからなかった?」
「ちゃんと避けて来たから、大丈夫だと思う」
「そっか。ならよかった」
俺はズボンのポケットから、用意していた五千円札を取り出して春日に渡す。
春日は「サンキュ」と短く礼を言ってから、不満げに口を尖らせた。
「……もうちょっとあると思ってたわ」
「ジュースでもおごろうか? 紹介料としては十分だと思うけど」
「知り合いの女子使って、パンケーキの店で写真も撮っただろ」
「ああ、あれはよく撮れてた。……ありがとな」
そう言って半分に折った五千円札をもう一枚渡すと、春日は太陽みたいな笑みを浮かべた。
「これなら満足! ほかにやってほしいこととかあれば何でもやるぜ、インフルエンサーさん」
「……現金なやつ。でも、頼りにしてるよ。本当に」
俺と春日颯太は、じつは小学校のときに1年だけ同じ塾に通っていたことがある。
俺がすぐに転校してしまって、それから連絡も取っていなかったのだけれど……高校に入って陽向のクラスメイトについて調べているときに偶然気がついて、すぐに声をかけた。
この計画自体は、高校入学前からのものだった。
陽向が初めて動画をインターネット上にアップした、中学2年の秋から――。
春日が手すりから身を乗り出し、スマホの画面を指でなぞりながらつぶやいた。
「バズったみたいじゃん。動画」
「おかげさまでね」
「最近、タイムラインがお前とひなたばっかで飽きるわ~」
「コラボ動画が良かったんだろ。あれからも定期的に撮ってるし」
「すっかりコンビ売りって感じじゃね?」
「そう見えてるなら嬉しいな。……俺にはまだまだ陽向が足りないけど」
「強欲だよね、南って。昔からそうだったもん。一度欲しいって思ったら、全部手に入れるまで気が済まないタイプ」
「そうだっけ」
「そうだよ。執着心としつこさだけで生きてるって感じ」
「褒めんなよ」
「褒めてねぇわ」
照れ隠しのように春日の背中を強く叩くと、「落とす気かよ!」と足を蹴られた。
「でも……フツーに疑問なんだけどさ、なんでそんな回りくどいことするの?」
「回りくどいって?」
「どうして、『俺も配信者なんだよね』って自分から声かけに行かなかったのかってこと。わざわざあいつがアンチに困ってるシチュエーションでさ、俺がお前のことを紹介してひなたを誘導するみたいな……なんでそんなことしたのかを訊きたいんだよ」
そう不審げに首を傾げる春日。
こっちこそ、どうしてそんなことを尋ねるのか訊きたいくらいだ。
……自分にとって重要なことなら、より確実な方法を取るのは当然のことだろうに。
「配信者同士だから仲良くなれる、みたいな理屈は俺にはよくわからないな。同じ趣味でも気の合わないやつはいるし。……ただ、もし困ってるときに自分に手を貸してくれるやつがいたら、誰だって『ああ、いい奴だな』とは思うんじゃね?」
「そりゃあ、そうだけど……」
「そっちの方が信頼されやすいし、確実に貸しができる。貸しができれば、次の約束も取りつけやすくなる。一度関係ができれば、そっから仲良くなるのは難しくない」
「でも、それって……あんまり自然じゃないよな?」
「自然じゃないから、何? ……俺は陽向にとっての特別になりたいんだよ。お前みたいに友達のポジションが欲しいわけじゃない。世界でいちばん俺のことを好きで、気にかけてて、困ったら真っ先に頼るくらいの……そんな唯一無二の存在になりたいんだ。
陽向ってすげぇきらきらしてて、かわいいだろ? だから俺がそばにいないと無理って思うくらいもっと依存させて、俺の言うことなら何でも聞くようにして、俺の好みに変えていきたい。動画もギターもぜんぶ陽向に近づくために始めたことだし、いつか来るこういう機会のためにずっと頑張ってきた。俺があいつの隣に立つために、どれだけ努力したかなんて……春日にはわかんないだろ」
「いや、わかんないとかじゃなくてさ……ちょっとヤバいよ、お前」
「何が」
「狂気じみてるって。……なぁ。もしかして、あのアンチのアカウントもお前の仕業……?」
「それだけはない。べつの『きし』ってアカウントでネットストーカーしてたのは事実だけど、陽向を傷つけるようなことは絶対にしたくないから」
「なら、いいけどさ……」
そう、気まずそうに目をそらしながら言う。
「そういう執着心って、いつか身を滅ぼすんじゃね」
「忠告どうも。金も渡したし、用は済んだよ。……このこと、陽向に言ったらどうなるかわかってるよな?」
「……わかってるって。俺もあいつに嫌われたくないから、言わないよ」
春日はまだ何か言いたそうにしていたものの、踵を返して屋上のドアに手をかけた。
すぐに階段を下りる音が聞こえてくる――はずだったが、いつまで経っても何の音もしない。妙だと思って振り返ると、そこに思いもよらない姿があった。
「……陽向……」
紙パックのジュースをふたつ持って固まっている。
それだけで、何となく状況を把握した。
昼休みに、どこにもいない自分の姿を探してくれていたんだろう。
身体が芯から熱くなってくる。
陽向が、俺を探してくれていた――。
「ひなた……どこまで、聞いて」
「そうちゃ……南と知り合い……? お金って……何の、はなし」
「教室戻ってていいよ、春日。俺からちゃんと説明しとくから」
そう横やりを入れて、春日を逃がした。
いま適当なことを言われると、あとで面倒になりかねない。
混乱している様子の陽向にかけ寄って、塔屋の壁を背もたれにそっと床に座らせる。
「悪い。探してくれてたんだな」
「や、べつに……それより俺……あの」
「聞いてたの、話」
「ご、ごめん……盗み聞きするつもり、なかったんだけど……俺の名前が聞こえたから……」
「どこから聞いてた?」
「誘導がどう、とかって……あと、ネットの『きし』がお前だって話も……」
こっちを見上げる視線が定まらず、怯えているように見えた。
「……変なこと聞かせて悪かったよ」
「なぁ、お前って……!」
「ちゃんと説明させてほしい」
そう言って、彼の髪をすくように撫でる。
いつものように。……いつもどおりに。
小さくうなずいた陽向のこめかみから汗が滴っているのを眺めながら、俺はゆっくりと話し始めた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
わけがわからなかった。
昼休み。クラスで弁当を食べ終わって、南と新しく出した動画のことについて話そうと自販機でジュースを買って部室まで行った。
「あれ、誰もいない……」
普段なら部室でゲームでもしながら、だらだらと昼ごはんを食べているイメージだったので、拍子抜けして今度は教室を探しに行く。
「南、どこ行ったか知らない?」
以前の女子グループに聞いても誰も見ていないらしく、クラスメイトのひとりが「さっき旧校舎で見たよ」と話していたので、いちおう見ておこうと思って屋上まで来てみたのだ。
階段を上がると、話し声が聞こえた。
動画がバズった話と声ですぐ「南だ!」とわかったものの、もうひとつの声にも心当たりがあった。
(なんで、あのふたりが……?)
最近仲良くなった南と、幼なじみの春日颯太。
ふたりが話しているところなんて見たこともないし、友達だという話も聞いたことがない。
静かに耳を傾けていると、どうやらアンチに困っている俺に「5組の南に聞いてみたら?」と勧めたのは、颯太本人の意思じゃなく南の差し金だったらしい。
……いったい、何のために?
颯太にお金を払ってまで、なんでそんなこと?
そのまま話を聞いていると、南がおれに謎の執着をしていること、ネットのとあるアカウントを使ってコメントをしていたことはわかったのだが、聞けば聞くほどわけがわからなくなっていく。
しかも「俺に依存させたい」とか「言うことを聞かせたい」みたいな物騒な言葉が出てきて、余計によくわからなくなった。
冷たい紙パックのジュースと同じくらい汗をかいているのを感じながら、おれは塔屋の壁に寄りかかり、南にされるがまま髪を撫でられていた。
南も、ばつが悪そうに視線をそらしている。
「……本当は、聞かれたくなかった」
ぼそりと言いつつも、ゆっくりとひとつずつ話し始める。
小学生の頃、颯太と同じ塾に1年間だけ通っていたこと。
中学2年の秋に初めてアップされたおれの動画を見て、同じ高校に行こうと思ったこと。
『きし』というアカウントでコメントを送り続けていたこと。
お礼をするからという条件つきで、颯太におれを紹介するよう頼んだこと――。
「……気持ち悪い?」
「いや、わかんない……けど、なんで俺?」
「なんでって……」
南は遠くを見つめていた。
昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴ったけど、教室に戻る気分でもない。
「陽向が好きだから。……好きになったから」
「どこが」
「すべてが。楽しそうに踊ってるのも好きだし、歌ってるのも好きだし」
どんな反応をしたらいいのか、よくわからなかった。
気持ち悪いというよりは、得体の知れない感じがする。
「あ、あと……なんで嘘ついたんだよ。アカウントのこと」
「そりゃ、あんなにコメントしてたら気味の悪いストーカーだと思われてるかなって。中学2年からだからもう4年になるし、名前は……チェスでいうところの『騎士』のつもりだったんだよ。傷ついてほしくないって思ってたから、アンチのことはずっと気にしてた。どうにかしたいと思ってたし、それ以上に肯定的なコメントいっぱいしようって思って書き込んでた」
いつもは口数の少ない南が、妙に饒舌だった。
つい数時間前までは俺様クール系の相棒だったはずが、もう本当に同じ人物だとも思えない。
混乱していると、ふいに身体が南の影で覆われた。
壁際に追い詰められ、優しくそっと抱きしめられる。
「なぁ……今日のこと、なんとか忘れらんない?」
「や、さすがに無理でしょ……それは」
軽く抵抗したものの、逃れるのは難しかった。
「仲良くなるために小細工したのは悪かったけど、お前のことがちょっと好きすぎるだけだから」
「好きすぎるだけって言われてもなぁ……」
この場合は、その『好きすぎる』のが問題なのだ。
南は目的のためなら息でも吸って吐くように嘘をつくし、おれが部室に来ることなんて全然知らなかった顔をしてたくせに、裏では颯太に根回しして金を払ってた。
そんなの、友達としては信用のしようがなくて論外だし……とうぜん不愉快だ。
不愉快なはずだった。
(それなのに、どこか嫌いになりきれないのはどうしてなんだろうな……)
楽しかったメッセージのやりとりや、家に行っていっしょに動画を撮ったこと。
ギターを弾いて歌ったこと。
そのすべてが嘘のようにも思えず、困惑する。
ふと回された腕に力が込められ、ぎゅっと強く抱きしめられた。
「なぁ……南の好きって、結局どういう種類の好きなの」
南からの『好き』は十分すぎるほど伝わってくる。
歩みよる雰囲気を感じたのか、南の回答は早かった。
「頭からつま先、手の爪の先までぜんぶ俺のものにしたいっていう種類の好き」
「……じゃ、遠慮しとくわ」
抱きしめる力がさらに強くなり、「痛いって!」と声をあげると、さすがに解放された。
「今まで通りでいいんだけどな……。動画撮ったり、うち泊まったり」
「うーん……」
「でも、いいよ。色々とバレちゃったし、もう諦めるわ」
「……うん?」
意外とあっさり引いたな……。
そう思って拍子抜けしたのが悪かった。
ふいに顔が近づいてきたかと思ったら、唇にキスされた。
「……え」
一度離れたと思ったら、さらに深く口づけられる。
パニックに陥って引きはがそうとしたら、とっさに手首をつかまれた。
「んっ……う……」
たっぷり数十秒。好きにもてあそばれて、ようやく自由になった。
深く息を吐いて呼吸を整える。
「……南っ、お前なんてこと……諦めるんじゃなかったのかよ!」
「そろそろ海斗って呼んでほしいんだけど」
「質問に答えろよっ」
こいつの傍若無人っぷりに、さすがのおれも声を荒らげてしまう。
いきなり人のファーストキスまで奪ってくるとは思わなかった。油断した……。
「回りくどく攻めるのを『諦めた』ってだけ。ここからは正攻法で行こうかなって」
「正攻法って……」
「まっすぐ気持ちを伝えていこうってこと。……どうせ陽向、もう詰んでるし」
「詰んでる!? 何が」
「昨日出した動画でも見てみたら?」
おれはポケットからスマートフォンを取り出して、慌てて動画を確認する。
見慣れた画面に見慣れない数字。
再生数……220万!?
かすんでいく目を擦りながら、コメント欄を確認した。
●記事から飛んできました。一生推します!
●海斗、ずっと陽向のファンだったのエモくない?
●『かいひな』デビューおめでとう! 楽しみにしてるね~
デビュー……?
何のことかと思い、もう一度『かいひな』のワードで検索してみる。
冷や汗が背中を伝っていた。嫌な予感に手が震える。
「事務所っ……!!!」
元のネット記事によると、どうやらコラボ動画の好評を受け、おれの所属する事務所と南海斗のあいだでレコード会社との契約が進んでいるらしかった。
(いや……俺、何も聞かされてないんだけどっ……!!)
「ちょっ……待てって、これっ……!」
「放課後、俺も陽向の事務所までいっしょに行くからさ」
「なんでこんなに早くっ……!?」
「そのあと、俺の部屋で祝賀会でもする?」
「海斗っ……!!!」
名前を呼んでようやく目が合ったそいつは、「何だよ」とちょっと嬉しげな顔で言った。
「見ただろ、記事」
「見たけどさぁ……」
急展開すぎて、頭がついていかない。
その場に立ち上がった海斗にあごを持ち上げられ、ついでに両手で頬をはさまれた。
「俺から逃げられるなんて、思わないようにな」
まるで刑でも宣告するような響きなのに、海斗はまるで新しいおもちゃでも見つけた子どものように無邪気に笑っている。
背中をぞくりとした何かが駆けていった。
得体の知れない……恐怖にも似た何か。
「お前、怖いよ……本当に」
「そんな、褒めんなよ」
「まったく褒めてねぇからな」
前途多難すぎて、思わずため息がもれる。
どこで道を間違えたのか……。
よく考えてみたのだが、やっぱり梅雨明けのよく晴れたあの日の出来事がまずかった。
初めてこいつに出会った日。
動画のコメント欄に湧いたアンチについて、部室まで相談しに行った。
おれはまっすぐに差し出されたそいつの手を取りながら、過去をやり直すにはどうしたらいいか、わりと真剣に考えていた。
「アンチに悩んでた件さ、やっぱりお前に相談するんじゃなかったわ……」