人間にとっては少し大きいくらいのシュークリームは、鼬にとっては両前足いっぱいのとても大きなシュークリームだった。一つ食べただけで満足感がとてつもない。クリーム塗れの顔で多幸感に浸っていると、雪成が顔を拭いてくれた。

「お腹いっぱい! こんなに美味しいお菓子を食べられるなんて。貴方がこれを頼んでくれたおかげね」
「まさか本当に買って来るとは思わなかった。尻尾を巻いて退散すると思って八百美堂を指定したのに」
「えっ、そうなの。私、お小遣いたくさん貯めたのよ。貴方に……貴方に、また会いたくて」
「そんなに俺に会いたがる人なんて初めてだ。命の恩人だから礼をしたいというのは分からなくもないが」
「人間は脆くてすぐに死んでしまう弱い生き物よ。得体のしれない妖怪に触れれば食われてしまうかもしれないのに、それが己の危険を顧みずに私を救ってくれた。だから、義理を通すのは当然。貴方が想像しているよりも、もっともっと、私は貴方に感謝しているのよ」

 それだけじゃなくて、と燈華は少し口ごもる。それだけじゃなくて……。その次の言葉が出て来ない。雪成に会いたいと思う気持ちを上手く言い表すことができなくて、燈華は雪成から目を逸らした。

 黙ってしまった燈華のことを雪成は静かに見ていた。そしてしばし思案した後、燈華をひょいと抱いて立ち上がる。

「今日はもう帰りな」
「えっ、えぇっ。待って。さっきの、さっきのあの姿を見て何も質問しないで帰れって言うの。私の声が聞こえていたはずよ。慌てて水から上がって誤魔化しても良かったのに」

 雪成はずんずんと進んで塀の穴から燈華を外に追い出してしまった。

「雪成さんっ」
「あの姿を見て、君はどう思った。恐ろしいと思ったか」

 燈華は塀の穴から顔を覗かせる。雪成は燈華の方を見ていない。まだほんの少し湿っている髪が小さな雫を落とす。

「あの姿を見てもまだ俺に興味があるのなら、また来るといい。君がまた来るのなら、話をしてやってもいい。考えておく」
「つ、次は何。何を持ってくればいいの」
「何を……。……ワッフル」
「わ?」
「……りんごジャムとカスタードクリームのワッフル。八百美堂にあるはずだ」

 どんなお菓子かな、今日はあったかな。きらきらどころかぎらぎらした様子だった店内を思い出すが、一直線にシュークリーム目がけて突進したので他のお菓子のことを思い出せない。

 けれど。

「分かったわ!」

 雪成の要望を、燈華は了承した。

「……そう」
「待っててね、雪成さん」
「あぁ……」

 鼬の顔が塀の穴に引っ込んで、小さな足音が遠退いて行く。

 しばしの間、雪成は燈華のいなくなった塀を見下ろしていた。

「待っててね、か……」

 柔らかな獣の毛の感触が手に残っていた。温かい生き物だった。二週間前よりもその熱を強く感じた気がするのは、自分がつい先程まで池に浸かっていたからだろうか。

 雪成は小さく息を吐いて、くるりと踵を返した。縁側から離れに上がり、シュークリームの箱を片付ける。

 次は何を持ってくればいいのか。そして、待っててね。燈華は雪成に会いに来るつもりのようだった。それも、随分と嬉しそうな顔をして。

「変なやつ」

 シュークリームの箱の側面に鼬の前足の跡が付いていた。美味しそうに両前足で抱え込むようにしてもぐもぐと頬張っていた姿が思い出される。

 あの妖怪はなぜ自分にあんなにも関心を持っているのか。なぜ、池の中にいた姿を見てもまた来たいという意思表示をしたのか。なぜ、自分を見てあれほどまでに嬉しそうに笑い、時折目を泳がせるのか。

 あの妖怪には予定を狂わされてばかりである。あの日あの妖怪の姿が目に入った瞬間から、ずっと。

雪兄様(ゆきにいさま)! 雪兄様ぁ!」

 離れの戸が叩かれる。うきうきした様子の千冬の声に顔を上げて、雪成は玄関へ向かった。

「雪兄様、新しいお花を持って来たんです。これ、よかったら」

 小学校の制服姿の千冬は、雑草の花束をぎゅっと握って雪成のことを見上げていた。うんと手を伸ばしており、体は雪成から離している。千冬にとって兄は外に出ることすらままならないくらい体が弱い存在ということになっているため、野原を元気に走り回って来た自分が近付くべきではないと思っているのである。必要以上に接触して、外から持って来た汚れに触れさせるべきではないと考えている。

 花束を受け取ろうとした雪成はシュークリームの箱を持ったままであったことに気が付き、出しかけた左手を引っ込めた。

「甘い匂い……? 雪兄様何かお菓子でもお食べになったんですか? その箱は……」
「千冬、これは」
「お菓子屋さんの箱。お、お外に出られたんですか、お一人で」
「誰にも言わないでくれ」

 ぱぁっ、と千冬の表情が明るくなった。外に出てはいけないと叱責されると思っていた雪成は、想定外の妹の反応に目を丸くする。

「今日はお加減がとってもよろしいんですね! 良かった!」
「……そ、そうなんだ。こっそり行って来たから、誰にも言ってはいけないよ」
「分かりました! ふふ。雪兄様とわたしだけの秘密ですね!」
「うん……」

 はい、と改めて差し出された花束を空いている右手で受け取る。綺麗な花を摘んで、兄も元気らしいと知って、千冬は大層喜んでいる様子で母屋の方へ戻って行った。

 雪成はシュークリームの箱と一緒に牛乳瓶に入っていた雑草を屑籠に捨て、新しい雑草を活け直す。

 離れで何をしているのかという問いに「絵を描いている」と答えてから、千冬は度々雪成に花を摘んで帰ってくるようになった。いじらしいなと思うと同時に、申し訳ないとも思った。体が弱いことになっている兄を純粋に心配し優しく接する妹を見る度に、雪成はほんの少し心を痛めていた。あまり近付かないようにという使用人の言葉を、兄の体を思いやってのことだと信じている妹を見る度に。兄思いのいい子である。

 自分はこんなにも醜い化け物だというのに。

 縁側のある部屋を出て、雪成は離れの奥へ向かう。一番奥に、土間になっている作業部屋があった。

 キャンバスやイーゼル、筆に絵の具。乱雑に置かれた画材の間を通って、雪成は壁際の棚から適当な紙を数枚手に取った。いつものように、千冬が持って来た雑草の花束の素描をするつもりである。

 縁側の部屋に戻ろうとして、ふと足を止める。作業部屋の奥に、布が掛けられている絵があった。大きなキャンバスはくたびれた布に覆い隠されている。思い詰めたような表情で布を見つめる雪成の脳裏に浮かんだのは、生垣から顔を出した時の燈華の顔だった。何か恐ろしいものを見た。一瞬だったが、彼女はそういう顔をしていた。

「……俺はあの妖怪は『来ない』に賭けるよ」

 誰に聞かせるでもなく、雪成は静かに独り言ちた。