深水邸を訪れてから、二週間が経過した。街に吹く風はすっかり秋のものである。紅葉が始まりかけている街路樹を指差して、子供が「綺麗だね」と母親に言う。清原呉服店に顔を出した先生はおしゃれなストールを巻いていた。

 午前中の店番を終えて昼食を済ませると、燈華は街へ流行調査に出かけた。そして人々の装いを観察するのもほどほどに、紙幣がたっぷり入ったがま口をぶら下げて悠々と菓子店を訪れる。お小遣い及び給金として渡される金を前払いしてもらい、この日を迎えた。八百美堂の店内にはきらきらとした菓子が並んでおり、つい目移りしてしまいそうになる。

「シュークリームをください」

 小さな妹の千冬も欲しがる可能性がある。シュークリームは二個購入した。箱を包んだ風呂敷包みを背中に背負い、路面電車と人力車を使って坂の上の高級住宅街へ向かう。

 再び雪成にまみえることができる。そう思うと燈華の足取りは軽く、弾むようだった。どうしてこんなに浮かれているのか分からないまま、跳ねるように歩く。

 体に対してちょっぴり大きな風呂敷包みを背負った鼬が高級住宅街を進んでいた。

 やがて、あの日と同じ深水邸に辿り着く。用があるなら裏から、と雪成は言っていた。燈華は立派な塀沿いに少し歩く。すると板が塀に立てかけてあるのが見えて来た。近隣の屋敷の塀と塀に面しているため、広い通りからは見えづらい位置だ。

「あっ。穴が開いてる」

 立てかけられている板の陰になっている部分の塀が大きく破損していた。大人の人間が通るには這いつくばらなければならないが、鼬にとっては十分大きい。荷物を背負っていても楽々通れそうである。

 お邪魔しますと一応言ってから、燈華は穴を潜って屋敷の中に入った。すぐ目の前に離れの庭の生垣が見える。

「ごめんください。ごめんください、雪成さんはいらっしゃいますか」

 水音が聞こえていた。燈華は生垣の下を潜り抜け、向こう側に顔を出す。

「こんにち……は……」
「……何か変な動物が迷い込んで来たのかと思ったら、君か」

 現れた燈華のことを出迎えてくれたのは雪成の声だった。彼の姿を見て、燈華は挨拶で開けた口を閉じられなくなる。

 それは最初に見た時の姿だった。

 石で囲まれている池の水に浸かっている雪成は、青みがかった長い髪を掻き上げて赤い瞳で燈華を見る。腕には鱗があり、指の間には水かきがあった。そして、びしょ濡れの着物の裾から出ているのは足ではない。あの日、はっきりと見ることができなかった下半身。きらきらと光を散らす鱗で覆われた魚の体がそこにあった。しなやかな尾ひれが水から顔を出して揺れている。

 見間違いかもしれない。燈華は目を擦る。しかし、そこにいる雪成の様子は変わらない。

 この形の生き物がここにいることに、酷く恐怖を覚えていた。それと同時に、あの日の雪成に会うことができてこの上なく歓喜していた。心の臓を激しく揺さ振る感情としては、後者の方が強いような気がした。

「雪成、さん」
「驚いているのか。人のことを妖怪だと疑っておいて、この姿に驚くのかい」
「だって、貴方は自分のこと人間だって言ったから。だから私、あの日見たのは見間違いだったのかなとか……」
「俺は深水雪成だ。あの日君を運河から助けて、後日妹の懐中時計を受け取った雪成だ。間違いないよ」

 池から這い上がった雪成が、瞬きの内に人間の姿になった。

「背中のそれ、八百美堂のシュークリーム?」
「そ、そうよ」
「本当に買って来たんだ」
「え」
「この間の部屋で待ってて。着替えてくるから」

 置いてあった手拭いで髪や顔を拭きながら、雪成は縁側から離れに上がった。寸の間呆然としてから、燈華も後を追う。

 微かに絵の具の匂いがする庭に面した広い部屋。床の間には牛乳瓶の花瓶が置いてあり、雑草の花束が活けられている。先日とは違う雑草のようだった。傍らにその花瓶と雑草を素描した紙が放られている。

 燈華は風呂敷包みを畳に下ろした。鼬の前足でも簡単にほどけるように結んでくれた店員に感謝して、シュークリームの箱を取り出す。甘い香りが漏れていて、思わず匂いを嗅いでしまう。

「おまたせ」

 戻って来た雪成は盆を手にしていた。水の入ったグラスが二つ載せられている。

「一つ分の箱の大きさじゃない。君も食べるんだろ」
「あっ、もう一個は妹さんにどうかなと思って。この間もあったけれど、床の間のこのお花、妹さんがくれたんでしょう? 街で会った時、同じようなのを鞄に入れていたわ。かわいい子よね」
「千冬は俺にものをくれるけれど、俺からあの子にものを……まして食べ物を与えることはない。もう一個は君が食べてくれ。君も食べたいだろう」

 盆を畳に置いて、雪成はシュークリームの箱を開けた。そして、一個取り出して燈華に差し出す。受け取るのを躊躇っていると、ぐいと押し付けられた。折角の高級ハイカラシュークリームが潰れてしまっては悲しいので、燈華は両前足で受け取った。

 甘い香りが鼻をくすぐる。一口齧ると、柔らかな生地の奥からとろけるクリームが溢れた。燈華は目を輝かせ、鼻先や髭をクリームだらけにしながらシュークリームを頬張る。

「んっ。美味しい!」
「君はそのままお菓子を食べるんだな」
「え?」
「鼬は人間に化けるのが上手い妖怪だと聞いている。そういう食べ物は人間になった方が食べやすいんじゃないのか」

 口の端にクリームを付けた雪成が問う。燈華はクリーム塗れの顔を上げた。

「私は、変化は不得手なの。人間に化けられたことなんて、ない。一度も」
「そう……なのか。周りと違うと不便じゃないか。それに、気色悪く思われたり嫌なことを言われたり」
「化けてみたいな、とは思う。でも生活に支障はないし、誰かに何か言われるわけでもないし、崇高な鼬の姿が本来のものなのだから人間になれなくてもいいの。これが……今の私が、私だから」
「……強い人なんだな、君は」

 まるで自分は強くないというような言い方である。雪成は口の端についたクリームを舐め取り、グラスの水を少し飲む。その後は黙ったままで、燈華が食べ終えるまで待っていた。お菓子を食べる鼬を見つめる表情は柔らかく、穏やかなものだった。