「最近はこの女が気に入っているのです。美しい女の姿で共に歩けば、ハミィに色目を使うふしだらな女共を牽制できますからね。変な虫が付かないようにしてくれとハミィの家にも言われていますし」
「ハミィ……?」
異邦人のようなハイカラな名前である。燈華が困惑していると、先生の友人は笑顔で先生を指し示した。
「公透の公、ハムという字に似ているでしょう。だからハミィ」
「あまり教え子のご家族の前でその名前を言うな」
「ちなみに私は佐雅というのですが、この女の姿の時はサリィと呼んでください」
「先生のお友達……個性的ですね……」
「今日は、この女に似合う反物を見に来たのですよ」
サリィという女の姿を取っている先生の友人は、その場でくるりと回った。活動写真に登場する女優のように可憐で美しい女である。しかし、つい見惚れてしまうと狐につままれることになるので注意が必要だ。
燈華がひらひらと舞うワンピースの裾を見上げていると、店の奥から母が出て来た。母が持っているのは先日先生が選んだ反物で、かわいらしい桃の花が散らされたものだった。
「先生、お待たせしました。こちらになります」
「ありがとうございます。どうだろうか」
「なるほど、これがハミィのセンス。素敵な柄ですが、この女にはあまり似合わないかもしれませんね……。これなら、そこのお嬢さんの方が似合うでしょう」
サリィは燈華に目を向ける。艶っぽい視線に、燈華は思わずどきっとしてしまった。サリィの美貌が女すら虜にするものなのか、滲み出るこの男の魅力が女である自分に働きかけるのか。どぎまぎする燈華のことをサリィはちょっぴりからかうように見ていた。
「どうです、お嬢さん」
「わ、私は……。私……。着られれば、いいんですけど……。お母さん、私手伝うわ」
燈華は手拭いで四つの足を拭って店に上がった。
目をぱちくりとしてきょとんとしているサリィに、先生がそっと事情を耳打ちする。「へぇ」と呟く小さな声は先程までの女声ではなく、素の男声だった。他人を嘲笑うような笑みを湛えていた目元は一瞬真剣そうなものになる。
番頭に荷物の一覧表と万年筆を返却してから戻ると、母とサリィが色とりどりの反物を見比べていた。燈華はその様子を遠巻きに眺めている先生に歩み寄る。
「燈華さん、気分を害してはいないだろうか。彼、あまり人のことを考えずにものを言うから」
「大丈夫です。今度、似たような雰囲気の髪飾りでも見てみようと思います」
「そうか。……君の前で色々変化したのはよくなかったかなと、彼にしては珍しく反省している様子だった」
「そうですか。しょんぼりしているように見えたのかな……」
燈華は前足で顔をそっと抑える。普段ならば他人が変化する様を見ても羨ましがるようなことはない。やはり、運河に落ちてから不安定な気持ちになっているようだった。
「時に、燈華さん。件の水妖については何か分かったのかな」
「あっ……」
街を探し回っても、図書館で本を読んでも水妖の正体は分からなかった。青年には再会できたが、彼は自分のことを人間だと言っていた。それに加えて、深水家の人間だという。
燈華は逡巡した後、分からなかったと簡潔に答えた。
「もう少し調べてみようと思います。まだ読めていない本もあるので」
「そうか」
「あの、先生」
「ん?」
「人間って変化するんですか」
先生の切れ長の目が丸くなった。
「そういう話は聞いたことがないな……。どうしてそんなことを?」
「逆はあるのかなぁと、ふと思って」
「私もまだ若輩だからね、知らないことも多い。四桁くらい生きていればそういう事象ももしかしたら知っている者もいるかもしれないけれど」
「そうですか」
やあ、これはどうですか! とサリィがやって来たところで燈華と先生の会話は途切れた。彼が肩にかけているのは、落ち着いた色の芙蓉が咲く反物である。
佐雅の男の姿を燈華は知らないが、この男がサリィという女を飛び切り美しい者として作り出していることは分かる。己の美しさを見せ付けるために、彼はこの反物を選んだのだ。
「ハミィ、どうです。かわいいですか綺麗ですか美しいですか」
「まあ、いいんじゃないか」
「もう少し関心を持ったらどうですか。この女と並んで歩くのは私ではなくて君なのですから」
「綺麗……だと思うよ」
「そう。それならよかった。私はもっと別の装いの女が好きですけどね」
「何なんだよ」
これで仕立ててください、とサリィは母に言う。先生は呆れたような困ったような、それでいて楽しんでいるような顔をしていた。
「先生、サリィさんと仲良しなんですね。気心が知れた仲というか。変な人だなと思いながらもそれがいいんですね。お互いのこと、よく理解しているというか……素敵なお友達なんだなって」
「まあ長い付き合いだからね。腐れ縁というやつだ。燈華さんも三桁くらい付き合っていれば友人とはそのうちこうなるよ」
「そうかな……。そうなるといいな……」
友人の顔を思い浮かべる燈華の頭の中に、ぼんやりと不思議な青年の顔が過る。
あの人とは、友達になりたいのかな……。水面に波紋が広がるように、雪成の姿はどこかへ溶けて消えて行った。燈華は小さく首を横に振る。彼のことを考えると、なんだかへんてこな気分になった。
「ハミィ、次は小物を見に行きましょう。君と歩くこの女をもっと飾ってやりたいので」
「はいはい」
すたこらと行ってしまうサリィに続いて、先生は燈華に小さく手を振って去って行った。
「先生、お友達といると新鮮な感じね」
サリィが見比べていた反物を片付けながら母が言う。いつもは燈華から見て頼れる大人といった印象だが、サリィとのやり取りを見ていると年相応の若者に見えた。
「サリィさん、贔屓にしてくれるかな」
「どうかしらねぇ」
燈華は反物を拾い上げて母に渡す。これが片付いたら、他にやることがないか訊こう。行ったり来たりしている燈華を見ながら、張り切っているねぇと父と話をしていた客が笑みを浮かべた。
「ハミィ……?」
異邦人のようなハイカラな名前である。燈華が困惑していると、先生の友人は笑顔で先生を指し示した。
「公透の公、ハムという字に似ているでしょう。だからハミィ」
「あまり教え子のご家族の前でその名前を言うな」
「ちなみに私は佐雅というのですが、この女の姿の時はサリィと呼んでください」
「先生のお友達……個性的ですね……」
「今日は、この女に似合う反物を見に来たのですよ」
サリィという女の姿を取っている先生の友人は、その場でくるりと回った。活動写真に登場する女優のように可憐で美しい女である。しかし、つい見惚れてしまうと狐につままれることになるので注意が必要だ。
燈華がひらひらと舞うワンピースの裾を見上げていると、店の奥から母が出て来た。母が持っているのは先日先生が選んだ反物で、かわいらしい桃の花が散らされたものだった。
「先生、お待たせしました。こちらになります」
「ありがとうございます。どうだろうか」
「なるほど、これがハミィのセンス。素敵な柄ですが、この女にはあまり似合わないかもしれませんね……。これなら、そこのお嬢さんの方が似合うでしょう」
サリィは燈華に目を向ける。艶っぽい視線に、燈華は思わずどきっとしてしまった。サリィの美貌が女すら虜にするものなのか、滲み出るこの男の魅力が女である自分に働きかけるのか。どぎまぎする燈華のことをサリィはちょっぴりからかうように見ていた。
「どうです、お嬢さん」
「わ、私は……。私……。着られれば、いいんですけど……。お母さん、私手伝うわ」
燈華は手拭いで四つの足を拭って店に上がった。
目をぱちくりとしてきょとんとしているサリィに、先生がそっと事情を耳打ちする。「へぇ」と呟く小さな声は先程までの女声ではなく、素の男声だった。他人を嘲笑うような笑みを湛えていた目元は一瞬真剣そうなものになる。
番頭に荷物の一覧表と万年筆を返却してから戻ると、母とサリィが色とりどりの反物を見比べていた。燈華はその様子を遠巻きに眺めている先生に歩み寄る。
「燈華さん、気分を害してはいないだろうか。彼、あまり人のことを考えずにものを言うから」
「大丈夫です。今度、似たような雰囲気の髪飾りでも見てみようと思います」
「そうか。……君の前で色々変化したのはよくなかったかなと、彼にしては珍しく反省している様子だった」
「そうですか。しょんぼりしているように見えたのかな……」
燈華は前足で顔をそっと抑える。普段ならば他人が変化する様を見ても羨ましがるようなことはない。やはり、運河に落ちてから不安定な気持ちになっているようだった。
「時に、燈華さん。件の水妖については何か分かったのかな」
「あっ……」
街を探し回っても、図書館で本を読んでも水妖の正体は分からなかった。青年には再会できたが、彼は自分のことを人間だと言っていた。それに加えて、深水家の人間だという。
燈華は逡巡した後、分からなかったと簡潔に答えた。
「もう少し調べてみようと思います。まだ読めていない本もあるので」
「そうか」
「あの、先生」
「ん?」
「人間って変化するんですか」
先生の切れ長の目が丸くなった。
「そういう話は聞いたことがないな……。どうしてそんなことを?」
「逆はあるのかなぁと、ふと思って」
「私もまだ若輩だからね、知らないことも多い。四桁くらい生きていればそういう事象ももしかしたら知っている者もいるかもしれないけれど」
「そうですか」
やあ、これはどうですか! とサリィがやって来たところで燈華と先生の会話は途切れた。彼が肩にかけているのは、落ち着いた色の芙蓉が咲く反物である。
佐雅の男の姿を燈華は知らないが、この男がサリィという女を飛び切り美しい者として作り出していることは分かる。己の美しさを見せ付けるために、彼はこの反物を選んだのだ。
「ハミィ、どうです。かわいいですか綺麗ですか美しいですか」
「まあ、いいんじゃないか」
「もう少し関心を持ったらどうですか。この女と並んで歩くのは私ではなくて君なのですから」
「綺麗……だと思うよ」
「そう。それならよかった。私はもっと別の装いの女が好きですけどね」
「何なんだよ」
これで仕立ててください、とサリィは母に言う。先生は呆れたような困ったような、それでいて楽しんでいるような顔をしていた。
「先生、サリィさんと仲良しなんですね。気心が知れた仲というか。変な人だなと思いながらもそれがいいんですね。お互いのこと、よく理解しているというか……素敵なお友達なんだなって」
「まあ長い付き合いだからね。腐れ縁というやつだ。燈華さんも三桁くらい付き合っていれば友人とはそのうちこうなるよ」
「そうかな……。そうなるといいな……」
友人の顔を思い浮かべる燈華の頭の中に、ぼんやりと不思議な青年の顔が過る。
あの人とは、友達になりたいのかな……。水面に波紋が広がるように、雪成の姿はどこかへ溶けて消えて行った。燈華は小さく首を横に振る。彼のことを考えると、なんだかへんてこな気分になった。
「ハミィ、次は小物を見に行きましょう。君と歩くこの女をもっと飾ってやりたいので」
「はいはい」
すたこらと行ってしまうサリィに続いて、先生は燈華に小さく手を振って去って行った。
「先生、お友達といると新鮮な感じね」
サリィが見比べていた反物を片付けながら母が言う。いつもは燈華から見て頼れる大人といった印象だが、サリィとのやり取りを見ていると年相応の若者に見えた。
「サリィさん、贔屓にしてくれるかな」
「どうかしらねぇ」
燈華は反物を拾い上げて母に渡す。これが片付いたら、他にやることがないか訊こう。行ったり来たりしている燈華を見ながら、張り切っているねぇと父と話をしていた客が笑みを浮かべた。

