雫浜市の中心部は、海に近く運河が至る所に走る平地である。鉄道の駅があり、市庁舎があり、港があり、その他主要な施設がある。内陸に入って行くと徐々に坂が増え始め、比較的坂の少ない方へ進むと田園地帯に、坂の多い方へ登って行くと高級住宅街に辿り着く。学校や神社が多いのは高台の方である。さらに街の外へ向かって進むと徐々に人家が減り、怪異課や軍が置いている物見櫓が化け物の襲来に目を光らせるようになる。特に隣町との境界が田畑や道ではなく森になっている場所では、常に誰かが警備に当たっていた。
中心部自体は平地であるものの、市政に関わる施設の多くが高台に第二の拠点を置いていた。かつて、大水害があった。その際に海辺がほとんど波にさらわれてしまったため、もしもに備えているのだという。昔と比べると港も道も建物も運河も強固になったため自然に負けることは随分と減ったが、備えあれば憂いなしである。
雫浜市立第二図書館の前で鼬が一匹立ち止まる。第二図書館には歴史書や古文書、街にとって重要な資料など普段市民が原本を手にしない書物が収められている。華美な第一図書館に対して質素な外観の第二図書館の扉には鍵がかけられていた。ふぅ、と一息をついて燈華は懐中時計を包んだ風呂敷を咥え直す。
昨日拾った女の子の落とし物。今朝になって交番へ届けに行ったのだが、名前が書いてあるから本人に直接渡した方が早いと言われた。落としたことに気が付かない限り取りに来ることはないのだから、それでは懐中時計がかわいそうだ。燈華は巡査から聞いた住所を頼りに、人力車に乗ったり馬車に乗ったりして坂の上までやって来た。首から提げたがま口はちょっぴり軽くなってしまっている。帰りの分は一応ありそうだが、少し心配だ。
交番で対応してくれた巡査は懐中時計に書かれた名前を見てぎょっとしていた。その反応で、使用人風のおじいさんを連れていたことと「ふかみ」という姓を見てもしやと思ったものが確信に変わった。名前の表記はおそらく「深水」で、あの女の子はやはりお嬢様だったのだと。もしかしたらお巡りさんは自分が落とし主と接したくなかったのかもしれないな、と燈華は思った。
深水家は雫浜有数の名家である。海運で発展したこの街の基礎を創った貴族の流れを汲む一族で、長い歴史の中で幾人もの素晴らしい人材を輩出して来た。深水姓など国中探せばいくらでもいるが、雫浜で深水と言えばこの一族でほぼ間違いなかった。
高級住宅街の中をきょろきょろしながら歩く燈華のことを綺麗な身形の婦人が怪訝そうに眺めていた。もう少し神社や学校のある方向へ進めば人間と妖怪が半々になっているが、この辺りには人間が多く住んでいた。圧倒的に人間が多い。そのため、妖怪を珍しく思う者や苦手意識を持つ者も少なくなかった。
立派な塀や立派な生垣や昔からあると思しき立派な石垣に囲まれた家が立ち並んでいた。小さな花が咲き誇っている生垣の角を曲がると、より一層大きな家の姿が見えて来た。どこまで続くのだろうという塀に囲まれ、大きな門扉がどんと構えていて、庭に生える巨木が頭を覗かせている。
近くまで行けば分かるはずだと巡査は言っていた。確かに分かった。燈華は駆け足で巨大な深水邸へ向かう。落とし物のお届けは無事に完了しそうである。
ところが、問題は到着してから起こった。
「人を呼んだ方がいいのかな……」
門の前まで来て、家が放つ威圧感に押されてしまったのだ。獣の本能が危険な気配に恐れを為していた。この家はあまりにも強すぎる。半歩後退して、門を見上げる。ごめんくださいと声をかける勇気が出ない。とはいえ、無造作に落とし物を置いて行くわけにもいかない。どうしたものかとうろうろしていると、通りすがりの上品な身形の紳士に不審者を見る目で見られた。
「そうだ」
郵便受けに入れればいい。燈華は風呂敷包みを地面に下ろし、結び目を解く。そして妹に書いてもらった『落とし物です』というメモと一緒に懐中時計を前足で掬い上げた。後ろ足で立ち上がり、郵便受けの口まであともう少し。
「おい、そこの妖怪」
「えっ」
「何をしている」
後ろから投げかけられた声に燈華は振り返った。郵便受けにばかり意識を向けていて気配に気が付けなかった。頭上から降って来た声は聞いたことのある声で、ここ数日忘れられない声だった。
郵便受けを覗き込んでいた不審な鼬のことを見下ろしていたのは、着物姿の青年だった。見るからに質の良さそうな着物に、今日は細かな縦縞模様が浮かんでいる。全身がすっかり乾いているが見間違えるはずがない。あの日、運河から燈華を拾い上げてくれた青年その人である。予想もしなかった場所での再会に燈華は驚きを隠せなかった。綺麗な人だと改めて思うだけで精いっぱいで、声を出すことも動くこともできない。
「君……あの時の? ここで何をしているんだ。もしかして泥棒……?」
「あ……。ち、違うんです。怪しい者じゃなくて、落とし物を届けに」
燈華が懐中時計を見せると、青年は目を丸くした。
「それ、千冬の。……そうか、昨日は妹が世話になったようだな」
「妹……?」
「妖怪のお姉さんが泥棒をやっつけてくれたと言っていた」
「え。じゃあ、貴方はここの」
青年は燈華の前足から優しく懐中時計を取り上げる。「そうだ」と答える彼の目は、微かに震えていた。何かに怯えているのか、何かに怒っているのか、その心は燈華には分かりかねる。
「貴方、でも」
「俺は――」
「誰かいるんで……ゆ、雪成様!」
話し声が聞こえていたのだろう。門が開いて、使用人らしき男性が顔を出した。男性は青年のことを見て酷く慌てた様子である。
「ど、どうして。いけません。ど、どうしよう」
「……少し、外の空気を吸いたくなったんだ。もう戻るところだ」
「そうなんですか? あ! 妖怪がいる! どこから迷い込んだんだ、怪異課を呼ぶぞ」
「えぇっ!」
「これは……。……これは、俺の客人だ。秘密の客だから、誰にも言わないでくれ」
青年は燈華のことをひょいと抱え上げ、びっくり仰天している男性の前を過ぎて門を潜った。足早に庭を進み、状況を飲み込めない燈華を連れて母屋に……入らなかった。外壁沿いに進み、やがて、小さな離れに辿り着く。
池付きの庭がある、離れ。渡り廊下などはなく、周囲は背の高い生垣で覆われ、離れているというよりも隔離しているといった印象だった。
青年は襖の空いている部屋に入って燈華のことを畳に下ろす。庭に面した縁側のある部屋は、ほんのり絵の具の匂いがした。床の間には雑草の花束が活けられている牛乳瓶の花瓶がある。
「あ、あの……」
「外で話をされても困るから」
「えっと……」
「俺は雪成。……深水、雪成だ」
「雪成さん……。わ、私は……き、清原燈華です」
「そう」
雪成と名乗った青年は燈華と向き合って座布団に座る。
「訊きたいことあるんでしょ。言えば」
「ん……。貴方は、あの日、私を助けてくれた人でしょう?」
「そうだ」
「あの時……。貴方の手は人間のものじゃなかった。人間に化けるのが上手な妖怪なんだと思った。でも、この家の人なんでしょう?」
「そうだ」
「それじゃあ、深水家は本当は妖怪の家だったってこと」
「それは違う」
雪成ははっきりと否定した。では、どういうことなのか。燈華が見上げると、雪成は視線を逸らす。
雪成の視線の先へ目を向けると、開けられた障子の向こうに広がる庭が見えた。石で囲まれた池には不自然なくらい水草がなく、鯉や鮒がいるわけでもない。どちらかというと、プールに近いような代物である。
「雫浜で強大な力を振るう深水家が妖怪だなんてそんなことがあってたまるか。力を持つ者が人間でも妖怪でもそれはどちらでもいいが、それが正体を隠しているのならどちらの場合だとしても悪質だろう。この家に住んでいるのは人間だ。……俺も、人間だ」
「でも……」
「人間の、はずだ……。深水雪成は、人間だ」
雪成は自分に言い聞かせるように言う。庭を見ている横顔には諦念にも苦悩にも見える色が浮かんでいた。
燈華を運河で助けてくれた時、雪成は人間の姿ではなかった。それは燈華の見間違いなどではないはずだった。彼の手には確かに水かきがあったし、髪や目の雰囲気も異なっていた。人間に化けている水妖なのかと思ったが、本人は深水家の人間だと言う。
貴方は一体何者? なんて不躾に訊いてもいいのだろうか。燈華は庭を眺める雪成のことを見上げる。謎の青年、深水雪成。燈華に分かることは、彼の容姿が美しいということだけ。いつまでも見ていたいと思うが、ずっと見ていたらなんだか自分の挙動がおかしくなってしまいそうな気がした。
離れの戸を叩く音がする。
「雪成様。ご友人とお話されるのは良いことですが、あまり長時間お話されていてはお体に障りますよ」
先程の使用人の男性の声である。
「あぁ、分かっている。今お帰りになるところだ」
「貴方、もしかして体が弱いの」
「……そういうことになっている」
再びひょいと燈華を抱え上げ、雪成は離れを出た。玄関のところにいた使用人の男性に懐中時計を渡す。
「彼女が拾ってくれたそうだ。千冬に渡しておいてくれ」
「かしこまりました」
雪成の腕に抱かれて燈華は運ばれる。獣の鼻に届く彼の匂いは絵の具で彩られていた。部屋も絵の具の匂いがしていたが、肝心の絵は見当たらなかった。
門を開けて、雪成は燈華を地面に下ろす。
「それじゃあ」
「あの、雪成さん。私、貴方にあの日のお礼をしたいの。ここに来れば会える?」
「妹を助けてくれたことが礼でいい。ありがとう」
「でも、別件だもの。それじゃあ私の気が収まらないわ。だって貴方は命の恩人なの。あの時貴方が来てくれなかったら、私は溺れて死んでいたのよ。ちゃんと助けてくれたお礼をしないと、私ずっと貴方のことが気になって気になって頭から離れないんだから。ここ数日貴方のことばかり考えてて」
しばらくの間、雪成は燈華のことを黙って見下ろしていた。驚いたように、興味を持ったように、じっと見る。
見つめられていると、燈華はなぜだか緊張して来た。思わず俯いてしまう。やがて「分かった」という声が頭上からして顔を上げる。すると、雪成の顔が想定よりも近くにあった。目線を合わせるように屈んでくれたのである。正面から真っ直ぐ顔を合わせるのは初めてだった。燈華の丸い目はさらに丸くなり、ぶわっという音が出ているのではないかという勢いで全身の毛が広がった。尻尾は二倍ほどの太さに見えるくらいで、毛先で火花が散って微かに煙まで出た。
「分かった。そんなに言うなら、お菓子を買ってきてくれないか」
「お、お菓子? 分かったわ。お菓子ね」
「あの日は元々お菓子を買いに出たのだけれど、牛鬼が出たり君を拾ったりしたせいで時間をロスして店まで辿り着けなかった。体が弱いことになっている俺が長時間外出なんてできないからな。よろしく頼むよ」
「何を買う予定だったの?」
少し間を置いて、雪成は笑った。燈華が初めて見た彼の笑顔は、できる者ならやってみろというような挑戦的な笑みだった。
「八百美堂のシュークリームだ」
「八百美堂!?」
「俺に用があるならこっちじゃなくて裏から入って来て。見れば分かるから。じゃあよろしくね、かわいい鼬さん」
店の名前に仰天している燈華の頭を撫でてから、雪成は門を閉める。
「や、八百美堂……!」
撫でられたことが分からないくらい、燈華は店の名前に戦き続ける。門の前に立ち尽くす一匹の鼬のぼさぼさになった毛から、細々と煙が昇っていた。
中心部自体は平地であるものの、市政に関わる施設の多くが高台に第二の拠点を置いていた。かつて、大水害があった。その際に海辺がほとんど波にさらわれてしまったため、もしもに備えているのだという。昔と比べると港も道も建物も運河も強固になったため自然に負けることは随分と減ったが、備えあれば憂いなしである。
雫浜市立第二図書館の前で鼬が一匹立ち止まる。第二図書館には歴史書や古文書、街にとって重要な資料など普段市民が原本を手にしない書物が収められている。華美な第一図書館に対して質素な外観の第二図書館の扉には鍵がかけられていた。ふぅ、と一息をついて燈華は懐中時計を包んだ風呂敷を咥え直す。
昨日拾った女の子の落とし物。今朝になって交番へ届けに行ったのだが、名前が書いてあるから本人に直接渡した方が早いと言われた。落としたことに気が付かない限り取りに来ることはないのだから、それでは懐中時計がかわいそうだ。燈華は巡査から聞いた住所を頼りに、人力車に乗ったり馬車に乗ったりして坂の上までやって来た。首から提げたがま口はちょっぴり軽くなってしまっている。帰りの分は一応ありそうだが、少し心配だ。
交番で対応してくれた巡査は懐中時計に書かれた名前を見てぎょっとしていた。その反応で、使用人風のおじいさんを連れていたことと「ふかみ」という姓を見てもしやと思ったものが確信に変わった。名前の表記はおそらく「深水」で、あの女の子はやはりお嬢様だったのだと。もしかしたらお巡りさんは自分が落とし主と接したくなかったのかもしれないな、と燈華は思った。
深水家は雫浜有数の名家である。海運で発展したこの街の基礎を創った貴族の流れを汲む一族で、長い歴史の中で幾人もの素晴らしい人材を輩出して来た。深水姓など国中探せばいくらでもいるが、雫浜で深水と言えばこの一族でほぼ間違いなかった。
高級住宅街の中をきょろきょろしながら歩く燈華のことを綺麗な身形の婦人が怪訝そうに眺めていた。もう少し神社や学校のある方向へ進めば人間と妖怪が半々になっているが、この辺りには人間が多く住んでいた。圧倒的に人間が多い。そのため、妖怪を珍しく思う者や苦手意識を持つ者も少なくなかった。
立派な塀や立派な生垣や昔からあると思しき立派な石垣に囲まれた家が立ち並んでいた。小さな花が咲き誇っている生垣の角を曲がると、より一層大きな家の姿が見えて来た。どこまで続くのだろうという塀に囲まれ、大きな門扉がどんと構えていて、庭に生える巨木が頭を覗かせている。
近くまで行けば分かるはずだと巡査は言っていた。確かに分かった。燈華は駆け足で巨大な深水邸へ向かう。落とし物のお届けは無事に完了しそうである。
ところが、問題は到着してから起こった。
「人を呼んだ方がいいのかな……」
門の前まで来て、家が放つ威圧感に押されてしまったのだ。獣の本能が危険な気配に恐れを為していた。この家はあまりにも強すぎる。半歩後退して、門を見上げる。ごめんくださいと声をかける勇気が出ない。とはいえ、無造作に落とし物を置いて行くわけにもいかない。どうしたものかとうろうろしていると、通りすがりの上品な身形の紳士に不審者を見る目で見られた。
「そうだ」
郵便受けに入れればいい。燈華は風呂敷包みを地面に下ろし、結び目を解く。そして妹に書いてもらった『落とし物です』というメモと一緒に懐中時計を前足で掬い上げた。後ろ足で立ち上がり、郵便受けの口まであともう少し。
「おい、そこの妖怪」
「えっ」
「何をしている」
後ろから投げかけられた声に燈華は振り返った。郵便受けにばかり意識を向けていて気配に気が付けなかった。頭上から降って来た声は聞いたことのある声で、ここ数日忘れられない声だった。
郵便受けを覗き込んでいた不審な鼬のことを見下ろしていたのは、着物姿の青年だった。見るからに質の良さそうな着物に、今日は細かな縦縞模様が浮かんでいる。全身がすっかり乾いているが見間違えるはずがない。あの日、運河から燈華を拾い上げてくれた青年その人である。予想もしなかった場所での再会に燈華は驚きを隠せなかった。綺麗な人だと改めて思うだけで精いっぱいで、声を出すことも動くこともできない。
「君……あの時の? ここで何をしているんだ。もしかして泥棒……?」
「あ……。ち、違うんです。怪しい者じゃなくて、落とし物を届けに」
燈華が懐中時計を見せると、青年は目を丸くした。
「それ、千冬の。……そうか、昨日は妹が世話になったようだな」
「妹……?」
「妖怪のお姉さんが泥棒をやっつけてくれたと言っていた」
「え。じゃあ、貴方はここの」
青年は燈華の前足から優しく懐中時計を取り上げる。「そうだ」と答える彼の目は、微かに震えていた。何かに怯えているのか、何かに怒っているのか、その心は燈華には分かりかねる。
「貴方、でも」
「俺は――」
「誰かいるんで……ゆ、雪成様!」
話し声が聞こえていたのだろう。門が開いて、使用人らしき男性が顔を出した。男性は青年のことを見て酷く慌てた様子である。
「ど、どうして。いけません。ど、どうしよう」
「……少し、外の空気を吸いたくなったんだ。もう戻るところだ」
「そうなんですか? あ! 妖怪がいる! どこから迷い込んだんだ、怪異課を呼ぶぞ」
「えぇっ!」
「これは……。……これは、俺の客人だ。秘密の客だから、誰にも言わないでくれ」
青年は燈華のことをひょいと抱え上げ、びっくり仰天している男性の前を過ぎて門を潜った。足早に庭を進み、状況を飲み込めない燈華を連れて母屋に……入らなかった。外壁沿いに進み、やがて、小さな離れに辿り着く。
池付きの庭がある、離れ。渡り廊下などはなく、周囲は背の高い生垣で覆われ、離れているというよりも隔離しているといった印象だった。
青年は襖の空いている部屋に入って燈華のことを畳に下ろす。庭に面した縁側のある部屋は、ほんのり絵の具の匂いがした。床の間には雑草の花束が活けられている牛乳瓶の花瓶がある。
「あ、あの……」
「外で話をされても困るから」
「えっと……」
「俺は雪成。……深水、雪成だ」
「雪成さん……。わ、私は……き、清原燈華です」
「そう」
雪成と名乗った青年は燈華と向き合って座布団に座る。
「訊きたいことあるんでしょ。言えば」
「ん……。貴方は、あの日、私を助けてくれた人でしょう?」
「そうだ」
「あの時……。貴方の手は人間のものじゃなかった。人間に化けるのが上手な妖怪なんだと思った。でも、この家の人なんでしょう?」
「そうだ」
「それじゃあ、深水家は本当は妖怪の家だったってこと」
「それは違う」
雪成ははっきりと否定した。では、どういうことなのか。燈華が見上げると、雪成は視線を逸らす。
雪成の視線の先へ目を向けると、開けられた障子の向こうに広がる庭が見えた。石で囲まれた池には不自然なくらい水草がなく、鯉や鮒がいるわけでもない。どちらかというと、プールに近いような代物である。
「雫浜で強大な力を振るう深水家が妖怪だなんてそんなことがあってたまるか。力を持つ者が人間でも妖怪でもそれはどちらでもいいが、それが正体を隠しているのならどちらの場合だとしても悪質だろう。この家に住んでいるのは人間だ。……俺も、人間だ」
「でも……」
「人間の、はずだ……。深水雪成は、人間だ」
雪成は自分に言い聞かせるように言う。庭を見ている横顔には諦念にも苦悩にも見える色が浮かんでいた。
燈華を運河で助けてくれた時、雪成は人間の姿ではなかった。それは燈華の見間違いなどではないはずだった。彼の手には確かに水かきがあったし、髪や目の雰囲気も異なっていた。人間に化けている水妖なのかと思ったが、本人は深水家の人間だと言う。
貴方は一体何者? なんて不躾に訊いてもいいのだろうか。燈華は庭を眺める雪成のことを見上げる。謎の青年、深水雪成。燈華に分かることは、彼の容姿が美しいということだけ。いつまでも見ていたいと思うが、ずっと見ていたらなんだか自分の挙動がおかしくなってしまいそうな気がした。
離れの戸を叩く音がする。
「雪成様。ご友人とお話されるのは良いことですが、あまり長時間お話されていてはお体に障りますよ」
先程の使用人の男性の声である。
「あぁ、分かっている。今お帰りになるところだ」
「貴方、もしかして体が弱いの」
「……そういうことになっている」
再びひょいと燈華を抱え上げ、雪成は離れを出た。玄関のところにいた使用人の男性に懐中時計を渡す。
「彼女が拾ってくれたそうだ。千冬に渡しておいてくれ」
「かしこまりました」
雪成の腕に抱かれて燈華は運ばれる。獣の鼻に届く彼の匂いは絵の具で彩られていた。部屋も絵の具の匂いがしていたが、肝心の絵は見当たらなかった。
門を開けて、雪成は燈華を地面に下ろす。
「それじゃあ」
「あの、雪成さん。私、貴方にあの日のお礼をしたいの。ここに来れば会える?」
「妹を助けてくれたことが礼でいい。ありがとう」
「でも、別件だもの。それじゃあ私の気が収まらないわ。だって貴方は命の恩人なの。あの時貴方が来てくれなかったら、私は溺れて死んでいたのよ。ちゃんと助けてくれたお礼をしないと、私ずっと貴方のことが気になって気になって頭から離れないんだから。ここ数日貴方のことばかり考えてて」
しばらくの間、雪成は燈華のことを黙って見下ろしていた。驚いたように、興味を持ったように、じっと見る。
見つめられていると、燈華はなぜだか緊張して来た。思わず俯いてしまう。やがて「分かった」という声が頭上からして顔を上げる。すると、雪成の顔が想定よりも近くにあった。目線を合わせるように屈んでくれたのである。正面から真っ直ぐ顔を合わせるのは初めてだった。燈華の丸い目はさらに丸くなり、ぶわっという音が出ているのではないかという勢いで全身の毛が広がった。尻尾は二倍ほどの太さに見えるくらいで、毛先で火花が散って微かに煙まで出た。
「分かった。そんなに言うなら、お菓子を買ってきてくれないか」
「お、お菓子? 分かったわ。お菓子ね」
「あの日は元々お菓子を買いに出たのだけれど、牛鬼が出たり君を拾ったりしたせいで時間をロスして店まで辿り着けなかった。体が弱いことになっている俺が長時間外出なんてできないからな。よろしく頼むよ」
「何を買う予定だったの?」
少し間を置いて、雪成は笑った。燈華が初めて見た彼の笑顔は、できる者ならやってみろというような挑戦的な笑みだった。
「八百美堂のシュークリームだ」
「八百美堂!?」
「俺に用があるならこっちじゃなくて裏から入って来て。見れば分かるから。じゃあよろしくね、かわいい鼬さん」
店の名前に仰天している燈華の頭を撫でてから、雪成は門を閉める。
「や、八百美堂……!」
撫でられたことが分からないくらい、燈華は店の名前に戦き続ける。門の前に立ち尽くす一匹の鼬のぼさぼさになった毛から、細々と煙が昇っていた。

