あくる日の午後、燈華は街へ出ていた。同じような年頃で手が使えたり人間に化けられたりする子は学校に通うこともあるが、燈華はペンを握れないので専ら家の手伝いに励んでいる。ぶらぶらと当てもなく散歩に出ることが多いが、街の様子を観察することは彼女の仕事の一つである。雑誌を読むことと同じで、街を行く人々を観察して流行に関する情報を得ることも店にとって大事なことだ。
夏の終わり、秋の始め。行き交う人々は明るい色を纏う者と落ち着いた色を纏う者とが半々である。燈華は人間達の足元を縫うようにして歩く。
昨日の夜、不思議な水妖について父と燎里に訊ねてみたが二人共分からないと言った。店を営むため様々な人と接する父も、学校に通っているので色々な妖怪を目にする燎里も、それらしき者に心当たりはないそうだった。
そのため、今日は稲守先生に提案された図書館を訪れることにした。
「怪異課のパトロール、強化するんですって」
「危ない妖怪、怖いわよねぇ。この間の牛鬼、びっくりしたわ」
「私、怪異課苦手だからそっちも怖いわぁ」
ろくろ首と人間がそんな会話をしていた。
警察の怪異課には生身で妖怪と激しい戦闘を繰り広げる人間と、敵に回したくない攻撃力を持つ妖怪が多く所属している。人間や他の妖怪を襲う妖怪や、人間と同様の対応では取り締まることの難しい犯罪を働く妖怪を相手にする部署である。平穏に暮らす妖怪にとっては味方であるものの、彼らに対して怖いという感情を持つ者は少なくない。
やがて、堅牢な外見の建物が現れた。石造りの二階建て。昼間なので沈黙している洋燈の下に、金属製の看板が掲げられている。雫浜市立第一図書館である。主に文芸書や図鑑、絵本、実用書、観光客向けの地図など普段手に取る分野の本が収蔵されている。
ステンドグラスが施されたドアを開けて館内に入った燈華は、妖怪に関する本が置かれている棚へ向かう。ぼんやりしているとついつい文芸コーナーへ向かってしまいそうなので、今日の目的を頭の中で自分に言い聞かせて館内を歩く。
「水の妖怪……。水の妖怪……。……たくさんあるな」
本自体がたくさんあることに加え、水妖について載っている本もたくさんありそうだった。本棚を見上げて歩く鼬を踏みそうになり、慌てて足を避けた大型の妖怪がいた。本棚を睨み付けている鼬に驚いて、戻したい本を戻せない小動物型の妖怪もいた。燈華の視線は本棚にばかり向けられている。
「……これにしてみよう」
小さな獣の前足でも持てそうなくらいの大きさの本を一冊本棚から取り出す。そして本を引き摺らないように後ろ足で立ち上がり、小走りで適当な椅子に載る。燈華の背後で、小動物型の妖怪はようやく本を戻せたようだった。
表紙を捲り、目次を見る。燈華はものを書くことはできないが、読むことは昔から得意だった。できないことがあるからできることを伸ばしたくて、図書館の本も、少女雑誌も、店の伝票も、何回も何回もひっくり返して文字を覚えた。
ぱらぱらと捲れる頁に書かれた文字や絵を丸い目が素早く追う。
「河童……水虎……。海坊主……は流石に違うか」
頁を捲る。
「……人魚」
上半身が人間、下半身が魚の形をしている妖怪が岩場に腰かけている絵が載っている。妖艶な女の姿をしている上半身はこちら側を誘惑しているようで、白黒の絵だというのに危険な色を纏っていた。
見るからに獣のような河童などよりも、人間に似た部分の多い人魚の方があの青年に近いように思えた。しかし。
「人魚がこの街にいるはずが……ない」
恐ろしい化け物を野放しにしておくようなことを怪異課が許すはずがない。人魚は危険な妖怪だ。
本を読むことは好きだが、人間の手に合う大きさの本は燈華にとっては頭や目を動かす距離が多く、あまり長時間読んでいると疲れてしまう。他の本はまた今度にしよう。本を閉じて、本棚に戻す。
そうして図書館を後にした燈華は、運河沿いの大通りにやって来た。妖怪については調べた。次に、母が言っていたように人間の姿を探すことにしたのだ。
あの青年がいないだろうかときょろきょろするが、簡単には見付からない。適当な人間や妖怪に青年の外見を伝えて訊ねるが、似たような見た目の男はごまんといる。黒髪に茶色い目など、この国ではあてになる特徴ではない。水生の妖怪の若い男を見なかったかとも訊ねたが、それらしい目撃情報は得られなかった。
今日は青年のことはもう諦めて、あと少し流行調査をして帰ろうか。燈華は踵を返す。
その時、獣の耳が音を捉えた。
「待ってー! 待ってください!」
雑踏の中から子供の声が聞こえる。
「その男の人を捕まえてください! 泥棒なんです!」
振り向いた燈華の前に躍り出て来たのは柄の悪そうな人間の男だった。大人が持つにしてはかわいらしいデザインの鞄を乱暴に掴んでいる。どうやら、子供から鞄を盗んで逃走するところらしい。
不審な男の登場に驚いて立ち止まった燈華は、意図せず男の進行方向に立ちはだかる形になってしまった。一歩も動かないもじゃもじゃの獣を前にして男は足踏みをする。
「妖怪かぁ? どけ! 踏み潰されたいのか!」
「あ……。あ。えっと……」
そうこうしているうちに、べそをかいた低学年くらいの女の子がやって来た。高台の私立小学校の制服姿である。女の子は不審な男を指差して「泥棒!」と叫ぶ。居合わせた人々の多くは体格のいい男を前にして怖気づき遠巻きに見ている。巡査を呼びに行った者もいるようだが、駆け付けてくる前に逃げられてしまうだろう。
燈華は男と睨み合う。ひったくり犯と睨み合いなんてしたくなかったが、勝手にそうなってしまった。
「どけ!」
「こ、子供からものを盗るなんて最低!」
全身の毛を逆立てて威嚇をする。毛先がちりちりと震え、微かに火花が散った。
「鞄を置いて、お巡りさんが来たら一緒に行きなさい。鼬は火を呼ぶ妖怪よ。ここで火柱を作って、貴方を大火傷させることだってできるのよ」
ハッタリだった。貂が群れて積み重なると火災が起こると言われてはいるが、燈華一人でその場に火を起こせるわけではない。線香花火のように毛先が光ることはあれど、それによって相手を攻撃することは不可能だ。
しかし、男はそんなことは知らないようだった。目の前の妖怪が臨戦態勢になって火花を散らしたので、一瞬怯んだ。こうなってしまえば体格の良さなどもう関係ない。近くにいた男性数人が男を取り押さえる。その際に慌てた男にとって鞄が投げ捨てられてしまい、蓋が開いて中身が飛び出した。筆記用具や、本、雑草の花束などが地面に転がった。みんなが拾ってやり、女の子は涙を拭って礼を言う。
そして、巡査が到着したのと同じタイミングで女の子の迎えが現れた。気品のあるおじいさんが女の子に恭しく手を差し伸べる。
「千冬様、こんなところに。ご無事でしたか」
「じいや! うん、大丈夫だよ。鞄も、ほら!」
笑顔で鞄を見せる女の子に、おじいさんは安心して胸を撫で下ろすと同時に困った顔になった。
「よかった……。いけませんよ、自ら追い駆けるなど。もうこんな危険なことはしないでくださいね」
「えー」
「車は向こうで待っています」
「分かった。妖怪のお姉さん、ありがとう」
燈華に小さく手を振って、女の子はおじいさんに手を引かれて去って行った。女の子も鞄も無事で、犯人は巡査に連れて行かれた。面白い物はなくなったので集まっていた野次馬が散って行く。
「……お嬢様だったのかな。ん?」
ふと、何かが落ちていることに気が付き目を向ける。見ると、どうやら懐中時計のようだった。『ふかみちふゆ』と記名がある。
「名前……。これ、あの子のだ」
鞄の中身が辺りに広がってしまった時、拾い忘れたのだろう。燈華は鎖の部分を咥えて懐中時計を拾い上げる。
あの子に届けてあげないと。ところが、女の子の姿はもう見当たらなくなっていた。車があるという話だったため、もう遠くへ行ってしまったのかもしれない。
女の子がどちらへ帰ったのか分からないので、燈華は懐中時計を咥えたまま女の子を探してたくさん寄り道をしながら帰宅した。すぐに近くの交番に届ければよかったなと気が付いたのは、寝る準備をして布団に入って横になってからであった。
夏の終わり、秋の始め。行き交う人々は明るい色を纏う者と落ち着いた色を纏う者とが半々である。燈華は人間達の足元を縫うようにして歩く。
昨日の夜、不思議な水妖について父と燎里に訊ねてみたが二人共分からないと言った。店を営むため様々な人と接する父も、学校に通っているので色々な妖怪を目にする燎里も、それらしき者に心当たりはないそうだった。
そのため、今日は稲守先生に提案された図書館を訪れることにした。
「怪異課のパトロール、強化するんですって」
「危ない妖怪、怖いわよねぇ。この間の牛鬼、びっくりしたわ」
「私、怪異課苦手だからそっちも怖いわぁ」
ろくろ首と人間がそんな会話をしていた。
警察の怪異課には生身で妖怪と激しい戦闘を繰り広げる人間と、敵に回したくない攻撃力を持つ妖怪が多く所属している。人間や他の妖怪を襲う妖怪や、人間と同様の対応では取り締まることの難しい犯罪を働く妖怪を相手にする部署である。平穏に暮らす妖怪にとっては味方であるものの、彼らに対して怖いという感情を持つ者は少なくない。
やがて、堅牢な外見の建物が現れた。石造りの二階建て。昼間なので沈黙している洋燈の下に、金属製の看板が掲げられている。雫浜市立第一図書館である。主に文芸書や図鑑、絵本、実用書、観光客向けの地図など普段手に取る分野の本が収蔵されている。
ステンドグラスが施されたドアを開けて館内に入った燈華は、妖怪に関する本が置かれている棚へ向かう。ぼんやりしているとついつい文芸コーナーへ向かってしまいそうなので、今日の目的を頭の中で自分に言い聞かせて館内を歩く。
「水の妖怪……。水の妖怪……。……たくさんあるな」
本自体がたくさんあることに加え、水妖について載っている本もたくさんありそうだった。本棚を見上げて歩く鼬を踏みそうになり、慌てて足を避けた大型の妖怪がいた。本棚を睨み付けている鼬に驚いて、戻したい本を戻せない小動物型の妖怪もいた。燈華の視線は本棚にばかり向けられている。
「……これにしてみよう」
小さな獣の前足でも持てそうなくらいの大きさの本を一冊本棚から取り出す。そして本を引き摺らないように後ろ足で立ち上がり、小走りで適当な椅子に載る。燈華の背後で、小動物型の妖怪はようやく本を戻せたようだった。
表紙を捲り、目次を見る。燈華はものを書くことはできないが、読むことは昔から得意だった。できないことがあるからできることを伸ばしたくて、図書館の本も、少女雑誌も、店の伝票も、何回も何回もひっくり返して文字を覚えた。
ぱらぱらと捲れる頁に書かれた文字や絵を丸い目が素早く追う。
「河童……水虎……。海坊主……は流石に違うか」
頁を捲る。
「……人魚」
上半身が人間、下半身が魚の形をしている妖怪が岩場に腰かけている絵が載っている。妖艶な女の姿をしている上半身はこちら側を誘惑しているようで、白黒の絵だというのに危険な色を纏っていた。
見るからに獣のような河童などよりも、人間に似た部分の多い人魚の方があの青年に近いように思えた。しかし。
「人魚がこの街にいるはずが……ない」
恐ろしい化け物を野放しにしておくようなことを怪異課が許すはずがない。人魚は危険な妖怪だ。
本を読むことは好きだが、人間の手に合う大きさの本は燈華にとっては頭や目を動かす距離が多く、あまり長時間読んでいると疲れてしまう。他の本はまた今度にしよう。本を閉じて、本棚に戻す。
そうして図書館を後にした燈華は、運河沿いの大通りにやって来た。妖怪については調べた。次に、母が言っていたように人間の姿を探すことにしたのだ。
あの青年がいないだろうかときょろきょろするが、簡単には見付からない。適当な人間や妖怪に青年の外見を伝えて訊ねるが、似たような見た目の男はごまんといる。黒髪に茶色い目など、この国ではあてになる特徴ではない。水生の妖怪の若い男を見なかったかとも訊ねたが、それらしい目撃情報は得られなかった。
今日は青年のことはもう諦めて、あと少し流行調査をして帰ろうか。燈華は踵を返す。
その時、獣の耳が音を捉えた。
「待ってー! 待ってください!」
雑踏の中から子供の声が聞こえる。
「その男の人を捕まえてください! 泥棒なんです!」
振り向いた燈華の前に躍り出て来たのは柄の悪そうな人間の男だった。大人が持つにしてはかわいらしいデザインの鞄を乱暴に掴んでいる。どうやら、子供から鞄を盗んで逃走するところらしい。
不審な男の登場に驚いて立ち止まった燈華は、意図せず男の進行方向に立ちはだかる形になってしまった。一歩も動かないもじゃもじゃの獣を前にして男は足踏みをする。
「妖怪かぁ? どけ! 踏み潰されたいのか!」
「あ……。あ。えっと……」
そうこうしているうちに、べそをかいた低学年くらいの女の子がやって来た。高台の私立小学校の制服姿である。女の子は不審な男を指差して「泥棒!」と叫ぶ。居合わせた人々の多くは体格のいい男を前にして怖気づき遠巻きに見ている。巡査を呼びに行った者もいるようだが、駆け付けてくる前に逃げられてしまうだろう。
燈華は男と睨み合う。ひったくり犯と睨み合いなんてしたくなかったが、勝手にそうなってしまった。
「どけ!」
「こ、子供からものを盗るなんて最低!」
全身の毛を逆立てて威嚇をする。毛先がちりちりと震え、微かに火花が散った。
「鞄を置いて、お巡りさんが来たら一緒に行きなさい。鼬は火を呼ぶ妖怪よ。ここで火柱を作って、貴方を大火傷させることだってできるのよ」
ハッタリだった。貂が群れて積み重なると火災が起こると言われてはいるが、燈華一人でその場に火を起こせるわけではない。線香花火のように毛先が光ることはあれど、それによって相手を攻撃することは不可能だ。
しかし、男はそんなことは知らないようだった。目の前の妖怪が臨戦態勢になって火花を散らしたので、一瞬怯んだ。こうなってしまえば体格の良さなどもう関係ない。近くにいた男性数人が男を取り押さえる。その際に慌てた男にとって鞄が投げ捨てられてしまい、蓋が開いて中身が飛び出した。筆記用具や、本、雑草の花束などが地面に転がった。みんなが拾ってやり、女の子は涙を拭って礼を言う。
そして、巡査が到着したのと同じタイミングで女の子の迎えが現れた。気品のあるおじいさんが女の子に恭しく手を差し伸べる。
「千冬様、こんなところに。ご無事でしたか」
「じいや! うん、大丈夫だよ。鞄も、ほら!」
笑顔で鞄を見せる女の子に、おじいさんは安心して胸を撫で下ろすと同時に困った顔になった。
「よかった……。いけませんよ、自ら追い駆けるなど。もうこんな危険なことはしないでくださいね」
「えー」
「車は向こうで待っています」
「分かった。妖怪のお姉さん、ありがとう」
燈華に小さく手を振って、女の子はおじいさんに手を引かれて去って行った。女の子も鞄も無事で、犯人は巡査に連れて行かれた。面白い物はなくなったので集まっていた野次馬が散って行く。
「……お嬢様だったのかな。ん?」
ふと、何かが落ちていることに気が付き目を向ける。見ると、どうやら懐中時計のようだった。『ふかみちふゆ』と記名がある。
「名前……。これ、あの子のだ」
鞄の中身が辺りに広がってしまった時、拾い忘れたのだろう。燈華は鎖の部分を咥えて懐中時計を拾い上げる。
あの子に届けてあげないと。ところが、女の子の姿はもう見当たらなくなっていた。車があるという話だったため、もう遠くへ行ってしまったのかもしれない。
女の子がどちらへ帰ったのか分からないので、燈華は懐中時計を咥えたまま女の子を探してたくさん寄り道をしながら帰宅した。すぐに近くの交番に届ければよかったなと気が付いたのは、寝る準備をして布団に入って横になってからであった。

