走っていた。走っている。まだ、走る。
どこまでも続く暗闇を、雪成は走っていた。
また、夢だ。まだ、目は覚めない。
見えない地面を踏みしめる度に、見えない足に激痛が走った。無数に並ぶナイフの上を駆けているようだった。夢の中で血など出ていないのに、痛みだけが強く感じられた。上げたはずの悲鳴は口から出ない。
自分の声は全く出ない。その代わり、誰かの声が聞こえていた。それは囁き声で、ざわめきで、罵倒で、怯える声だった。化け物だ。化け物がいる。化け物。暗闇の四方八方から声が聞こえていた。
雪成は浴びせかけられる声から逃げるように走る。足の痛みを堪えて走っても、走っても、走っても、どこまでも声が追い駆けて来た。
助けて、と弱々しい声が出そうになる。声は出ない。
ずるりっ、と足が滑った。見えない地面が濡れていたらしい。雪成はバランスを崩して、転んだ。転んだと思ったら、水の中に落ちていた。ずっとずっと上の方に、明るい水面が見えていた。人魚の姿に変わっているのに、やっぱり息が苦しくて体が沈んで行く。
水の中に入ると、嫌な声は聞こえなくなった。静かで冷たい水の中に、人魚が一人沈んで行く。手の先から、尾の先から、体が泡になって消えていく。
行くところまで行けばいずれ現実で目を覚ますだろう。雪成は目を閉じる。
声が、聞こえた。
「――さん……!」
化け物だと言って来たどこかの誰かの知らない声ではない。少女の声だった。何度も聞いた声だった。
「雪――」
誰の、声だったっけ……。
「雪成さんっ!」
ハッと目を開けた。水面の向こうに、小さな小さな灯火が揺れているのが見えた。雪成は水面に手を伸ばす。伸ばすが、体はどんどん沈むしどんどん消えた。伸ばしている手も、手首より先はほとんど透明になっていた。
少女は雪成の名前を呼んでいる。応えてやりたかったが、雪成の口からは吐息とも体の一部とも分からない泡だけが溢れ出た。
嫌だ。
小さな子供が駄々を捏ね、地団太を踏むように、もがく。
嫌だ。
雪成は消える手を伸ばし、泡になる尾を動かし、水面に向かって泳ぎ出した。
嫌だ。
たとえ、夢の中だとしても。目が覚めれば何事もなかったかのような現実が待っているのだとしても。今、ここで。自分を呼ぶ彼女の声に応えずに消えるのは、嫌だと思った。
「――燈華!」
泳いでも戻れないくらい沈んだと思っていたのに、水面はすぐそこだった。顔を出した瞬間、声が出る。消えかけていた体は元通りになっていて、光沢を帯びた黒い鱗は水の中で青く光っていた。びしょ濡れの人魚の顔を穏やかな風が優しく撫でている。
「あっ、やっと出て来た」
桟橋の上にいる燈華が雪成のことを見下ろしていた。どうやら、場所は大通りの運河らしい。二人が初めて会った場所である。
優しい風に包み込まれて、なんだか体も心も軽くなったように感じた。夢の中、空中に漂っている水滴越しに見える燈華の姿はきらきらとしていて、眩しい。
燈華がにこりと笑う。雪成は彼女の顔に手を伸ばし――。
伸ばした手が何かに触れて、雪成は目を覚ました。
「お。丁度お目覚めですか、雪成様。今声をかけようと思ったところなんですよ」
「せんせぇ……?」
雪成の手は枕元に座る良岑医師の膝に触れていた。
「わはは、すごい寝惚けてる声。聞かなかったことにしておきますね」
「あ、れ……? 今日って、健診の日でしたっけ……。……あぁ、そうか。俺……」
人魚の姿でいる時は、どれだけ冷たい水の中に入っていても平気だった。しかし、陸に上がればびしょ濡れの人間だ。夏は全然平気だが、冬は体が弱くなくとも堪えた。燈華と別れ、屋敷に戻るまでの間にどれだけ体が震えてくしゃみをしたか分からない。
花火を見ることもできず、火車に襲われ、完成間近の絵は燃え尽き、そして、雪成は盛大に熱を出した。いっそ庭の池に飛び込んだままでいれば楽かもしれないと考えたが、結局後が大変なのでやらないことにした。
事件の二日後に燈華が訪ねて来た。しかし相手をできる状態ではなかったので、雪成はそれを障子越しに追い返した。それから更に二日経つものの、まだ体は怠い。とびきり体が弱いのだと思っている使用人達や妹が随分と心配しているので早く元気になりたいが、気合でどうにかなるものでもないので雪成はおとなしく布団に入っていた。
「んー、まだかなり熱がありますね」
「深水家の長男は本当に体が弱いのかもしれない……」
「風邪をこじらせるくらい健康な人でもよくあることですよ」
軽く診察を済ませて、良岑医師は鞄から薬の補充を出す。
「そういえば雪成様、さっき譫言というか寝言で『とうか』って言ってましたけど、あれって人の名前か何かですか?」
「んっ!? んぅっ……ぐ」
薬を飲もうとして口に水を含んでいた雪成は思い切りむせた。水も薬も無事に飲み込めたが、咳が止まらない。
「ちょっ、ちょっと!? 大丈夫ですか」
「は……。俺、声に出してたんですか……」
「はい。必死に呼んでる感じで」
「最悪だ」
咳をしながら、雪成は布団に横になる。
「絶対誰にも言わないでください」
「わ、分かりました……。あのー、もしかして前に描いてた絵の子?」
「先生を主治医から外すように父に進言しようかな」
「分かりました。詮索しませんからそれだけはやめてください」
万物を知るとされる白澤。とはいえ、人の交友関係のようなものまでお見通しというわけではない。知識欲はたっぷりなので人の秘密なども知りたがるが、相手が探るなと言えば弁える程度の常識は持っている。飄々とした態度で雪成をからかうこともあるが、流石の白澤もこの街でのいい暮らしを維持するためには深水家との繋がりを失いたくはなかった。
また様子を見に来ますと言って、良岑医師は逃げるように寝室を出て行った。廊下をぱたぱたと駆けて、そして、玄関の戸の開閉音が聞こえる。
「あの鼬が変なことを言うから……!」
あの日、火車と対峙した燈華が雪成を振り返って言った言葉。だって私、まだ……。
その先を思い出した雪成の顔が、鍋に放り込まれた海老のように赤くなった。熱があるからではない。別の熱さが、顔に広がった。両手で顔を覆い、それから頭を抱える。
「あぁ……。あぁっ! なんなんだよ、あいつ……。あいつのせいで、俺は……。おかしくなってばかりじゃないか……」
自分は化け物の血をその身に流す変な人間である。こんな人間に構わなくてもいいのに。雪成はそう思っていた。思っていたが、ここ数ヶ月を楽しく感じている気がするのは事実だった。
離れに籠って絵を描いて、時々こっそり抜け出して。そんな風に一人で過ごしていた時には見えなかった景色が、燈華と過ごすうちに雪成の中に思い出として積み重なっていた。他愛もない話をして、お菓子を食べて、縁側に並んで庭を見て、神社にも行った。いつしか、自分の名前を呼んでにこりと笑うふわふわから雪成は目を離せなくなっていた。
燈華は雪成のことを陸に繋ぎ止めてくれた存在だった。あの日、運河で彼女を拾わなければ。今頃、雪成は海の藻屑になっていた可能性だってあったのだ。祭りの最終日も、彼女が来なかったら火車に食われていただろう。貴方は命の恩人なのよ、と義理堅くお人好しな鼬は熱心に言う。しかし、それは雪成にとっても同じだ。燈華はまるで、冷たい海の底からも道標にできる暖かな灯火のようだった。
雪成はぼんやりと天井を見上げる。夢の中でそうしたように、上の方に手を伸ばした。手は虚空を掴んで、掛布団の上に下りる。
「……あいつは俺と友人になりたいのだろうか」
友達ではないと言った時、燈華はちょっぴり不満そうだった。
「でも……。好きって言ってたな……。……好き、って。……俺は。……俺は?」
燈華が改めて言葉を伝えて来たら、それを聞いて自分は何を言ってやればいいのだろう。声になっていないただの音を口から出して、雪成は布団を被った。
「なんなんだよ、あいつ……」
なんだか、一気に熱が上がったような気がした。頭まですっぽりと布団を被って丸くなって、雪成はしばらくの間懊悩して唸っていた。
どこまでも続く暗闇を、雪成は走っていた。
また、夢だ。まだ、目は覚めない。
見えない地面を踏みしめる度に、見えない足に激痛が走った。無数に並ぶナイフの上を駆けているようだった。夢の中で血など出ていないのに、痛みだけが強く感じられた。上げたはずの悲鳴は口から出ない。
自分の声は全く出ない。その代わり、誰かの声が聞こえていた。それは囁き声で、ざわめきで、罵倒で、怯える声だった。化け物だ。化け物がいる。化け物。暗闇の四方八方から声が聞こえていた。
雪成は浴びせかけられる声から逃げるように走る。足の痛みを堪えて走っても、走っても、走っても、どこまでも声が追い駆けて来た。
助けて、と弱々しい声が出そうになる。声は出ない。
ずるりっ、と足が滑った。見えない地面が濡れていたらしい。雪成はバランスを崩して、転んだ。転んだと思ったら、水の中に落ちていた。ずっとずっと上の方に、明るい水面が見えていた。人魚の姿に変わっているのに、やっぱり息が苦しくて体が沈んで行く。
水の中に入ると、嫌な声は聞こえなくなった。静かで冷たい水の中に、人魚が一人沈んで行く。手の先から、尾の先から、体が泡になって消えていく。
行くところまで行けばいずれ現実で目を覚ますだろう。雪成は目を閉じる。
声が、聞こえた。
「――さん……!」
化け物だと言って来たどこかの誰かの知らない声ではない。少女の声だった。何度も聞いた声だった。
「雪――」
誰の、声だったっけ……。
「雪成さんっ!」
ハッと目を開けた。水面の向こうに、小さな小さな灯火が揺れているのが見えた。雪成は水面に手を伸ばす。伸ばすが、体はどんどん沈むしどんどん消えた。伸ばしている手も、手首より先はほとんど透明になっていた。
少女は雪成の名前を呼んでいる。応えてやりたかったが、雪成の口からは吐息とも体の一部とも分からない泡だけが溢れ出た。
嫌だ。
小さな子供が駄々を捏ね、地団太を踏むように、もがく。
嫌だ。
雪成は消える手を伸ばし、泡になる尾を動かし、水面に向かって泳ぎ出した。
嫌だ。
たとえ、夢の中だとしても。目が覚めれば何事もなかったかのような現実が待っているのだとしても。今、ここで。自分を呼ぶ彼女の声に応えずに消えるのは、嫌だと思った。
「――燈華!」
泳いでも戻れないくらい沈んだと思っていたのに、水面はすぐそこだった。顔を出した瞬間、声が出る。消えかけていた体は元通りになっていて、光沢を帯びた黒い鱗は水の中で青く光っていた。びしょ濡れの人魚の顔を穏やかな風が優しく撫でている。
「あっ、やっと出て来た」
桟橋の上にいる燈華が雪成のことを見下ろしていた。どうやら、場所は大通りの運河らしい。二人が初めて会った場所である。
優しい風に包み込まれて、なんだか体も心も軽くなったように感じた。夢の中、空中に漂っている水滴越しに見える燈華の姿はきらきらとしていて、眩しい。
燈華がにこりと笑う。雪成は彼女の顔に手を伸ばし――。
伸ばした手が何かに触れて、雪成は目を覚ました。
「お。丁度お目覚めですか、雪成様。今声をかけようと思ったところなんですよ」
「せんせぇ……?」
雪成の手は枕元に座る良岑医師の膝に触れていた。
「わはは、すごい寝惚けてる声。聞かなかったことにしておきますね」
「あ、れ……? 今日って、健診の日でしたっけ……。……あぁ、そうか。俺……」
人魚の姿でいる時は、どれだけ冷たい水の中に入っていても平気だった。しかし、陸に上がればびしょ濡れの人間だ。夏は全然平気だが、冬は体が弱くなくとも堪えた。燈華と別れ、屋敷に戻るまでの間にどれだけ体が震えてくしゃみをしたか分からない。
花火を見ることもできず、火車に襲われ、完成間近の絵は燃え尽き、そして、雪成は盛大に熱を出した。いっそ庭の池に飛び込んだままでいれば楽かもしれないと考えたが、結局後が大変なのでやらないことにした。
事件の二日後に燈華が訪ねて来た。しかし相手をできる状態ではなかったので、雪成はそれを障子越しに追い返した。それから更に二日経つものの、まだ体は怠い。とびきり体が弱いのだと思っている使用人達や妹が随分と心配しているので早く元気になりたいが、気合でどうにかなるものでもないので雪成はおとなしく布団に入っていた。
「んー、まだかなり熱がありますね」
「深水家の長男は本当に体が弱いのかもしれない……」
「風邪をこじらせるくらい健康な人でもよくあることですよ」
軽く診察を済ませて、良岑医師は鞄から薬の補充を出す。
「そういえば雪成様、さっき譫言というか寝言で『とうか』って言ってましたけど、あれって人の名前か何かですか?」
「んっ!? んぅっ……ぐ」
薬を飲もうとして口に水を含んでいた雪成は思い切りむせた。水も薬も無事に飲み込めたが、咳が止まらない。
「ちょっ、ちょっと!? 大丈夫ですか」
「は……。俺、声に出してたんですか……」
「はい。必死に呼んでる感じで」
「最悪だ」
咳をしながら、雪成は布団に横になる。
「絶対誰にも言わないでください」
「わ、分かりました……。あのー、もしかして前に描いてた絵の子?」
「先生を主治医から外すように父に進言しようかな」
「分かりました。詮索しませんからそれだけはやめてください」
万物を知るとされる白澤。とはいえ、人の交友関係のようなものまでお見通しというわけではない。知識欲はたっぷりなので人の秘密なども知りたがるが、相手が探るなと言えば弁える程度の常識は持っている。飄々とした態度で雪成をからかうこともあるが、流石の白澤もこの街でのいい暮らしを維持するためには深水家との繋がりを失いたくはなかった。
また様子を見に来ますと言って、良岑医師は逃げるように寝室を出て行った。廊下をぱたぱたと駆けて、そして、玄関の戸の開閉音が聞こえる。
「あの鼬が変なことを言うから……!」
あの日、火車と対峙した燈華が雪成を振り返って言った言葉。だって私、まだ……。
その先を思い出した雪成の顔が、鍋に放り込まれた海老のように赤くなった。熱があるからではない。別の熱さが、顔に広がった。両手で顔を覆い、それから頭を抱える。
「あぁ……。あぁっ! なんなんだよ、あいつ……。あいつのせいで、俺は……。おかしくなってばかりじゃないか……」
自分は化け物の血をその身に流す変な人間である。こんな人間に構わなくてもいいのに。雪成はそう思っていた。思っていたが、ここ数ヶ月を楽しく感じている気がするのは事実だった。
離れに籠って絵を描いて、時々こっそり抜け出して。そんな風に一人で過ごしていた時には見えなかった景色が、燈華と過ごすうちに雪成の中に思い出として積み重なっていた。他愛もない話をして、お菓子を食べて、縁側に並んで庭を見て、神社にも行った。いつしか、自分の名前を呼んでにこりと笑うふわふわから雪成は目を離せなくなっていた。
燈華は雪成のことを陸に繋ぎ止めてくれた存在だった。あの日、運河で彼女を拾わなければ。今頃、雪成は海の藻屑になっていた可能性だってあったのだ。祭りの最終日も、彼女が来なかったら火車に食われていただろう。貴方は命の恩人なのよ、と義理堅くお人好しな鼬は熱心に言う。しかし、それは雪成にとっても同じだ。燈華はまるで、冷たい海の底からも道標にできる暖かな灯火のようだった。
雪成はぼんやりと天井を見上げる。夢の中でそうしたように、上の方に手を伸ばした。手は虚空を掴んで、掛布団の上に下りる。
「……あいつは俺と友人になりたいのだろうか」
友達ではないと言った時、燈華はちょっぴり不満そうだった。
「でも……。好きって言ってたな……。……好き、って。……俺は。……俺は?」
燈華が改めて言葉を伝えて来たら、それを聞いて自分は何を言ってやればいいのだろう。声になっていないただの音を口から出して、雪成は布団を被った。
「なんなんだよ、あいつ……」
なんだか、一気に熱が上がったような気がした。頭まですっぽりと布団を被って丸くなって、雪成はしばらくの間懊悩して唸っていた。

