街中ならばすぐに誰かが怪異課を呼んでくれるだろうが、雪成がこっそり絵を描く場所に選ぶような荒廃した屋敷跡では誰も気が付いてくれない。花火が揚がり始めていて大きな音が響いているため、助けを求めても壊れた塀の外まで声は届かないだろう。

 火車はしばらく燈華の方を見ていたが、再び雪成に顔を向けた。

「ニ……ニ、ニ、ニンゲン……。ヒ、ひ、人の子……。食べレば、きッと……お腹モ……」

 喘ぐような荒い呼吸と共に、涎が溢れ出る。腹が減っているのか、居合わせた人間の方を食らうつもりのようだ。小さな鼬程度では腹は満たされない。

「く、来るな。俺なんかたぶん絵の具臭いし魚臭くて不味い。いや、待てよ。猫だから魚を……あっ」

 草の上に上半身が出ていた雪成の姿が、燈華から見えなくなってしまった。火車と距離を取ろうとした雪成が足をもつれさせて転倒したのだ。人間の足がしっかりとそこにあるのに、腰が抜けて立ち上がることができない。

 この大きな猫を相手に、小さな鼬の自分は善戦できるだろうか。燈華は臨戦態勢を取るが、体全体が恐怖で震えそうだった。今にも涙が零れそうである。

 でも。

 でも、私が――。

 私が、彼を守らないと。今、ここにいるのは私達だけ。彼は人間だから、私が守ってあげないと。大切な人を、こんなところで失いたくない。だって私、まだ……。

 燈華は全身の毛を逆立たせて、周囲に無数の火の粉を散らす。黒煙が昇り、そして、小さな火の玉のようになって火車に飛び掛かった。雪成に迫りつつあった巨体が不意打ちでバランスを崩し、燈華を巻き込んでごろごろと転がって行く。

「君っ! 君、大丈夫か」
「雪成さんは逃げて!」

 炎上する荒れ果てた庭で、燃え上がる猫と鼬が取っ組み合いを始めた。しかし、最初の不意打ち以降燈華は防戦一方で、ぎりぎりで攻撃を回避するのが精いっぱいだ。炎の中は平気。けれど、爪や牙が当たればひとたまりもないだろう。

「う、動けないんだ。情けないんだが腰が抜けてしまって」
「じゃあ私が時間稼ぎをするから! 動けるようになったらすぐに逃げて!」
「俺を置いて、動ける君が逃げればいい」

 二股に分かれた太い尻尾が当たり、燈華は地面に転がされた。

「か……勝てるわけがない……。君、死ぬぞ……」

 振り下ろされた火車の前足を、燈華は身を翻して躱す。

「私が逃げたら雪成さんが食べられる! それは駄目! 私、私、貴方にここで死んでほしくない! だって……」

 だって、私――。

 ひときわ大きな火花が燈華から広がった。一匹の貂が放てるのは、これが限度。一匹の火では家なんて燃やせないが、火車を一瞬怯ませることくらいはできる。

 相手の動きが止まった隙に、燈華は雪成を振り返った。燈華の顔は恐怖で引き攣っていた。しかし、雪成を視界に捉えた瞬間僅かに目元が笑う。火の粉と一緒に涙が数粒散った。

「だって私、まだ……。まだ、貴方に、貴方のことが好きだって伝えられてないんだからっ!」

 再び火車に向き合って、燈華は攻撃を回避する。

 枯れた草木が激しく炎上する庭の中で、雪成はへたり込んでいた。目を丸くして、ぽかんと口を開けて、獣と獣が戦っている様を眺めている。

 人間の足はここにある。だから動いてくれと、念じる。動かなければ、火車と燈華の戦いがどうにかなる前に迫りくる炎に飲まれて死んでしまうだろう。初めて陸に上がった人魚が初めて得た人間の足で浜辺に立つように、雪成はふらつきながら立ち上がった。

「それなら……。それならっ」

 絶体絶命の危機なのに、前向きな気持ちに胸が高鳴っていた。燈華の言葉に奮い立たされるように、体が、心が、大きく動く。

「それなら、君もここから無事に脱出しなければならないだろう! 俺だけが逃げて、君がそいつにやられて死んだら、俺はそれを誰から聞けばいい!」

 何か策はないか。炎と草ばかりの庭を見回した雪成の目に、外から引き込んでいる水路が留まる。

「火車。人間はこっちだ」

 燈華を弾き飛ばして、火車が方向転換した。雪成に狙いを定める。

「雪成さん、危ないわ」
「……来い!」

 声が震えていた。とんびの裾をぎゅっと握って気合を入れてから、雪成は水路へ向かって駆け出す。そして。

「冬にはやりたくないが仕方ない。……おいで、俺のところまで」

 雪成は火車を振り向いて、挑戦的な笑みを浮かべて後方へ跳んだ。

 水路に入った草履の足元から、ぶわりと鱗が広がる。水飛沫と共に無数の鱗が徐々に形を作り、水かきのある手が現れ、魚の体が現れ、尾ひれが現れ、人間離れした赤い瞳が現れ、揺蕩う波のような青みがかった長い髪が現れる。

 まさに、変化だった。妖怪の燈華にできない変化を、人間の雪成が見事にやってのけた。

「変わっ、た……」

 人魚の姿に変わるところを見るのは初めてだった。煤塗れで掠り傷だらけで地面に落ちていた燈華は起き上がり、目を輝かせて炎の向こうの人魚を見つめた。着物に隠れている部分は見えないが、捲れた袖から腕が覗き、袴からは人間の足よりも長い魚の部分が外に出ている。黒曜石や黒瑪瑙のような光沢のある黒色の鱗は周囲の炎を受けて赤く光っていた。

 先程までそこにいた人間の姿が変わってしまったのだから、火車が驚かないはずがなかった。混乱したまま、勢い余って水路に頭から落ちる。片輪が水路にはまり、もう片輪が空回りし、猫又の部分は水にもがき、すぐ近くにいるはずの人間だった人魚に爪も牙も届かない。纏っていた炎も、雪成が尾ひれを振るって浴びせかける水でほとんど消されてしまった。

 燈華は水路に駆け寄る。火車は暴れているが、上手く身動きが取れないのでひとまず安心というところだろう。油断することはできないが、燈華は少しだけほっとした。

「雪成さん、怪我はない?」
「俺は大丈夫だ。……少し、腕を火傷したかもしれないが……この程度ならば問題ないだろう。それよりも君は」
「掠り傷よ、なんともないわ」

 薄汚れた鼬は、水の中の人魚を見下ろして笑う。その顔には疲弊の色が濃く浮かんでいた。

「君、結局来たんだな。でも、君がいてくれたから助かった。そうでなければ今頃俺はこいつの腹の中だ。お尋ね者の燃える車輪とはこれのことなのかもしれないな」
「このままにしておいていいのかしら。誰かを呼びに私達がこの場を離れたら、抜け出してどこかへ行ってしまうかも……。え……?」

 もがいていた火車の動きが小さくなり、止まる。そして、その姿がぽんと変わった。車輪が消え、体は縮み、小さな小さな子猫になって水に落ちた。

「そんな、まさか……。ねえ、拾ってあげて。その子死んじゃう」

 先程まで自分に殺意を向けていた相手のことを、雪成は躊躇いがちに水の中から掬った。ぐったりとしている子猫に、燈華は見覚えがあった。深く交流のある家の者ではないが、通りで鞠遊びをしている姿を見かけたことがある。昨夜、母猫又が探していた子猫又である。

「おい、これ子供だろう。どうするんだ、これ」
「も、もし、その子が例の車輪だったら……たぶん、良くて大人になるまで塀の中だと思う……」
「良くて……? 妖怪が大人になるまでって、相当……。死者は出ていないんだろ」
「子供だから、良くて、そうなの。社会の仕組みを理解しているはずの大人なら、有無を言わさず退治されて終わりだわ」

 燈華は迷うように口を開く。小さな子供を前にして、残酷なことを言いたくなかった。

「私達は……。この国の妖怪は人間と共に暮らすと決めた時、自分達に重い枷をかけたのよ。その決まりの中で生きることを決めたの。人間なんて全部食べてしまっても良かったのに、一緒に生きてあげようって思って決まりを作ったの。決まりを守れないなら、その人はもうこの国の人じゃなくてただの化け物なの。そうやって、そうやって何百年も何千年も、妖怪達は暮らして来た。そういうものなの。見たでしょ、雪成さんも。火車は危険な妖怪よ。私も、貴方も、命を落としかねなかった。その子は……その子は、化け物なの……」

 深刻そうな顔で黙って燈華を見ていた雪成は、不意に燈華のことを掴んだ。

「あっ、え?」
「随分と火の手が回っている。歩いて外には出られない。水路を抜けるぞ」

 外から水を引き入れているのなら、それが出て行く先もあるはずである。燈華と子猫を抱えて、雪成は水路を通って燃え続ける屋敷跡から脱出した。

 そして適当なところで止まり、燈華と子猫を道路に上げた。子猫はぐったりとしたまま震えていて、何も言わない。

 おい、火事だ! と、近隣の住人がようやく気が付いたらしく騒ぎ始めた。この場からはさっさと撤退した方が良さそうである。

「この子は近くの交番まで私が連れて行くわ」
「そうか。分かった。後は警察の仕事だな」
「……雪成さんに……大きな怪我がなくてよかった」

 そう言っているうちに声は震え、丸い目からぽろぽろと涙が零れ落ちた。安心したのかもしれないし、戦った甲斐があったと誇らしかったのかもしれないし、今になって怖かったことを思い出したのかもしれないし、たくさん頑張って疲れてしまったのかもしれない。燈華は体も震わせて、前足で顔を覆う。

 水から上がって人間の姿に戻った雪成は泣き出した燈華を前にぎょっとしていたが、しばし悩んだ後にそっと左手を伸ばした。ごわごわの毛に、びしょ濡れの指が絡む。

「こんなに傷だらけになって……。……ありがとう」

 前足を顔から離した燈華の目に、雪成の姿が映る。水分を含んだとんびや着物が重そうで、髪も顔も濡れている。びしょ濡れだから、彼の顔から滴るのがただの水滴なのか他のものなのかは分からなかった。

 雪成の手が燈華の顔を撫でる。

 よかった。彼は、ここにいる。

 傷に沁みる水なんて、気にならなかった。燈華は自分に触れている雪成の手にそっと前足を添える。

「ありがとう、燈華」

 雫が二つ交わって、一筋になって燈華の頬に伝った。