明くる日。燈華は深水邸を訪ねていた。
雪成は燈華が到着した時には既に絵を描き始めており、ずっと庭の方を向いている。畳の上に座る燈華のことを特別気にしている素振りなど一切見せず、誰も来ていないかのように作業を続けていた。それでも、こうして同じ場所にいるだけで燈華は楽しい気持ちになった。
「雪成さん」
「何」
「私達って……お友達?」
雪成はキャンバスから顔を上げる。顔は上げたが、視線の先は庭だ。葉がすっかり落ちた晩秋の木々がキャンバスに描かれている。寂し気な景色だった。
「……顔見知り」
「そ、そっか……」
大豊穂景神社で佐雅に友人なのかと訊ねられた際にも、友人ではないと雪成は答えていた。
「俺達は偶然都合のいい時間が合致して、偶然顔を合わせることができているだけ。ただの顔見知り」
「そう、ね……」
「困るだろう、君も……。俺みたいな厄介な事情のやつと友達なんかになったら。誰かに知られたら面倒臭いことになりかねない」
そんなことはない。言おうとしたが、言えなかった。燈華は畳に丸くなりながら膨れっ面になる。言いたいことを言えない自分がもどかしかったし、雪成がこちらを全く見ずに答えたのがちょっぴり悔しかった。彼の関心は絵に向いている。
「神社は困らないだろうから放っておけばいいとは言った。けれど、実際に何かあったら君は困るだろ。……ただの顔見知りなら、それなりに言い繕える」
雪成は基本的に優しいが、時折燈華のことを遠ざけるような態度を取った。これ以上は近付かないでくれという警戒のようでもあったし、これ以上深く交流するなと自分を律しているようでもあった。会話をしている時も、お菓子を食べている時も、神社へ行った時も、雪成は自分の感情を抑え込んでいるように見えた。その堰が壊れて不意に零れ出る柔らかな笑みに、燈華は心を揺さ振られた。
けれど、もう少しだけ彼の本心に触れてみたかった。雪成の本心というものは御曹司然とした澄ました表情のずっと奥深くに仕舞い込まれていて、容易に感じ取れるものではない。今も、一瞬ちらりと燈華を振り向いた顔はつんとした作られたお坊ちゃんのものだった。
私は雪成さんと友達になりたいの? 分からない。でも、まずはそこから。ただの顔見知りならおかしいかもしれないけれど、友達ならお祭りに誘ってもおかしくない。でも……。でも、雪成さんは、私みたいな獣が顔見知り以上になろうとしたらやっぱり嫌なのかしら。今が、丁度いいの?
両前足で頭を抱えながら自問自答する燈華がぐねぐねと身悶えしているが、背を向けている雪成は全く意に介さない。畳の上でふわふわした茶色い毛の塊が不可解な動きをしている様が、静かに絵を描く青年の背後で展開されている。
転がりながら起き上がり、雪成の背中とキャンバス越しに燈華は庭を見た。冷たい風が吹いている。秋ももうすぐ終わりである。
「冬になったら何を描くの? 雪が積もったら真っ白でしょう? 縁側にいたら寒くなるし」
「冬は屋内で静物画を描くことが多い。年末年始になれば弟が帰って来るから、いつも通りならその時にモデルになりそうな置物とかを買って来てくれるはずだ」
「弟さんもいるのね」
「……あぁ。帝都の学校に通う、深水家の優秀な跡取りだ。俺がこんなんだから、全部背負わせてしまって申し訳ないと思っている」
雪成は手を止めて燈華を振り返った。
「あいつはよく頑張っているよ」
「帝都! 私の兄もね、帝都の学校に通っているのよ。一緒ね」
「へぇ、それはすごいな」
素直に感嘆の声を漏らす雪成を見て、燈華は自分自身のことのように誇らしく思った。勉強熱心な兄、燐之介は人間に混じって帝都の学校で経営や経済の勉強をしていた。いずれその知識が店を支えるためになるだろうと、燐之介はいつも得意気に語っている。
きょうだいはどんな感じ? というような話をしながら、この日は時間を潰した。
帰り際、祭りの話をしそびれたなと思っていた燈華は雪成に呼び止められた。では、今話そう。そう思って振り向くと、雪成はキャンバスを手にしていた。
「えっ」
「絵だが」
雪成が今日描いていた庭の絵はまだイーゼルの上に載せられている。手にしているのは、高台から見下ろした雫浜の街の様子を描いた絵だった。わざわざ作業部屋から持ってきたようだ。夜の間にこっそり屋敷を抜け出して少しずつ描き進めた絵は、完成まであともうひと頑張りといったところである。
「この絵を近いうちに完成させようと思っている。……近々祭りがあるだろう。祭りの最終日、海に揚がる花火を描き込みたい。日程を教えてくれないか。俺は外の情報には疎いから」
秋の終わり、冬の始め。雫浜の空には花火が揚がる。雫浜を代表する、冬を告げる白妙燭光祭りである。
豪雪地帯に片足を踏み込んでいるようなこの街は冬が長い。人魚によって引き起こされた大水害からあまり経っていない頃、凍える季節を乗り切る気合を入れるため、大水害を越えて皆の気持ちを一つにするため、なけなしの金を出し合って小さな花火を揚げたのが始まりと言われている。空には花火を揚げ、地上では波に攫われた無数の命への鎮魂と街の復興への祈りを込めて蝋燭に火を灯した。やがて花火の数も蝋燭の数も増え、徐々に規模が大きくなっていく。空は賑やかに光り輝き、地上には光の道が出来上がり、再整備された運河沿いには屋台が並び、舗装された通りを神輿や山車が練り歩き、活気を取り戻した街には観光客が数多訪れるようになる。神社街が協力して取り掛かっている祭りであり、今では楽しい冬の催し物である。
これは、自分が誘う前に誘われたのでは? 燈華は全身の毛を爆発させて火花を散らす。
「さ、再来週の土曜日よ。木曜日から始まって、お祭りは三日間だから」
「そうか」
「あの、よかったら私も一緒に……。花火を描いているところを見てみたいんだけど」
お祭りに行かない? という言葉が出て来なくて、頑張って絞り出したのはそんな言葉だった。屋台や山車、蝋燭の道はまた今度でいい。せめて、雪成が見たがっている花火だけでも。
期待の眼差しを向ける燈華のことを見下ろして、雪成は首を横に振った。
「夜にここまで来るつもりか。俺が絵を描くのは人目に付かないような場所だ。君みたいな年の女の子が一人で夜道を歩くのは危ない」
「子供じゃないわ」
「君、女学生……十五とか十六くらいだろう。俺は十九だけど保護者を務められる自信はない」
「私、雪成さんよりずっと年上よ」
「それでも妖怪にとっては年頃の女の子だろ。君は友達や家族と人の多いところで絵蝋燭でも屋台でも見ていればいい」
今日はもう帰りな。いつもの言葉を言って、雪成は燈華のことを強引に見送った。
雪成は燈華が到着した時には既に絵を描き始めており、ずっと庭の方を向いている。畳の上に座る燈華のことを特別気にしている素振りなど一切見せず、誰も来ていないかのように作業を続けていた。それでも、こうして同じ場所にいるだけで燈華は楽しい気持ちになった。
「雪成さん」
「何」
「私達って……お友達?」
雪成はキャンバスから顔を上げる。顔は上げたが、視線の先は庭だ。葉がすっかり落ちた晩秋の木々がキャンバスに描かれている。寂し気な景色だった。
「……顔見知り」
「そ、そっか……」
大豊穂景神社で佐雅に友人なのかと訊ねられた際にも、友人ではないと雪成は答えていた。
「俺達は偶然都合のいい時間が合致して、偶然顔を合わせることができているだけ。ただの顔見知り」
「そう、ね……」
「困るだろう、君も……。俺みたいな厄介な事情のやつと友達なんかになったら。誰かに知られたら面倒臭いことになりかねない」
そんなことはない。言おうとしたが、言えなかった。燈華は畳に丸くなりながら膨れっ面になる。言いたいことを言えない自分がもどかしかったし、雪成がこちらを全く見ずに答えたのがちょっぴり悔しかった。彼の関心は絵に向いている。
「神社は困らないだろうから放っておけばいいとは言った。けれど、実際に何かあったら君は困るだろ。……ただの顔見知りなら、それなりに言い繕える」
雪成は基本的に優しいが、時折燈華のことを遠ざけるような態度を取った。これ以上は近付かないでくれという警戒のようでもあったし、これ以上深く交流するなと自分を律しているようでもあった。会話をしている時も、お菓子を食べている時も、神社へ行った時も、雪成は自分の感情を抑え込んでいるように見えた。その堰が壊れて不意に零れ出る柔らかな笑みに、燈華は心を揺さ振られた。
けれど、もう少しだけ彼の本心に触れてみたかった。雪成の本心というものは御曹司然とした澄ました表情のずっと奥深くに仕舞い込まれていて、容易に感じ取れるものではない。今も、一瞬ちらりと燈華を振り向いた顔はつんとした作られたお坊ちゃんのものだった。
私は雪成さんと友達になりたいの? 分からない。でも、まずはそこから。ただの顔見知りならおかしいかもしれないけれど、友達ならお祭りに誘ってもおかしくない。でも……。でも、雪成さんは、私みたいな獣が顔見知り以上になろうとしたらやっぱり嫌なのかしら。今が、丁度いいの?
両前足で頭を抱えながら自問自答する燈華がぐねぐねと身悶えしているが、背を向けている雪成は全く意に介さない。畳の上でふわふわした茶色い毛の塊が不可解な動きをしている様が、静かに絵を描く青年の背後で展開されている。
転がりながら起き上がり、雪成の背中とキャンバス越しに燈華は庭を見た。冷たい風が吹いている。秋ももうすぐ終わりである。
「冬になったら何を描くの? 雪が積もったら真っ白でしょう? 縁側にいたら寒くなるし」
「冬は屋内で静物画を描くことが多い。年末年始になれば弟が帰って来るから、いつも通りならその時にモデルになりそうな置物とかを買って来てくれるはずだ」
「弟さんもいるのね」
「……あぁ。帝都の学校に通う、深水家の優秀な跡取りだ。俺がこんなんだから、全部背負わせてしまって申し訳ないと思っている」
雪成は手を止めて燈華を振り返った。
「あいつはよく頑張っているよ」
「帝都! 私の兄もね、帝都の学校に通っているのよ。一緒ね」
「へぇ、それはすごいな」
素直に感嘆の声を漏らす雪成を見て、燈華は自分自身のことのように誇らしく思った。勉強熱心な兄、燐之介は人間に混じって帝都の学校で経営や経済の勉強をしていた。いずれその知識が店を支えるためになるだろうと、燐之介はいつも得意気に語っている。
きょうだいはどんな感じ? というような話をしながら、この日は時間を潰した。
帰り際、祭りの話をしそびれたなと思っていた燈華は雪成に呼び止められた。では、今話そう。そう思って振り向くと、雪成はキャンバスを手にしていた。
「えっ」
「絵だが」
雪成が今日描いていた庭の絵はまだイーゼルの上に載せられている。手にしているのは、高台から見下ろした雫浜の街の様子を描いた絵だった。わざわざ作業部屋から持ってきたようだ。夜の間にこっそり屋敷を抜け出して少しずつ描き進めた絵は、完成まであともうひと頑張りといったところである。
「この絵を近いうちに完成させようと思っている。……近々祭りがあるだろう。祭りの最終日、海に揚がる花火を描き込みたい。日程を教えてくれないか。俺は外の情報には疎いから」
秋の終わり、冬の始め。雫浜の空には花火が揚がる。雫浜を代表する、冬を告げる白妙燭光祭りである。
豪雪地帯に片足を踏み込んでいるようなこの街は冬が長い。人魚によって引き起こされた大水害からあまり経っていない頃、凍える季節を乗り切る気合を入れるため、大水害を越えて皆の気持ちを一つにするため、なけなしの金を出し合って小さな花火を揚げたのが始まりと言われている。空には花火を揚げ、地上では波に攫われた無数の命への鎮魂と街の復興への祈りを込めて蝋燭に火を灯した。やがて花火の数も蝋燭の数も増え、徐々に規模が大きくなっていく。空は賑やかに光り輝き、地上には光の道が出来上がり、再整備された運河沿いには屋台が並び、舗装された通りを神輿や山車が練り歩き、活気を取り戻した街には観光客が数多訪れるようになる。神社街が協力して取り掛かっている祭りであり、今では楽しい冬の催し物である。
これは、自分が誘う前に誘われたのでは? 燈華は全身の毛を爆発させて火花を散らす。
「さ、再来週の土曜日よ。木曜日から始まって、お祭りは三日間だから」
「そうか」
「あの、よかったら私も一緒に……。花火を描いているところを見てみたいんだけど」
お祭りに行かない? という言葉が出て来なくて、頑張って絞り出したのはそんな言葉だった。屋台や山車、蝋燭の道はまた今度でいい。せめて、雪成が見たがっている花火だけでも。
期待の眼差しを向ける燈華のことを見下ろして、雪成は首を横に振った。
「夜にここまで来るつもりか。俺が絵を描くのは人目に付かないような場所だ。君みたいな年の女の子が一人で夜道を歩くのは危ない」
「子供じゃないわ」
「君、女学生……十五とか十六くらいだろう。俺は十九だけど保護者を務められる自信はない」
「私、雪成さんよりずっと年上よ」
「それでも妖怪にとっては年頃の女の子だろ。君は友達や家族と人の多いところで絵蝋燭でも屋台でも見ていればいい」
今日はもう帰りな。いつもの言葉を言って、雪成は燈華のことを強引に見送った。

