畳の上を忙しなく二本の足が動いている。着物の裾から覗く足はしばらく行ったり来たりしていたかと思うと、立ち止まって近付いて来た。

「お姉ちゃん、そこにいたら邪魔」

 眠っている燦悟と並んで転がっている燈華のことを見下ろして、燎里は言う。

「ねえ、お姉ちゃんも手伝ってよ。荷物がたくさん届いたんだから」
「燎里」
「なあに?」
「人間の姿に変化するのって、難しい?」
「うーん、どうだろう。そんなに難しくはないんじゃないかな。えい、ってすればできるし……。車とかになっちゃう人いるでしょ? そっちの方が難しいと思うよ」
「そっか。簡単なのにできないんだ私は」
「ど、どうしたの。そんなの気にするお姉ちゃんじゃないじゃん」
「……どうしちゃったんだろうね」

 燈華は起き上がると、燦悟を咥えて燎里の前から立ち去った。

「変なお姉ちゃん」

 雪成と共に大豊穂景神社へ行って、数日。燈華はぐんにゃりと畳に転がって考え込んでいることが多くなった。

 家柄も、身分も、種族も、何もかも違うことは分かり切っていたのに。分かっていても会いに行きたいと思って、話をしていると楽しくて、一緒に出かけることができて嬉しかった。

 私が人間の姿に変化できれば、少なくとも人間には不審がられずに共に歩けるのかしら。そもそも、私は彼とどうしたいの?

 ごろごろと畳の上を転がっていても、答えは出ない。けれど転がることしかできなくて、燈華はひたすら転がった。

 サリィに言われた言葉が、思っていたよりも重くのしかかっていた。通常、雪成は燈華にとってとんでもない高嶺の花なのだ。偶然運河で出会って、お礼の品を届けて、だらだらと関係が続いているだけに過ぎない。屋敷に侵入していることが深水家の者に知られたら、追い出されてしまうだろうということも想像に難くない。

「私が人間だったら……。ううん、せめて人間に化けられたら……」

 子供部屋に燦悟を寝かせて、燈華は店の方へ戻る。仕事をして気を紛らわせよう。そう思った。

 荷物が届いたとのことで、従業員達が箱や包みを手に行ったり来たりしていた。皆鼬の妖怪で、人間の姿に化けている。

 従業員達の足の間を縫って進み、確認作業に当たっている母に歩み寄る。

「お母さん、私は何をすればいい?」
「燈華、丁度良かったわ」

 母が差し出して来たのは手紙だった。

「稲坂さんの注文していた着物が出来上がって届いたところなの。『できました』って手紙を書いたから、ポストに出しに行ってくれる?」
「サリィさんの……。分かったわ」

 母は手紙を風呂敷で包み、燈華の背に括りつけた。

「お願いね」

 運河と店を行き来する従業員と小豆洗いの間を抜けて、燈華は道を進む。妖怪の商家が並ぶ通りは今日も賑やかで、商売に励む店員の声と買い物を楽しむ客の声が響いていた。

 大通りから見て燈華達の暮らす通りの始点に当たる場所に貸本屋があり、その前に郵便ポストがある。燈華が到着すると、店頭では一つ目小僧が目を皿のようにして本を選んでいた。店主の姿は見えないようだが、一つ目小僧の横で木の枝が風に揺れている。

 風呂敷の結び目を解き、燈華は背伸びをして封筒をポストに投函する。

「あら、燈華ちゃん。今日は本はいいの?」

 ポストの裏手に咲いている季節外れ過ぎる椿の花が笑うように揺れた。店主の古椿(ふるつばき)(れい)、すなわち椿の妖怪である。別の古椿の霊がこの地に落としていった種子から生まれ、生まれながらにして妖怪である椿だ。貸本屋の店内中央には床に穴が開いていて、椿の木が生えている。伸びた枝は壁を伝って外まで広がり、建物全体を覆う。

井瀬(いせ)さん。今日は郵便をポストに入れに来ただけだから」
「あら、そうなの」
「おばさーん、この本にするー」
「こら! お姉さんでしょ!」

 燈華の前で咲いていた花が萎み、一つ目小僧の横にあった枝から花が咲いた。季節外れの花を自由自在に咲かせながら、店主の井瀬は客とやり取りをする。

 帰ろうとして、やっぱり本が気になるな、と足踏みをしている燈華の頭上から声が降って来た。

「やあ、何か面白い本はありますか」
「あら、公透先生」

 目当ての本を手に嬉しそうな一つ目小僧が去り、代わりに貸本屋に現れたのは稲守先生だった。いつも通りのカンカン帽に背広姿で、今日はおしゃれなストールを首に巻いている。

「先生」
「おっ、燈華さんも本探しかな?」
「いえ、私はポストに用があって。……あっ。サリィさんの着物ができたんです。そのお知らせの手紙を今出したところで……」
「おや。それならもう少しだけ早く来て私が直接手紙を受け取った方がよかったね。佐雅には迅速に取りに行かせるよ」

 ご自由にご覧下さい、と言って花が萎む。井瀬は店の奥に引っ込んだらしい。

 先生は取りやすい位置にあった本をいくつか漁りながら、燈華に声をかける。今度こそ帰ろうと思っていた燈華は先生を振り返った。

「佐雅から話を聞いたよ」
「え……」
「沖風さんの部品を届けてくれたそうだね。ありがとう」
「あっ、はい……」

 雪成と共にいたことは先生には伝えていないのだろうか。燈華は様子を窺って先生を見上げるが、先生の視線は本の方を向いている。

「犯人も早く見付かるといいんだけれどね」
「やっぱりお尋ね者の車輪なんでしょうか」
「その可能性は高いと思う。先日も人間が一人重傷を負ったらしいし、我々も気を付けなければならないね。全く、怪異課は何をやっているんだか」

 先生は本を一冊手に取った。表紙には『変化基礎・壱』と書かれている。妖怪の学校で使われている教科書で、変化の能力を持っている妖怪を対象にした選択科目で用いる。

 元は高名な狐が記した難解で崇高な変化術の解説及び指南書『変化学大全(へんげがくたいぜん)狐狸(こり)虎の巻』で、分厚くて百冊以上ある異常な書物だ。子供の妖怪の教育に使える部分を抜粋し、分かりやすく簡略化した物が現在教科書として流布している物である。『変化学大全』自体は第二図書館の閉架に収められている。

 貸本屋にあった教科書は少し古い版らしく、燈華が普段目にしている燎里が使っている教科書とは表紙の絵が異なる。

「これ古本販売コーナーの本じゃないですか?」
「あらやだ。横に置いておいて、先生」

 店の奥から井瀬の声が聞こえた。先生は言われた通りに棚の端の方に古い教科書を置く。

「あ、あのっ。それを読み込んだら私も……。先生っ、私も、それを一所懸命に読んだら変化ができるようになりますかっ」
「どうして急にそんなことを? 燈華さん、いつもはそのことあまり話さないけれど」
「前に……前に、水妖を探している話をしたじゃないですか。そ、その人を見付けたんです。たまに会うようになったんですけど、その人はいつも人間に化けているので、私が一緒に歩くと浮いちゃうなと思って……」

 事実と虚実を織り交ぜながら、燈華は先生に事情を話す。

「そっか……。その水妖とは仲良くやっているのかな」
「い、一応?」
「水妖は燈華さんに、『鼬の姿は嫌だから人間に化けて』って言っているの?」
「いいえ。でも、私は、私が浮いちゃうなって思ってて」
「燈華さんの気持ちは燈華さんが自分で考えることだけれど、相手の水妖は今の燈華さんの姿が気に入っているんじゃないのかな。それか、無理して変化できるように頑張るようなことはしないでほしいと思っているとか。今できないことに挑戦するのは悪いことではないけれど、頑張りすぎると体も心も疲れてしまうからね」
「先生……先生みたいなこと言うんですね」
「ふふ。先生だからね」

 先生は日々生徒に向けている優しい笑みを燈華に向ける。実年齢よりも随分と落ち着いているように見える先生の表情は、不思議と相手に安心感を与えた。

 稲守公透は美しい雄狐である。佐雅がサリィの姿でくっ付いて回ることで変な虫を追い払っているということに大きく頷いて納得できる、優しく妖しい美貌の男だ。綺麗なのは外見だけではなく、内面も。聞き上手で、寄り添うように話をする。結果、学内では女子生徒どころか男子生徒からも大いに人気があり他の先生からも気に入られている。そんな先生の言葉だからこそ、燈華も丸い耳を向けて抜け漏れのないように聞き入った。

「水妖は、いい家の人なんです。だから、化けられないような私じゃ駄目なのかなとか思って」
「家柄なんて飾りだよ。現に私はこうして街のどこへでも出歩いてぶらぶらするし、そこにいる妖怪や人間がどんな家の人でも普通にやり取りする。礼儀というものはあるから、まあ失礼のない範囲でね。例えば私が稲守の狐だからといって相手が必要以上にかしこまって動いたら、それは私ではなくて家を見られているようでちょっぴり嫌かな」
「でも、いい家の人は家が大事ですよね」
「佐雅とかはそうかもね。彼は私のことも気にしてサリィになっているくらいだから。でも私は自分の好きなようにするのが一番だと思うよ。他の人の迷惑にならない範囲で。だから私は自分のやりたい教師の仕事をしているし、街をうろつくし、それなりに家の手伝いもするわけさ。燈華さんの知人の水妖が現状を嫌がっていないのなら、燈華さんが慌てて無理をする必要はないし、自分の思う速さで好きなように動けばいいんだよ。大事なのは、外聞よりも当事者がどう思っているかだよね」

 あくまで個人的な意見だけれど、と先生は言う。燈華に話をしている間に、先生は何冊も本を見比べて棚の前を移動していた。最初よりも遠くなっている先生に歩み寄って、燈華は見上げる。

「自分の気持ちに素直になって、相手の言葉もちゃんと聞いた方がいい……ってことですかね」
「燈華さんがそう受け取ったのなら、そうすればいいと思うよ。狐に化かされているのだと思えば私の言葉を信じなくていいし、私が教師として青少年に答えているのだと思えばそれを踏まえて自分で考えればいい」

 目当ての本を見付けたらしい先生は、店の奥に貸出料を払いに行った。生い茂る椿の枝葉を潜り抜けた先で井瀬と話をしているのか、なかなか戻ってこない。自分の用は済んだのだから帰ってもいいのに、燈華は店頭で先生を待っていた。なんとなく、待っていたかった。

 少しして、先生が外に出て来た。

「待っていたの?」
「なんとなく。……先生は、今日は本だけですか? 見るの」
「いや、大通りの方にも用があるんだ。蝋燭屋さんに」
「蝋燭?」
「今度の祭りで使うから。絵蝋燭」
「あっ、そうか。そうか。もうそんな時期なんですね」
「そうそう。珍しく神社の仕事で下りて来ているのに、先に自分用の本を借りてしまったんだよ。井瀬さんにも言ったけれど、このことは秘密で頼むよ。やたら気にする上層部に知られたらこの程度でも放蕩息子とか言われるから。全然放蕩してないんだけれど」

 お仕事お疲れ様です、と燈華は大通りへ向かう先生を見送った。

「そっか……。お祭りだ……」

 雪成さんと一緒に見られるかしら。

 淡い期待を胸に、燈華は帰路に着く。