約束の日。燈華が深水邸を訪れると正門の前に豪奢な牛車が停まっていた。
運河の張り巡らされた雫浜では舟を頻繁に使うが、現在の雪ノ宮での一般的な乗り物は主に馬車や人力車である。大都市には鉄道の線路が走り、少し前に異国から伝わって来た蒸気自動車が徐々に広まりつつある。かつて広く使われていた牛車はあまり使われなくなったが、華族や富豪は今でも己の力を誇示するために豪奢な物を用いることがある。
「誰かお客さんでも来ているのかしら」
首を傾げながら、塀の穴を潜って離れに向かう。生垣の下を抜けて顔を出すと、縁側に腰かけている雪成の姿が見えた。
「雪成さん、こんにちは」
「時間通りだな」
普段は簡易な着流し姿で過ごしている雪成だが、今日は袴姿だった。羽織にも美しい玉の飾りが付いた羽織紐が留められていた。いかにも良家のお坊ちゃんという感じだ。足元はぴかぴかの編み上げブーツである。
燈華は池の横を過ぎて縁側に上がる。
時間を確認する雪成は懐中時計を手にしていた。燈華が覗き込むと、雪成は見やすいように懐中時計を持つ手の角度を変えてくれた。
「それ、千冬ちゃんのと似ているのね」
「あぁ、同じ店で注文したから。千冬のは小学校の入学祝に両親があげた物なんだ。俺はずっと家庭教師だったけれど、七歳の誕生日に貰った。深水家の紋と名前が刻印されているオーダーメイドだ」
蓋の部分に紋、裏蓋の端に名前がある。千冬の物には『ふかみちふゆ』とひらがなで名前が記されていたが、雪成が手にしている物には『Yukinari Fukami』と異国の文字で名前が記されていた。蓋を開けると、裏側には雪の結晶の模様が美しく光っていた。中心に小さな透明の石が埋め込まれている。
わぁ、と思わず燈華は声を漏らした。緻密に作り込まれている時計は、もはや芸術品だった。赤い瞳が、周りの色を吸い込んでしまいそうな宝石に釘付けになる。
「綺麗な石」
「金剛石だ。異国では十二の月にそれぞれ宝石が割り振られていて、相手の誕生月に該当する石を贈ることがあるらしい」
「へー、素敵ね。ご両親、雪成さんのこと大切に思っているんだわ」
「そう……。そうだな……。綺麗な石だ。俺もこの石は気に入っている。……そろそろ行こうか」
雪成は懐中時計を閉じて懐にしまう。そして縁側に置いていた山高帽を被り、風呂敷包みを持って立ち上がった。歩き出した雪成に、燈華も続く。
「表に牛車が来ていたの。ご家族の方にお客様でも来ているのかしら」
「……たぶん俺のだ」
「えっ」
「歩いて行くと言ったのに」
ひょいと持ち上げられて、燈華は風呂敷包みと一緒に抱かれた。「ひゃっ」と声が出たが、木片を包んだ風呂敷の余った部分にくるまれてすぐに身動きが取れなくなってしまう。
小動物として抱かれるどころか、荷物扱いである。ちょっぴりムッとしたが、胸に抱かれているという事実を認識して咀嚼しているうちに急に緊張して来た。周りから見えないようにぎゅっと抱かれていて、着物越しに雪成の体温と鼓動が伝わって来る。燈華は身震いをした。今にも目を回してしまいそうだった。
「雪成様、牛車の用意ができています」
「歩いて行こうと思っていたんだが」
「そ、そんな。神社まで徒歩で行ったらお体に障りますよ」
「……分かった。準備ありがとう」
雪成は牛車に乗り込み、後方の簾が下がったことを確認してから燈華を下ろした。
「う……うお……」
「君、どうしたんだ。もしかして苦しかったか」
「だ、大丈夫よ」
ドキドキしていた。強く抱かれて、胸が高鳴った。燈華は前足で顔を押さえて、深呼吸をして息を整える。雪成は目の前の小動物を落ち着かせようと頭を撫でたが、逆効果だった。目を白黒させて燈華は丸くなってしまう。
「君」
「き、緊張しているだけ! 牛車、初めてだから!」
縮こまる燈華と困惑する雪成を乗せて、牛車はゆっくりと動き始めた。
高級住宅街の中を、豪奢な牛車が進む。通りすがりの上品な娘がお付きの者と共に牛車を見送り、「深水様ですわ」と感嘆する。大きな犬を連れて散歩をしていた紳士が立ち止まり、「おや、深水様の牛車だ」と恭しく礼をする。
白を基調とした車体には雪輪文様が施されており、至る所に金色や銀色の装飾が光っていた。絢爛豪華な牛車が進む様は古の絵巻物のようだが、この高級住宅街の中ではしばしば目にするものだった。とはいえ、その辺の富裕層が使うような牛車は単独で見れば素晴らしいが、並べてしまうと深水家の物の足元にも及ばない。この牛車が現れれば、家に素敵な牛車を持つような華族や富豪さえ皆目を奪われた。
小刻みに震えていた燈華が落ち着いてきたところで、黙って見ていた雪成が口を開いた。
「先日」
「あっ、はい!」
「先日、俺にとって君は特別な存在なのかもしれないという話をしただろう」
「う、うん……」
燈華は顔を雪成に向けるが、視線は少しずらしている。
「君は、他とは違う。だから、そう思った。思ったんだが……。俺には、君が分からない……。分からなくなってくる……。君といると、俺は……」
そこで、牛車が神社に辿り着いて停まった。「着きました」と使用人の声がして、降車の準備をする音が聞こえて来た。
「着いたな。行こうか」
「えっ、続きは!?」
燈華は再び風呂敷包みごと抱き上げられた。牛車から降車した雪成は、少し進んでから燈華を地面に下ろす。
「向こうで待つように言ってあるから、ここまで来れば見られないだろう」
「あの、雪成さん、さっきの話の続きは」
「行こう」
神社の入口にそびえる巨大な鳥居の前で一礼をして、雪成はどんどん進んで行ってしまう。燈華はほんのちょっとだけ膨れてから、一礼をして鳥居を潜って後を追った。
大豊穂景神社の参道には大勢の人々が行き交い、露店も出ていた。まるで大きな祭りの最中のようだが、今日は特に何もない日である。街の者も訪れるし、観光客も訪れる。燈華は人間と人間の足の間を縫うようにして歩く。
「あっ。ラムネが売ってるわ。でも、もうそろそろ寒いから外で飲むのは……。……あれ」
余所見をした隙に、雪成のことを見失った。
「ゆっ、雪成さんっ!」
こんな人混みの中ではぐれてしまっては大変だ。そう思って追い駆けていたのに、はぐれてしまった。ちょこまかと動き回る鼬のことを、道行く人間や妖怪は「おっと危ない」などと言いながら避けている。
一緒に出かけられると思って、浮かれていたのかもしれない。そのせいで注意力が散漫になって、折角一緒に来たのに結局離れ離れになってしまった。なんだかずっと緊張しているようで気持ちが落ち着きそうで落ち着かないし、全体的にふわふわした感じだ。
あぁ、私、しっかりしなきゃ。
燈華は一旦立ち止まって、両前足でぺちぺちと頬を叩いた。その間にも周りの人々はどんどん入れ替わって景色が変わって行く。
「雪成さんを探さないと」
後ろ足で立ち上がって辺りを見回すが、鼬の背丈では先の方が全く見えない。
「ゆ、雪っ――」
「おっとごめんよ」
「ママー、ママどこー」
「あれ美味しそう!」
「素敵な社殿だったなぁ」
声がかき消される。
雑踏の中の自分が随分と小さな存在のように感じられて、燈華は思わず身震いした。このまま、もう二度と雪成に会えないのではないか。一緒に来たのに。
人間の姿になれたら、はぐれなかったの?
雪成が絡むと、気になってしまう。雪成が関係ない時は全くと言っていいくらい気にならないのに。人間の姿に変化して、あの人と並んで歩きたいと、思ってしまう。
とぼとぼと、燈華は参道を歩き出す。拝殿の方へ行けばいずれ合流できるだろう。そう思った。
鼬よりも小さな妖怪が足元を駆けて行ったが、その姿に気が付くことなく燈華は歩いている。この場で自分が一番小さいもののように思っていて、下に目線が行くことはない。
運河の張り巡らされた雫浜では舟を頻繁に使うが、現在の雪ノ宮での一般的な乗り物は主に馬車や人力車である。大都市には鉄道の線路が走り、少し前に異国から伝わって来た蒸気自動車が徐々に広まりつつある。かつて広く使われていた牛車はあまり使われなくなったが、華族や富豪は今でも己の力を誇示するために豪奢な物を用いることがある。
「誰かお客さんでも来ているのかしら」
首を傾げながら、塀の穴を潜って離れに向かう。生垣の下を抜けて顔を出すと、縁側に腰かけている雪成の姿が見えた。
「雪成さん、こんにちは」
「時間通りだな」
普段は簡易な着流し姿で過ごしている雪成だが、今日は袴姿だった。羽織にも美しい玉の飾りが付いた羽織紐が留められていた。いかにも良家のお坊ちゃんという感じだ。足元はぴかぴかの編み上げブーツである。
燈華は池の横を過ぎて縁側に上がる。
時間を確認する雪成は懐中時計を手にしていた。燈華が覗き込むと、雪成は見やすいように懐中時計を持つ手の角度を変えてくれた。
「それ、千冬ちゃんのと似ているのね」
「あぁ、同じ店で注文したから。千冬のは小学校の入学祝に両親があげた物なんだ。俺はずっと家庭教師だったけれど、七歳の誕生日に貰った。深水家の紋と名前が刻印されているオーダーメイドだ」
蓋の部分に紋、裏蓋の端に名前がある。千冬の物には『ふかみちふゆ』とひらがなで名前が記されていたが、雪成が手にしている物には『Yukinari Fukami』と異国の文字で名前が記されていた。蓋を開けると、裏側には雪の結晶の模様が美しく光っていた。中心に小さな透明の石が埋め込まれている。
わぁ、と思わず燈華は声を漏らした。緻密に作り込まれている時計は、もはや芸術品だった。赤い瞳が、周りの色を吸い込んでしまいそうな宝石に釘付けになる。
「綺麗な石」
「金剛石だ。異国では十二の月にそれぞれ宝石が割り振られていて、相手の誕生月に該当する石を贈ることがあるらしい」
「へー、素敵ね。ご両親、雪成さんのこと大切に思っているんだわ」
「そう……。そうだな……。綺麗な石だ。俺もこの石は気に入っている。……そろそろ行こうか」
雪成は懐中時計を閉じて懐にしまう。そして縁側に置いていた山高帽を被り、風呂敷包みを持って立ち上がった。歩き出した雪成に、燈華も続く。
「表に牛車が来ていたの。ご家族の方にお客様でも来ているのかしら」
「……たぶん俺のだ」
「えっ」
「歩いて行くと言ったのに」
ひょいと持ち上げられて、燈華は風呂敷包みと一緒に抱かれた。「ひゃっ」と声が出たが、木片を包んだ風呂敷の余った部分にくるまれてすぐに身動きが取れなくなってしまう。
小動物として抱かれるどころか、荷物扱いである。ちょっぴりムッとしたが、胸に抱かれているという事実を認識して咀嚼しているうちに急に緊張して来た。周りから見えないようにぎゅっと抱かれていて、着物越しに雪成の体温と鼓動が伝わって来る。燈華は身震いをした。今にも目を回してしまいそうだった。
「雪成様、牛車の用意ができています」
「歩いて行こうと思っていたんだが」
「そ、そんな。神社まで徒歩で行ったらお体に障りますよ」
「……分かった。準備ありがとう」
雪成は牛車に乗り込み、後方の簾が下がったことを確認してから燈華を下ろした。
「う……うお……」
「君、どうしたんだ。もしかして苦しかったか」
「だ、大丈夫よ」
ドキドキしていた。強く抱かれて、胸が高鳴った。燈華は前足で顔を押さえて、深呼吸をして息を整える。雪成は目の前の小動物を落ち着かせようと頭を撫でたが、逆効果だった。目を白黒させて燈華は丸くなってしまう。
「君」
「き、緊張しているだけ! 牛車、初めてだから!」
縮こまる燈華と困惑する雪成を乗せて、牛車はゆっくりと動き始めた。
高級住宅街の中を、豪奢な牛車が進む。通りすがりの上品な娘がお付きの者と共に牛車を見送り、「深水様ですわ」と感嘆する。大きな犬を連れて散歩をしていた紳士が立ち止まり、「おや、深水様の牛車だ」と恭しく礼をする。
白を基調とした車体には雪輪文様が施されており、至る所に金色や銀色の装飾が光っていた。絢爛豪華な牛車が進む様は古の絵巻物のようだが、この高級住宅街の中ではしばしば目にするものだった。とはいえ、その辺の富裕層が使うような牛車は単独で見れば素晴らしいが、並べてしまうと深水家の物の足元にも及ばない。この牛車が現れれば、家に素敵な牛車を持つような華族や富豪さえ皆目を奪われた。
小刻みに震えていた燈華が落ち着いてきたところで、黙って見ていた雪成が口を開いた。
「先日」
「あっ、はい!」
「先日、俺にとって君は特別な存在なのかもしれないという話をしただろう」
「う、うん……」
燈華は顔を雪成に向けるが、視線は少しずらしている。
「君は、他とは違う。だから、そう思った。思ったんだが……。俺には、君が分からない……。分からなくなってくる……。君といると、俺は……」
そこで、牛車が神社に辿り着いて停まった。「着きました」と使用人の声がして、降車の準備をする音が聞こえて来た。
「着いたな。行こうか」
「えっ、続きは!?」
燈華は再び風呂敷包みごと抱き上げられた。牛車から降車した雪成は、少し進んでから燈華を地面に下ろす。
「向こうで待つように言ってあるから、ここまで来れば見られないだろう」
「あの、雪成さん、さっきの話の続きは」
「行こう」
神社の入口にそびえる巨大な鳥居の前で一礼をして、雪成はどんどん進んで行ってしまう。燈華はほんのちょっとだけ膨れてから、一礼をして鳥居を潜って後を追った。
大豊穂景神社の参道には大勢の人々が行き交い、露店も出ていた。まるで大きな祭りの最中のようだが、今日は特に何もない日である。街の者も訪れるし、観光客も訪れる。燈華は人間と人間の足の間を縫うようにして歩く。
「あっ。ラムネが売ってるわ。でも、もうそろそろ寒いから外で飲むのは……。……あれ」
余所見をした隙に、雪成のことを見失った。
「ゆっ、雪成さんっ!」
こんな人混みの中ではぐれてしまっては大変だ。そう思って追い駆けていたのに、はぐれてしまった。ちょこまかと動き回る鼬のことを、道行く人間や妖怪は「おっと危ない」などと言いながら避けている。
一緒に出かけられると思って、浮かれていたのかもしれない。そのせいで注意力が散漫になって、折角一緒に来たのに結局離れ離れになってしまった。なんだかずっと緊張しているようで気持ちが落ち着きそうで落ち着かないし、全体的にふわふわした感じだ。
あぁ、私、しっかりしなきゃ。
燈華は一旦立ち止まって、両前足でぺちぺちと頬を叩いた。その間にも周りの人々はどんどん入れ替わって景色が変わって行く。
「雪成さんを探さないと」
後ろ足で立ち上がって辺りを見回すが、鼬の背丈では先の方が全く見えない。
「ゆ、雪っ――」
「おっとごめんよ」
「ママー、ママどこー」
「あれ美味しそう!」
「素敵な社殿だったなぁ」
声がかき消される。
雑踏の中の自分が随分と小さな存在のように感じられて、燈華は思わず身震いした。このまま、もう二度と雪成に会えないのではないか。一緒に来たのに。
人間の姿になれたら、はぐれなかったの?
雪成が絡むと、気になってしまう。雪成が関係ない時は全くと言っていいくらい気にならないのに。人間の姿に変化して、あの人と並んで歩きたいと、思ってしまう。
とぼとぼと、燈華は参道を歩き出す。拝殿の方へ行けばいずれ合流できるだろう。そう思った。
鼬よりも小さな妖怪が足元を駆けて行ったが、その姿に気が付くことなく燈華は歩いている。この場で自分が一番小さいもののように思っていて、下に目線が行くことはない。

