両前足に掴んだコロベヱ越しに、燈華は雪成のことを見上げる。「そういう恋」に、この人間は関心があるのだろうか。あったとして、それが自分に対して行われることはあるのだろうか。否、そもそも自分が雪成に対して持っている感情も、恋ではないのに。ないのに? 本当に?
つるつるの人間だったら、燈華は耳の先まで真っ赤になっているところである。毛を逆立たせて尻尾から火花を散らす鼬のことを、人間はちょっぴり不思議そうに眺めている。燈華の動揺や混乱は雪成には伝わっていない。
「君は、俺と話をしていると時々そうなるな」
雪成は燈華の尻尾から細く昇っている煙を指し示す。
「俺のことを敵だと思っている」
「ち、違うわよ! 敵なら、こんなにしょっちゅう家に来ないわ」
「じゃあ、なぜ? それは臨戦態勢ではないのか。獣は興奮すると毛を逆立たせて自分を大きく見せ、相手を威嚇すると聞いた」
「こ、興奮……」
燈華は目を泳がせる。どのように答えるのが正解なのか。次第に膨らんだ毛がしぼんで行く燈華を見ながら、雪成はコロベヱの最後の一口を飲み込んだ。
「た、楽しいのよ。楽しいの、雪成さんといると」
「楽しいとそうなるのか」
「そうかも……」
「へぇ」
燈華は残りのコロベヱを口の中に押し込むようにして頬張った。変に意識してしまって、雪成との会話が不自然になってしまうことがあった。自分の気持ちが分からないのに相手の気持ちなんて分かるわけもなく、丁度いい雰囲気が分からない。口一杯のカステラと羊羹はとっても甘いのに、なんだか味もよく分からなかった。
会ったり話したりすれば自分の気持ちが何なのかきっと分かるわ! そんな考えは、甘かった。雪成に会えば会うほど、燈華は挙動不審になった。会えば会うほど、もっと会いたくなった。気持ちが何なのか、はっきりしないまま。
「そういえば、君」
「ん。なあに?」
「件の琴古主が襲われたのはどの辺りなんだ」
「え? どうして?」
「どの辺りなんだ?」
「えっと、確か……。神社街を出て、第二官庁通りを過ぎて北上していたって話だから……」
「この辺に差し掛かっていた可能性は?」
「ある……かも?」
西に海、東に山のある雫浜。坂の上の街並みは北から順に高級住宅街、第二官庁通り、学生街、神社街である。第二官庁通りを過ぎていたということは高級住宅街に足を踏み入れているかもしれない。
「お菓子を食べながら考えていたんだけれど」
雪成は部屋の隅から五つの木片を持って来て畳に置いた。
「これ……。この木、琴古主の部品ということはないか。今はもうただの板になってしまっているが、君が感じた気配というのはこの板に残っていた最後の力という可能性も考えられないだろうか。襲われて、最後に恐怖が残っていたのかもしれない。だから君が驚いたのかも」
「琴古主が襲われたのは、雨と風が酷かった夜」
「これを見付けたのはその朝だ」
「そうか。そうかも! 私、話を伝えるだけ伝えて何も考えてなかったわ。雪成さん、ちゃんと考えていたのね!」
嬉しそうに見上げる燈華の笑顔に、雪成はほんの少し口角を上げた。
「それじゃあこれを神社に」
「一緒に届けに行きましょう!」
「君が……。……え?」
「だって、見付けたのは雪成さんでしょう。私が持って行ったら、なんだか横取りみたいで嫌だもの」
「俺は気にしない」
「私が気になるの。何かを行った結果の賞賛というものは、本人が受けるべきだわ。まあ、これが本当に筝の部品なのかは持って行ってみないと分からないけど」
一緒に……。と、雪成は小さく呟いた。微かに茶色い瞳が揺れる。
深水家の長男は体がとても弱いので、屋敷の離れに大事にしまわれている。外に出ることはめったになく、仮に出たとしても屋敷の近くを少し歩いて人目に触れずにすぐに戻るくらい。そういうことになっている。こっそり抜け出すこともあるが、その際には使用人に気が付かれないように細心の注意を払っていた。外に出て何かあって風邪をひいたら困ると、ある使用人は言う。外に出て何かあって化け物の血を引いていることが露呈したら困ると、別の使用人は思っている。
燈華の言った目的地が大通りのある中心街であれば、誰も雪成の顔を知らないのでこっそり抜け出して戻ればいい。しかし、行先は神社である。
「あっ、そうか。雪成さんお外にあまり出られないから……。ごめんなさい」
「いや」
「まさか……。あの……流石に神社には行ったことある?」
「あるに決まってるだろ」
雪成は、神社には家族で初詣に行く。そして正月以外にも度々家族で行く。良家の人間は神社に熱心に寄進している者も多く、そもそも大豊穂景神社は深水家の源流である大貴族の氏神社だ。深水家として皆で詣でる際にはもちろん雪成もいるため、こっそり屋敷を抜け出しても神社での正体の露見は必至であり、家の者に外出が知られるのは時間の問題である。
それならば、堂々と正門から出かけるしかない。許可を得て。
「俺も一緒じゃなきゃ駄目か」
「雪成さん一人で行く? 雪成さんもあの塀の穴を潜って行くのよね」
「君が一人で行く選択肢はないわけだ」
「だって見付けたのは雪成さんだし……」
燈華は雪成を見上げる。燈華にそのつもりはないが、その姿は小さな獣が人間に何かを懇願して甘えているようなものだった。
雪成はしばし天井を仰ぎ、ゆっくりと立ち上がった。
「神社には顔が割れているから正面から行くしかない。外出の許可を貰いに母屋に行って来る。待ってて」
コロベヱを載せていた皿と盆を片付けて、雪成は離れを出て行った。燈華はまだ残っているお茶を少し飲む。
「私と一緒に行くのが嫌なわけではないんだ」
ちょっと、安心したな。そんな言葉が燈華の口から漏れた。庭に迷い込む野良猫に対して一緒に出かけていいと言う人間はおそらく少ない。雪成は燈華のことをそれ以上の存在として認識しているらしかった。それとも、雪成は野良猫や野犬を連れて歩き回るような人間なのだろうか。
雪成は、戻ってこない。
まだ、戻ってこない。
まだ。
待っているうちに、燈華は丸くなって眠ってしまった。
「君、今日はもう帰りな」
「ん……。え?」
燈華は雪成の声に目を覚ます。
「あっ、私寝ちゃって……!」
吹き抜ける風が冷たくなってきたため、縁側の障子は閉められている。雪見障子になっている窓の部分から、夕日が差し込んでいた。
雪成はデッサン用に使っているノートを手にしていた。何かを描いていたようだが、燈華からは見えない。
「外出許可を貰った」
「本当? じゃあ、一緒に行けるわね」
「三日後の午後二時で大丈夫だろうか」
「えぇ、問題ないわ」
「そう。それじゃあ、三日後に。今日はもう帰りな。もう随分と日が短くなっているから、すぐに暗くなってしまう」
三日後ね! と確認をして燈華は障子を少し開けて隙間から外に出た。地面に下りて、雪成を振り返る。
「一緒にお出かけ楽しみ!」
雪成はちょっぴり驚いた様子で庭の燈華のことを見た。ノートを持っている手に、無意識に力が入った。
「またね、雪成さん」
「あぁ、また」
弾む足取りで燈華は離れを後にする。喫茶店でお茶をするのはまだまだ先になりそうだが、一緒に出かける約束をすることができた。目的が琴古主の部品を神社に届けることなのであまり浮かれてはならないと自分に言い聞かせるが、わくわくとした気持ちは収まりそうになかった。
つるつるの人間だったら、燈華は耳の先まで真っ赤になっているところである。毛を逆立たせて尻尾から火花を散らす鼬のことを、人間はちょっぴり不思議そうに眺めている。燈華の動揺や混乱は雪成には伝わっていない。
「君は、俺と話をしていると時々そうなるな」
雪成は燈華の尻尾から細く昇っている煙を指し示す。
「俺のことを敵だと思っている」
「ち、違うわよ! 敵なら、こんなにしょっちゅう家に来ないわ」
「じゃあ、なぜ? それは臨戦態勢ではないのか。獣は興奮すると毛を逆立たせて自分を大きく見せ、相手を威嚇すると聞いた」
「こ、興奮……」
燈華は目を泳がせる。どのように答えるのが正解なのか。次第に膨らんだ毛がしぼんで行く燈華を見ながら、雪成はコロベヱの最後の一口を飲み込んだ。
「た、楽しいのよ。楽しいの、雪成さんといると」
「楽しいとそうなるのか」
「そうかも……」
「へぇ」
燈華は残りのコロベヱを口の中に押し込むようにして頬張った。変に意識してしまって、雪成との会話が不自然になってしまうことがあった。自分の気持ちが分からないのに相手の気持ちなんて分かるわけもなく、丁度いい雰囲気が分からない。口一杯のカステラと羊羹はとっても甘いのに、なんだか味もよく分からなかった。
会ったり話したりすれば自分の気持ちが何なのかきっと分かるわ! そんな考えは、甘かった。雪成に会えば会うほど、燈華は挙動不審になった。会えば会うほど、もっと会いたくなった。気持ちが何なのか、はっきりしないまま。
「そういえば、君」
「ん。なあに?」
「件の琴古主が襲われたのはどの辺りなんだ」
「え? どうして?」
「どの辺りなんだ?」
「えっと、確か……。神社街を出て、第二官庁通りを過ぎて北上していたって話だから……」
「この辺に差し掛かっていた可能性は?」
「ある……かも?」
西に海、東に山のある雫浜。坂の上の街並みは北から順に高級住宅街、第二官庁通り、学生街、神社街である。第二官庁通りを過ぎていたということは高級住宅街に足を踏み入れているかもしれない。
「お菓子を食べながら考えていたんだけれど」
雪成は部屋の隅から五つの木片を持って来て畳に置いた。
「これ……。この木、琴古主の部品ということはないか。今はもうただの板になってしまっているが、君が感じた気配というのはこの板に残っていた最後の力という可能性も考えられないだろうか。襲われて、最後に恐怖が残っていたのかもしれない。だから君が驚いたのかも」
「琴古主が襲われたのは、雨と風が酷かった夜」
「これを見付けたのはその朝だ」
「そうか。そうかも! 私、話を伝えるだけ伝えて何も考えてなかったわ。雪成さん、ちゃんと考えていたのね!」
嬉しそうに見上げる燈華の笑顔に、雪成はほんの少し口角を上げた。
「それじゃあこれを神社に」
「一緒に届けに行きましょう!」
「君が……。……え?」
「だって、見付けたのは雪成さんでしょう。私が持って行ったら、なんだか横取りみたいで嫌だもの」
「俺は気にしない」
「私が気になるの。何かを行った結果の賞賛というものは、本人が受けるべきだわ。まあ、これが本当に筝の部品なのかは持って行ってみないと分からないけど」
一緒に……。と、雪成は小さく呟いた。微かに茶色い瞳が揺れる。
深水家の長男は体がとても弱いので、屋敷の離れに大事にしまわれている。外に出ることはめったになく、仮に出たとしても屋敷の近くを少し歩いて人目に触れずにすぐに戻るくらい。そういうことになっている。こっそり抜け出すこともあるが、その際には使用人に気が付かれないように細心の注意を払っていた。外に出て何かあって風邪をひいたら困ると、ある使用人は言う。外に出て何かあって化け物の血を引いていることが露呈したら困ると、別の使用人は思っている。
燈華の言った目的地が大通りのある中心街であれば、誰も雪成の顔を知らないのでこっそり抜け出して戻ればいい。しかし、行先は神社である。
「あっ、そうか。雪成さんお外にあまり出られないから……。ごめんなさい」
「いや」
「まさか……。あの……流石に神社には行ったことある?」
「あるに決まってるだろ」
雪成は、神社には家族で初詣に行く。そして正月以外にも度々家族で行く。良家の人間は神社に熱心に寄進している者も多く、そもそも大豊穂景神社は深水家の源流である大貴族の氏神社だ。深水家として皆で詣でる際にはもちろん雪成もいるため、こっそり屋敷を抜け出しても神社での正体の露見は必至であり、家の者に外出が知られるのは時間の問題である。
それならば、堂々と正門から出かけるしかない。許可を得て。
「俺も一緒じゃなきゃ駄目か」
「雪成さん一人で行く? 雪成さんもあの塀の穴を潜って行くのよね」
「君が一人で行く選択肢はないわけだ」
「だって見付けたのは雪成さんだし……」
燈華は雪成を見上げる。燈華にそのつもりはないが、その姿は小さな獣が人間に何かを懇願して甘えているようなものだった。
雪成はしばし天井を仰ぎ、ゆっくりと立ち上がった。
「神社には顔が割れているから正面から行くしかない。外出の許可を貰いに母屋に行って来る。待ってて」
コロベヱを載せていた皿と盆を片付けて、雪成は離れを出て行った。燈華はまだ残っているお茶を少し飲む。
「私と一緒に行くのが嫌なわけではないんだ」
ちょっと、安心したな。そんな言葉が燈華の口から漏れた。庭に迷い込む野良猫に対して一緒に出かけていいと言う人間はおそらく少ない。雪成は燈華のことをそれ以上の存在として認識しているらしかった。それとも、雪成は野良猫や野犬を連れて歩き回るような人間なのだろうか。
雪成は、戻ってこない。
まだ、戻ってこない。
まだ。
待っているうちに、燈華は丸くなって眠ってしまった。
「君、今日はもう帰りな」
「ん……。え?」
燈華は雪成の声に目を覚ます。
「あっ、私寝ちゃって……!」
吹き抜ける風が冷たくなってきたため、縁側の障子は閉められている。雪見障子になっている窓の部分から、夕日が差し込んでいた。
雪成はデッサン用に使っているノートを手にしていた。何かを描いていたようだが、燈華からは見えない。
「外出許可を貰った」
「本当? じゃあ、一緒に行けるわね」
「三日後の午後二時で大丈夫だろうか」
「えぇ、問題ないわ」
「そう。それじゃあ、三日後に。今日はもう帰りな。もう随分と日が短くなっているから、すぐに暗くなってしまう」
三日後ね! と確認をして燈華は障子を少し開けて隙間から外に出た。地面に下りて、雪成を振り返る。
「一緒にお出かけ楽しみ!」
雪成はちょっぴり驚いた様子で庭の燈華のことを見た。ノートを持っている手に、無意識に力が入った。
「またね、雪成さん」
「あぁ、また」
弾む足取りで燈華は離れを後にする。喫茶店でお茶をするのはまだまだ先になりそうだが、一緒に出かける約束をすることができた。目的が琴古主の部品を神社に届けることなのであまり浮かれてはならないと自分に言い聞かせるが、わくわくとした気持ちは収まりそうになかった。

