大豊穂景神社。雫浜市街を見下ろす坂の上にある神社街の中心に広大な敷地を持つ、街で一番大きく一番古い神社である。豊穣をもたらすと言われる神が祀られており、代々稲守家の狐達が守っている。
大豊穂景神社において職員として日々神に奉仕している者は狐と人間だが、特別職として器物の妖怪が数人職務をこなしている。器物の妖怪が働いている神社は徐々に増えていた。なぜなら、時が経つと神社の備品が妖怪になるからだ。
雪ノ宮に暮らす妖怪達はおおまかに人型、獣、器物に分類される。植物のような者や不定形の者もいるが、その数は他と比べると少ない。人間に似た姿の者や獣の姿をした者は、人間や普通の動物同じように親より生まれ、姿が成長し、主に同種の異性と番となり、子を為し、数を増やし、やがて老いて行く。一方、器物の妖怪に親や子はおらず外見が成長することもほとんどない。彼らは長年大切に使われて来た道具がいつの間にか生命となり、意思を持った存在だった。
器物の妖怪達の発生の原理は不明であり、道具を長く使えば必ずそうなるということではない。時に付喪神という名で呼ばれることもある彼らは、元々ただの物として過ごしていた場所で暮らしたり、物としての特性を生かせる仕事をしたりする者が多かった。燈華達が熱心に読み耽っている小説の作者である文屋乃姫子も文車妖妃という付喪神であり、元々は貴族の家にあった文車という道具だったそうだ。
神社には古くから使われている道具が多い。それらが付喪神となり、神社で暮らし、働いていた。主に雅楽の演奏に使われる楽器や、社務所の雑貨などである。
大豊穂景神社では少し前から、雅楽隊の筝の付喪神である琴古主が休職中だった。正確には、機能が停止していた。
「ここでは鎌鼬が働いているでしょう? 話を聞きたくて」
清原呉服店を訪れたサリィは、番頭の方を見てそう言った。
休職中の琴古主、沖風。彼は休みを申請して数日休んだ後、出仕して来なかった。神社から少し離れた位置に神社所属の付喪神達向けの寮があるが、隣室の付喪神は泊まり込みで神社にいたため沖風の動向を知らないと言う。行方不明になったということで神社の者は人間も妖怪も皆駆り出されて筝探しをすることになった。数多いる職員の一人が無断欠勤したくらいで大袈裟なように見えてしまうが、神社の者達にとっては大事であった。
なぜなら、沖風の本体は大変貴重な素晴らしい筝だからである。何百年も前に凄腕の職人の人間が作り、神社で一番演奏が上手い者が代々弾き、重大な神事の際に何度も音色を響かせてきた筝だ。付喪神となり奏者を必要としなくなった今、彼は己の体に沁み付いた歴代の奏者達の指遣いで、彼自身を演奏している。楽器である琴古主に戦闘能力はなく、筝が這って動いているような形のため機動力もない。どこかで溝にはまっていたり、何かに襲われていたりしては、あの音色が失われてしまいかねない。神社の者達は必死だった。
そして、捜索を始めてから数日経った頃。筝の端、琴古主の顔に当たる龍頭の部分とその周り及び数本の弦だけの瀕死状態で沖風は発見された。元々破損個所を都度直して来た古い筝である。付喪神沖風の意識が消えてさえいなければ、修復後彼自身の妖力によって継ぎ足した部品は変質して元の状態に戻る。幸いにも意識は残っていたため、神社から音色が失われることは避けられた。しかし、失われた部品があまりにも多すぎた。新しく作った部品でも問題はないが、馴染み方が全く異なるのでなるべく元々の部品を使いたい。筝探しに駆り出された神職達は、今度は道端に部品が落ちていないか探し回ることになった。弱り切った沖風は寮の自室で仲間の楽器達に介抱されながら、神職達からの吉報を待っていた。
沖風の証言によると、夜道で妖怪に襲われたとのこと。雨の酷い夜、木製の体が濡れると良くないと思って雨宿りをする場所を探していた時、背後から襲われたらしい。「あっ」と思った時にはぶちぶちと弦が千切れる音がして、悲鳴を上げることすらできないうちに体がへし折れて砕け、部品が飛び散った。龍頭は宙を舞い、坂を転げ落ち、何も知らぬ人力車の車夫に蹴り飛ばされ、坂を転げ落ち、気まぐれな普通の犬に放られ、坂を転げ落ち、溝にはまり、無邪気な子供に投げられ、運河の桟橋に繋げられていた小さな舟の中に落ちた。
サリィ曰く、大豊穂景神社の神職達は筝の部品探しと沖風を襲った犯人捜しを並行して行っているそうである。燈華が見かけたのも、沖風やその部品を探している神職だったのだろう。サリィは強力な攻撃能力を持つ妖怪に心当たりがないか尋ねているとのことで、清原呉服店の番頭の元へやって来たのだった。
「雨も風も強い日でしたから、善良なる鎌鼬でも風に乗って何かしてしまうかもしれません」
「あの日の夜はお父さん家にいましたよ。あたしも、お母さんも、兄弟もみんな」
「そうですか」
サリィは手帳を開き、『高階』の文字に線を引いて消した。
「――ということがあって」
湯呑から昇る湯気を見ながら、燈華は言った。
「私は、お尋ね者の車輪も怪しい気がしますってサリィさんに言っておいたの」
「へぇ」
長い話を聞かされた雪成はお預けを食らっている皿の上のコロベヱを眺めている。
「人も情報もいきなりたくさん出て来て全然話が分からないな……」
「えぇと……。神社の筝が大変で、危ない妖怪がお尋ね者になってるんだって」
「ふうん……。外にいるのも面倒臭そうだな」
燈華がコロベヱを両前足で持って齧ったのを見て、雪成もコロベヱを手に取る。奇怪な菓子である。得体の知れないものを口に運ぶ雪成の手は、少し恐る恐るといった感じだった。
茉莉と一緒に出かけて、帰って来た店でサリィに会った翌日。燈華はコロベヱを持って深水邸を訪れていた。茉莉とあれこれ話した結果、雪成に会いたくなってしまったのだ。それに、外の出来事を雪成に教えてあげたかった。
「カステラに羊羹が挟まれているのか……。知っている物と知っている物なのに、知らない味がする……」
「海の向こうの異国の名前なんですって」
「コロベヱなんて国あったかな。昔の名前とか、それとも、こっちに来て訛ったのかな……」
「雪成さん、異国に詳しいの?」
「別に、詳しいわけじゃない。本を読んでいたら、自然と」
離れですることは絵を描くことと本を読むことくらいである。雪成が所望すれば使用人は図書館から本を借りて来てくれたし、余程欲しがれば父が買ってくれた。やはり好きなものは絵なので芸術、特に美術に関する本が多かったが、色々なジャンルの本を読み漁って来た。
時に、異国について記された本や異国で書かれた本を手にすることもあった。海の向こうにはどんな世界が広がっているのだろうと、雪成は坂の下を見下ろして思いを馳せた。人魚になれば異国まで泳いで行けるのだろうかと思ったこともある。
「君は本を読むのか」
「読むわよ。私は文屋乃姫子先生が好き」
「文屋乃……姫子……? それは作家か?」
「そう。少女雑誌に小説を連載している作家さん。先生のお話、読むとドキドキきゅんきゅんしちゃうの」
「へぇ。俺はあまりそういう少女向けのは読まないからな……」
「とっても面白いわよ。女学生と若き帝国軍人の恋物語で」
「君もそういう恋をしたいとか考えるのか?」
「えっ!?」
燈華の全身の毛が勢いよく膨らんで逆立った。
「えっ。えぇっ!? え? なっ、何!?」
「あ。すまない。こういう話を女の子にするのは良くなかっただろうか」
「お……。おう……。そうだね……」
「そうか。じゃあいずれ千冬が少女雑誌を読むようになっても訊かないようにする」
大豊穂景神社において職員として日々神に奉仕している者は狐と人間だが、特別職として器物の妖怪が数人職務をこなしている。器物の妖怪が働いている神社は徐々に増えていた。なぜなら、時が経つと神社の備品が妖怪になるからだ。
雪ノ宮に暮らす妖怪達はおおまかに人型、獣、器物に分類される。植物のような者や不定形の者もいるが、その数は他と比べると少ない。人間に似た姿の者や獣の姿をした者は、人間や普通の動物同じように親より生まれ、姿が成長し、主に同種の異性と番となり、子を為し、数を増やし、やがて老いて行く。一方、器物の妖怪に親や子はおらず外見が成長することもほとんどない。彼らは長年大切に使われて来た道具がいつの間にか生命となり、意思を持った存在だった。
器物の妖怪達の発生の原理は不明であり、道具を長く使えば必ずそうなるということではない。時に付喪神という名で呼ばれることもある彼らは、元々ただの物として過ごしていた場所で暮らしたり、物としての特性を生かせる仕事をしたりする者が多かった。燈華達が熱心に読み耽っている小説の作者である文屋乃姫子も文車妖妃という付喪神であり、元々は貴族の家にあった文車という道具だったそうだ。
神社には古くから使われている道具が多い。それらが付喪神となり、神社で暮らし、働いていた。主に雅楽の演奏に使われる楽器や、社務所の雑貨などである。
大豊穂景神社では少し前から、雅楽隊の筝の付喪神である琴古主が休職中だった。正確には、機能が停止していた。
「ここでは鎌鼬が働いているでしょう? 話を聞きたくて」
清原呉服店を訪れたサリィは、番頭の方を見てそう言った。
休職中の琴古主、沖風。彼は休みを申請して数日休んだ後、出仕して来なかった。神社から少し離れた位置に神社所属の付喪神達向けの寮があるが、隣室の付喪神は泊まり込みで神社にいたため沖風の動向を知らないと言う。行方不明になったということで神社の者は人間も妖怪も皆駆り出されて筝探しをすることになった。数多いる職員の一人が無断欠勤したくらいで大袈裟なように見えてしまうが、神社の者達にとっては大事であった。
なぜなら、沖風の本体は大変貴重な素晴らしい筝だからである。何百年も前に凄腕の職人の人間が作り、神社で一番演奏が上手い者が代々弾き、重大な神事の際に何度も音色を響かせてきた筝だ。付喪神となり奏者を必要としなくなった今、彼は己の体に沁み付いた歴代の奏者達の指遣いで、彼自身を演奏している。楽器である琴古主に戦闘能力はなく、筝が這って動いているような形のため機動力もない。どこかで溝にはまっていたり、何かに襲われていたりしては、あの音色が失われてしまいかねない。神社の者達は必死だった。
そして、捜索を始めてから数日経った頃。筝の端、琴古主の顔に当たる龍頭の部分とその周り及び数本の弦だけの瀕死状態で沖風は発見された。元々破損個所を都度直して来た古い筝である。付喪神沖風の意識が消えてさえいなければ、修復後彼自身の妖力によって継ぎ足した部品は変質して元の状態に戻る。幸いにも意識は残っていたため、神社から音色が失われることは避けられた。しかし、失われた部品があまりにも多すぎた。新しく作った部品でも問題はないが、馴染み方が全く異なるのでなるべく元々の部品を使いたい。筝探しに駆り出された神職達は、今度は道端に部品が落ちていないか探し回ることになった。弱り切った沖風は寮の自室で仲間の楽器達に介抱されながら、神職達からの吉報を待っていた。
沖風の証言によると、夜道で妖怪に襲われたとのこと。雨の酷い夜、木製の体が濡れると良くないと思って雨宿りをする場所を探していた時、背後から襲われたらしい。「あっ」と思った時にはぶちぶちと弦が千切れる音がして、悲鳴を上げることすらできないうちに体がへし折れて砕け、部品が飛び散った。龍頭は宙を舞い、坂を転げ落ち、何も知らぬ人力車の車夫に蹴り飛ばされ、坂を転げ落ち、気まぐれな普通の犬に放られ、坂を転げ落ち、溝にはまり、無邪気な子供に投げられ、運河の桟橋に繋げられていた小さな舟の中に落ちた。
サリィ曰く、大豊穂景神社の神職達は筝の部品探しと沖風を襲った犯人捜しを並行して行っているそうである。燈華が見かけたのも、沖風やその部品を探している神職だったのだろう。サリィは強力な攻撃能力を持つ妖怪に心当たりがないか尋ねているとのことで、清原呉服店の番頭の元へやって来たのだった。
「雨も風も強い日でしたから、善良なる鎌鼬でも風に乗って何かしてしまうかもしれません」
「あの日の夜はお父さん家にいましたよ。あたしも、お母さんも、兄弟もみんな」
「そうですか」
サリィは手帳を開き、『高階』の文字に線を引いて消した。
「――ということがあって」
湯呑から昇る湯気を見ながら、燈華は言った。
「私は、お尋ね者の車輪も怪しい気がしますってサリィさんに言っておいたの」
「へぇ」
長い話を聞かされた雪成はお預けを食らっている皿の上のコロベヱを眺めている。
「人も情報もいきなりたくさん出て来て全然話が分からないな……」
「えぇと……。神社の筝が大変で、危ない妖怪がお尋ね者になってるんだって」
「ふうん……。外にいるのも面倒臭そうだな」
燈華がコロベヱを両前足で持って齧ったのを見て、雪成もコロベヱを手に取る。奇怪な菓子である。得体の知れないものを口に運ぶ雪成の手は、少し恐る恐るといった感じだった。
茉莉と一緒に出かけて、帰って来た店でサリィに会った翌日。燈華はコロベヱを持って深水邸を訪れていた。茉莉とあれこれ話した結果、雪成に会いたくなってしまったのだ。それに、外の出来事を雪成に教えてあげたかった。
「カステラに羊羹が挟まれているのか……。知っている物と知っている物なのに、知らない味がする……」
「海の向こうの異国の名前なんですって」
「コロベヱなんて国あったかな。昔の名前とか、それとも、こっちに来て訛ったのかな……」
「雪成さん、異国に詳しいの?」
「別に、詳しいわけじゃない。本を読んでいたら、自然と」
離れですることは絵を描くことと本を読むことくらいである。雪成が所望すれば使用人は図書館から本を借りて来てくれたし、余程欲しがれば父が買ってくれた。やはり好きなものは絵なので芸術、特に美術に関する本が多かったが、色々なジャンルの本を読み漁って来た。
時に、異国について記された本や異国で書かれた本を手にすることもあった。海の向こうにはどんな世界が広がっているのだろうと、雪成は坂の下を見下ろして思いを馳せた。人魚になれば異国まで泳いで行けるのだろうかと思ったこともある。
「君は本を読むのか」
「読むわよ。私は文屋乃姫子先生が好き」
「文屋乃……姫子……? それは作家か?」
「そう。少女雑誌に小説を連載している作家さん。先生のお話、読むとドキドキきゅんきゅんしちゃうの」
「へぇ。俺はあまりそういう少女向けのは読まないからな……」
「とっても面白いわよ。女学生と若き帝国軍人の恋物語で」
「君もそういう恋をしたいとか考えるのか?」
「えっ!?」
燈華の全身の毛が勢いよく膨らんで逆立った。
「えっ。えぇっ!? え? なっ、何!?」
「あ。すまない。こういう話を女の子にするのは良くなかっただろうか」
「お……。おう……。そうだね……」
「そうか。じゃあいずれ千冬が少女雑誌を読むようになっても訊かないようにする」

