「それは相手も燈華のことが好きなんじゃないの」
茉莉にそう言われて、燈華は変な声を出した。声というより、音だった。通りすがりの人間がちらりと不審な鼬のことを振り返る。
「い、いやいや。そ、そもそも私、あの人間のことまだ好きとか恋とかそういうのかどうか分かってなくて」
「絶対好きだし恋だよ」
燈華の尻尾から細く煙が昇った。
茉莉が休みの日。連れだって外出した二人は海岸沿いを並んで歩いていた。
権ノ咲海浜公園。地元の子供に人気の海浜公園で、観光客も多く立ち寄る場所である。広々とした芝生と、小さな子供向けの遊具、休憩用の東屋やベンチ、見晴らしのいい展望エリアなどを備えている。
めんこ遊びをしている小学生達の横を過ぎて、適当なベンチに座る。柵の向こうで穏やかに行ったり来たりする波の様子が見えた。左手の方向に進むと海水浴場があるが、この時季には流石に水遊びをしている者の姿は見えなかった。
「ねえ、燈華。だって、その人間のことばかり考えていて、考えるとドキドキして、会えたら嬉しくて、笑顔を見たら尻尾が爆発したんでしょ」
「うん」
「恋だよ、それは」
「そうなのかなぁ」
茉莉は前足で燈華を小突く。
「今月号の文屋乃先生の小説読んだ?」
「読んだよ」
「憧れの人を前にしてドキドキする話だったでしょ。同じよ、今の燈華は。わたし、今月号読んでまるで自分のことみたいにドキドキしちゃった」
尻尾を揺らす茉莉を見ながら、燈華は少女雑誌に連載されている文屋乃姫子の作品のことを思い浮かべる。
今月号は、主人公の女学生が憧れの若き帝国軍人と偶然街で出会う場面だった。雑踏の中に彼を見付けて心弾ませ、対面して会話をすると胸が高鳴った。喫茶店で一緒にクリームソーダを飲んで笑い合い、素敵な思い出を作った。そして家に帰ってからも、彼女は彼のことばかり考えてしまうのだった。
同じよ、と茉莉はもう一度言った。
「私、今まで恋したことないから分からないよ」
「これから分かって行くのよ、その人間と一緒に」
「そうなのかな」
「で、その人間は燈華のこと『特別』って言ったんでしょ?」
「うん」
「それは、その人間も燈華のことが好きなんだよ!」
「そうかなぁ。ただの小動物だと思われてる気がするんだけど」
雪成は燈華に向かって、『特別な存在』と言っていた。友人と呼べる者はほとんどいないが、嬉しそうに離れに現れる燈華は自分にとって特別なのだと彼は言った。その笑みに燈華はときめいたが、急に恥ずかしくなって帰ってしまったので雪成の真意を聞くことはできなかった。ふらりと遊びに来る野良猫がかわいいとか、そういう意味かもしれない。
燈華は雪成の笑みを思い出して、ぼんっと音がするように毛を逆立たせた。全身毛むくじゃらの獣でよかったと、こういう時は思う。もしもつるつるした人間だったら、真っ赤になった顔が白昼の衆人環視の中に晒されることになるのだから。
両前足で顔を押さえる燈華のことを茉莉は横目に見遣る。無自覚な恋に悩む親友のことを温かい目で見守り、嬉しそうに尻尾を静かに揺らす。
並んでベンチに座る鼬と獺の前を、観光客らしき妖怪の一家が歩いて行った。柵の向こうに広がる海では、波の上にカモメが数羽漂っている。今日の雫浜の海は穏やかで、行き交う船舶も心なしか楽し気である。
燈華は顔から前足を離す。
「そういえば、茉莉はどうなったの」
「わたし? 何?」
「気になる先輩がいるって話」
「あぁ、それは……まだ」
「人のことばかり言ってないで、茉莉はどうなの。気持ち」
学校の先輩である貉が気になると、前回会った時に茉莉は言っていた。声をかけることが難しいので手紙をしたためたが、返事をもらえていないとのこと。先輩のことでドキドキしたりわくわくしたりするという話を燈華は聞かされた。
「わたしのは本当に憧れなんだ。先輩、親が決めた婚約者がいるって話があって。その話を聞いた時ね、わたし悲しかったり悔しかったりしないで、『流石だなぁ』って思ったんだ。だからね、わたしが先輩に向けているのは憧憬なんだよ」
「婚約者」
「すごいよね! わたし達とは住んでる世界が違うんだ。かっこいいなぁ。お屋敷とか、ちょっと憧れちゃう。先輩だけじゃなくてその周りも」
「住んでる……世界……」
雪成にも、婚約者のような存在がいるのだろうか。体が弱くて離れにしまっているということになっているが、深水家の長男に婚約者の一人もいないというのは世間体が悪いに違いない。きっといるのだ。ものすごく美人の人間に決まっている、というところまで想像力を逞しくして、燈華は小さく溜息を吐いた。
好きとか、恋とか、それ以前に自分はあの人間とは不釣り合いなのではないか? 何から、何まで。雪成は来てもいいと言うが、本当は彼と語らうなんて、姿を見るなんて、自分には許されぬことなのではないか? 奇跡みたいな今をありがたく受け取ってにこにこしていて、いいのだろうか。
豆大福越しに見上げた雪成の姿が思い出された。立場とか、身分とか、そういう言葉ではない。最早、彼は別世界の人間だ。急に不安になって来て、燈華は身震いをした。
「燈華、どうしたの。寒い? わたしの上着貸そうか?」
茉莉が人間の姿になる。海老茶袴の女学生の格好をしている茉莉は、深まる秋に合わせてケープを羽織っていた。女学生姿を気に入っている茉莉は休日でも女学生の服装にしていることがほとんどだ。ケープを脱ぎ、包むようにして燈華の小さな肩に添える。
「ありがとう。寒くはないの。ちょっと、不安になって」
「不安……?」
「私と、彼……あの人間は、住んでいる世界が違うから」
「妖怪と人間だからそれはね。でもそこの違いなんて気にするものでもないよ。この国のひとであることに変わりはないんだし。前例もたくさんあるし」
「そうじゃなくて。私が会ってる人間、お金持ちなんだ。ものすごく。たぶん、茉莉が憧れてる貉の先輩と同じくらい」
もしかしたらそれ以上かもしれないが、そこまでは言わないことにした。あまりにも富豪であることを強調すると、対象が絞れてしまいかねない。
茉莉は目をぱちくりとして、「えっ」と声を出す。
「まさか坂の上に住んでるとか」
「坂の上に、住んでる」
「えっ。ど、どこでそんな人間を拾ったの」
「拾ってない。寧ろ私が拾われて……」
「ちょっと待って。ちょっと話を整理させてほしい」
大きなリボンを頭に着けた女学生が頭を抱える。
「つまり……。燈華は金持ちの人間に拾われて、その人間が気になって、高級ハイカラ菓子を買わされて、会えるとドキドキして、度々家を訪ねて撫で回されて、特別だって言われたってこと」
「そう……かなあ?」
「それっ、騙されてない!? 危ない人間に目を付けられて、手懐けられて、珍しい動物だって異国に売られちゃうとかそういうことにならない!?」
茉莉にそう言われて、燈華は変な声を出した。声というより、音だった。通りすがりの人間がちらりと不審な鼬のことを振り返る。
「い、いやいや。そ、そもそも私、あの人間のことまだ好きとか恋とかそういうのかどうか分かってなくて」
「絶対好きだし恋だよ」
燈華の尻尾から細く煙が昇った。
茉莉が休みの日。連れだって外出した二人は海岸沿いを並んで歩いていた。
権ノ咲海浜公園。地元の子供に人気の海浜公園で、観光客も多く立ち寄る場所である。広々とした芝生と、小さな子供向けの遊具、休憩用の東屋やベンチ、見晴らしのいい展望エリアなどを備えている。
めんこ遊びをしている小学生達の横を過ぎて、適当なベンチに座る。柵の向こうで穏やかに行ったり来たりする波の様子が見えた。左手の方向に進むと海水浴場があるが、この時季には流石に水遊びをしている者の姿は見えなかった。
「ねえ、燈華。だって、その人間のことばかり考えていて、考えるとドキドキして、会えたら嬉しくて、笑顔を見たら尻尾が爆発したんでしょ」
「うん」
「恋だよ、それは」
「そうなのかなぁ」
茉莉は前足で燈華を小突く。
「今月号の文屋乃先生の小説読んだ?」
「読んだよ」
「憧れの人を前にしてドキドキする話だったでしょ。同じよ、今の燈華は。わたし、今月号読んでまるで自分のことみたいにドキドキしちゃった」
尻尾を揺らす茉莉を見ながら、燈華は少女雑誌に連載されている文屋乃姫子の作品のことを思い浮かべる。
今月号は、主人公の女学生が憧れの若き帝国軍人と偶然街で出会う場面だった。雑踏の中に彼を見付けて心弾ませ、対面して会話をすると胸が高鳴った。喫茶店で一緒にクリームソーダを飲んで笑い合い、素敵な思い出を作った。そして家に帰ってからも、彼女は彼のことばかり考えてしまうのだった。
同じよ、と茉莉はもう一度言った。
「私、今まで恋したことないから分からないよ」
「これから分かって行くのよ、その人間と一緒に」
「そうなのかな」
「で、その人間は燈華のこと『特別』って言ったんでしょ?」
「うん」
「それは、その人間も燈華のことが好きなんだよ!」
「そうかなぁ。ただの小動物だと思われてる気がするんだけど」
雪成は燈華に向かって、『特別な存在』と言っていた。友人と呼べる者はほとんどいないが、嬉しそうに離れに現れる燈華は自分にとって特別なのだと彼は言った。その笑みに燈華はときめいたが、急に恥ずかしくなって帰ってしまったので雪成の真意を聞くことはできなかった。ふらりと遊びに来る野良猫がかわいいとか、そういう意味かもしれない。
燈華は雪成の笑みを思い出して、ぼんっと音がするように毛を逆立たせた。全身毛むくじゃらの獣でよかったと、こういう時は思う。もしもつるつるした人間だったら、真っ赤になった顔が白昼の衆人環視の中に晒されることになるのだから。
両前足で顔を押さえる燈華のことを茉莉は横目に見遣る。無自覚な恋に悩む親友のことを温かい目で見守り、嬉しそうに尻尾を静かに揺らす。
並んでベンチに座る鼬と獺の前を、観光客らしき妖怪の一家が歩いて行った。柵の向こうに広がる海では、波の上にカモメが数羽漂っている。今日の雫浜の海は穏やかで、行き交う船舶も心なしか楽し気である。
燈華は顔から前足を離す。
「そういえば、茉莉はどうなったの」
「わたし? 何?」
「気になる先輩がいるって話」
「あぁ、それは……まだ」
「人のことばかり言ってないで、茉莉はどうなの。気持ち」
学校の先輩である貉が気になると、前回会った時に茉莉は言っていた。声をかけることが難しいので手紙をしたためたが、返事をもらえていないとのこと。先輩のことでドキドキしたりわくわくしたりするという話を燈華は聞かされた。
「わたしのは本当に憧れなんだ。先輩、親が決めた婚約者がいるって話があって。その話を聞いた時ね、わたし悲しかったり悔しかったりしないで、『流石だなぁ』って思ったんだ。だからね、わたしが先輩に向けているのは憧憬なんだよ」
「婚約者」
「すごいよね! わたし達とは住んでる世界が違うんだ。かっこいいなぁ。お屋敷とか、ちょっと憧れちゃう。先輩だけじゃなくてその周りも」
「住んでる……世界……」
雪成にも、婚約者のような存在がいるのだろうか。体が弱くて離れにしまっているということになっているが、深水家の長男に婚約者の一人もいないというのは世間体が悪いに違いない。きっといるのだ。ものすごく美人の人間に決まっている、というところまで想像力を逞しくして、燈華は小さく溜息を吐いた。
好きとか、恋とか、それ以前に自分はあの人間とは不釣り合いなのではないか? 何から、何まで。雪成は来てもいいと言うが、本当は彼と語らうなんて、姿を見るなんて、自分には許されぬことなのではないか? 奇跡みたいな今をありがたく受け取ってにこにこしていて、いいのだろうか。
豆大福越しに見上げた雪成の姿が思い出された。立場とか、身分とか、そういう言葉ではない。最早、彼は別世界の人間だ。急に不安になって来て、燈華は身震いをした。
「燈華、どうしたの。寒い? わたしの上着貸そうか?」
茉莉が人間の姿になる。海老茶袴の女学生の格好をしている茉莉は、深まる秋に合わせてケープを羽織っていた。女学生姿を気に入っている茉莉は休日でも女学生の服装にしていることがほとんどだ。ケープを脱ぎ、包むようにして燈華の小さな肩に添える。
「ありがとう。寒くはないの。ちょっと、不安になって」
「不安……?」
「私と、彼……あの人間は、住んでいる世界が違うから」
「妖怪と人間だからそれはね。でもそこの違いなんて気にするものでもないよ。この国のひとであることに変わりはないんだし。前例もたくさんあるし」
「そうじゃなくて。私が会ってる人間、お金持ちなんだ。ものすごく。たぶん、茉莉が憧れてる貉の先輩と同じくらい」
もしかしたらそれ以上かもしれないが、そこまでは言わないことにした。あまりにも富豪であることを強調すると、対象が絞れてしまいかねない。
茉莉は目をぱちくりとして、「えっ」と声を出す。
「まさか坂の上に住んでるとか」
「坂の上に、住んでる」
「えっ。ど、どこでそんな人間を拾ったの」
「拾ってない。寧ろ私が拾われて……」
「ちょっと待って。ちょっと話を整理させてほしい」
大きなリボンを頭に着けた女学生が頭を抱える。
「つまり……。燈華は金持ちの人間に拾われて、その人間が気になって、高級ハイカラ菓子を買わされて、会えるとドキドキして、度々家を訪ねて撫で回されて、特別だって言われたってこと」
「そう……かなあ?」
「それっ、騙されてない!? 危ない人間に目を付けられて、手懐けられて、珍しい動物だって異国に売られちゃうとかそういうことにならない!?」

