特別な持ち物は何もいらない。必要なのは自分の体一つだけ。けれど、本当にそれでいいのかしら? やはり手土産は必要なのでは? 燈華は悩んで、悩んで、悩んで、馴染みの菓子店で豆大福を二つ買った。

 風呂敷包みを咥えた鼬が一匹、高級住宅街を進む。

 道中、古風な装いの神社の人間を見かけた。仕事着のまま住宅街をうろうろしている神職なんて珍しいものを目で追わないわけにもいかず、燈華は立ち止まった。探し物をしているのか、神職の男はきょろきょろと辺りを見回しながら歩いている。

「何かあったのかしら」

 風呂敷包みを咥えているため、もごもごと音を籠らせながら燈華は呟いた。やがて、神職は立ち並ぶ立派な塀達の向こうに見えなくなった。燈華も歩き出す。

 塀の穴から深水邸に入り、燈華は生垣を潜って離れに顔を出した。雪成は池の前にイーゼルを立ててキャンバスに筆を走らせている。小さな足音を立てて燈華が近付くと、雪成は手を止めた。

「……君、来たのか」
「ん」
「別に何もいらないと言ったのに」

 燈華は風呂敷包みを縁側に置く。

「今日は豆大福を持って来たのよ。雪成さん、庶民のお店の味は知らないかもと思って」
「そう」

 雪成は筆とパレットを置き、離れに上がった。

「手を洗ってお茶を淹れて来るから待ってて」
「分かったわ」

 畳の上におとなしく座って、燈華は雪成を待つ。庭を見ると、描きかけの絵が見えた。赤や黄色に染まった落ち葉が浮かんでいる池の様子が描かれている。

 絵を描いている姿は初めて見た。集中して作業をしている様子は彼自身が絵になってしまいそうで見惚れてしまった。この鼬は、あの人間に自身でも驚いてしまうほど心酔していた。いつか、私の絵も描いてもらえるかしら。そう考えて、ちょっぴり恥ずかしくなって前足で顔を押さえる。

 直後、「えへへ」と一人で照れていた燈華の全身の毛が逆立った。雪成を相手にしている時のような歓喜の表現ではなく、危険なものや敵を認識した時の警戒の表現である。勢いよく立ち上がると同時に飛び退き、対象に牙と爪を見せ付ける。

 しかし……。

「何……? 何の、気配だったの……」

 何もいない。何かがいたような気がしたが、部屋にも庭にも何もいない。

「君、どうかしたのか」
「雪成さん」
「妖怪らしい顔だな。何かあったか」
「それが、何もないの。何かいたはずなんだけど」

 雪成は首を傾げ、湯呑の載った盆を畳に置いた。おかしいなぁと思いつつ、燈華は風呂敷を解いて豆大福を取り出す。これまで燈華が雪成の元へ持って来たのは八百美堂の高級な箱に入ったハイカラな菓子だったが、今日の豆大福は経木(きょうぎ)に包まれていた。椿屋(つばきや)という店名が記された紙が添えられている。

 椿屋は清原呉服店が普段贔屓にしている菓子店である。庶民のちょっぴり特別な日を演出する老舗で、営んでいるのは人間だが燈華の祖父が若い頃からあるらしい。

 ちょこんと皿に載った豆大福のことを雪成は物珍しそうに眺めていた。

「ここの大福、とっても美味しいのよ。私は木の実が入っている大福とかも好き。やっぱり雪成さんはあまりこういうのは食べない?」
「素朴な感じのお菓子もいいな。伝統的なお菓子を食べることはあるけれど、それもだいたい八百美堂とかのものだから少し華美なんだ」
「つやつやのきらきらのお饅頭とかあったものね」
「そう。それとかを食べる」

 両前足で豆大福を持って、燈華は呆けた様子で雪成を見上げた。やっぱりお坊ちゃまなんだなぁ、と改めて実感する。離れに押し込められているが、この人は高貴な身分の人間なのだ。一般市民の自分とは立場が全く違う。そんな雪成が絵を描く手を止めて燈華の相手をしてくれているなんて、まるで奇跡のように思えた。

「君」
「うわ! はいっ」
「ぽかんとした動物がこちらをずっと見ていると少し不気味だな。俺の顔はそんなに面白いか」
「お、面白いというか……。とても、綺麗よね。私、運河で初めて貴方を見た時に綺麗な人だなって思ったの。綺麗で、整っていて、美しいわ」
「褒めても何も出ないよ」

 雪成は燈華から目を逸らして豆大福を噛んだ。

「私、雪成さんの顔好きよ」
「……へぇ」

 雪成の顔を褒める言葉ならば簡単に口にできた。けれど、自分の気持ちをはっきりと伝えることはできなかった。燈華にはまだ自分の気持ちが分からなかった。会いに来ていいと言われて、嬉しかった。一緒に豆大福を食べて、楽しかった。これは、茉莉が言う恋なのだろうか。

 手に付いた片栗粉を舐めている燈華のことを、雪成は小動物を見守る眼差しで見ている。そして、手拭いを差し出した。

「あ、ありがとう」
「君に会えたら訊きたいことがあったのだけれど」
「えっ」

 つまり、彼は私に会える日を待ちわびていたのでは。そんな思考が過って、燈華は飛び跳ねそうになった。

 燈華の様子を見る前にくるりと後ろを向き、雪成は部屋の隅から木片をいくつか持って来た。全部で五つあり、成型されている人工物だ。

「板?」
「五日前、庭に落ちていた」
「五日前って、確か朝まで雨が酷かった日よね。どこかから飛んで来たのかしら」
「俺もそう思ったんだが、外から飛んでこんなに庭に入るとは思えない。例えば、あの雨に乗った鎌鼬が何かを壊してしまったとか、そういうことは考えられないだろうか。妖怪の君なら、妖怪が関わっていたとしたら分かるかもしれないと思って」

 燈華は並べられている木片を見る。

「普通の板だと思う……けど。もしも鎌鼬とか鋭利な武器を持つ妖怪が何かを壊したとしても、その壊れたものに気配が残るかどうか……。残ったとして、五日も経っていたら分からないかも」
「そうか」
「妖怪は相手の気配に敏感だけれど、だからと言って力の残滓を読み取れるとかそういう便利な能力があるわけではないわ。貴方が思っているよりも、ずっと普通の動物よ」

 相手を見上げた燈華と相手を見下ろした雪成の視線が交わる。ばっちりと目が合って、燈華はちょっぴり驚いた顔になる。その反応を全く意に介さず、雪成は手を伸ばして燈華の頭を撫でた。

「確かに、そうかもしれないな。俺は今までこんなに近くで妖怪と接することがなかったから、この国に住む化け物はもっと御伽噺の中に登場する怪物のようなものだと思っていた」
「うぉお……あ……」
「でも。確かに……。こうして触れてみると、俺が思っているよりも普通の存在なのかもしれない」

 雪成の手が頭から顔、背中まで撫で始める。

 このままでは、絆されていいようにされてしまう。この人間は、動物と触れ合う機会もほとんどないだろうに獣を撫でる手際が良すぎる。獣の本能に負けてだらしない姿になってしまう前に、燈華は雪成の腕からするりと抜け出した。

「も、もう! 雪成さん、女の子をそんなに撫で回しちゃ駄目よ! 私が人間に変化していたら大変なことに」
「できないだろう、君は」
「そっ、そうだけど」
「千冬を撫でることもあるが、何かいけなかっただろうか」

 小さな妹とうら若き他人の少女は別物である。しかし、雪成には女はおろか男の友人すらほとんどいない。妖怪どころか、人間と接することも身内以外とはあまりなかった。他人とのふれあい方が、基本的に不器用である。

「動物相手にするようにすればいいし、君は年下の女の子だから、千冬にするようにすればいいと思ったのだけれど」
「雪成さんお友達いないの」
「いると思うのか」
「ごめんなさい」

 申し訳なさで俯いてしまった燈華に対して特に何も反応をしないで、雪成は豆大福を食べた後の食器類を片付け始めた。盆を手に部屋を出て行ってしまったので、残された燈華は改めて木片に目を落とした。

 雨風で枝葉が飛んできたわけではない。明らかに人工物である。ものが壊れてしまうような風だったかというと、そこまでではなかった。雪成が言うように、誰か人間か妖怪が壊したと考えるのが妥当だろう。数多並ぶ高級な屋敷のどこかで庭に置いてあった棚や箱が壊れた可能性もあるが、雪成がそこまで聞き込みに行くことはできない。妖怪を不審げに見るような者の多い地域で燈華が住人に話を聞くことも難しそうだ。

 私が人間に変化できたら、雪成さんが不思議がっていることを解明する手伝いもできたのかしら。雪成が絡むと、燈華は人間に変化できないことをほんの少し寂しく思うことがあった。全然気にしていないはずで、運河に落ちてしょんぼりしていたのも一ヶ月以上前で、普段はもう何も考えていないはずなのに。

 やがて、雪成が戻って来る。

「君の言うように俺には友人はほとんどいない。俺が純血の人間で自由に歩き回っていたとしても、きっとほとんどいないだろう。こういう家の子供というものは同じような地位の家の子供としか会うことがない。そういう子供は互いが純粋に仲良くなったつもりでも、後ろにいる大人達が密かに動いていることが多い。親が決めた縁組とか、家同士の腹の探り合いとか、力の強い家に取り入ろうとか。子供は駒でしかない。例えそこに愛があっても、駒だ。大人達が囲む盤上で仲良くなった相手は友人と言えるのか」
「ど、どうなのかな……。私には、想像できない世界で……」
「だから」

 雪成は畳に腰を下ろした。いつもつんと澄ましているような御曹司然とした顔が、微かに緩む。

「君のように己の意思で俺に会おうとして通うやつなんて初めてだ。お加減いかがですかとどこかの令嬢や令息が訪ねて来ることがないわけではないが、あれは友人と呼べるようなものではないし、会っても全く楽しくない。……だから。だから、君は俺にとって、少し特別な存在なのかもしれないな」

 はにかむように、雪成が笑みを零す。

 燈華の全身の毛が爆発し、尻尾から火花が散った。