二十一年前。

 その日、良家の令息は山登りに出かけていた。付き人を数人連れていたが、気性の荒い妖怪に遭遇し、逃げている間にはぐれて道に迷ってしまった。登山道へ戻るにはどちらへ行けばいいのだろうかと、令息は茂みの中を行ったり来たり。

 そうして辿り着いた湖畔で、令息は美しい女と出会った。令息はすっかりその女に見惚れてしまって、まるで夢でも見ているような心地になった。こんなに美しい人には会ったことがない。これは運命の出会いに違いない。

 女は、自分は遠くの街の商家の娘だという。両親と喧嘩して家を飛び出してきてしまって、行く当てもなくふらふらとしているうちにこんな森の中で迷って途方に暮れているのだそうだ。

 女と談笑していると、やがて、令息の付き人が迎えに来た。令息は住む場所と職を探しているという女を自分の屋敷へと連れ帰ることにした。女の家には手紙を出したが、返事は来なかった。

 住み込みの使用人として働き始めた女と令息は互いに惹かれ合い、二人は徐々に愛を深めていった。

 女は令息の屋敷の敷地内にあった離れを好んで使った。池が欲しいと言われ、令息は離れに池を作った。絵を描くことに没頭したいので作業部屋が欲しい、ここに籠ってもいいように厨なども欲しい、あれも、これも、と言われて令息は離れを改築し、増築し、改造した。

 女が屋敷にやって来て一年程経った頃、令息は両親に女を妻として迎えたい旨を話す。女の両親に送った手紙はいつも返事が来なかったが、この度初めて手紙が帰って来たと女が言う。前向きに考えつつ先方にも確認するという令息の両親の返答に、令息と女は喜びを露わにした。

 そちらのお嬢さんとうちの息子の婚約を考えている。そんな手紙を先方に出した。すると、向こうからは嬉しそうな文面が返って来た。令息と女はまた喜んだ。

 手紙が帰って来る少し前から、女は離れからあまり出て来なくなった。離れを覆い隠すように植えられた生垣の向こうから時々声はするが、令息にも姿を見せず、一番奥の作業部屋に籠って何かをしているようだった。絵が好きな女はきっと大作に臨んでいるのだと思って、令息は完成を楽しみにしていた。

 しばらくして、女の家から挨拶に伺うという手紙が届いた。娘も連れて行きます、と。

 はて、何かがおかしい。彼らの娘はこの離れにいるというのに。

 令息は離れを訪ねた。熱心に作業をしていた絵が出来上がったらしく、女は令息を迎え入れてくれた。待ち構えていたのは大きな人魚の絵と、大きな腹を抱える女だった。令息はまず、女が子を身籠ったことに喜んだ。結婚を急がないと、と弾んだ声で言った。次に、美しくも狂気を孕んだ絵に怯えた。女は遠くの街から来たから、この街と人魚の関係を知らないのかもしれない。そう思って責めるようなことはしなかったが、令息は人魚の絵を酷く怖がって震えあがってしまった。

 令息は女に、おまえの両親が娘を連れてくると言っていると言った。すると、女はそれは自分の妹だと答えた。

 女の家族が訪ねて来る一週間前、女は子供を産んだ。男の子だった。

 そして、女の家族がやって来た。想定よりも順調に移動できたそうで、予定よりも一日早かった。三人は簡単な挨拶をしてから一旦宿泊先へ向かうとのこと。その時、両親が連れている娘が名乗ったのは女の名前だった。

 これは明らかにおかしい。

 令息が離れを訪れると、赤ん坊を抱いた女が待っていた。何をそんなに慌てているのか、と女が言う。令息が事情を説明すると、女は笑った。

 ついに気が付かれてしまったか、と。

 本当は今夜のうちに宿を襲撃して商家の娘とその両親を殺すつもりだったと女は言う。凶暴な妖怪に襲われて両親と妹は死んでしまったと言って、本当の商家の娘を知らない令息達を騙し自分自身が娘に成り代わるつもりだったのだと。商家が暮らす街も近くの川の氾濫で流してしまえば完璧のはずだった。まさか、一日早くやってきてしまうとは思わなかった。

 周到に準備して来た計画が全て駄目になってしまった。水の泡だ、と女は笑いながら泣いた。

 あの絵は己の姿を見ながら描いた自画像だと女は言う。池や風呂で水に浸かっているが、やはり海が恋しくなってしまったのだと。自分は人魚なのだと、女は告白した。

 古に人魚が襲ったという街で、人間として生きてやろうと思ってこの街に来たと言う。人魚を恐れるこの街の人間や妖怪達が、自分のことを人間だと思ってにこにこしている様はきっと滑稽なものに違いないと思った。嘲り、揶揄うのはきっと楽しい。愉快に違いない。ちょっとした挑戦だった。でも、失敗した。

 令息は怒りと悲しみと恐怖が同時に込み上げて来て、震える拳を握った。

 でもね、と人魚は目を伏せる。貴方のことを愛した気持ちは本当だったのよ。騙す男は誰でもよかったし、家に入り込むことができればそれでよかった。けれど、貴方に惹かれて、子まで成してしまった。そう言って、人魚は赤ん坊を令息に抱かせた。産まれたばかりの小さな命は宝物のようで、呪物のようだった。愛おしくて、不気味だった。投げ捨ててしまいたいのに、優しく抱いてしまった。

 そうして赤ん坊を令息に託すと、人魚は屋敷を飛び出して行方を眩ませた。

 運河に人魚が出現して大騒ぎになったと、三日後の新聞に載った。運河沿いを観光していた人間数人に襲い掛かったとのことで怪異課が出動し討伐しようとしたが、逃してしまった。深手を負わせたのでそう長くはないだろうし、例え生きながらえたとしてももう現れることはないだろう。令息は赤ん坊を抱きながら、その記事に目を通した。

 しばらくの間、令息は塞ぎ込んだ。本物の商家の娘との縁談も破談になった。

 人魚が遺した稚魚など捨ててしまえと父親は言ったが、これでも自分の血を分けた子供だからと令息は赤ん坊を抱き締めた。大切な子供だった。そして、忌まわしい子供だった。