「人間を好きになることも、きっとあるよ。友達になれるんだから、恋人になることもある。実際、その結果結婚した人もいるらしいし」
「けっ、けけけけけこんこん」
「ただ、幸せになるかどうかは時と場合に寄るんだって。やっぱり、人間と妖怪は違うから。……わたし、燈華には不幸になってほしくないな」
「わ、私はまだそんな先のことは……。今は、ただ、彼を知りたいだけ」
「うん、それでいいと思うわ。人間と付き合うのはどんな関係であれ簡単ではないから。応援してる」
茉莉はミルクセーキを飲み干す。
「だからわたしのことも応援してほしいな。わたしの話、聞いてくれるよね?」
「もちろん」
茉莉の前のグラスは空っぽ。今日はそろそろ解散のようだ。残してはもったいないので、燈華はまだグラスの半分ほどあるクリームソーダをごくごくと飲む。
しかし、炭酸が思っていたよりも残っていて一気に飲むことは難しそうだ。待たせてしまうなと茉莉を見ると、彼女はなぜか女給を呼び止めていた。燈華は目をぱちくりとして茉莉を見つめる。
「次に、同級生の話なんだけど……」
「……は」
ほどなくして、テーブルには二人分のプリンが運ばれて来た。茉莉の話は、まだ終わりそうにない。
結局、燈華はその後一時間半程茉莉に付き合わされた。
もこもこの毛玉の頃から一緒の二人だが、茉莉が学校に通うようになってからは日中に顔を合わせる機会は減っていた。日程が合うと、茉莉は普段会えない分を取り戻すように長々と喋ることが多い。
同級生の面白い話や、紫藤家の漁師から聞いた海の話などをいくつか聞かされた。そしてたくさん話をして満足したらしい茉莉は、二人分の代金を気前よく払って燈華に笑顔を向けた。
「茉莉、ごめんね。今度は私が奢るから」
「気にしないで。今日はわたしが付き合わせちゃったんだし」
喫茶店から出ると、茉莉は人間から獺へと姿を変えた。稲守先生のようにほぼ常に人間の姿をしている妖怪もいるが、茉莉は手を使う時以外は専ら獺の状態であった。
鼬と獺が一匹ずつ。仲良く並んで歩いている。
「燈華がお金を貯めているのって、もしかして気になっている人間と関係があるの?」
ぼん、と毛が膨れ上がった燈華を見て茉莉は心底楽しそうに目元と口元を歪めた。
「え。えーと……。まあ、その、うん……」
「何かプレゼントするんだ」
「いや、高級ハイカラ菓子を買って持って来るように言われて」
「それ……大丈夫な男なの? たかりとかじゃなくて?」
「私が自主的に物を持って行こうとして、それに対しての要望だから大丈夫だよ」
「そうなのかな」
運河沿いの大通りを歩いていると、ふと茉莉が足を止めた。
「この辺、先月牛鬼が出たっていうところでしょ」
地元の人間と妖怪、観光客が大勢行き交う大通り。あの日、燈華と雪成が出会ったのもこの近くである。破壊された街灯などは既に修復されており、騒動の形跡はもうどこにも見られなかった。
茉莉は運河に目を遣り、そして燈華を見る。
「牛鬼はもっと浜の方にいる妖怪のはず。きっと、運河を辿ってこんな街中まで来たのね。あの日わたしは学校にいたけど、燈華は遭遇したり追い駆けられたりしなかった?」
「私は……見た……」
「えっ、牛鬼を?」
「うん……。すごく、怖かった。私達みたいな小さな妖怪じゃ太刀打ちできないくらい大きくて強そうだった。人間もみんな大慌てで逃げてて、大変だったよ」
「そうだったんだ。燈華が無事でよかった」
牛鬼の事件に巻き込まれて、人間に蹴飛ばされて、運河に落ちた。随分と運の悪い日だと思った。
うちの漁師さんが……と、茉莉はもう一度運河に目を向けた。船の碇を模した金属製の耳飾りが光っている。
「騒動の何日か前、沖で牛鬼らしき妖怪を見かけたんだって。どこからか泳いで来たのかな。怪異課には連絡してあったみたいだけど、海の方から来る脅威はなかなか防ぎようがないよね。すぐ近くに来るまで見えないから」
陸では怪異課が目を光らせているが、海を常に見ておくことはできない。船の行き来が多い港は人の目も多いが船の陰になってしまう場所も多く、抜け穴が意外と発生しやすい。漁船の漁師や輸送船の船員から連絡が来ると海側の警備も増えるが、対象が水底を這うようにして現れれば顔を出すまで分からない。海は雫浜に繁栄を齎し、それと同時に危険なものも運んで来た。
通りすがりの観光客らしき妖怪が燈華と茉莉にぶつかりそうになり、「ごめんよ」と言って歩いて行った。鼬と獺など視界に入らなさそうな、背の高い大入道である。
大きな大きな観光客の背中を見送って、茉莉は歩き出した。燈華も後を追う。
「茉莉は、家の船に乗せてもらって沖の方まで行くことがあるんだよね」
「うん」
「あの……。沖で人魚って見たことある?」
燈華の問いに、茉莉は赤い瞳を震わせた。驚きで全身の毛が逆立つ。
「え!? え!? 何!? に、人魚……?」
「……うん」
「人魚って、あの、魚から人間が生えてるやつ」
「そう……」
小さく身震いした茉莉の耳元で、碇を模した耳飾りが音を立てた。親友殿はなぜ突然そんな恐ろしいことを訊いて来たのか、という目で燈華を見る。
「わ……わたしは見たことないよ。もしわたしが目撃してたら、今頃海岸線は警察と軍だらけになってる」
「そうだよね」
この街に、雫浜に、人魚が現れるわけがない。滅多に現れることのない妖怪だが、もし現れれば牛鬼以上の大騒ぎになり街は厳戒態勢になるだろう。たくさんの武器を構えて追い払い、場合によっては打ち倒すことになる。
雫浜には古い言い伝えがあった。かつてこの街を襲った大水害は人魚によるものである、と。当時の人間が遺した日記に、人魚は恐ろしい化け物であるということが綴られていた。大波を起こして無辜の民の命を大量に奪った人魚。雫浜の人々にとって、人魚は恐怖の対象だった。隣人と化け物、そのどちらであるかと問えば住人のほとんどが化け物だと答えるだろう。
姿かたちが人間に似ているか似ていないかは関係ない。妖怪が隣人なのか化け物なのかは、その性質と所業による。平穏に暮らしている温厚な妖怪も、突然何らかの衝動に駆られて人間や他の妖怪を襲ったり捕食したりするかもしれない。そうなれば、その者はその段階でこの国の国民ではなくなった。街によって、同じ種類の妖怪でも対応が異なることもある。雪ノ宮に暮らす善良なる妖怪達は、自分が隣人として過ごせる街を選んで暮らしていた。
雫浜において、人魚は化け物である。
「なんで、そんなこと訊いて……」
図書館で頁を捲って、人魚がいるわけがないと本を閉じた。顔は人間に近かったから人魚かもしれない。でも、人魚なわけがない。そう思って本を閉じた。
けれど、燈華の前で雪成は人魚にしか見えない姿を見せた。深水邸を訪れて、生垣の奥の池を見た燈華が目にしたのは魚の体を持つ雪成の姿だった。あれはどう見ても人魚である。雪成だと分かっていても、この街で暮らす者として恐怖を覚えてしまった。
雪成は家から出ることが少ないと言っていたが、人魚をずっと陸に押し込めておくことは難しいだろう。人魚なら海に行くはずだ。
ところが、海に詳しい茉莉は人魚を見ていないと言う。今日も海は穏やかだ。確かに人魚なんて近くにいるわけがない。
そして彼自身は自分が人間であると言う。
あの人は、一体何?
「燈華?」
「何も……分からない……」
「大丈夫?」
知りたい、彼のこと。
「茉莉……。もし私が食われたら後のことはよろしくね」
「は? 何? 戦場へ赴くの?」
雪成の正体を知ることが怖い。けれど、燈華は雪成への興味関心を抑えることができなかった。雪成のことを知れば、自分の気持ちのことも何か分かるかもしれないと思った。
「私、頑張るから」
「よく分からないけど応援してるよ」
燈華は小さな前足をぎゅっと握って、己に気合を入れた。
「けっ、けけけけけこんこん」
「ただ、幸せになるかどうかは時と場合に寄るんだって。やっぱり、人間と妖怪は違うから。……わたし、燈華には不幸になってほしくないな」
「わ、私はまだそんな先のことは……。今は、ただ、彼を知りたいだけ」
「うん、それでいいと思うわ。人間と付き合うのはどんな関係であれ簡単ではないから。応援してる」
茉莉はミルクセーキを飲み干す。
「だからわたしのことも応援してほしいな。わたしの話、聞いてくれるよね?」
「もちろん」
茉莉の前のグラスは空っぽ。今日はそろそろ解散のようだ。残してはもったいないので、燈華はまだグラスの半分ほどあるクリームソーダをごくごくと飲む。
しかし、炭酸が思っていたよりも残っていて一気に飲むことは難しそうだ。待たせてしまうなと茉莉を見ると、彼女はなぜか女給を呼び止めていた。燈華は目をぱちくりとして茉莉を見つめる。
「次に、同級生の話なんだけど……」
「……は」
ほどなくして、テーブルには二人分のプリンが運ばれて来た。茉莉の話は、まだ終わりそうにない。
結局、燈華はその後一時間半程茉莉に付き合わされた。
もこもこの毛玉の頃から一緒の二人だが、茉莉が学校に通うようになってからは日中に顔を合わせる機会は減っていた。日程が合うと、茉莉は普段会えない分を取り戻すように長々と喋ることが多い。
同級生の面白い話や、紫藤家の漁師から聞いた海の話などをいくつか聞かされた。そしてたくさん話をして満足したらしい茉莉は、二人分の代金を気前よく払って燈華に笑顔を向けた。
「茉莉、ごめんね。今度は私が奢るから」
「気にしないで。今日はわたしが付き合わせちゃったんだし」
喫茶店から出ると、茉莉は人間から獺へと姿を変えた。稲守先生のようにほぼ常に人間の姿をしている妖怪もいるが、茉莉は手を使う時以外は専ら獺の状態であった。
鼬と獺が一匹ずつ。仲良く並んで歩いている。
「燈華がお金を貯めているのって、もしかして気になっている人間と関係があるの?」
ぼん、と毛が膨れ上がった燈華を見て茉莉は心底楽しそうに目元と口元を歪めた。
「え。えーと……。まあ、その、うん……」
「何かプレゼントするんだ」
「いや、高級ハイカラ菓子を買って持って来るように言われて」
「それ……大丈夫な男なの? たかりとかじゃなくて?」
「私が自主的に物を持って行こうとして、それに対しての要望だから大丈夫だよ」
「そうなのかな」
運河沿いの大通りを歩いていると、ふと茉莉が足を止めた。
「この辺、先月牛鬼が出たっていうところでしょ」
地元の人間と妖怪、観光客が大勢行き交う大通り。あの日、燈華と雪成が出会ったのもこの近くである。破壊された街灯などは既に修復されており、騒動の形跡はもうどこにも見られなかった。
茉莉は運河に目を遣り、そして燈華を見る。
「牛鬼はもっと浜の方にいる妖怪のはず。きっと、運河を辿ってこんな街中まで来たのね。あの日わたしは学校にいたけど、燈華は遭遇したり追い駆けられたりしなかった?」
「私は……見た……」
「えっ、牛鬼を?」
「うん……。すごく、怖かった。私達みたいな小さな妖怪じゃ太刀打ちできないくらい大きくて強そうだった。人間もみんな大慌てで逃げてて、大変だったよ」
「そうだったんだ。燈華が無事でよかった」
牛鬼の事件に巻き込まれて、人間に蹴飛ばされて、運河に落ちた。随分と運の悪い日だと思った。
うちの漁師さんが……と、茉莉はもう一度運河に目を向けた。船の碇を模した金属製の耳飾りが光っている。
「騒動の何日か前、沖で牛鬼らしき妖怪を見かけたんだって。どこからか泳いで来たのかな。怪異課には連絡してあったみたいだけど、海の方から来る脅威はなかなか防ぎようがないよね。すぐ近くに来るまで見えないから」
陸では怪異課が目を光らせているが、海を常に見ておくことはできない。船の行き来が多い港は人の目も多いが船の陰になってしまう場所も多く、抜け穴が意外と発生しやすい。漁船の漁師や輸送船の船員から連絡が来ると海側の警備も増えるが、対象が水底を這うようにして現れれば顔を出すまで分からない。海は雫浜に繁栄を齎し、それと同時に危険なものも運んで来た。
通りすがりの観光客らしき妖怪が燈華と茉莉にぶつかりそうになり、「ごめんよ」と言って歩いて行った。鼬と獺など視界に入らなさそうな、背の高い大入道である。
大きな大きな観光客の背中を見送って、茉莉は歩き出した。燈華も後を追う。
「茉莉は、家の船に乗せてもらって沖の方まで行くことがあるんだよね」
「うん」
「あの……。沖で人魚って見たことある?」
燈華の問いに、茉莉は赤い瞳を震わせた。驚きで全身の毛が逆立つ。
「え!? え!? 何!? に、人魚……?」
「……うん」
「人魚って、あの、魚から人間が生えてるやつ」
「そう……」
小さく身震いした茉莉の耳元で、碇を模した耳飾りが音を立てた。親友殿はなぜ突然そんな恐ろしいことを訊いて来たのか、という目で燈華を見る。
「わ……わたしは見たことないよ。もしわたしが目撃してたら、今頃海岸線は警察と軍だらけになってる」
「そうだよね」
この街に、雫浜に、人魚が現れるわけがない。滅多に現れることのない妖怪だが、もし現れれば牛鬼以上の大騒ぎになり街は厳戒態勢になるだろう。たくさんの武器を構えて追い払い、場合によっては打ち倒すことになる。
雫浜には古い言い伝えがあった。かつてこの街を襲った大水害は人魚によるものである、と。当時の人間が遺した日記に、人魚は恐ろしい化け物であるということが綴られていた。大波を起こして無辜の民の命を大量に奪った人魚。雫浜の人々にとって、人魚は恐怖の対象だった。隣人と化け物、そのどちらであるかと問えば住人のほとんどが化け物だと答えるだろう。
姿かたちが人間に似ているか似ていないかは関係ない。妖怪が隣人なのか化け物なのかは、その性質と所業による。平穏に暮らしている温厚な妖怪も、突然何らかの衝動に駆られて人間や他の妖怪を襲ったり捕食したりするかもしれない。そうなれば、その者はその段階でこの国の国民ではなくなった。街によって、同じ種類の妖怪でも対応が異なることもある。雪ノ宮に暮らす善良なる妖怪達は、自分が隣人として過ごせる街を選んで暮らしていた。
雫浜において、人魚は化け物である。
「なんで、そんなこと訊いて……」
図書館で頁を捲って、人魚がいるわけがないと本を閉じた。顔は人間に近かったから人魚かもしれない。でも、人魚なわけがない。そう思って本を閉じた。
けれど、燈華の前で雪成は人魚にしか見えない姿を見せた。深水邸を訪れて、生垣の奥の池を見た燈華が目にしたのは魚の体を持つ雪成の姿だった。あれはどう見ても人魚である。雪成だと分かっていても、この街で暮らす者として恐怖を覚えてしまった。
雪成は家から出ることが少ないと言っていたが、人魚をずっと陸に押し込めておくことは難しいだろう。人魚なら海に行くはずだ。
ところが、海に詳しい茉莉は人魚を見ていないと言う。今日も海は穏やかだ。確かに人魚なんて近くにいるわけがない。
そして彼自身は自分が人間であると言う。
あの人は、一体何?
「燈華?」
「何も……分からない……」
「大丈夫?」
知りたい、彼のこと。
「茉莉……。もし私が食われたら後のことはよろしくね」
「は? 何? 戦場へ赴くの?」
雪成の正体を知ることが怖い。けれど、燈華は雪成への興味関心を抑えることができなかった。雪成のことを知れば、自分の気持ちのことも何か分かるかもしれないと思った。
「私、頑張るから」
「よく分からないけど応援してるよ」
燈華は小さな前足をぎゅっと握って、己に気合を入れた。

