「おはよう、岳」
温かくて優しいその声で五十嵐岳はぱちりと目を覚ました。
声を掛けられると一瞬で起きてしまう自分の寝覚めの良さを岳は少し恨む。だってきっと自分がいつまでも目を覚まさなければ彼は何度も岳を呼んでくれるのだろう。岳はその機会を失っているのだ。
せめてもの抵抗に、と目を覚ましてはいるもののぼうっと寝ぼけたふりをして布団脇にしゃがんでいる彼を見つめる。そうすると彼は、おい、と少し不機嫌な声を上げて岳の短い髪をぐしゃぐしゃと撫でまわすのだ。
「おはよう、岳」
そしてもう一度言われた言葉に岳はようやく返事を返す。
「……一誠、おはよ」
岳の返事に気を良くした彼――花菱一誠はニッと笑って可愛らしい八重歯を岳に見せた。未だ開けられていないカーテンの隙間から差し込む朝日が一誠を照らし、高校に入学してから染め始めたサラサラの茶髪をキラキラと輝かせている。それを、綺麗だな、と思って岳は一誠に手を伸ばす。
一誠の綺麗な髪に触れようとしていた岳だったがその手は一誠に掴まれ、そのまま布団から引きずり出されてしまった。
身長一八二センチと一七五センチの七センチ差。足にばかり筋肉がつく陸上部の一誠と違い、全身を満遍なく鍛えているバスケットボール部の岳の体格は良い。それでも一誠はいとも簡単に岳を布団から引きずり出した。
一誠の髪に触れると思っていた岳は突然布団から引きずりだされたことに不服な表情を浮かべていた。その顔を見て一誠が、あれ? と少し焦る。
「あれ? 起こしてほしかったんじゃないの?」
そう言う一誠に岳はプイッと顔を背けた。
「起こしてくれてどうもありがとう」
少し棘のある言い方で一誠にお礼の言葉を述べると岳は立ち上がり、クローゼットから自身の制服を取り出した。未だ布団脇にしゃがみこんでいる一誠をちらりと見ると彼は既に制服に着替え終わっていた。
寝間着を脱ぎ捨て、制服に袖を通す。毎日着ている制服は手元を見ずとも着替えられる。
シャツのボタンを閉めている間、岳は開きっぱなしのクローゼットの中を見つめていた。中に掛けられているのはカジュアルテイストの派手な色柄の服ばかりだ。それはシンプルな黒紺を好んで着る岳のものではない。
それも当然だ。この部屋は岳の部屋ではなく一誠の部屋だからだ。
岳が着替えている間に一誠は岳が寝ていた布団を畳み始める。その布団はたまに使うような客用布団ではなく常に一誠のベッドの横に置かれている岳専用布団だ。
制服に着替えを終えた岳は勉強机の横に置かれていた二つの鞄を手に取ると自分はスポーツバッグを肩に掛け、もう一つのスクールバッグを一誠に手渡した。
「サンキュー」
そして二人は部屋を出て階下へと向かう。
部屋を出た直後から階下から香ってくる朝食の良い香りに食べ盛りの高校二年生の腹が鳴っていた。
「おはよー」
「おはようございます」
「二人ともおはよう」
リビングに入ると先にダイニングテーブルについていた一誠の父が手元の新聞から顔を上げて言った。
「一誠も岳くんもおはよう」
「おばさん、おはようございます」
続いて一誠の母がキッチンから顔を出す。二人はリビングに通学鞄を置くとダイニングへと向かった。
一誠の父の隣に母が座り、その向かい側に一誠と岳が腰掛ける。テーブルの上には四人分の朝食。そして言わずともきちんと岳の朝食まで準備されている。
「いただきまーす」
「いただきます」
「どうぞ召し上がれ」
それはいつもの朝の光景だ。
「行ってきます」
朝食を取り終えた二人は朝の身支度を済ませると鞄を持って玄関へと向かった。
一誠は細身のスニーカーを、岳はハイテクスニーカーを履くと身だしなみの最終確認をするために玄関の姿見に並ぶ。
「あれ? 岳、また背伸びた?」
手のひらを水平にして一誠は自身の頭の天辺と岳の天辺を比べる。前はもっと差がなかった気がする。
スニーカーのせいか、と一誠が足元を睨みつけていると岳の手が一誠の髪を撫でた。
「なに?」
「寝ぐせ。直してやるからちょっと待ってろ」
「うん」
岳の大きな手が一誠の髪を優しく撫でる。それは跳ねる髪を撫でつけている動作のはずだが一誠には頭を撫でられているようにしか見えなかった。優しいその動作が心地良い。
「ふふ」
一誠は思わず笑みを浮かべた。
「はい、できた」
「ありがと、岳」
お礼を言うついでに、と一誠は岳の頭に手を伸ばす。その動作に岳は少しだけ身を屈めた。それによって一誠の手は岳の頭の天辺に難なく届き、岳の髪を撫でることに成功する。
岳の髪は柔らかい猫毛のような一誠の髪とは違い、硬くて太い。自分のものとは違う新鮮なその手触りに一誠は満足すると手を下ろした。
「じゃ、行ってきまーす」
「行ってきます」
家の奥から母親の、いってらっしゃい、の声が聞こえた。その声に見送られて二人は学校へと出発した。
一誠の家を出るとすぐ隣は岳の家だ。“五十嵐”の表札の前を通りすぎようとしたところで一誠はちらりと岳の家に目をやった。
郵便受けから飛び出す手紙やチラシ類はない。きっと岳が定期的に取り出しているのだろう。石が敷かれている庭は除草剤が撒かれていて雑草一つ飛び出していない。
家の全ての窓のカーテンは閉め切られ、ひと気を感じられなかった。
「なあ。岳の親父さん、次はいつ帰ってくるの?」
昔から多忙で滅多に家に帰ってこないという岳の父親は今アメリカに単身赴任していると聞いている。岳の父親が最後にこの家に帰ってきたのはいつだっただろうか。一誠は幼馴染の父親の顔が思い出せないでいた。
「……知らない」
「……そっか」
多くを語ろうとはしない岳に一誠はそれ以上彼の父親の話をすることを止めた。小学生の頃に亡くなった彼の母親の話など猶更だ。
感情をあまり表に出さない岳は分かりづらい、と言われている。今も傍から見るとなんてことない普通の表情をしているように見える。しかし生まれた時から一緒にいる一誠には彼が今、父親への不満と怒りと寂しさで不機嫌になりつつあると分かっていた。
「……今日の夕ご飯何かなー」
その場の空気を取り繕うかのように一誠はそう言った。その言葉に岳が顔をほころばせて、ふっ、と笑った。
「お前、今朝飯食べてきたばっかだろ」
「でも気になるじゃん。昼ご飯も夕ご飯も」
岳の機嫌が戻ったことに一誠は心の中で安堵のため息をつく。そして一誠はおどけて笑った。
昇降口に入るとちょうど一誠は後ろから声を掛けられた。
「花菱、おはよー」
「石田、おはよ。珍しく今日早いんじゃねえ?」
それは一誠のクラスメイトの石田実だ。マッシュヘアーの少し重めの前髪の奥で彼は人懐こい笑みを浮かべていた。
石田と話している一誠を余所に岳はさっさと上履きに履き替えるとバタンと大きな音を立てて靴箱を閉めた。
妙に急ぐ岳とは対照的に一誠はマイペースに靴を履き替える。疾うに上履きを履いた二人が一誠を待ち、一世が履き終えたのを見ると三人揃って校舎へと入っていった。
「花菱と五十嵐って幼馴染なんだっけ?」
石田の問いかけに一誠は頷く。
「うん。家が隣で母親同士が仲良しだったから生まれた時からずっと一緒」
「凄いな」
アルバムを見ると必ず隣に写っている岳の姿を思い出して一誠はにっこりと笑った。
「毎朝一緒に学校着て帰りも一緒に帰ってるんだろ?」
「それは、家を出る時間が同じなんだから当たり前だろ。帰りもお互い運動部だからだいたい帰りの時間も被るし」
一誠の答えに、それもそうか、と石田は納得している様子だ。家が隣で時間が同じなのだから一緒に登下校をしない理由はない。
「お前ら付き合ってるんだもんな」
うんうん、と一人納得しながら頷く石田に、それまでずっと黙っていた岳が、そうだよ、と答えた。
一誠と岳は付き合っている、恋人同士なのだ。それはお互いの友人たちには周知の事実だ。
「でも花菱と五十嵐って付き合ってる割には結構ドライだよな」
「えっ、そう?」
意外な言葉に一誠は首を傾げる。岳を見ると彼も一誠と同じように首を傾げていた。
自分たちは至って普通に過ごして接しているつもりだが、石田から見ると自分たちの関係は“ドライ”に当たるらしい。
「俺の彼女なんて何があってもなくても常に連絡しろ、ってうるさくて。休み時間ごとにメッセージを送ってきたり、電話掛けてきたり、昼休みは絶対一緒に食えってうるさいんだよ」
はあ、とため息をつく石田は一見疲れているように見えるが一誠にはそれが彼なりの惚気なのだと知っていた。
なんだかんだ言っておきながらメッセージにはこまめに返事を返し、昼休みも彼女のクラスまで飛んでいく彼の姿を一誠は毎日見ているのだ。
「でもお前らってそういうのないだろ?」
その問いかけに一誠は瞬時に、ない、と答えた。
「今日の予定は? 今日も一緒に帰ろう? 明日の予定は? 今何してる? ってお前らが話してるの聞いたことないもんな」
岳からメッセージが届くことは滅多にない。もしあればそれは余程急ぎの時だ。
教室も理系で西棟の岳と文系で東棟の一誠は棟が離れているので気軽に行き来できるものでもない。休み時間の逢瀬はもちろん、昼休みはそれぞれクラスメイトと食べているので放課後まで顔を合わせることもない。
学校での二人は全くと言っていいほど接点がなかった。そのためお互いの友人以外は二人の関係を知る由がないのだ。まさかバスケ部の主将と陸上部のエースが付き合っているなど皆思いもよらないだろう。
「そういうのなくていいよな」
いくら好きでもたまにめんどくさくなる。そう言った直後に石田のポケットでスマートフォンが音を立てた。噂すれば、その彼女から着信が来たらしい。
二人に一言断りを入れてから電話に出た石田は、めんどくさい、と言っておきながらもその声はどこか弾んでいた。
自分たちは結局彼の壮大な惚気に付き合わされただけらしい。隣を歩きながら楽しそうに話す石田に一誠は笑みを浮かべた。
隣に並ぶ岳と目が合い、笑いかけると岳もまた小さな笑みを返してくれた。これのどこがドライな関係なのだろうか。
その時ふと一誠は岳から予定を聞かれたことがないと思い返した。
一緒の登下校は特別約束をしていなくても最早ルーティンと化している。今日の予定も明日の予定も一誠から尋ねたこともなければ岳から尋ねられたこともない。
それは他人から見ると随分自由気ままで、見方によってはドライな関係に見えるらしい。
うーん、と一誠は頭を悩ませる。
そうはいってもお互いのことに興味がないわけではない。
改めて考えると気恥ずかしいが、一誠は岳が好きで、岳は一誠が好きだから恋人関係を続けているのだ。髪を優しく撫で、抱きしめて、頬に触れ、キスをするのはもちろんお互いだけだ。
じゃあまた後で、と言う石田の声が聞こえた。どうやら彼女との通話は一旦終わったらしい。電話を切った石田が、悪かった、と謝る。そして、それで、と続けるのでどうやら先ほどの話を続ける気でいるらしい。
「五十嵐は花菱に束縛とかしないの?」
岳が束縛、と言葉を繰り返した一誠は岳が束縛してくる様子を想像すると、あはは、と声を上げて笑った。あまりに一誠が盛大に笑うので岳はムッと唇を結んだ上に一誠を肘で小突く。
「ないない」
頻繁に連絡をしてくる岳、予定を尋ねてくる岳、細かいことに嫉妬する岳を想像すると笑いが止まらない。
あの岳がそんなことをするはずがない。
棟の分かれ道に着き、三人は足を止める。
「一誠、また帰りに」
「うん、じゃあね」
そう挨拶をすると岳は西棟にある自分のクラスへと行ってしまった。一方の一誠と石田は東棟へと向かう。
その時、今度は一誠のスマートフォンが二回鳴った。画面を確認すると一つ目の通知、スケジュール管理アプリの通知が来ていた。
一誠は教室に入りながら、スケジュール管理アプリを開く。
スケジュールは全てそのアプリを利用して管理している。
先ほどの通知はどうやら岳が予定を更新した通知だったらしい。今日の欄に夜九時からのバラエティー番組を見る予定が追加されている。
新しく追加されていたその予定を見て一誠は小さく笑った。
黄色の文字が一誠の予定、そして青い文字が岳の予定だ。
一誠は夜九時からのその予定の編集を開くと参加者の欄に自分を追加した。そして更新ボタンをタップするとスケジュール画面にあったその予定の青い文字は赤い文字へと変わる。
二人一緒の予定は赤い文字と決まっている。
クラスメイトたちにおはようと返しながら一誠は自分の席へと辿りつく。そして鞄を机の上に置いたまま、またスマートフォンをいじり始めた。
次に見るのは二つ目の通知だ。それはGPSアプリだった。
“五十嵐岳さんが花菱一誠さんから離れました”
とそのアプリは知らせている。どうやら棟を別れた時のことを通知してくれたらしい。GPSアプリ上での岳を示す点は自分のクラスで止まっていた。
放課後、一誠は部活が終わると校門へと急ぐ。着くと先に部活が終わっていた岳がそこで既に待っていた。
「岳、お疲れ!」
「一誠」
二人は並んで帰路につく。帰り道、話すことはそれぞれのクラス、部活のことだ。一誠は岳の話を聞いているとふと石田の言葉を思い出した。
一緒にいなかった時間のことを話すがそこに石田の言っていたような束縛に当たるものはない。しかしそのことに特に一誠は不満を感じているわけでもない。
岳の話が終わり、次に一誠は今朝の石田の惚気について話すことにした。
「石田、あの後も彼女の教室に呼び出されて行ってたよ」
「石田の彼女って理系じゃなかったか?」
一誠は岳に石田の彼女の話をしながら彼女についての情報を思い出した。
「うん。確か岳の隣のクラスだよ」
一誠がそう答えると岳は、信じられない、という表情を浮かべた。
「わざわざそっちからうちの棟にまで会いに来てるのか?」
「うん。そのせいで石田は授業遅刻の常習犯になってるけどね」
話しているうちにあっという間に家の前に着いていた。誰もいない岳の家は朝から全く様子を変えていなかった。二人はいつものように岳の家の前を通り過ぎると揃って一誠の家に入っていく。
「ただいまー」
「二人ともおかえりなさい」
中に入るとすぐリビングの方から声が聞こえた。そしてパタパタとスリッパで歩く音が聞こえ、一誠の母親が顔を出した。
「夕飯ができるまでもうちょっと掛かるから先にお風呂入っちゃって」
「はーい」
返事を返すと二人は二階の一誠の部屋へと向かった。部屋に入ってすぐ通学鞄を床に下ろす一誠とは違い、岳はスポーツバッグを持ったままベランダの方へと進んでいく。
「一誠、俺ちょっと荷物取ってくる」
「了解! 俺、先に風呂入っていていい?」
「いいよ」
一誠の返事を聞いてから岳はベランダへと続く窓を開けた。そして手すりに手を掛けると軽くジャンプをして隣の家のベランダへと乗り移って見せる。
窓に手を掛けると窓に鍵は掛かっておらず、カラカラと軽い音を立てて窓は容易く開いた。
岳は家の中へと入っていった。
カーテンが閉め切られていた暗いその部屋は岳の部屋だ。
岳は手探りで壁際のスイッチを見つけると明かりを付けた。
壁に貼られているポスターのプロバスケットボール選手は数年前に疾うに引退してしまっている。岳ももう彼には興味がないが、剥がすタイミングを失っているだけだ。
壁に沿って置かれているベッドで最後に眠ったのはいつだろうか。埃をかぶらないようにベッドの上にはカバーが掛けられている。岳はカバーの上に無造作にスポーツバッグを置いた。
洗濯物は一つの袋にまとめると明日必要なものを鞄に詰めていく。そしてクローゼットから着替えを取り出すとそれらの荷物を抱えて岳はまたベランダを伝って一誠の部屋へと戻って行った。
一誠の部屋に戻るとそこに一誠の姿はなかった。階下から微かにシャワーの音が聞こえる。どうやらまだ彼は風呂に入っているらしい。
岳は自分の部屋から持ってきた荷物を床に置くとベッドに倒れ込んだ。
岳の体重を受けてぼふん、と布団が沈み、同時に一誠の匂いがした。
岳は目を閉じると一誠の匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。心地よい一誠の匂いとふかふかの布団の感触に思わずうとうとしてしまう。
もうシャワーの音は聞こえない。
一誠にしては随分と長い入浴だ。一誠はもしかしたら風呂に一緒に入る気だったのかもしれない。だって彼は「入っていていい?」と言ったのだ。
付き合う前――中学一年生までは時間短縮のためと言って一緒に風呂に入っていたけれど、もう一緒には入れそうにない。
その時部屋のドアが開いた。
「岳、戻ってたのかよ。俺、風呂でずっと待ってたのに」
部屋に入ってきた一誠は部屋着のジャージを身に纏い、肩にタオルを掛けていた。まだ濡れている髪の毛先から雫が落ち、タオルを段々と濡らしている。
岳は深く息を吐いてベッドからゆっくりと身体を起こすと一誠の肩からタオルを取って髪をわしわしと拭いてやった。
「ちゃんと拭いてから出てこい」
「岳が来ないのが悪い」
そう言って尖らせた一誠の唇を岳は摘まんで笑う。そして岳は着替えを持って階下の風呂場へと向かった。
湯気が立ち込める風呂場で岳は大きく深呼吸をする。一誠が使ったばかりの風呂場は温かく、そして一誠のシャンプーの良い香りが漂っていた。
うわっ、と思わず声を上げる。その声は決して嫌悪感から出たものではない。
さっきまでここに一誠がいたと思うと興奮が高まっていく。
岳は大きなため息をつくと頭から冷水を浴びた。
岳が風呂から上がると夕食が既にダイニングテーブルに並べられていた。
一誠、岳、一誠の母の三人で夕食を食べていると一誠の父が帰宅する。
「おかえりなさい」
岳がそう言うと一誠の父は岳が花菱家で夕食を取っていることなど気にすることもなく「ただいま」と返した。
「岳くんはもうすぐ大会なんだっけ?」
「はい、来週に」
四人で食卓を囲み、話題は二人の学校生活の話となる。陸上部のエースとして活躍している一誠の話はもちろん、岳の学校生活についても自然と話題となり岳は臆することなく答えていく。
四人での夕食を終えて食休みをしていると二人のスマートフォンのアラームが鳴った。時計を見ると岳と一誠がスケジュールで共有した午後九時だ。
一誠はバラエティー番組にチャンネルを合わせた。
くつろいでいた父と母もテレビの前に集まり、結局四人でテレビを囲む。
お笑い芸人のくだらないギャグに笑い、クイズコーナーではそれぞれ回答を選んで答え合わせで盛り上がる。
一誠の母親の推しだというアイドルが出演していることもあって終始賑やかに番組を見て過ごすことになった。
番組が終わると二人は揃って一誠の部屋へと向かった。
岳は床に座って自分の部屋から持ってきていたバスケットボール雑誌を読み始め、一誠はベッドに寝転がって動画を見る。
そして日付が変わる少し前にそれぞれベッドと布団に入って就寝する。
これはいつもの流れだ。
岳の生活拠点は隣にある五十嵐家ではなく、花菱家にある。
椅子やカトラリー、タオル類は全て四人家族用。当たり前のように岳の分も用意してある食事。岳ありきの生活リズム。
岳はもう花菱家の一員のようなものだ。
一誠は休み時間に日課であるスケジュールの入力をしていた。
スケジュールは事細かに記入されている。それこそテスト期間、部活の大会予定、友人と出かける予定だけでは済まされない。
理系、文系の時間割。昼休みをどこで過ごすのか。部活の終わる時間。寄り道したい場所。見たいテレビ番組。
そこには二人のスケジュールが入力され、共有されている。
お互いのスケジュールを細かく共有するようになったのは最近のことではない。いうならば付き合い始めた中学二年生より前――携帯端末を持ち始めた小学校四年生の時からしていることだ。
元々は放課後に自由に遊びに行ってしまい門限を破りがちな一誠の予定を管理するために始めたことだった。
一誠のお目付け役に任命された岳が一誠の予定を把握したい、というので一誠だけの予定を書くのも不公平だと岳のスケジュールも入れるようになったのだ。
長く続けられているスケジュール共有は最早ルーティンと化し、二人にとっては当たり前のこととなっていた。
お互いのスケジュールを把握しているのは二人にとって普通のことなのだ。
GPSを利用し始めたのも同じ理由からだ。
一誠がGPSアプリを起動すると岳が移動しているのが見えた。今日は所属しているバスケットボール部の地方大会のために授業を休んで他校の体育館にいるはずだ。スケジュール共有アプリにはそう予定が書かれていた。
一誠の今日の予定は部活が十七時半に終わって帰りに本屋へ寄ってからの帰宅だ。その予定は全てスケジュールに入れているので岳も把握しているだろう。そして一誠が動き始めればGPSは動き出すはずだ。
岳の全てを一誠は把握しているし、一誠も岳の全てを把握している。
これは決して束縛ではなく二人にとっての“日常”なのだ。
それは今日も休み時間ごとに電話を掛け、昼休みにわざわざ理系クラスまで呼びつける石田の彼女と同じなのだろう。めんどくさい、と言いながらも彼女の要望を全て受け入れる石田にとってもそれは“日常”なのだろう。
「ただいま」
一誠の帰宅からだいぶ遅れて大会帰りの岳が花菱家を訪れた。
その肩には大きなスポーツバッグが掛けられ、服装も制服ではなくバスケットボ―ル部のジャージだ。
大会を終えた岳は真っ暗で静かな自分の家の前を通り過ぎて今日も一誠の家へと帰宅していた。
「岳くん、お帰りなさい! お疲れ様。大会はどうだった?」
「優勝して、県大会へコマを進めました」
「そう! おめでとう!」
そうだと思って、と一誠の母親は既にお祝いのディナーを用意していると言った。道理で一誠が帰宅した時からずっとキッチンで料理を続け、いつもよりも良い匂いを漂わせていると一誠は思っていた。
「優勝できると限らないのに気が早いなぁ。これで優勝してなかったらどうするつもりだったんだよ」
一誠がそう尋ねると母親は首を横に振った。
「優勝するに決まってるでしょう」
あまりにも強い言葉に一誠は呆れ、岳は苦笑いを浮かべた。
「だって岳くんだもの」
理由になっていない言葉だが、不思議と説得力のある言葉だった。
一誠の母親は岳に強い信頼をしている。それは実子である一誠に向けている信頼と同程度のものだ。
「お父さんがケーキを買ってきてくれるっていうから、少し待っていましょうね」
そう言うと母はご馳走の並んでいるケーキの真ん中にこれから来るケーキの居場所を空けた。
岳の地方大会優勝のお祝いが終わると二人はいつも通りに一誠の部屋へと向かった。
「一誠、荷物置いてくる」
「うん。暗いから足元気を付けてな」
岳は頷くとスポーツバッグを抱えてベランダへと向かう。そして悠々と柵を乗り越えて自室へと入っていった。
部屋の電気をつけ、ベッドの上にスポーツバッグを置くと岳は階下へと向かう。誰もいない家の中は、いつも明るく賑やかな花菱家とは違いシンと静まり返っていた。
岳以外誰も付けることのない家じゅうの電気をパチパチと付けて回りながらリビングへと入る。
そして生活感のないリビングのテーブルの上に置かれている母親の写真に手を合わせた。
リビングを出て玄関にしっかり鍵が掛かっていることを確認すると、今度は付けた電気を消して回りながら岳は自分の部屋へと戻って行った。
それからベッドの上に置いていたスポーツバッグに手を伸ばす。
バッグの中から荷物を取り出し、必要なものと入れ替えると岳はまたバッグを抱えてベランダへと向かった。
岳の部屋のベランダへの通じる窓に手を掛けると、開いているカーテンの向こう側でベッドに寝転んで漫画を読んでいる一誠の姿が見えた。
岳がベランダの窓を開ける際に立てたカラカラという軽快な音に気付いた一誠が手元の漫画本から顔を上げる。するとベランダに立つ岳と目が合った。
一誠はベッドから身体を起こすとにっこりと笑って岳に向けて手招きをした。その手招きに誘われて岳は再び柵を越えて一誠の元へ戻ってきた。
「ただいま、一誠」
「おかえり、岳」
一誠の優しい笑みに岳も頬を緩ませる。
ただいま、おかえり。
岳の家は誰もいなくて冷たいあちらの家ではなく、一誠のいる温かくて居心地の良いこちらの家だと思える。
あちらの家の玄関はしばらく開けていない。
一誠の家の玄関から外に出て、一誠の家に戻ってくる。あちらの家への出入りは専ら一誠の部屋のベランダからだ。
一誠の部屋へと戻ると既に岳の布団が敷かれていた。
岳がバッグを部屋の隅に置くとそれを見計らって一誠は読んでいた漫画をヘッドボードへと置いた。そして枕に頭を置くと身体に布団を掛ける。どうやら彼はもう眠るつもりらしい。
「岳、電気消して」
一誠の言葉は少し舌足らずで眠気を含んでいた。
「……おやすみ、一誠」
岳が部屋の電気を消すと部屋の中は真っ暗になった。その暗闇の中でも岳は慣れた足取りで自分の布団にたどり着くと布団を被る。
今日もいつものように岳は一誠と明日の予定の話をしなかった。
予定は全てスケジュールアプリに入力してあるのでわざわざ話題に出す必要はない。
今日も部活の帰りに落ち合った二人は一緒に帰路についていた。いつもであればこのまま岳も一緒に一誠の家へと帰宅する。しかし今日は違っていた。
いつもなら通り過ぎるだけの岳の家の前で岳が足を止めた。
足元の蟻を追いかけていた一誠は岳が立ち止まったことに気付くのに少し遅れてしまった。隣に岳が並んでいないことに気付いた一誠は岳の二歩先で足を止める。そして振り返った。
「どうした、岳?」
見ると岳は自分の家の方をじっと見ていた。その視線の先を追って一誠も岳の家を見る。するといつもであれば真っ暗なはずの岳の家の玄関の明かりが灯っていた。
「あれ? 岳の家って今だれもいないはずじゃ……」
「……親父が帰ってきたみたいだ。一誠、今日はあっちに帰るから、悪いんだけどおばさんに言っておいて」
岳はそう言うと久しぶりに自分の家の門扉を空けた。扉は久しく開けていなかったため錆びて軋んだ音を立てていたが難なく開いて岳を受け入れる。
敷地の中に入り、門扉を閉じた岳と一誠の目が合う。
「一誠、また明日」
また明日、という言葉を岳から聞いたのはいつぶりだろうか。いつもであれば一誠の家で明日も一緒にいるのでその言葉を聞くのに違和感があった。
「ああ、また明日」
一誠の返事を聞くと岳は玄関のドアを開けて家の中に入っていった。
ドアが閉まる直前で、ただいま、と言う岳の声が聞こえた。一誠はまたその言葉に違和感を覚えた。いつもであればその言葉は一誠の家で聞くものだ。
「……ただいま」
一誠が家に帰るといつものように母親が帰りを出迎えてくれた。母は一誠の隣に岳がいないことに特に驚いていないようだった。
「おかえり。岳くんのお父さん、帰ってきたんだって?」
「え、うん。なんで知ってるの」
「さっきご挨拶に来てくれてたのよ。急な部署異動で東京勤務に戻った、って」
「……そうなんだ」
一誠はゆっくりと階段を上って自室へと向かう。後ろから母親が洗濯物を出すように催促する声が聞こえたが一誠は上の空だった。
部屋に入り鞄を床にゴトンと落とすとそのままベッドに倒れ込む。目の端に綺麗に折りたたまれた岳専用布団が見えた。
目線を動かし、開きっぱなしのカーテンの向こう側を見ると岳の部屋の電気が点いていた。どうやら岳も向こうの部屋に着いたらしい。しかし一向に岳がベランダを伝ってこちらに来る気配はない。
結局その日、岳が一誠の家を訪れることはなかった。
「おはよう、一誠」
「岳、おはよう」
二人が朝の挨拶を交わしたのは寝ぐせ寝間着姿での一誠の部屋ではなく、しっかりと身支度を整えた家の前だった。
「親父さん、元気だった?」
「ああ。一誠の家に入り浸ってるのがバレて怒られた」
「そっか」
「俺が高校卒業するまでは異動しないらしい」
「……そっか」
ということはこれから岳は自分の家に帰ることになるのだろう。
学校までの通学路で二人は珍しく昨晩の話をした。今までであれば家でもずっと一緒にいるのでわざわざ聞く必要もないことだ。しかし昨日は岳は一誠の家にはいなかったのでお互いが何をして過ごしていたのか知る由もない。
「花菱、五十嵐、おはよう」
二人の話は棟の分かれ道で石田に話しかけられるまで続いた。
「二人とももうすぐ予鈴なるけど大丈夫? こんな時間にここにいるなんて珍しく二人も遅刻してきた?」
石田のその言葉に二人はようやく気付いた。どうやら学校に着いた後も別れを惜しんでずっとここで話し込んでしまっていたらしい。
「一誠、また帰りに」
「岳、じゃあまた後でな」
二人は尾を引かれながらも東西の棟に分かれていく。
休み時間に日課のスケジュール更新をして、部活が終わると校門で待ち合わせをして帰路につく。そこまでは昨日と同じだが、今日からはもう岳は一誠の家には帰ってこない。
「一誠、また明日」
「うん、また明日」
そう挨拶交わしてバイバイと手を振って別れる。一誠は岳が玄関のドアが閉まるまで見送ってから自分の家へと帰っていった。
はあ、と何度も深いため息をつく一誠に母がたまらず声を掛ける。
「家でもずっと一緒にいたから、岳くんがいないとなんだか寂しいわね」
「……うん」
「一誠と岳くんは本当に兄弟みたいにべったりだったからね」
「……兄弟」
もし本当に兄弟だったら六月生まれの岳が兄で、一月生まれの一誠が弟になるのだろう。身長体格差からしてもそれはとても打倒に見える。
「っていう話を昨日母さんとしたんだけど」
学校へ向かう途中、一誠は昨晩母と話した兄弟の話を岳にしていた。それを聞いた岳は複雑な表情を浮かべていた。
「同学年の兄弟って難しくないか。六月と一月じゃ確実に無理だろ」
「もしも兄弟だったら、っていう話!」
もしもだってば、と一誠が頬を膨らませる。その膨らんだ頬を指先で突いてやるとそれは風船のように、ふしゅー、と萎んでいった。そして、あーあ、と一誠は大きな声を上げた。
「岳と兄弟だったらずっと一緒にいられるのに」
「……一誠は俺と兄弟になりたいんだ?」
「だって兄弟だったら」
一誠の言葉を岳が遮る。
「兄弟で恋愛はできないけど」
岳はそう言うと一誠の唇を自身の唇で掠めた。それはほんの一瞬のことで、張本人である一誠でさえも一瞬それがキスだと気付かないほどのものだった。
それがキスだと気付いた一誠は唇をむっと尖らせる。
「それもやだ」
そういえば一緒にいる時間が減ったせいでここ数日はキスさえできていなかった。久しぶりのキスに、もっと、と思わず強請りたくなるがここは通学路の途中だ。幸い朝早く出たため他の学生の姿は疎らだが往来でこれ以上キスをしてしまえばさすがに気付かれてしまうだろう。
「また明日」
「岳」
家の前で別れの挨拶をする岳を一誠は呼び止めた。そして周囲をきょろきょろと見回して他に人がいないことを確かめると岳の唇の端にキスをした。
「また明日」
一誠は顔を赤らめると今日は岳を見送らず先に自分の家へと足早に帰っていった。
その場に取り残された岳はまだ一誠の感触の残る唇の端を指先で触れた。
あまりにも可愛すぎる別れの挨拶に岳は、ふっ、と笑うと自分も家へと入っていく。
また明日での別れにはまだ慣れないが、たまには別れのキスも悪くはない。
夕食後早々に自室へと戻った一誠は机の上に課題を広げながらベランダの方に目を向けた。
岳の部屋もカーテンが開いており、一誠と同じように机に向かう岳の姿が見えた。
ふと一誠の視線に気付いた岳が机から顔を上げ、手を振った。一誠も手を振って返すと満足したのか岳は再び机に向かっていった。一誠は尚も岳の横顔を見つめると大きなため息をついた。
カーテンは開いており岳の姿を見ることはできるが、岳がベランダから一誠の家へと出入りすることはなくなってしまった。ベランダは出入口ではなく本来の用途に戻りつつある。
予定は相変わらずスケジュール管理アプリで共有しているのでお互いの予定は把握している。GPSアプリでお互いの居場所もわかる。
しかし校舎が分かれているせいもあって岳と話すのはせいぜい登下校の時間だけだ。
岳は寂しくないのだろうか。
窓から見える彼は変わらず机に向かっている。恋しさから相手を見つめているのは自分だけだ。
一誠は一ページも進んでいない課題をそのままに椅子から立ち上がった。そしてベランダの方へと大股で向かっていく。
カラカラと音を立てて窓を開けると向こう側の岳がこちらに顔を向けた。そしてベランダに立つ一誠を不思議そうな表情で見つめていた。
一誠はベランダの柵を掴み、足を掛ける。思いの外に柵は高かった。
柵に足を掛けた一誠に岳が大きく目を見開く。そして慌てて窓を開けた。そのまま急いでベランダに出る。
「一誠!」
ようやくこちらを見てくれた岳に一誠は、ニッ、と笑うとそのまま柵を蹴って飛んだ。
「岳!」
「一誠!」
ベランダとベランダの間の距離はそう遠くない。陸上部の一誠であれば余裕の飛距離だった。
一誠の伸ばした手を岳の伸ばした手が掴む。
一誠は岳の立つベランダに無事降り立つことができた。
「結構簡単でよかった」
ベランダの行き来はいつも岳がしていたので一誠は初めてのことだった。短い飛距離ではあるがそれでも一誠の心臓は緊張と恐怖からバクバクと高鳴ったままだ。
久しぶりの逢瀬を岳も喜んでくれる。そう思っていた一誠は羨望の眼差しで岳を見た。しかし岳の口から出た言葉は一誠にとって予想外のものだった。
「馬鹿! 危ないだろ!」
突然の叱責に一誠はぽかんと口を開けた。そして自分が怒られているのだと気付くと、キッと眉を吊り上げた。
「なんで怒られないといけないんだよ! せっかく来てやったのに!」
「落ちたらどうするんだ!」
「こんな距離で落ちるほど運動神経悪くねえよ! 岳だっていつもやってただろ!」
その時近所の犬が吠えた。その鳴き声にここが外のベランダだということを二人は思い出した。
一誠は慌てて口を噤む。そして岳は一誠の腕を引いて自室へと入ると窓を閉めた。
犬はしばらくすると吠えることをやめ、辺りは静まり返る。岳の父親が部屋に乗り込んでくることを覚悟していた一誠だったが父親は一向に現れる気配がない。
「今日は親父、飲み会で遅い」
一誠の心の中を読むかのように岳が言った。岳の言葉に一誠は安堵のため息をつくと再び口を開いた。
「岳。朝起きるのも、朝ごはん食べるのも、学校に行くのも。家に帰って、風呂入って、夕飯食べて、寝るのも。ずっと全部岳と一緒にやってきたことだから寂しいって思ってるのは俺だけ?」
意を決して吐き出した思いに一誠の身体は震えていた。最後の問いかけに、お前だけ、と答えられたら終わってしまう。
そう思っていると岳が口を開いた。
「俺も寂しい」
岳の言葉に一誠は微笑んだ。
「それじゃあたまには俺ん家に……」
「さすがに一誠の家に入り浸りすぎた、って俺も反省してる。兄弟ならよかった、って思われるくらいには」
「あれは……」
「悪い、意地悪言った。俺は今信用回復に努めてるんだよ。親父には特にベランダからの出入りを叱られた。危ないからやめろって」
一誠も先ほど実際に飛んでみてわかったが、簡単ではあるが安全ではない。親であれば猶更その行動を心配するだろう。
「でもあそこから出入りするのが一番一誠に近かったんだ」
「うん」
自分の家の玄関を使う時間さえもったいないほどだ。
「俺も、めんどくさいこと言っていい?」
その前置きに岳は頷く。一誠は緊張を解すように大きく深呼吸をした。
「休み時間ごとに岳の教室に会いに行ってもいい? 移動時間がないなら通話したい。昼ご飯は一緒に食べたい。一緒にいない時は、今何してる、って聞きたい」
これではまるであのめんどくさい石田の彼女のようだ。
「いいよ。全然めんどくさくない」
「本当に?」
でも、と一誠は石田がこの話をした時の岳の反応を思い出す。
「でも岳、石田がこの話した時信じられないって顔してたじゃん」
あれは完全に引いている顔だった、と言う一誠に岳がため息をついて見せる。
「それは相手に負担掛けさせてばっかりだと思っただけ。だから、一誠ばっかり俺の方に来るんじゃなくて俺も一誠の所に行ってもいい? ってことなんだけど」
「もちろん!」
岳の提案に一誠は満面の笑みを浮かべた。
朝から岳の家のチャイムが鳴る。それに出たのは岳の父だった。
「岳の親父さん、おはようございます!」
「……一誠くん、おはよう」
玄関が開いてすぐ、一誠は大きく元気な声で挨拶をした。それは陸上部のモットーの一つ“元気に挨拶”だ。
人懐こい笑顔を浮かべて大きな声で挨拶をした一誠に岳の父はたじたじになっていた。そんな父の後ろに岳の姿が見えた。
「あ! 岳、おはよう! 学校行こうぜ!」
「おはよう、一誠」
岳はスポーツバッグを肩に掛けるといつものハイテクスニーカーを履いた。
「……行ってきます」
「行ってきます!」
「あぁ、いってらっしゃい」
最後まで一誠の圧に圧されながら父は二人を見送る。そんな父に一誠は最後まで手を振っていた。
岳の家の門扉を閉じて二人は顔を見合わせる。
「……懐柔作戦、上手くいったかな!?」
「どうかな。そんな簡単に上手くいくとは思えないけど」
「でも石田の彼女はこの方法で石田の両親と上手くいってるんだって! 笑顔! 大きな声で挨拶!」
一誠はニッと口角を上げて白い歯を惜しげもなく見せつけた。そのあまりにも出来過ぎている笑顔を見て岳は思わず吹き出した。
「顔やば」
「やばいほど可愛いってこと?」
「そういうことにしといて」
「今日の昼休みは俺がそっち行くね」
「わかった。待ってる」
「一誠は今日何する?」
「今日は部活休みだから教室で岳が部活終わるの待ってるよ」
「明日の休み、どこか行きたい所ある?」
「石田おすすめのカフェがあるらしいから後でメッセージ送る!」
「了解」
それは全部スケジュールに疾うに書かれていることだが、口にすると今後の予定の楽しさが増すような気がした。
あはは、と二人は笑って楽しそうに揃って通学路の道を歩き始めた。
「行ってきまーす!」
「行ってきます」
先に一誠が玄関から外に出ると続いて岳が出る。鍵を閉めるのは岳の役割だ。
玄関ドア横にある表札には“五十嵐・花菱”の文字が書いてある。
ここは高校を卒業して、岳と一誠が一緒に住み始めた二人の城だ。
玄関は一つ。
その一つの玄関から二人は一緒に出入りをしている。
(おわり)
温かくて優しいその声で五十嵐岳はぱちりと目を覚ました。
声を掛けられると一瞬で起きてしまう自分の寝覚めの良さを岳は少し恨む。だってきっと自分がいつまでも目を覚まさなければ彼は何度も岳を呼んでくれるのだろう。岳はその機会を失っているのだ。
せめてもの抵抗に、と目を覚ましてはいるもののぼうっと寝ぼけたふりをして布団脇にしゃがんでいる彼を見つめる。そうすると彼は、おい、と少し不機嫌な声を上げて岳の短い髪をぐしゃぐしゃと撫でまわすのだ。
「おはよう、岳」
そしてもう一度言われた言葉に岳はようやく返事を返す。
「……一誠、おはよ」
岳の返事に気を良くした彼――花菱一誠はニッと笑って可愛らしい八重歯を岳に見せた。未だ開けられていないカーテンの隙間から差し込む朝日が一誠を照らし、高校に入学してから染め始めたサラサラの茶髪をキラキラと輝かせている。それを、綺麗だな、と思って岳は一誠に手を伸ばす。
一誠の綺麗な髪に触れようとしていた岳だったがその手は一誠に掴まれ、そのまま布団から引きずり出されてしまった。
身長一八二センチと一七五センチの七センチ差。足にばかり筋肉がつく陸上部の一誠と違い、全身を満遍なく鍛えているバスケットボール部の岳の体格は良い。それでも一誠はいとも簡単に岳を布団から引きずり出した。
一誠の髪に触れると思っていた岳は突然布団から引きずりだされたことに不服な表情を浮かべていた。その顔を見て一誠が、あれ? と少し焦る。
「あれ? 起こしてほしかったんじゃないの?」
そう言う一誠に岳はプイッと顔を背けた。
「起こしてくれてどうもありがとう」
少し棘のある言い方で一誠にお礼の言葉を述べると岳は立ち上がり、クローゼットから自身の制服を取り出した。未だ布団脇にしゃがみこんでいる一誠をちらりと見ると彼は既に制服に着替え終わっていた。
寝間着を脱ぎ捨て、制服に袖を通す。毎日着ている制服は手元を見ずとも着替えられる。
シャツのボタンを閉めている間、岳は開きっぱなしのクローゼットの中を見つめていた。中に掛けられているのはカジュアルテイストの派手な色柄の服ばかりだ。それはシンプルな黒紺を好んで着る岳のものではない。
それも当然だ。この部屋は岳の部屋ではなく一誠の部屋だからだ。
岳が着替えている間に一誠は岳が寝ていた布団を畳み始める。その布団はたまに使うような客用布団ではなく常に一誠のベッドの横に置かれている岳専用布団だ。
制服に着替えを終えた岳は勉強机の横に置かれていた二つの鞄を手に取ると自分はスポーツバッグを肩に掛け、もう一つのスクールバッグを一誠に手渡した。
「サンキュー」
そして二人は部屋を出て階下へと向かう。
部屋を出た直後から階下から香ってくる朝食の良い香りに食べ盛りの高校二年生の腹が鳴っていた。
「おはよー」
「おはようございます」
「二人ともおはよう」
リビングに入ると先にダイニングテーブルについていた一誠の父が手元の新聞から顔を上げて言った。
「一誠も岳くんもおはよう」
「おばさん、おはようございます」
続いて一誠の母がキッチンから顔を出す。二人はリビングに通学鞄を置くとダイニングへと向かった。
一誠の父の隣に母が座り、その向かい側に一誠と岳が腰掛ける。テーブルの上には四人分の朝食。そして言わずともきちんと岳の朝食まで準備されている。
「いただきまーす」
「いただきます」
「どうぞ召し上がれ」
それはいつもの朝の光景だ。
「行ってきます」
朝食を取り終えた二人は朝の身支度を済ませると鞄を持って玄関へと向かった。
一誠は細身のスニーカーを、岳はハイテクスニーカーを履くと身だしなみの最終確認をするために玄関の姿見に並ぶ。
「あれ? 岳、また背伸びた?」
手のひらを水平にして一誠は自身の頭の天辺と岳の天辺を比べる。前はもっと差がなかった気がする。
スニーカーのせいか、と一誠が足元を睨みつけていると岳の手が一誠の髪を撫でた。
「なに?」
「寝ぐせ。直してやるからちょっと待ってろ」
「うん」
岳の大きな手が一誠の髪を優しく撫でる。それは跳ねる髪を撫でつけている動作のはずだが一誠には頭を撫でられているようにしか見えなかった。優しいその動作が心地良い。
「ふふ」
一誠は思わず笑みを浮かべた。
「はい、できた」
「ありがと、岳」
お礼を言うついでに、と一誠は岳の頭に手を伸ばす。その動作に岳は少しだけ身を屈めた。それによって一誠の手は岳の頭の天辺に難なく届き、岳の髪を撫でることに成功する。
岳の髪は柔らかい猫毛のような一誠の髪とは違い、硬くて太い。自分のものとは違う新鮮なその手触りに一誠は満足すると手を下ろした。
「じゃ、行ってきまーす」
「行ってきます」
家の奥から母親の、いってらっしゃい、の声が聞こえた。その声に見送られて二人は学校へと出発した。
一誠の家を出るとすぐ隣は岳の家だ。“五十嵐”の表札の前を通りすぎようとしたところで一誠はちらりと岳の家に目をやった。
郵便受けから飛び出す手紙やチラシ類はない。きっと岳が定期的に取り出しているのだろう。石が敷かれている庭は除草剤が撒かれていて雑草一つ飛び出していない。
家の全ての窓のカーテンは閉め切られ、ひと気を感じられなかった。
「なあ。岳の親父さん、次はいつ帰ってくるの?」
昔から多忙で滅多に家に帰ってこないという岳の父親は今アメリカに単身赴任していると聞いている。岳の父親が最後にこの家に帰ってきたのはいつだっただろうか。一誠は幼馴染の父親の顔が思い出せないでいた。
「……知らない」
「……そっか」
多くを語ろうとはしない岳に一誠はそれ以上彼の父親の話をすることを止めた。小学生の頃に亡くなった彼の母親の話など猶更だ。
感情をあまり表に出さない岳は分かりづらい、と言われている。今も傍から見るとなんてことない普通の表情をしているように見える。しかし生まれた時から一緒にいる一誠には彼が今、父親への不満と怒りと寂しさで不機嫌になりつつあると分かっていた。
「……今日の夕ご飯何かなー」
その場の空気を取り繕うかのように一誠はそう言った。その言葉に岳が顔をほころばせて、ふっ、と笑った。
「お前、今朝飯食べてきたばっかだろ」
「でも気になるじゃん。昼ご飯も夕ご飯も」
岳の機嫌が戻ったことに一誠は心の中で安堵のため息をつく。そして一誠はおどけて笑った。
昇降口に入るとちょうど一誠は後ろから声を掛けられた。
「花菱、おはよー」
「石田、おはよ。珍しく今日早いんじゃねえ?」
それは一誠のクラスメイトの石田実だ。マッシュヘアーの少し重めの前髪の奥で彼は人懐こい笑みを浮かべていた。
石田と話している一誠を余所に岳はさっさと上履きに履き替えるとバタンと大きな音を立てて靴箱を閉めた。
妙に急ぐ岳とは対照的に一誠はマイペースに靴を履き替える。疾うに上履きを履いた二人が一誠を待ち、一世が履き終えたのを見ると三人揃って校舎へと入っていった。
「花菱と五十嵐って幼馴染なんだっけ?」
石田の問いかけに一誠は頷く。
「うん。家が隣で母親同士が仲良しだったから生まれた時からずっと一緒」
「凄いな」
アルバムを見ると必ず隣に写っている岳の姿を思い出して一誠はにっこりと笑った。
「毎朝一緒に学校着て帰りも一緒に帰ってるんだろ?」
「それは、家を出る時間が同じなんだから当たり前だろ。帰りもお互い運動部だからだいたい帰りの時間も被るし」
一誠の答えに、それもそうか、と石田は納得している様子だ。家が隣で時間が同じなのだから一緒に登下校をしない理由はない。
「お前ら付き合ってるんだもんな」
うんうん、と一人納得しながら頷く石田に、それまでずっと黙っていた岳が、そうだよ、と答えた。
一誠と岳は付き合っている、恋人同士なのだ。それはお互いの友人たちには周知の事実だ。
「でも花菱と五十嵐って付き合ってる割には結構ドライだよな」
「えっ、そう?」
意外な言葉に一誠は首を傾げる。岳を見ると彼も一誠と同じように首を傾げていた。
自分たちは至って普通に過ごして接しているつもりだが、石田から見ると自分たちの関係は“ドライ”に当たるらしい。
「俺の彼女なんて何があってもなくても常に連絡しろ、ってうるさくて。休み時間ごとにメッセージを送ってきたり、電話掛けてきたり、昼休みは絶対一緒に食えってうるさいんだよ」
はあ、とため息をつく石田は一見疲れているように見えるが一誠にはそれが彼なりの惚気なのだと知っていた。
なんだかんだ言っておきながらメッセージにはこまめに返事を返し、昼休みも彼女のクラスまで飛んでいく彼の姿を一誠は毎日見ているのだ。
「でもお前らってそういうのないだろ?」
その問いかけに一誠は瞬時に、ない、と答えた。
「今日の予定は? 今日も一緒に帰ろう? 明日の予定は? 今何してる? ってお前らが話してるの聞いたことないもんな」
岳からメッセージが届くことは滅多にない。もしあればそれは余程急ぎの時だ。
教室も理系で西棟の岳と文系で東棟の一誠は棟が離れているので気軽に行き来できるものでもない。休み時間の逢瀬はもちろん、昼休みはそれぞれクラスメイトと食べているので放課後まで顔を合わせることもない。
学校での二人は全くと言っていいほど接点がなかった。そのためお互いの友人以外は二人の関係を知る由がないのだ。まさかバスケ部の主将と陸上部のエースが付き合っているなど皆思いもよらないだろう。
「そういうのなくていいよな」
いくら好きでもたまにめんどくさくなる。そう言った直後に石田のポケットでスマートフォンが音を立てた。噂すれば、その彼女から着信が来たらしい。
二人に一言断りを入れてから電話に出た石田は、めんどくさい、と言っておきながらもその声はどこか弾んでいた。
自分たちは結局彼の壮大な惚気に付き合わされただけらしい。隣を歩きながら楽しそうに話す石田に一誠は笑みを浮かべた。
隣に並ぶ岳と目が合い、笑いかけると岳もまた小さな笑みを返してくれた。これのどこがドライな関係なのだろうか。
その時ふと一誠は岳から予定を聞かれたことがないと思い返した。
一緒の登下校は特別約束をしていなくても最早ルーティンと化している。今日の予定も明日の予定も一誠から尋ねたこともなければ岳から尋ねられたこともない。
それは他人から見ると随分自由気ままで、見方によってはドライな関係に見えるらしい。
うーん、と一誠は頭を悩ませる。
そうはいってもお互いのことに興味がないわけではない。
改めて考えると気恥ずかしいが、一誠は岳が好きで、岳は一誠が好きだから恋人関係を続けているのだ。髪を優しく撫で、抱きしめて、頬に触れ、キスをするのはもちろんお互いだけだ。
じゃあまた後で、と言う石田の声が聞こえた。どうやら彼女との通話は一旦終わったらしい。電話を切った石田が、悪かった、と謝る。そして、それで、と続けるのでどうやら先ほどの話を続ける気でいるらしい。
「五十嵐は花菱に束縛とかしないの?」
岳が束縛、と言葉を繰り返した一誠は岳が束縛してくる様子を想像すると、あはは、と声を上げて笑った。あまりに一誠が盛大に笑うので岳はムッと唇を結んだ上に一誠を肘で小突く。
「ないない」
頻繁に連絡をしてくる岳、予定を尋ねてくる岳、細かいことに嫉妬する岳を想像すると笑いが止まらない。
あの岳がそんなことをするはずがない。
棟の分かれ道に着き、三人は足を止める。
「一誠、また帰りに」
「うん、じゃあね」
そう挨拶をすると岳は西棟にある自分のクラスへと行ってしまった。一方の一誠と石田は東棟へと向かう。
その時、今度は一誠のスマートフォンが二回鳴った。画面を確認すると一つ目の通知、スケジュール管理アプリの通知が来ていた。
一誠は教室に入りながら、スケジュール管理アプリを開く。
スケジュールは全てそのアプリを利用して管理している。
先ほどの通知はどうやら岳が予定を更新した通知だったらしい。今日の欄に夜九時からのバラエティー番組を見る予定が追加されている。
新しく追加されていたその予定を見て一誠は小さく笑った。
黄色の文字が一誠の予定、そして青い文字が岳の予定だ。
一誠は夜九時からのその予定の編集を開くと参加者の欄に自分を追加した。そして更新ボタンをタップするとスケジュール画面にあったその予定の青い文字は赤い文字へと変わる。
二人一緒の予定は赤い文字と決まっている。
クラスメイトたちにおはようと返しながら一誠は自分の席へと辿りつく。そして鞄を机の上に置いたまま、またスマートフォンをいじり始めた。
次に見るのは二つ目の通知だ。それはGPSアプリだった。
“五十嵐岳さんが花菱一誠さんから離れました”
とそのアプリは知らせている。どうやら棟を別れた時のことを通知してくれたらしい。GPSアプリ上での岳を示す点は自分のクラスで止まっていた。
放課後、一誠は部活が終わると校門へと急ぐ。着くと先に部活が終わっていた岳がそこで既に待っていた。
「岳、お疲れ!」
「一誠」
二人は並んで帰路につく。帰り道、話すことはそれぞれのクラス、部活のことだ。一誠は岳の話を聞いているとふと石田の言葉を思い出した。
一緒にいなかった時間のことを話すがそこに石田の言っていたような束縛に当たるものはない。しかしそのことに特に一誠は不満を感じているわけでもない。
岳の話が終わり、次に一誠は今朝の石田の惚気について話すことにした。
「石田、あの後も彼女の教室に呼び出されて行ってたよ」
「石田の彼女って理系じゃなかったか?」
一誠は岳に石田の彼女の話をしながら彼女についての情報を思い出した。
「うん。確か岳の隣のクラスだよ」
一誠がそう答えると岳は、信じられない、という表情を浮かべた。
「わざわざそっちからうちの棟にまで会いに来てるのか?」
「うん。そのせいで石田は授業遅刻の常習犯になってるけどね」
話しているうちにあっという間に家の前に着いていた。誰もいない岳の家は朝から全く様子を変えていなかった。二人はいつものように岳の家の前を通り過ぎると揃って一誠の家に入っていく。
「ただいまー」
「二人ともおかえりなさい」
中に入るとすぐリビングの方から声が聞こえた。そしてパタパタとスリッパで歩く音が聞こえ、一誠の母親が顔を出した。
「夕飯ができるまでもうちょっと掛かるから先にお風呂入っちゃって」
「はーい」
返事を返すと二人は二階の一誠の部屋へと向かった。部屋に入ってすぐ通学鞄を床に下ろす一誠とは違い、岳はスポーツバッグを持ったままベランダの方へと進んでいく。
「一誠、俺ちょっと荷物取ってくる」
「了解! 俺、先に風呂入っていていい?」
「いいよ」
一誠の返事を聞いてから岳はベランダへと続く窓を開けた。そして手すりに手を掛けると軽くジャンプをして隣の家のベランダへと乗り移って見せる。
窓に手を掛けると窓に鍵は掛かっておらず、カラカラと軽い音を立てて窓は容易く開いた。
岳は家の中へと入っていった。
カーテンが閉め切られていた暗いその部屋は岳の部屋だ。
岳は手探りで壁際のスイッチを見つけると明かりを付けた。
壁に貼られているポスターのプロバスケットボール選手は数年前に疾うに引退してしまっている。岳ももう彼には興味がないが、剥がすタイミングを失っているだけだ。
壁に沿って置かれているベッドで最後に眠ったのはいつだろうか。埃をかぶらないようにベッドの上にはカバーが掛けられている。岳はカバーの上に無造作にスポーツバッグを置いた。
洗濯物は一つの袋にまとめると明日必要なものを鞄に詰めていく。そしてクローゼットから着替えを取り出すとそれらの荷物を抱えて岳はまたベランダを伝って一誠の部屋へと戻って行った。
一誠の部屋に戻るとそこに一誠の姿はなかった。階下から微かにシャワーの音が聞こえる。どうやらまだ彼は風呂に入っているらしい。
岳は自分の部屋から持ってきた荷物を床に置くとベッドに倒れ込んだ。
岳の体重を受けてぼふん、と布団が沈み、同時に一誠の匂いがした。
岳は目を閉じると一誠の匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。心地よい一誠の匂いとふかふかの布団の感触に思わずうとうとしてしまう。
もうシャワーの音は聞こえない。
一誠にしては随分と長い入浴だ。一誠はもしかしたら風呂に一緒に入る気だったのかもしれない。だって彼は「入っていていい?」と言ったのだ。
付き合う前――中学一年生までは時間短縮のためと言って一緒に風呂に入っていたけれど、もう一緒には入れそうにない。
その時部屋のドアが開いた。
「岳、戻ってたのかよ。俺、風呂でずっと待ってたのに」
部屋に入ってきた一誠は部屋着のジャージを身に纏い、肩にタオルを掛けていた。まだ濡れている髪の毛先から雫が落ち、タオルを段々と濡らしている。
岳は深く息を吐いてベッドからゆっくりと身体を起こすと一誠の肩からタオルを取って髪をわしわしと拭いてやった。
「ちゃんと拭いてから出てこい」
「岳が来ないのが悪い」
そう言って尖らせた一誠の唇を岳は摘まんで笑う。そして岳は着替えを持って階下の風呂場へと向かった。
湯気が立ち込める風呂場で岳は大きく深呼吸をする。一誠が使ったばかりの風呂場は温かく、そして一誠のシャンプーの良い香りが漂っていた。
うわっ、と思わず声を上げる。その声は決して嫌悪感から出たものではない。
さっきまでここに一誠がいたと思うと興奮が高まっていく。
岳は大きなため息をつくと頭から冷水を浴びた。
岳が風呂から上がると夕食が既にダイニングテーブルに並べられていた。
一誠、岳、一誠の母の三人で夕食を食べていると一誠の父が帰宅する。
「おかえりなさい」
岳がそう言うと一誠の父は岳が花菱家で夕食を取っていることなど気にすることもなく「ただいま」と返した。
「岳くんはもうすぐ大会なんだっけ?」
「はい、来週に」
四人で食卓を囲み、話題は二人の学校生活の話となる。陸上部のエースとして活躍している一誠の話はもちろん、岳の学校生活についても自然と話題となり岳は臆することなく答えていく。
四人での夕食を終えて食休みをしていると二人のスマートフォンのアラームが鳴った。時計を見ると岳と一誠がスケジュールで共有した午後九時だ。
一誠はバラエティー番組にチャンネルを合わせた。
くつろいでいた父と母もテレビの前に集まり、結局四人でテレビを囲む。
お笑い芸人のくだらないギャグに笑い、クイズコーナーではそれぞれ回答を選んで答え合わせで盛り上がる。
一誠の母親の推しだというアイドルが出演していることもあって終始賑やかに番組を見て過ごすことになった。
番組が終わると二人は揃って一誠の部屋へと向かった。
岳は床に座って自分の部屋から持ってきていたバスケットボール雑誌を読み始め、一誠はベッドに寝転がって動画を見る。
そして日付が変わる少し前にそれぞれベッドと布団に入って就寝する。
これはいつもの流れだ。
岳の生活拠点は隣にある五十嵐家ではなく、花菱家にある。
椅子やカトラリー、タオル類は全て四人家族用。当たり前のように岳の分も用意してある食事。岳ありきの生活リズム。
岳はもう花菱家の一員のようなものだ。
一誠は休み時間に日課であるスケジュールの入力をしていた。
スケジュールは事細かに記入されている。それこそテスト期間、部活の大会予定、友人と出かける予定だけでは済まされない。
理系、文系の時間割。昼休みをどこで過ごすのか。部活の終わる時間。寄り道したい場所。見たいテレビ番組。
そこには二人のスケジュールが入力され、共有されている。
お互いのスケジュールを細かく共有するようになったのは最近のことではない。いうならば付き合い始めた中学二年生より前――携帯端末を持ち始めた小学校四年生の時からしていることだ。
元々は放課後に自由に遊びに行ってしまい門限を破りがちな一誠の予定を管理するために始めたことだった。
一誠のお目付け役に任命された岳が一誠の予定を把握したい、というので一誠だけの予定を書くのも不公平だと岳のスケジュールも入れるようになったのだ。
長く続けられているスケジュール共有は最早ルーティンと化し、二人にとっては当たり前のこととなっていた。
お互いのスケジュールを把握しているのは二人にとって普通のことなのだ。
GPSを利用し始めたのも同じ理由からだ。
一誠がGPSアプリを起動すると岳が移動しているのが見えた。今日は所属しているバスケットボール部の地方大会のために授業を休んで他校の体育館にいるはずだ。スケジュール共有アプリにはそう予定が書かれていた。
一誠の今日の予定は部活が十七時半に終わって帰りに本屋へ寄ってからの帰宅だ。その予定は全てスケジュールに入れているので岳も把握しているだろう。そして一誠が動き始めればGPSは動き出すはずだ。
岳の全てを一誠は把握しているし、一誠も岳の全てを把握している。
これは決して束縛ではなく二人にとっての“日常”なのだ。
それは今日も休み時間ごとに電話を掛け、昼休みにわざわざ理系クラスまで呼びつける石田の彼女と同じなのだろう。めんどくさい、と言いながらも彼女の要望を全て受け入れる石田にとってもそれは“日常”なのだろう。
「ただいま」
一誠の帰宅からだいぶ遅れて大会帰りの岳が花菱家を訪れた。
その肩には大きなスポーツバッグが掛けられ、服装も制服ではなくバスケットボ―ル部のジャージだ。
大会を終えた岳は真っ暗で静かな自分の家の前を通り過ぎて今日も一誠の家へと帰宅していた。
「岳くん、お帰りなさい! お疲れ様。大会はどうだった?」
「優勝して、県大会へコマを進めました」
「そう! おめでとう!」
そうだと思って、と一誠の母親は既にお祝いのディナーを用意していると言った。道理で一誠が帰宅した時からずっとキッチンで料理を続け、いつもよりも良い匂いを漂わせていると一誠は思っていた。
「優勝できると限らないのに気が早いなぁ。これで優勝してなかったらどうするつもりだったんだよ」
一誠がそう尋ねると母親は首を横に振った。
「優勝するに決まってるでしょう」
あまりにも強い言葉に一誠は呆れ、岳は苦笑いを浮かべた。
「だって岳くんだもの」
理由になっていない言葉だが、不思議と説得力のある言葉だった。
一誠の母親は岳に強い信頼をしている。それは実子である一誠に向けている信頼と同程度のものだ。
「お父さんがケーキを買ってきてくれるっていうから、少し待っていましょうね」
そう言うと母はご馳走の並んでいるケーキの真ん中にこれから来るケーキの居場所を空けた。
岳の地方大会優勝のお祝いが終わると二人はいつも通りに一誠の部屋へと向かった。
「一誠、荷物置いてくる」
「うん。暗いから足元気を付けてな」
岳は頷くとスポーツバッグを抱えてベランダへと向かう。そして悠々と柵を乗り越えて自室へと入っていった。
部屋の電気をつけ、ベッドの上にスポーツバッグを置くと岳は階下へと向かう。誰もいない家の中は、いつも明るく賑やかな花菱家とは違いシンと静まり返っていた。
岳以外誰も付けることのない家じゅうの電気をパチパチと付けて回りながらリビングへと入る。
そして生活感のないリビングのテーブルの上に置かれている母親の写真に手を合わせた。
リビングを出て玄関にしっかり鍵が掛かっていることを確認すると、今度は付けた電気を消して回りながら岳は自分の部屋へと戻って行った。
それからベッドの上に置いていたスポーツバッグに手を伸ばす。
バッグの中から荷物を取り出し、必要なものと入れ替えると岳はまたバッグを抱えてベランダへと向かった。
岳の部屋のベランダへの通じる窓に手を掛けると、開いているカーテンの向こう側でベッドに寝転んで漫画を読んでいる一誠の姿が見えた。
岳がベランダの窓を開ける際に立てたカラカラという軽快な音に気付いた一誠が手元の漫画本から顔を上げる。するとベランダに立つ岳と目が合った。
一誠はベッドから身体を起こすとにっこりと笑って岳に向けて手招きをした。その手招きに誘われて岳は再び柵を越えて一誠の元へ戻ってきた。
「ただいま、一誠」
「おかえり、岳」
一誠の優しい笑みに岳も頬を緩ませる。
ただいま、おかえり。
岳の家は誰もいなくて冷たいあちらの家ではなく、一誠のいる温かくて居心地の良いこちらの家だと思える。
あちらの家の玄関はしばらく開けていない。
一誠の家の玄関から外に出て、一誠の家に戻ってくる。あちらの家への出入りは専ら一誠の部屋のベランダからだ。
一誠の部屋へと戻ると既に岳の布団が敷かれていた。
岳がバッグを部屋の隅に置くとそれを見計らって一誠は読んでいた漫画をヘッドボードへと置いた。そして枕に頭を置くと身体に布団を掛ける。どうやら彼はもう眠るつもりらしい。
「岳、電気消して」
一誠の言葉は少し舌足らずで眠気を含んでいた。
「……おやすみ、一誠」
岳が部屋の電気を消すと部屋の中は真っ暗になった。その暗闇の中でも岳は慣れた足取りで自分の布団にたどり着くと布団を被る。
今日もいつものように岳は一誠と明日の予定の話をしなかった。
予定は全てスケジュールアプリに入力してあるのでわざわざ話題に出す必要はない。
今日も部活の帰りに落ち合った二人は一緒に帰路についていた。いつもであればこのまま岳も一緒に一誠の家へと帰宅する。しかし今日は違っていた。
いつもなら通り過ぎるだけの岳の家の前で岳が足を止めた。
足元の蟻を追いかけていた一誠は岳が立ち止まったことに気付くのに少し遅れてしまった。隣に岳が並んでいないことに気付いた一誠は岳の二歩先で足を止める。そして振り返った。
「どうした、岳?」
見ると岳は自分の家の方をじっと見ていた。その視線の先を追って一誠も岳の家を見る。するといつもであれば真っ暗なはずの岳の家の玄関の明かりが灯っていた。
「あれ? 岳の家って今だれもいないはずじゃ……」
「……親父が帰ってきたみたいだ。一誠、今日はあっちに帰るから、悪いんだけどおばさんに言っておいて」
岳はそう言うと久しぶりに自分の家の門扉を空けた。扉は久しく開けていなかったため錆びて軋んだ音を立てていたが難なく開いて岳を受け入れる。
敷地の中に入り、門扉を閉じた岳と一誠の目が合う。
「一誠、また明日」
また明日、という言葉を岳から聞いたのはいつぶりだろうか。いつもであれば一誠の家で明日も一緒にいるのでその言葉を聞くのに違和感があった。
「ああ、また明日」
一誠の返事を聞くと岳は玄関のドアを開けて家の中に入っていった。
ドアが閉まる直前で、ただいま、と言う岳の声が聞こえた。一誠はまたその言葉に違和感を覚えた。いつもであればその言葉は一誠の家で聞くものだ。
「……ただいま」
一誠が家に帰るといつものように母親が帰りを出迎えてくれた。母は一誠の隣に岳がいないことに特に驚いていないようだった。
「おかえり。岳くんのお父さん、帰ってきたんだって?」
「え、うん。なんで知ってるの」
「さっきご挨拶に来てくれてたのよ。急な部署異動で東京勤務に戻った、って」
「……そうなんだ」
一誠はゆっくりと階段を上って自室へと向かう。後ろから母親が洗濯物を出すように催促する声が聞こえたが一誠は上の空だった。
部屋に入り鞄を床にゴトンと落とすとそのままベッドに倒れ込む。目の端に綺麗に折りたたまれた岳専用布団が見えた。
目線を動かし、開きっぱなしのカーテンの向こう側を見ると岳の部屋の電気が点いていた。どうやら岳も向こうの部屋に着いたらしい。しかし一向に岳がベランダを伝ってこちらに来る気配はない。
結局その日、岳が一誠の家を訪れることはなかった。
「おはよう、一誠」
「岳、おはよう」
二人が朝の挨拶を交わしたのは寝ぐせ寝間着姿での一誠の部屋ではなく、しっかりと身支度を整えた家の前だった。
「親父さん、元気だった?」
「ああ。一誠の家に入り浸ってるのがバレて怒られた」
「そっか」
「俺が高校卒業するまでは異動しないらしい」
「……そっか」
ということはこれから岳は自分の家に帰ることになるのだろう。
学校までの通学路で二人は珍しく昨晩の話をした。今までであれば家でもずっと一緒にいるのでわざわざ聞く必要もないことだ。しかし昨日は岳は一誠の家にはいなかったのでお互いが何をして過ごしていたのか知る由もない。
「花菱、五十嵐、おはよう」
二人の話は棟の分かれ道で石田に話しかけられるまで続いた。
「二人とももうすぐ予鈴なるけど大丈夫? こんな時間にここにいるなんて珍しく二人も遅刻してきた?」
石田のその言葉に二人はようやく気付いた。どうやら学校に着いた後も別れを惜しんでずっとここで話し込んでしまっていたらしい。
「一誠、また帰りに」
「岳、じゃあまた後でな」
二人は尾を引かれながらも東西の棟に分かれていく。
休み時間に日課のスケジュール更新をして、部活が終わると校門で待ち合わせをして帰路につく。そこまでは昨日と同じだが、今日からはもう岳は一誠の家には帰ってこない。
「一誠、また明日」
「うん、また明日」
そう挨拶交わしてバイバイと手を振って別れる。一誠は岳が玄関のドアが閉まるまで見送ってから自分の家へと帰っていった。
はあ、と何度も深いため息をつく一誠に母がたまらず声を掛ける。
「家でもずっと一緒にいたから、岳くんがいないとなんだか寂しいわね」
「……うん」
「一誠と岳くんは本当に兄弟みたいにべったりだったからね」
「……兄弟」
もし本当に兄弟だったら六月生まれの岳が兄で、一月生まれの一誠が弟になるのだろう。身長体格差からしてもそれはとても打倒に見える。
「っていう話を昨日母さんとしたんだけど」
学校へ向かう途中、一誠は昨晩母と話した兄弟の話を岳にしていた。それを聞いた岳は複雑な表情を浮かべていた。
「同学年の兄弟って難しくないか。六月と一月じゃ確実に無理だろ」
「もしも兄弟だったら、っていう話!」
もしもだってば、と一誠が頬を膨らませる。その膨らんだ頬を指先で突いてやるとそれは風船のように、ふしゅー、と萎んでいった。そして、あーあ、と一誠は大きな声を上げた。
「岳と兄弟だったらずっと一緒にいられるのに」
「……一誠は俺と兄弟になりたいんだ?」
「だって兄弟だったら」
一誠の言葉を岳が遮る。
「兄弟で恋愛はできないけど」
岳はそう言うと一誠の唇を自身の唇で掠めた。それはほんの一瞬のことで、張本人である一誠でさえも一瞬それがキスだと気付かないほどのものだった。
それがキスだと気付いた一誠は唇をむっと尖らせる。
「それもやだ」
そういえば一緒にいる時間が減ったせいでここ数日はキスさえできていなかった。久しぶりのキスに、もっと、と思わず強請りたくなるがここは通学路の途中だ。幸い朝早く出たため他の学生の姿は疎らだが往来でこれ以上キスをしてしまえばさすがに気付かれてしまうだろう。
「また明日」
「岳」
家の前で別れの挨拶をする岳を一誠は呼び止めた。そして周囲をきょろきょろと見回して他に人がいないことを確かめると岳の唇の端にキスをした。
「また明日」
一誠は顔を赤らめると今日は岳を見送らず先に自分の家へと足早に帰っていった。
その場に取り残された岳はまだ一誠の感触の残る唇の端を指先で触れた。
あまりにも可愛すぎる別れの挨拶に岳は、ふっ、と笑うと自分も家へと入っていく。
また明日での別れにはまだ慣れないが、たまには別れのキスも悪くはない。
夕食後早々に自室へと戻った一誠は机の上に課題を広げながらベランダの方に目を向けた。
岳の部屋もカーテンが開いており、一誠と同じように机に向かう岳の姿が見えた。
ふと一誠の視線に気付いた岳が机から顔を上げ、手を振った。一誠も手を振って返すと満足したのか岳は再び机に向かっていった。一誠は尚も岳の横顔を見つめると大きなため息をついた。
カーテンは開いており岳の姿を見ることはできるが、岳がベランダから一誠の家へと出入りすることはなくなってしまった。ベランダは出入口ではなく本来の用途に戻りつつある。
予定は相変わらずスケジュール管理アプリで共有しているのでお互いの予定は把握している。GPSアプリでお互いの居場所もわかる。
しかし校舎が分かれているせいもあって岳と話すのはせいぜい登下校の時間だけだ。
岳は寂しくないのだろうか。
窓から見える彼は変わらず机に向かっている。恋しさから相手を見つめているのは自分だけだ。
一誠は一ページも進んでいない課題をそのままに椅子から立ち上がった。そしてベランダの方へと大股で向かっていく。
カラカラと音を立てて窓を開けると向こう側の岳がこちらに顔を向けた。そしてベランダに立つ一誠を不思議そうな表情で見つめていた。
一誠はベランダの柵を掴み、足を掛ける。思いの外に柵は高かった。
柵に足を掛けた一誠に岳が大きく目を見開く。そして慌てて窓を開けた。そのまま急いでベランダに出る。
「一誠!」
ようやくこちらを見てくれた岳に一誠は、ニッ、と笑うとそのまま柵を蹴って飛んだ。
「岳!」
「一誠!」
ベランダとベランダの間の距離はそう遠くない。陸上部の一誠であれば余裕の飛距離だった。
一誠の伸ばした手を岳の伸ばした手が掴む。
一誠は岳の立つベランダに無事降り立つことができた。
「結構簡単でよかった」
ベランダの行き来はいつも岳がしていたので一誠は初めてのことだった。短い飛距離ではあるがそれでも一誠の心臓は緊張と恐怖からバクバクと高鳴ったままだ。
久しぶりの逢瀬を岳も喜んでくれる。そう思っていた一誠は羨望の眼差しで岳を見た。しかし岳の口から出た言葉は一誠にとって予想外のものだった。
「馬鹿! 危ないだろ!」
突然の叱責に一誠はぽかんと口を開けた。そして自分が怒られているのだと気付くと、キッと眉を吊り上げた。
「なんで怒られないといけないんだよ! せっかく来てやったのに!」
「落ちたらどうするんだ!」
「こんな距離で落ちるほど運動神経悪くねえよ! 岳だっていつもやってただろ!」
その時近所の犬が吠えた。その鳴き声にここが外のベランダだということを二人は思い出した。
一誠は慌てて口を噤む。そして岳は一誠の腕を引いて自室へと入ると窓を閉めた。
犬はしばらくすると吠えることをやめ、辺りは静まり返る。岳の父親が部屋に乗り込んでくることを覚悟していた一誠だったが父親は一向に現れる気配がない。
「今日は親父、飲み会で遅い」
一誠の心の中を読むかのように岳が言った。岳の言葉に一誠は安堵のため息をつくと再び口を開いた。
「岳。朝起きるのも、朝ごはん食べるのも、学校に行くのも。家に帰って、風呂入って、夕飯食べて、寝るのも。ずっと全部岳と一緒にやってきたことだから寂しいって思ってるのは俺だけ?」
意を決して吐き出した思いに一誠の身体は震えていた。最後の問いかけに、お前だけ、と答えられたら終わってしまう。
そう思っていると岳が口を開いた。
「俺も寂しい」
岳の言葉に一誠は微笑んだ。
「それじゃあたまには俺ん家に……」
「さすがに一誠の家に入り浸りすぎた、って俺も反省してる。兄弟ならよかった、って思われるくらいには」
「あれは……」
「悪い、意地悪言った。俺は今信用回復に努めてるんだよ。親父には特にベランダからの出入りを叱られた。危ないからやめろって」
一誠も先ほど実際に飛んでみてわかったが、簡単ではあるが安全ではない。親であれば猶更その行動を心配するだろう。
「でもあそこから出入りするのが一番一誠に近かったんだ」
「うん」
自分の家の玄関を使う時間さえもったいないほどだ。
「俺も、めんどくさいこと言っていい?」
その前置きに岳は頷く。一誠は緊張を解すように大きく深呼吸をした。
「休み時間ごとに岳の教室に会いに行ってもいい? 移動時間がないなら通話したい。昼ご飯は一緒に食べたい。一緒にいない時は、今何してる、って聞きたい」
これではまるであのめんどくさい石田の彼女のようだ。
「いいよ。全然めんどくさくない」
「本当に?」
でも、と一誠は石田がこの話をした時の岳の反応を思い出す。
「でも岳、石田がこの話した時信じられないって顔してたじゃん」
あれは完全に引いている顔だった、と言う一誠に岳がため息をついて見せる。
「それは相手に負担掛けさせてばっかりだと思っただけ。だから、一誠ばっかり俺の方に来るんじゃなくて俺も一誠の所に行ってもいい? ってことなんだけど」
「もちろん!」
岳の提案に一誠は満面の笑みを浮かべた。
朝から岳の家のチャイムが鳴る。それに出たのは岳の父だった。
「岳の親父さん、おはようございます!」
「……一誠くん、おはよう」
玄関が開いてすぐ、一誠は大きく元気な声で挨拶をした。それは陸上部のモットーの一つ“元気に挨拶”だ。
人懐こい笑顔を浮かべて大きな声で挨拶をした一誠に岳の父はたじたじになっていた。そんな父の後ろに岳の姿が見えた。
「あ! 岳、おはよう! 学校行こうぜ!」
「おはよう、一誠」
岳はスポーツバッグを肩に掛けるといつものハイテクスニーカーを履いた。
「……行ってきます」
「行ってきます!」
「あぁ、いってらっしゃい」
最後まで一誠の圧に圧されながら父は二人を見送る。そんな父に一誠は最後まで手を振っていた。
岳の家の門扉を閉じて二人は顔を見合わせる。
「……懐柔作戦、上手くいったかな!?」
「どうかな。そんな簡単に上手くいくとは思えないけど」
「でも石田の彼女はこの方法で石田の両親と上手くいってるんだって! 笑顔! 大きな声で挨拶!」
一誠はニッと口角を上げて白い歯を惜しげもなく見せつけた。そのあまりにも出来過ぎている笑顔を見て岳は思わず吹き出した。
「顔やば」
「やばいほど可愛いってこと?」
「そういうことにしといて」
「今日の昼休みは俺がそっち行くね」
「わかった。待ってる」
「一誠は今日何する?」
「今日は部活休みだから教室で岳が部活終わるの待ってるよ」
「明日の休み、どこか行きたい所ある?」
「石田おすすめのカフェがあるらしいから後でメッセージ送る!」
「了解」
それは全部スケジュールに疾うに書かれていることだが、口にすると今後の予定の楽しさが増すような気がした。
あはは、と二人は笑って楽しそうに揃って通学路の道を歩き始めた。
「行ってきまーす!」
「行ってきます」
先に一誠が玄関から外に出ると続いて岳が出る。鍵を閉めるのは岳の役割だ。
玄関ドア横にある表札には“五十嵐・花菱”の文字が書いてある。
ここは高校を卒業して、岳と一誠が一緒に住み始めた二人の城だ。
玄関は一つ。
その一つの玄関から二人は一緒に出入りをしている。
(おわり)



