藤屋を好きになったとき、ただ嬉しかった。日に透けると黄金色に見える髪、意志的な瞳、笑うと見える八重歯、大きな手と長い脚。俺が好きになった人は、本当に綺麗で格好良くて、輝いていた。
 そんな彼への気持ちが誇らしかった。
 大好きな人がいると、見える景色が変わるのだと知った。この世界はいとおしくて、そこで彼と一緒に生きている自分もキラキラの光をまとっているように思えた。
 男同士だ。きっと彼は俺を好きにならない。最初からあきらめた恋だったけれど、藤屋瑛人に恋したことだけは後悔したくない。そう思って日々を大事にしていた。

 結局、欲張ったのは俺。気持ちを伝えて、自分で駄目にしてしまった。友達でと言っておきながら、消せない恋心でそれも台無しにしてしまった。
 藤屋は俺と友人でいつづけようとしてくれる。
 だけど、俺の恋がここにある以上、友達のふりをして隣にいれば欺瞞になる。
 俺はまだ好きだ。藤屋が好きで、どうしようもないくらいの感情がある。
 だから、もうごまかして嘘をついて傍にいられないんだよ。


 *


 実行委員長を引き受けた体育祭は明日に迫っている。今日は前日準備だ。実行委員は全体の準備と最終の打ち合わせがあるし、応援団は練習がある。衣装チームや看板チームも張り切って、直前準備を進めている。
 一般生徒は午前だけ登校して、すぐに帰ってしまう者がほとんどのようだ。

「藍原先輩、綱引きの綱って、もう本部に準備するんでしたっけ」
「明日の朝に準備テントに出すよ」

 一年の実行委員に答えると、もうひとりの子が「ほら、そう言ったじゃん」と突っ込む。すると、今度は三年の実行委員がやってくる。

「藍原、来賓の出席確認簿って、山田先生んとこ?」
「はい、そうです。当日のアテンド、よろしくお願いしますね」
「おう、まかせとけ」

 テントの設営を終え、俺は全体の進捗を確認していた。ひっきりなしに確認や質問がくるので、割と忙しい。
 視界には、藤屋が他の実行委員たちと得点表を壁面に張り付けているのが映っていた。ボール紙で作成された得点表は、例年通り校舎の二階のベランダから吊り下げるのだが、風で煽られないように台紙部分はきっちり壁に留めないといけない。
 脚立に立ち上がる格好で作業している藤屋。運動神経がいいから、転ぶこともないだろうけれど、心配でつい視線がそちらに行ってしまう。

「すばる」

 声をかけてきたのは眞子だ。本来実行委員ではなかった眞子は、俺が実行委員長を引き受けたので、追加要員として参加してくれた。

「水分補給した? 今日、結構暑いよ」

 そう言って、買ったばかりのペットボトルを差し出してくる。世話焼きな性分は、昔から変わっていない。

「ありがとう、もらうね。でも、大丈夫だよ」
「あんまり、そっち見てなくていいんじゃない?」

 眞子は俺が藤屋を気にしていると気づいていたようだ。困って俺は苦笑いした。

「危なっかしくてつい見ちゃっただけ。もう、気にしてないから」
「そうは見えないから心配してるの」

 眞子には俺がまだ藤屋を気にしているように見えるのだ。それなら、一刻も早く『そう見えない』俺になりたい。
 すると、一年の実行委員が駆け寄ってきた。

「藍原先輩、障害物走のネットがないって、他の子らが言ってるんですけど」
「え? 山田先生が用意してあるって言ってたじゃない」

 眞子が言い、俺は思い出す。

「もしかすると、第一倉庫の方かも。ラダーなんかと一緒にしまったって言ってた気もする」

 体育祭など行事で使うものは第二倉庫にまとめてしまってあるのだが、普段授業や部活で使う用品は第一倉庫にしまってあるのだ。

「俺が見てくるよ。きみらは元の作業に戻って」

 一年に言って立ち上がると、眞子が腰を浮かせた。

「私が行くよ。座ってなよ、すばる」
「ずっと座ってて、少し歩きたくなったところ。眞子、俺の代わりに相談役やってて」

 藤屋を眺めているよりいいと思ったのか、眞子は素直にうなずいた。

 体育館横にある第一倉庫は荷物がぎっしり詰まっていた。電気をつけるが、周辺に積もった埃のせいかあまり明るくならない。雑然と置かれたハードルと、サッカーボールの籠を避けながら、奥を探す。

「どこだろ。っていうか、なぜラダーと一緒にしまったんだ。陸上部で使ったのかな」

 棚にある陸上部の用具を探していると、背後から「危ない!」と声が聞こえた。
 気づくと、俺の横には見知った背中があった。

「藤屋……」

 倒れてきた棒高跳び用のウレタンマットを押さえているのは藤屋だ。分厚いマットを支えてくれているので、急いで手伝って起こす。

「あー、びっくりした。なんでもかんでも詰め込み過ぎだろ」

 マットを元の位置に戻し、藤屋は息をついて俺を見た。

「追いかけてきたわけじゃねーから、安心して。脚立返しにきただけ」

 倉庫のドアの向こうには倒れた脚立がある。そうか、脚立もこの倉庫にしまってあるものだ。俺がマットの下敷きにならないように、脚立を放り投げて駆けつけてきたのだろう。

「別に……。いや、助かった。ありがとう」

 俺が礼を言うと、藤屋がにっと笑った。目尻のしわ。ああ、好きだなとこんな瞬間に実感してしまう。

「藍原、明日は綱引き以外出ないんだっけ」
「ああ。実行委員の本部に詰めていなくちゃならないから」
「俺は障害物走と騎馬戦の馬~」

 藤屋が出る競技ならチェックしてある。だけど、そんなこと言わない。

「……去年みたいにリレーに出ればよかったのに。あの時の藤屋、格好良かったよ」

 藤屋と距離を取りたいのに、狭い体育倉庫でふたりきりという状況が、俺の口を勝手に動かす。間持たせの会話なんかしなくてもいいとわかっていて、藤屋の声を聞きたくて話を振ってしまう。

「格好良くねえだろ。俺、コケたじゃん! そもそも、あれもリレー出るヤツが直前で捻挫したから、俺が出たんだぞ」

 そうだ。リレーメンバーに怪我人が出て、脚が早いからと周りに推されて藤屋が出たのだ。

「転んだかもしれないけど、その前は陸上部並に速くて、歓声が上がってただろ。充分、格好良かった」
「今年はやんないから」

 格好いいというワードはまんざらでもないようで、藤屋が照れたように唇を尖らせた。こんな仕草が可愛い。

「障害物走は?」
「本気で走んないだろ、普通」
「期待してる」

 そう言って、思わず笑ってしまった。まるで一年の頃みたいに自然な会話をしていることに胸がドキドキする。
 ああ、この一瞬だけ半年前に戻ったみたいだ。まだ、藤屋が俺の気持ちを知らなかった頃。俺たちがただの友達だった頃。
 毎日が輝いていたあの頃……。


「おま……笑ったな」

 藤屋はなんだか悔しそうに言って、それから少し黙った。

「でも、藍原が見ててくれんなら、本気出す」
「なんだよ、それ」
「格好つけたいだけ。俺はさ、もっと藍原と喋りたいから、こっちを見ていてもらえるように頑張るんだよ」

 そう言って、藤屋は目尻にしわを寄せ、優しく笑った。俺の方に手を伸ばすのでどきりとしたけれど、手に取ったのは探していた障害物走用の緑のネット。棚の上段にあったらしい。

「これ、探しに来たんだろ?」
「知ってたんだ」
「一年が言ってた」

 俺の手にネットを乗せると、藤屋は先に倉庫を出て行った。
 その笑顔も、背中も、全部全部好きだ。俺相手に格好つけてどうするんだよ。そう思いながら、泣きそうな気分だった。

 体育祭は大盛況だった。近年で一番の盛り上がりだったんじゃないかと自負できるほど。
 競技はどれも白熱し、応援合戦やパフォーマンスは一般生徒も一丸となった。衣装や看板、実行委員ら裏方チームは、体育祭が盛り上がるのが一番嬉しい。
 俺自身は綱引きだけしか参加せず、あとは実行委員本部に待機だ。藤屋の活躍は、そこから全部見えた。
 障害物走、藤屋は序盤本気の走りを見せていた。ハードルを軽々越えていく姿には、女子たちから「きゃあっ」と黄色い歓声があがるほど。しかし途中で、男子の友人たちから「藤屋、そこだ、転べ!」「まさか、普通に通過するのか」「おまえの面白いとこ見せてやれ!」などなどのリクエストを飛び、藤屋は律儀にそれらすべてに応えていた。
 具体的には麻袋を履いて派手に転んでみたり、ぐるぐるバットで客席に突っ込んでみたり……。その都度、グラウンド中に爆笑が沸き起こった。根っからのパフォーマーだ。教師たちまで涙をぬぐうくらい笑っていた。
 午後の騎馬戦は二年大将騎馬の馬をやっていたのだけれど、これもまた無謀な作戦で突撃を繰り返すので、歓声と爆笑の渦だった。この体育祭の真のMVPは藤屋だったと思う。そのくらい視線を集めた人気者だった。

「藤屋、大活躍だな」

 気づくと、隣に千広がいた。

「そうだね」

 俺は素直に答えて、藤屋がグラウンドを駆けるのを見つめる。汗をぬぐう仕草、くしゃっと満面の笑みになる瞬間。俺が好きになったヤツは本当に格好いい。
 藤屋が笑っている姿を見ていたい。この先も、遠くからでいいから。
 そのくらいは願ってもいいだろうか。


 体育祭は白組の優勝で終わり、応援団員や一般生徒が写真撮影に興じる中、実行委員は撤収作業に入る。藤屋の提案で、各クラスから人員を割いてもらっているため、想定より三十分は早く撤収と原状回復ができた。
 一般の生徒らが下校し、実行委員のみが視聴覚室に残った。最終確認を体育祭の責任者である教師らにしてもらうためなのだが、こちらが早く終わった分、職員会議がまだ終わっていない。

「会議終了時間が十八時だから、それまで各自休憩していて。時間になったら、視聴覚室集合で」

 指示を出すと、生徒たちは解散した。俺はきょろきょろとあたりを見回す。

「どうした、すばる」

 千広に尋ねられ、一瞬言い淀む。

「藤屋を探してる」

 今、視聴覚室に藤屋の姿はなかった。もう帰ってしまったのだろうか。

「……さっき、看板の撤去のときに爪が欠けたみたいだったから」

 俺の手にある絆創膏を見て、千広が短く嘆息した。

「Ⅾ組の教室で寝てたっぽいけど。……行って後悔しないか」

 後悔しないかと言われたらすると思う。俺の気持ちは恋で、藤屋の気持ちは友情だ。いや、むしろ逃げるものを追いかけたいという本能的な感情かもしれない。
 それでも、俺は今、藤屋と話しておきたい。

「俺、今のままじゃ、中途半端だから」
「すばる」
「後悔するかもしれないけど、会ってくる」

 藤屋と友達を続けるのか、やめるのか。藤屋と話して自分で決めよう。
 俺の覚悟を決めた顔を見て、千広が少しだけ笑った。

「行って来い。たぶんだけど、すばるが想像してる結果にはならないよ」

 どういう意味だろうと思ったけれど、十八の集合時間まであまり時間はない。俺は急いでⅮ組を目指した。


 二年の教室前の廊下は閑散としていて、D組には藤屋しかいなかった。当の藤屋は、机に頬をくっつけてスマホを眺めている。

「藤屋」

 声をかけると弾かれたように身体を起こす。俺の姿を見つけ、目を丸くした。

「藍原」

 その声が嬉しそうで、胸がきゅっと縮んだ。どうして、期待させるような態度をとるんだ。

「実行委員、集合してた? わり、半分寝てたわ」
「大丈夫。このあと、十八時集合だから。今は待機時間」

 俺は藤屋の前の席の椅子を引き、向かい合う格好で座った。

「手、出して。さっき、爪割れただろ」
「あ、見てた?」

 絆創膏とアルコールティッシュを見せると、藤屋が素直に右手を差し出してきた。

「わざわざ来てくれたんだ。たいしたことないのに」
「看板の土台は結構古いから、ちゃんと手当しといた方がいいと思う」

 ふたりきりの教室。俺は緊張気味に藤屋の右手を取った。爪にアルコールティッシュを押し付けると、藤屋が片眉をしかめる。

「痛い?」
「んー、でもないけど」
「痛そうだよ」

 傾いた太陽が俺たちを照らし、教室の床に長い影を作る。絆創膏を巻く手が震えないように、俺は険しい顔のまま下唇を噛み締めた。

「格好いいところ、見せらんなかったなあ」

 目を伏せて笑いながら、藤屋が言った。

「格好よかったよ」
「それは藍原の方でしょ。実行委員長、最後の挨拶までイケメンだったわ」

 しばしの無言が俺たちの間に挟まる。何を言えばいいだろう。何を語ればいいだろう。話そうと決めていたことがあったはずなのに、藤屋とこうして相対すると言葉にならない。
 絆創膏を巻き終えてしまえば、俺は藤屋の手を離すしかない。せっかく時間を作ったのに、勇気が出ない自分が情けなかった。

「はい、できた。帰ったらもう一度洗って、絆創膏代えろよ」

 すると、反対に藤屋の手が俺の手首を掴んだ。驚いて手を引こうとするが、藤屋の力が強くて繋がりをほどけない。
 
「藤屋……」
「あのさ、友達やめるって、先週言っただろ。それ、やだ」
「え?」
「友達やめるの、やめてって言ってんの」

 藤屋はうつむきがちでこちらをちゃんと見ない。ただ、俺の右手首を掴む力だけが強い。
 俺は狼狽をひた隠しながら、必死に言う。

「ごめん、俺が『友達』をできてなかったのが悪い。……だけど、自信ないんだ。自分で告白して、友達でって言っておいてなんだけど、気持ち整理するまでは、……少し距離を置きたい……かな」
「気持ち、整理しなくていいし、距離もおきたくない」

 まるで子どもの駄々のように藤屋は言って、顔をあげた。頬と目元がわずかに赤らんでいる。

「すばるって呼びたい。もっと一緒にいたい。顔見たいし、森川や宮尾みたいに特別扱いされたい」

 突然の言葉に、俺は声が出ない。藤屋は構わず続ける。

「藍原に告白された時は違うって思った。だけど、おまえが離れてくのが本当に無理で、今も、すげえ藍原のこと考えてる。触りたいし、ぎゅーってしたい」
「じ、自分で何言ってるかわかってる?」

 再度身を引こうとすると、藤屋が俺の手首をさらにきつく握った。逃がすまいとでもいうように引っ張る。
 藤屋の茶色の瞳が強い光を放って、まっすぐに俺を射貫いていた。

「おまえのことが好きって意味で言ってる」

 ぶわっと頭のてっぺんまで熱がのぼるのが感じられた。嘘だ。だって、クリスマスイブに俺を振ったのはおまえじゃないか。

「俺のこと、そういう目で見られないだろ」
「見られるって気づいちゃったから、言ってんだろ?」

 反射のレベルかというくらい早い返しに、俺は答えに窮した。きっと、藤屋の目から見ても赤い顔をしているに違いない。
 藤屋は俺の右手を包み、身をのりだすように顔を近づけ見つめてくる。

「藍原が好き。おまえは、もう俺を好きじゃないかもしんないけど、俺は好き」
「藤屋、待って」
「待たない。好きだ、藍原。もう一回、俺のこと見て」

 自分でもどうしようもなく感情が溢れて、涙がにじんできた。
 藤屋に会いに来たのは、この苦しい恋の出口を探していたからだ。友達にも、他人にもなれなくなっていた自分にケリをつけるためだ。
 それが、告白されることになるなんて、誰も想像できないだろう。

「藍原、泣くなよ」

 藤屋の大きな手が俺の頬に触れた。指で涙を拭ってくれる。

「ごめん」
「その『ごめん』はお断りの『ごめん』?」
「ううん。まだ藤屋のことが好きで『ごめん』」

 藤屋の表情が驚きに染まる。俺はまた溢れてきた涙を左手で拭って、吐き出すように告げた。

「藤屋への気持ち、全然忘れられない。友達でなんていられないくらい、藤屋が好きだ」
「藍原!」

 藤屋が席を立ち、机越しに俺の頭を胸にかき抱いた。誰か見ていたら、なんて考えられなかった。制服のシャツ越しに感じる藤屋の体温。鼓動を間近で聞くと胸がいっぱいになった。

「これって……両想いってことで、OK?」

 俺の顔は藤屋の胸にくっついているので、彼の表情は見えない。だけど、その声は震えていた。
 こくんと頷いたのは伝わるはず。

「あ……うわー……、両想い……やった……」

 藤屋がつぶやいて、それから俺の両頬を手で包んだ。次の瞬間には藤屋の唇と俺の唇が重なっていた。

「……っ!」

 初めてのキスに驚き過ぎて、俺は腰を浮かせかけ、椅子の足につまづく。そして、藤屋もろとも教室の床にどすんと転がることとなった。

「いてえ。藍原、痛いんですけど」
「ごめ……でも、急に藤屋があんなことするから……! こっちは初めてだったんだぞ!」

 床に座り込んだ格好で抗議すると、藤屋の頬が今更ぽぽぽっと赤くなるのが見えた。俺の初めての相手が自分だと思い至り、嬉しくてたまらないようだ。その顔を見て、俺までいっそう恥ずかしくなってきた。

「すばる」

 名前で呼ばれ、びくんと肩が揺れる。

「もう一回、ちゃんとしてもいい?」

 間近にある透き通るくらい綺麗な瞳につかまって、抗うことなんかできない。泣き笑いみたいな顔で俺は頷いた。

「うん」

 藤屋の手が俺の頬に触れ、感触を確かめるように指が下唇を撫でる。それから再び唇が柔らかく重なった。腰を抱かれ、俺もおずおずと腕を藤屋の背に回す。こんなに密着したのは初めてだ。
 緊張で死にそうで、だけど嬉しくて頭がくらくらして、ただただ幸せな気持ちがあふれる。

「やっと、笑ってる顔が見れた」

唇と唇に隙間を作って、藤屋が悪戯っぽくささやいた。