放課後のファミレス、俺は友達の佐野と一緒にフライドポテトとドリンクバーでかれこれ一時間ほど過ごしている。
 課題が終わらないせいだ。英語の小説の日本語訳なんて絶対に英語教師の趣味だろ。全然意味がわからないから、進まないったらない。
 同じく英語底辺組の佐野と手分けして訳しているのだが、苦手がふたり集まったところで解決するはずもないという構造欠陥に気づき、開き直ってポテトを食べながらSNSを眺める会になっていた。

「なあ、佐野~」

 俺はスマホを置いて顔をあげた。佐野は俺より先に課題もスマホも飽きて、別の友達に借りた漫画を開いていた。

「ちょっと聞きたいんだけどさ」
「英語ならわかんねーぞ」
「いや、それは俺もだわ。そうじゃなくて、例えばよ? 俺のことを好きだって言ってきた子がいるとするじゃん?」
「は? おまえコクられたの? 誰に?」

 佐野が漫画をどさりとテーブルに置き、食い気に尋ねてきた。目が本気だ。

「いやいや、例えばな」
「例えばじゃねーだろ、その様子は。まあいいや、それで?」
「その子が急に俺に冷たくなったとしたら、どんな理由があると思う?」
「は? つまりは付き合ってる彼女が冷たくなった、と」
「違くて。俺はその子の告白を断ってる。で、友達やってるんだけど」

 そこまで言うと、佐野が「はあ? もったいね~!」とソファ席の背もたれに寄りかかり天井を仰いだ。

「聞けって。だから、その子は俺のことが好きだったはずなのに、なんでいきなり冷たくなったのかなーって話でさ」
「それ、どうでもよくね?」

 佐野がばっさりと言って、顔をこちらに向けた。

「振った相手がこっちをどう思おうと藤屋には関係ないべ」

 言われてみれば、ごもっともである。いや、しかし俺としては藍原といい友達でいたいわけで……。

「それとも藤屋、『俺はおまえのこと好きじゃないし付き合わないけど、おまえはいつまでも俺のこと好きでいてね』とか思ってる?」

 佐野の真顔に、すんと俺も真顔になってしまった。

「それは傲慢すぎん?」
「傲慢だわ……」

 うわ、言語化すると最低だな、俺。佐野はやっかみではなく、真っ当に相談の返事をしてくれているので、余計に胸にぐさりと響いた。

「つか、どこの誰? 何組の子? 俺も知ってる子だろ? どーして振っちゃったんだよ。あ~、なんで藤屋がモテんだ。意味わかんね~。俺だってモテてしかるべきだろ~」

 佐野がテーブルに頭をごつんとぶつけて呻く。俺も佐野はいいヤツだと思うし、俺自身、藍原に好きになってもらえたこと自体奇跡みたいなもんだと思ってる。だけど、藍原は言った。『勘違いだった』と。

「付き合えないってわかったら、好きって気持ちも変わるのかな……」
「まあ、そうだろ。いつまでも失恋に囚われたくないって考えるだろうし。特に女子は切り替え早いからなあ」

 藍原は女子じゃない。女子より綺麗な顔してるけど、女子じゃない。
 そして、藍原は俺と距離を置きたがっているのだ。失恋を忘れたいから。

(だけど、俺はそれじゃ嫌なんだよ)

 藍原と前みたいに話せなくなるのは嫌だ。一緒にマック行ったり、ゲーセン行ったりしたい。カラオケに行こうって約束して、まだ果たせてない。
 放課後、くだらない話をしながら一緒に帰りたいし、森川や宮尾が呼んでるみたいに俺だって『すばる』って名前で呼びたい。
 我儘かもしれないけど、俺は藍原と友達でいたい。
 そんな気持ちを持ってるのは、もう俺だけみたいだけれど。


 佐野とそんな話をした晩のことだ。俺は夢を見た。
 夢の中で『あ、これは夢だ』とわかるヤツ。俺は夕暮れ時の土手を歩いていた。通学路じゃないけれど、高校の近くの川の土手だとわかる。
 隣には藍原がいた。いつも通り俺の冗談に笑い、自分からどんどん話してくれる。
 嬉しくて、色々な話をした。これが夢だってわかっているからこそ、時間が惜しくて、この土手がどこまでも続けばいいのにと真剣に考えた。

『藤屋』

 不意に、藍原がまっすぐに俺を見る。
 川からびゅうっと風が吹きつけて、藍原の黒い髪をさらさらとなぶっていった。こんなふうに藍原と向かい合うのも久しぶりだ。最近、ずっと視線が合わなかったもんなあ。

『藍原、俺さ』

 俺は無性に泣きたくなって、何を言いたいのかすっかりわからなくなってしまう。
 すると、藍原がにこっと笑った。その笑顔は、なんていうか藍原らしくない。
 目を細めて、少し悪戯でもするみたいに微笑むんだけれど、ええと言葉にするなら……なまめかしい? 色気がある?
 いや、落ち着け。藍原相手に俺は何を考えてるんだよ。

『動いたら駄目だよ』

 藍原は怪しげな笑顔をぐっと俺に近づけた。綺麗な形の藍原の指が俺の顎に触れ、次の瞬間、俺たちの唇は重なっていた。
 かすめるように、ではない。しっかりと粘膜同士が触れ合って、それから藍原は唇を離した。

『藤屋は俺のこと、好き?』

 頬を赤らめ、誘うように微笑む藍原。言葉が出てこない。心臓が馬鹿になりそうにどかどかどかどか……。


「うわあああ!」

 飛び起きると、そこは俺の部屋。時計を見ると、朝四時半だった。
 まだ五月だというのに、だらだらと汗をかいていた。室温のせいじゃない。夢のせいだ。

「俺は……なんつう夢を見てるんだよ……」

 ベッドの下に落ちた掛け布団を拾い、まだ激しく鳴り響く心臓を押さえる。
 別に女子とキスしたことくらいあるけど、それ以上も中学のときに経験済みだけど、今の夢の動揺が半端ない。
 俺は藍原をそういう対象として見てる? いや、見てないだろ。友達だぞ。でも、他の友達相手にこんな夢みたことあるか?
 俺はただ、すっかり冷たくなって塩対応の藍原と、元の関係に戻りたいだけ。毎日顔見たいし、喋りたい。一緒に帰ったり、休みの日に遊びに行ったりしたい。
 あいつの笑った顔が見たいし、俺が頼み事をするときの「しょうがないなあ」って顔が好き。……待て待て待て、好きって、変な意味じゃないんだよ。キスしたいなんて考えたことがなくて、だけど藍原があんな顔をして俺に迫るなら、それは見てみたいというか……。
 普通の友達に戻りたい。それが俺の願いだった。

「それだけじゃないのかよ、このもやもやは」

 額に手を当て、俺は呻くようにつぶやいた。


 *


 うちの学校は、五月末に体育祭がある。おかげで新学期早々、体育祭実行委員なるものが組織され、クラスから幾人か招集されるのだ。

「藤屋、頼むよ~」

 五月の半ばを過ぎたこの日、実行委員の木村に俺は朝から頭を下げられている。

「え~? 実行委員の代理? 体育祭目前だけど」
「実行委員だった多田さんが怪我で入院しちゃっただろ? うちのクラスからもうひとり出さなきゃなんだよ! 急で悪いけど」

 確かに実行委員だったバスケ部の多田という女子が、先日部活中に靭帯を切る怪我をしたとは聞いていた。だけど、俺には務まらないだろ、実行委員なんて。

「来週だろ、体育祭。俺、今まで実行委員が何してきたかわかんないし」
「大丈夫! 藤屋はいつも通りでかい声で適当に何か言っててくれればいい。当日はいくつか役割こなしてくれればいい」
「それなら応援団の方がまだマシ~」

 応援団なら当日声を張り上げていればいい。一方実行委員は準備や仕切り、後片付けまでものすごく忙しいのが想像できる。
 
「応援団は間に合ってるよ」
「藤屋、暇だろ。手伝ってやれよ」

 佐野たちが応援団に入っていて、俺をはやしたてる。木村が両手を顔の前で合わせた。

「頼む! 藤屋くらい発言力のあるヤツが必要なんだよ。実行委員長がA組の藍原なんだけど、あいつ頭いいし口うまくて、独壇場って感じで」

 藍原の名前に俺はぴくっと眉を揺らした。先日見た夢が脳裏を過る前に必死に打ち消す。あれは何かの間違い。思い出すな、俺。
 というか、確かに藍原は体育祭実行委員になったと言っていたけれど、委員長まで任されていたのか。そういうところで頼られてしまうのが、すごく藍原らしい。

 「このままじゃ藍原たちA組ばっかり目立つんだよ。せっかく実行委員なんて面倒な仕事引き受けて、内申が上がらなかったらもったいなさすぎる!」

 木村が堂々と本音を言う。大学の推薦を狙ってこういう面倒な役どころを務めるヤツもいるもんな。体育祭責任者の教師って、学年主任の山田だし。

「ん~、わかった。オケ」
「引き受けてくれるのか?」
「人助け、人助け。感謝しろよ~」

 ニコニコ笑いながら、腹の中では藍原がどんな顔をするかを想像してしまう。
 すっかり冷たくなって、俺への気持ちも勘違いだったなんて言う藍原。だけど、俺はまだ友達だと思ってるんで。
 別に実行委員が一緒になるくらい、普通のことだろ?


 その日の放課後、体育祭実行委員の集まりに参加した俺を見て、藍原は想像通り目を丸くした。わかりやすく驚いたのは一瞬で、すぐにいつもの人の好さそうな表情に戻る。横には森川と宮尾がいて、宮尾の鋭い視線の方が痛いんですけど。
 木村が藍原に事情を説明に行くと「Ⅾ組は多田さんが入院したって聞いてたからね」と藍原は納得したように頷いた。それにしたって、全然目が合わない。
 ずらりと並んだ各クラスの委員を前に藍原が説明を始めた。

「体育祭も来週です。今日は最後の会議になります。前回の会議で、前日までの流れは決まりました。今日は当日の役割決めをします。スポットで動いてもらうこともあるので、皆さん自分の役割を把握し、自身の競技と被る際は早めに交代を申請してください」

 一学年六クラスを学年縦割りで赤白青の三つのチームに分けて競う。藍原のA組と俺のD組は同じ赤組。運動も人並にできる藍原だけど、当日は実行委員長の仕事の方に全力投球するのだろう。

「白線の引き直し、回数が少なくないですか?」
「得点の換算はやはり少人数に専属で任せるべきではないでしょうか」
「保護者用駐輪場の案内なんですが……」

 俺が木村の横でぼんやり頬杖をついている間に、あちこちからポンポン意見が出てくる。おお、結構みんなやる気あるんだな。
 それらの意見に、藍原は丁寧に返答していく。本当に誠実で、誰にでも分け隔てなく優しいヤツ。そういうヤツだから好きだったのに、なんで俺にだけ冷たくなったんだよ……。
 ……違う、『好き』ってそっちじゃない。友達としてだ。
 ただ、俺は全然諦めきれないよ。友達でいたいって気持ちは、もう俺しか持ってないのかよ。
 俺の視線はうるさいくらい藍原に注がれていたのだと思う。ふと、藍原がこちらを見た瞬間、ばっちりと目が合った。
 自分でもびっくりしたけれど、藍原と目が合った途端、胸がぎゅって縮んだ。痛いくらいの感覚で、意味わからなくて動揺してしまった。
 一方で、藍原は何事もなかったかのように目をそらす。すると、今度は胸がしくしく痛みだした。さっきの痛みとは別なのだ。俺はたぶん、悲しいんだと思う。藍原に拒絶されている今が。


 会議は二時間たっぷり使って終わった。あとは前日準備と当日の役割、体育祭の後の撤収作業。面倒だけど引き受けたからには最後まで務めなければならない。

「藤屋、ありがとな」

 木村はそう言うけど、俺なんにもしてない。強いて言うなら、実行委員だけで撤収作業やるのはきついから、各クラスもう二、三人、人員出せば?と発言したくらいだ。俺が面倒くさかったから提案しただけ。

「俺、藍原と喋ってくるわ。去年、同クラ」

 そう言って、一年の実行委員と喋っている藍原の下へ向かう。

「藍原」

 声をかけると、俺を見る。その表情はいつもの藍原だ。

「ああ、藤屋。多田さんの代理って藤屋だったんだね」
「木村にどうしてもって言われてさ。前日準備、赤組クラスはテント立てだよな。俺、力あるから任せて」

 腕を叩いて見せると、横から宮尾が険のある声で言う。

「別にテントくらい、そんなに力いらないでしょ。偉そうに」
「眞子」

 藍原が宮尾を制するように呼び、それから俺に笑顔を見せた。

「頼りにしてるよ。それじゃあ」

 そう言って、藍原は宮尾と森川とあっさり教室を出て行った。
 この前より邪険にされなかったように思う。
 一方であんな作り笑いを向けられる覚えはないとも思った。他人行儀な笑顔に傷つく程度に、俺は藍原の態度に苛立っていたらしい。

「藍原!」

 追いかけて教室を飛び出した。先を行く三人に追いすがって、藍原の腕を取った。
 二の腕を掴まれているのに、藍原はこちらを向かない。

「藍原、おまえ、なんでそんな感じなの?」
「痛いよ、藤屋」

 藍原はまだ俺を見ない。宮尾が目を吊り上げ、何か言おうとしたけれど、そんなのどうでもいい。俺が話したいのは藍原だ。

「友達にする態度じゃなくね?」

 藍原がゆるゆると顔をこちらに向けた。さっきまでの作り笑いはそこになかった。
 眉を寄せ、口をゆがめ、睨むように俺を見る目は苦しそうだ。憤りと表現すればいいのだろうか。藍原がそんな顔を俺に向けたのは初めてだった。

「じゃあ、友達も、やめたほうがいいね」
「は?」

 思わず声がでかくなった俺には動じず、藍原は自分の手で俺の手を外した。
 そうして再び俺に背を向けて去っていく。宮尾が俺を睨み、それから藍原に付き従っていった。
 森川がひとり、俺の前に残った。

「藤屋」
「……んだよ」

 苛立ちと混乱で俺は嫌な返事をした。あまり表情が豊かではない森川が、眉間に一本しわを寄せて俺を見る。

「すばるの気持ち、察してやってほしい」
「藍原から聞いてんの?」

 俺に告白をしたこと、俺に振られたこと。藍原はこいつらには喋ったのだろうか。
 それだけで、なんだか無性に嫌な気分になった。まるで俺たちだけの秘密を汚されたみたいな感覚だ。
 森川は俺の問いに答えずに、言った。

「藤屋が友情を示すたび、すばるは苦しんでる。そのうち、普通に話せるようになるはずだから、それまで待ってやってもらえないか?」

 そのうちっていつだよ。その間におまえや宮尾が、藍原をよしよし慰めるんだろ。
 そうして、藍原は俺への気持ちを完全に忘れるんだ。なかったことにするんだ。
 俺の気持ちだけ置き去りにして。

「過保護すぎだろ、森川も宮尾も。俺が話したいのは藍原で、あいつの気持ちをちゃんと聞きたいだけで。……本当にそれだけなんだよ」

 すると森川が驚いたように眉をあげて、それからふっと表情を緩めた。それが不器用な微笑だとなんとなくわかった。

「藤屋っていつも笑ってるイメージだった」
「は?」
「すばるのことになると、そんな顔もするんだな」

 どういう意味だよ、と俺が苛立った声を発する前に、森川は踵を返し藍原たちが消えた方へ去っていった。
 ひとり廊下に残された俺は、まだ藍原のことを考えていた。あんな顔が見たいんじゃない。作り笑いでも、悲しい顔でも、怒った顔でもない。
 藍原が楽しくてしょうがないときの笑顔が見たいんだよ。
 俺は確かに、そんな藍原を知っているのに。あの楽しかった時間は、もうどこにも存在しないのだろうか。
 顔を見たい。本音を聞きたい。もう少しだけ近づきたい。
 俺のこの気持ちに名前をつけるなら、きっと……。