藤屋瑛人は俺が初めて好きになった人だった。
 好きだと言ってくれる女の子は今までたくさんいたけれど、誰かを好きになる気持ちも誰かと付き合いたいという気持ちもわからなかった。
 そんな俺が心惹かれた。
 初めての感情だった。
 うるさいくらい明るくて、眩暈がするくらい眩しい藤屋。引っ込み思案な俺にぐいぐい踏み込んできて『友達』になってくれた。
 毎日共に過ごす仲じゃない。だけど、クラスに行けば藤屋がいて、近くの席で「藍原」と呼んでくれる。くだらない話で笑い合えば、日々は輝いた。
 この気持ちが恋なのだと自覚したのは藤屋と出会って半年が過ぎた頃。男同士だし、きっと藤屋は困る。言わなくていい。口にしなければ、仲のいいクラスメイトでいられる。
 そう思っていたのに……。

「言うんじゃなかった……」

 俺は課題の手を止め、ひとりつぶやく。椅子から立ち上がり、窓を開けて夜空を眺めた。春は霞んで見えづらい星たちだけれど、アークトゥルスははっきり見える。デネボラとスピカを探し、春の大三角形を確認。薄雲の切れ間に北斗七星の一部を見つけた。
 あの日、クリスマスイブは雪がちらついていた。『暇なら遊ばねえ?』と藤屋に誘われて、俺は浮かれていたんだと思う。冬休み中は会えないと思っていたし、イブというちょっと特別な日にふたりで会えるのが嬉しくてそわそわした。藤屋の中で、他の友達とは少しだけ違う位置にいるんじゃないか。そう思ってしまった。
 藤屋に『誤解させた』と謝られたのは、俺が意を決して気持ちを打ち明けた後。
 見事な勘違いから俺は先走って告白し、藤屋に振られたのだった。

「どうして叶うなんて思っちゃったんだろ」

 藤屋に振られてからの三ヶ月は地獄のように苦しい毎日だった。
 自分で『今まで通り』と懇願したせいで、藤屋は一切変わらぬ態度で接してくれた。それは藤屋の思いやりで友情の証だというのに、失恋で傷ついた俺の心は勝手に抉られ、血を拭き出す。
 いっそ『気持ち悪い』と拒絶された方が楽だった。そうすれば、藤屋から離れることができた。同じ学校で気まずい思いはしただろうけれど、いつまでもこの恋を殺しきれずに苦しむことはなかった。笑いかけられただけで、悲しいまでに胸が高鳴る未練がましい自分が嫌でたまらない。
 クラス替えに乗じて距離を取ることにしたのは、俺の心を守るためだ。
 藤屋には振られたのだ。もう期待しないように離れよう。
 しかし、藤屋はまったく気にすることなく友情を示してくる。
 本来は藤屋に感謝すべきだ。わだかまりを残さず、接してくれているのだから。さらにはクラスが替わっても、仲良くしようと努力してくれている。
 だけど、俺はもうつらい。藤屋の顔を見るのも、声を聞くのもつらい。終わった恋を見つめ直すのは痛くてしょうがない。

「もう、俺に話しかけるのはやめてよ、藤屋」

 俺は呟いてうつむき、それから窓をしめた。
 大丈夫。こうして拒絶し続ければ、藤屋は俺なんか忘れる。
 藤屋には明るく楽しい仲間たちが大勢いるのだ。たまたま一年時に同じクラスだった男など、あっという間にその他大勢のひとりになるだろう。


 「すばる、おはよう」

 翌朝、最寄り駅の前でいつも通り待ち合わせたのは森川千広(ちひろ)と宮尾眞子(まこ)。小学校から高校まで一緒の、いわゆる幼馴染だ。
 中学時代と去年はクラスが違ったけれど、全員理系選択だったこともあり、今年からは同じクラスになれた。三年進級時にクラス替えがないので、卒業まで同じクラスなのは安心感がある。
 周囲には誰とでも仲良く話せる人間だと思われているが、俺は結構人見知りだし、内気な方だ。そう見せないように努力しているだけ。

「すばる、あんまり顔色よくないぞ。ちゃんと寝てるか?」

 千広が俺の顔を覗き込んで尋ねる。眞子が下から俺を見上げて、ちょっときつそうに見える顔をいっそう厳しくする。

「ね、まだあいつに絡まれてない? 大丈夫?」

 眞子が言う『あいつ』は藤屋瑛人だ。俺は緩く首を左右に振る。

「もうあんまり関わってないから大丈夫だよ」

 恥ずかしながら、幼馴染のふたりには俺の失恋を伝えてある。俺から初めて聞いた恋愛話が、同性相手の失恋で、ふたりはさぞ驚いただろう。それでも変わらない態度でいてくれる。
 俺が藤屋と距離を取りたいのも察してくれ、自然と間に入ってくれているようだ。

「私、もともと藤屋って嫌い。去年、すばるのクラスめちゃくちゃ騒がしかったし、それってあいつとその仲間たちのせいでしょ」
「いや、藤屋たちのおかげで去年のクラスはみんな仲がよかったよ。陽キャすぎるかもしれないけど、人を落として笑ったり馬鹿にしたりしないから、みんな好いてたよ」

 眞子は俺の姉みたいに振舞うところがあるので、俺の告白を退けた藤屋が気に入らないのだろう。だけど、藤屋には選ぶ権利があり、そこを不当だと考えてはいけないのだ。

「すばるが仲良くしてたってことは、藤屋は悪いヤツじゃないだろ。眞子は過保護すぎ」
「でもぉ」

 千広が言い、眞子はまだ不満げだ。
 ホームに滑り込んできた電車に乗り込み三駅。俺たちの通う高校は駅から七分。
 校門が見えてくると、ぎくりと肩が跳ねた。そこに立っていたのは藤屋だ。スマホを見ていた姿勢から顔をあげ、俺を見つけて「あ」という表情になった。

「藍原」

 明るくてよく通る清々しい声で名前を呼び、駆け寄ってくる。ああ、呼ばれるだけでまだ胸が疼く。

「おはよ」

 笑顔はさわやかで、目尻にわずかに寄るしわが、俺はすごく好きだった。
 校則ギリギリの茶色っぽい髪の毛をさらっと揺らして、なんのてらいもなく俺を見つめてくる。

「おはよう」

 返事をすると、藤屋は律儀に千広と眞子にも「森川、宮尾さん、おはよー」と挨拶をした。

「どうした? 何か用事?」

 なるべく冷たく響くように言うけれど、まったく動じることなく藤屋は答える。

「どうもしてない。教室まで一緒に行こうかなって思っただけ」

 なぜそんなに無邪気でいられるのだろう。眞子が俺の横でとげとげしい声を発する。

「待ち伏せとか、ストーカーみたい」
「え、俺ってストーカーっぽい? うわ、きもくてごめん」

 藤屋が明るく答えるので、毒気を抜かれたのか眞子がうっと詰まり黙った。こういうところが藤屋のいいところだと思う。空気が悪くなりそうになると、おどけて明るい空気を作ろうとする。見た目よりずっと気を使って人の輪を大事にするヤツなんだ。

「友達待ってたんだけど、藍原の顔を見たから声かけちゃったんだよね」
「じゃあ、その友達を待ってなよ」
「なんか、遅刻するっぽいから、藍原たちと教室行くわ」
「藤屋さ、去年のクラスメイトだからって心配しなくていいよ。俺も新しいクラスでちゃんと馴染んでるから」

 言葉を選んで答えると、きょとんとした顔で藤屋がこちらを見た。

「心配っつうか、俺が藍原と一緒に行きたいんだけど」

 藤屋の茶色の瞳に、俺の顔が映っている。それがわかるくらい近くで見つめられて、俺の心臓は苦しいばかりだ。

「藤屋、それはわかったけど、D組は一時間目体育じゃないのか?」

 横から千広が言い、藤屋がやばいという顔をした。

「そうだった! 森川ありがと。やっぱ先行くわ」

 そう言って慌ただしく藤屋は去っていった。

「嵐みたいだったな」
「……うん」

 俺たち三人はその背中を見送り、つぶやいた。胸が痛いくらいに苦しい。

「すばる、やっぱりもっとはっきり言ったほうがいいんじゃない? 距離取りたいって」

 眞子が言い、千広も頷いた。

「悪気ゼロっぽいし、友達としてすばるに接してるだけだとは思うけど、すばる自身が嫌な気分になってるのは伝えるべきだと思う」
「嫌っていうかさ……」

 俺は曖昧に答えて、自嘲気味に笑った。
 藤屋から離れたい。藤屋への気持ちを消してしまいたい。
 だけど、こうして俺の顔を見て走ってきてくれる藤屋に頭がぐちゃぐちゃになりそうなほど愛しい気持ちが湧くのだ。変わらず少年みたいな笑顔で俺を射貫く藤屋に、恋が消えてくれない。


 *


 初めて藤屋と喋ったのは一年の春。休み時間に俺がスマホで音楽を聴いていると、彼が話しかけてきた。

『わり、画面見えた。その人ら好き?』

 動画サイトでは俺の好きなバンドのMVが流れていた。片耳のイヤホンを外して顔をあげる。

『うん。好きなんだ』
『お、俺もー。つうか、最近知ったニワカなんだけど。その曲よくねえ? 一番エモい』

 最近、ドラマの主題歌で流行った曲があるから、バンド自体を知っている人は多いだろう。だけど、この時聞いていたのはコアな曲だったし、音声無しのMVで気づくのはそれなりにファンだと思った。

『サブスクで結構聴けるけど、俺、インディーズ時代のCD持ってるよ。小さいハコでやってた頃の』
『え、そんなんあるの? いいな!』

 彼が子どもみたいに素直な声をあげたので、思わず笑みがこぼれてしまった。

『よければ貸すよ。藤屋……だよね』
『うん、藤屋瑛人。ありがとう、藍原!』

 藤屋は俺が名乗る前に、ちゃんとクラスメイトの俺の名前を把握していた。軽そうな雰囲気だし、華やかな面々と一緒にいるけれど、親しみやすいヤツなんだなと思った。
 そのうち席が近くなり、色々と話すうちにいっそう親しくなった。
 休み時間、放課後、休日……いつも一緒というわけじゃないけれど、藤屋は俺をよく誘ってくれた。そうして、いくつもの時間を共有して、俺は勝手に恋をしてしまった。
 恋心なんてまったく勝手で一方的な感情だ。
 好きだなんて。藤屋には迷惑でしかなかったのに。


 その日の放課後、俺は千広とふたりで教室を出た。眞子はテニス部の部活動。
 藤屋とは朝に顔を合わせただけで、その後、A組に姿を現すことはなかった。もともと、会って話す用事なんかない。クラスが離れれば、距離ができるのは普通の友人関係だってよくあること。

「なんで……」

 思わず声が漏れた。階段を降りた先、昇降口に立っているのは藤屋だ。俺を見てふっと口の端を上げる。

「よぉ、藍原。一緒に帰ろ」

 俺が何か言う前に千広が口を開いた。

「俺も一緒でいいなら」
「んー、ごめん。俺、今日は藍原と話したいことあるから。森川は遠慮してくれると嬉しい」

 意外にもそんなことを言う藤屋。フレンドリーな藤屋が千広にこんなことを言うのもおかしいが、では一体なんの話があるというのだろう。

「すばる、どうする?」

 千広が確認するように俺の顔を見た。藤屋が引かない以上、俺が断るべきだ。いやしかし、いっそきちんと話すチャンスかもしれない。

「話があるみたいだし、今日は藤屋と帰るよ。ごめん、千広」
「ん、わかった」

 納得したかはわからないけれど、千広は頷いて先に靴を履いて出て行った。

「話って何?」

 俺は靴を履き替え、藤屋を見ずに歩き出す。藤屋が駆け足で俺に追いついて、隣に並んだ。

「すばる」

 突然俺の名前を呼ぶので、驚いて目を見開いてしまった。今まで呼ばれたことはない。

「名前で呼び合ってるよな。森川と宮尾と」
「……ああ、小学校から一緒だから。なんとなくね」
「いーなー、そういうの。俺、下の名前で呼び合う友達、もういないかも。藍原は俺の下の名前、覚えてる?」

 俺は一瞬言い淀み、藤屋の顔を見ないようにしながら答えた。

「瑛人」

 覚えているに決まっている。その名前を唇にのせた瞬間、胸がちりちりと熱く痛んだ。この気持ちが全然死んでいないと痛感する。

「あ、知っててくれたんだ。嬉しー」

 無邪気に笑ってから、藤屋は視線が合わない俺の目を見ようと覗き込んでくる。

「俺も名前で呼んでいい?」
「え、そんなの、なんか変だろ」
「なんで? 森川たちはよくて俺は駄目?」
「高校生で、今更名前で呼び合うなんてやめておこうよ。恥ずかしいし」

 俺の言葉に藤屋はつまらなそうにふうんとため息をついた。

「俺は別に恥ずかしくないけどなあ」
「……ところで、話って何?」
「話っていうほどじゃないけど、藍原と喋りたかった」

 藤屋はなんの臆面もなくそう言う。狼狽して、平静を保つのに苦労するのは俺の方だ。

「一年の頃みたいな普通の話。ああいうの、藍原としたかったんだよ」
「……藤屋は友達がたくさんいるだろ」
「でも、藍原はひとりじゃん。なんか、クラス離れてから全然喋れてないしさー」

 当たり前だ。こちらは会話の機会を減らそうと苦心しているのだから。
 それを寂しいと言われると、また勘違いしそうになる。
 駄目だ、期待するな。俺の感じる寂しいと藤屋の感じる寂しいは種類が違うんだ。

「前も言ったけど」

 やはりはっきり言って決別すべきなのだ。藤屋の友情を踏みつけるみたいでつらいけれど、このまま一緒にいられない。

「もう別のクラスだし、構わなくていいよ。俺と藤屋は、もともと仲良くなるタイプじゃないだろ」
「そんなふうに思ってたんだ」

 藤屋がわずかに眉間にしわを寄せた。心外であるといった表情に見えた。

「藍原は、俺のことが好きなんじゃなかったのかよ?」

 無意識のうちに、ぐっと息を詰めていた。
 それを持ち出すのは反則だ。少なくとも、友情という観点で語るのなら。

「もう……終わったことだよ」

 声に感情をのせないように気を付けた。なるべく冷淡に響けばいいと続ける。

「好き、とか、たぶん勘違いだった。もうそんな気持ち悪いこと言わないから安心して」

 言葉の後半をわざと明るくしたのは、このぐちゃぐちゃな感情を笑いでごまかしてしまいたかったからだ。三センチだけ高い位置にある顔を見上げると、そこには明らかに表情をこわばらせた藤屋がいた。

(なんでおまえがそんな顔するんだよ……)

 あの日、振られたのは俺だ。振ったのは藤屋。
 もう終わったことだし、蒸し返すべきじゃない。その暗黙を藤屋が破ったから、俺は答えただけ。
 大噓だけど、堂々と言ってやる。もう藤屋なんか好きじゃない。

「『気持ち悪い』とか、思ったことないから……」

 藤屋は低いかすれ声でつぶやいた。
 俺は開き直ることも、笑うこともできず、藤屋から顔をそむけた。

「忘れ物……したっぽい」

 あるはずもない忘れ物を口にし、俺はひとり踵を返す。

「学校に戻るよ。それじゃあ」

 そうして、藤屋を置き去りに元来た道を走り出した。
 藤屋はずるい。あんな顔を見せられたら、俺の心が切り刻まれそうに痛むなんて思わないのだ。俺の恋がまだ苦しいくらいここにあると知らないのだ。