国道沿いに建つ、薄暗い書店の二階。その一番奥にひっそり構えられたコーナーは、僕のオアシスだ。
「……うん、うん」
僕自身に二度三度頷いた。アルファ様の新刊に、キミダメ作者さんの新刊、ちゃんと入荷しててよかった。その隣に陳列されていた女装男子モノと思われる表紙の漫画にも、つい手を伸ばしてしまう。『もう、おまえにしか見せないっ……!』だって、こんなの絶対いいもんな。いくらあってもいい。帯考える人って本当天才。
階段の踊り場から一階の様子を覗い、人気がないことを確認すれば、忍のようにさささっとレジへ向かう。ここで知り合いに会ったら終わるので、一番気を引き締めなければいけないポイントだ。
「カバーおかけしま」
「け、けっこうです」
カバーなんて冗談じゃない。僕が店員さんに裏表紙のバーコードを差し出すのは、思いやりなんかじゃないのだ。
「ありがとうございました」
そのちっぽけなプライドに気づかない女性の店員さんは、堂々と半裸の男の子が赤面する表紙を表にして僕へ手渡した。慌ててリュックにそれをしまい、涼しい顔を作って自動ドアを抜ける。滑稽だけれど、僕のささやかな意地だ。
多様性の時代、BL漫画を読んでなにがおかしい。少女漫画となんら変わらない。たしかにそう思っているし、できれば声高に堂々と宣言したい気持ちだ。けれど、僕みたいな貧相で地味なうえに、根暗、オタクといった明らかな風貌でそれを言うと、引かれる。イケメンや美女が言えば「かっこいい!」となるところ、僕みたいなのじゃだめだ。革命者にはなれっこない。
長閑な田園風景の広がるこの田舎町で、十七年生きてきた。
色んなことがあったような、なかったような、どこにでもある平凡な人生を歩む中で、ある日突然、自分は男の人が好きだと気づいてしまった。
それはおかしいことじゃないらしいけれど、この町ではやっぱりおかしいのだと思う。
この町から逃げたい――ただそれだけの理由で、僕は東京の大学へ進学するため日夜勉強に励む日々を送っている。そんな空虚な毎日を彩ってくれるBL漫画は、僕の宝物で心の拠り所なんだ。
ほくほくとした気持ちで田んぼ道を自転車で走り抜ける。耳に流れるのは流行りのポップスなんかじゃなくて、蛙の鳴き声。それでいい。それがいい。きっと都会に蛙はいないだろうし。
「ただいまぁ」
と部屋の中へ声をかけた瞬間、綺麗に揃えられたローファーが目に入る。丁寧に手入れされ黒光りしているそれ。僕の小汚いスニーカーよりずっと大きい。……男だ。
双子の妹の泉はこの田舎町のアイドルなので、なにも不思議じゃない。むしろこれまで誰も連れてこなかったことのほうが異常だ。とうとうやってきたこの日を、どこか覚悟していたはずなのに、そこから先へ足が進んでくれない。玄関先で立ち尽くす僕の元へ、泉がやってきてしまった。
「おにぃ! おかえり、待ってたんだよ」
「ま、待ってなくていいよ、お客さんいるんでしょ」
「そうなの、紹介するね」
いいよしなくて。僕の心の声は、当然届かない。
「クラスメイトの、小湊くん」
居間のほうから出てきたその男の子は、襖の枠に頭をぶつけそうになって、ややかがんだ。背たっか……父さんより高いな。
「小湊です、お邪魔してます」
ぱっと向けられた顔から、咄嗟に目を逸らしてしまった。よく見なくてもわかる。この子、イケメンだ。雰囲気が、オーラが、アルファだもん。
「……あっ、ハイ」
語彙力の溶けた僕を、泉が咎めた。そりゃそうだ。自己紹介をハイで流していいわけがない。
「ご、ごめんね、ちょっとびっくり……えっと、泉の兄の美園岳です」
渋々小湊くんのほうへ目を向ける。……ま、まばゆい……。ちょっと引くくらい綺麗な子だ。瞳の色が僕なんかとは違う。ハーフとか、クォーターとか? 確実に黒ではなく、かといって茶ともグレーとも言い難い複雑な色をしている。
背が高くて、顔が綺麗で、姿勢も美しく、泉のクラスメイトとなれば県央の進学校の特進クラスというわけだ。
眉目秀麗、成績優秀、きっと運動神経抜群。僕には縁のない言葉たちがぽんぽん頭に浮かんでくる。
そんな小湊くんは、まだじっと僕を見ている。イケメンってよくこれやるよなぁ……。まるで値踏みされているようで、ちょっと苦手だ。
「えーっと……?」
かろうじで声になった戸惑いは、泉がすくい上げてくれた。
「あのー、ほら、小湊くん! ね!」
「あっ、ハイ。えっと……あのー……」
なんだなんだ? 二人で目配せしあって、僕がいたたまれないからやめてほしい。もう一回外へ出ていようかなと、口を開こうとしたときだ。小湊くんが泉の後ろから一歩前へ、僕に近づいた。
「がっ岳さん」
「は、はい?」
「あの……ずっと見てました」
「………ん?」
な、なにを? 背中にじんわり嫌な汗をかいていた。だってオーラがすごいんだもの、さすが天下のアルファ様。
「岳さんのこと、ずっと」
「……ぼ、僕? えっと……?」
なにか悪いことでもしたっけ、と自分の胸に問いかける。たしかに幼馴染のスバくんはやんちゃで、彼といるときはちょっと悪いこともしてきた。たとえば自転車の二人乗りとか。でも万引きとかタバコとか、そんなのはしてない。心当たりはないけれど、ずっと見てただなんて見張ってたってことだろう? 僕一体なにを……
「岳さんに一目惚れしたんです。本屋で」
「…………な、なんて? 一目惚れ? 誰が? 誰に?」
「ちょっとおにぃ! 話ちゃんと聞いてた!?」
泉に叱られたけれど、間違いなく僕は話を聞いていました。
ずっと見ていました、一目惚れしました、本屋で……本屋で?
「本屋で!?」
「そうです。岳さんが買って行ったタイトルも全部メモしてあります」
「メモ!?」
「とろけるオメガにオトされた僕、スパダリ彼氏の夜が長い!、アルファ様の調教指導……」
「わぁーっ!? なっなっなにを言ってるの!?!? 小湊くん!?!?」
僕はそのとき、はじめて見た。
歯を見せて笑った小湊くんを―― って、そんなことじゃない!
どうして彼が、僕の愛読書を把握しているんだ……っ!
驚きのあまり膝の力が抜け、僕は尻もちをつき、その尻は母さんが置きっぱなしにしていたバケツに見事すっぽり収まって、そのままぐるんと世界が回った。
「ちょっ!? おにぃ大丈夫!?」
ごめんね泉……ださくて腐った兄で本当にごめん……!
妹の彼氏の小湊くんに、腐男子バレしていたことが発覚してから数日後のこと。
さすがに地元の本屋には行く気になれず、バスで県央のショッピングモールまで出る羽目になった。オメオト作者さんの新刊は、連載当初からずっと楽しみにしてきたのだ。描き下ろしだって特大の期待を寄せている。今日買わないわけにはいかない。バスの往復運賃というやや余計な出費がかかってしまうけれど、それはもう致し方ないことだ。
「あれ岳じゃん。どうしたの、こんな時間にめずらし~」
「わっ、スバくんっ!」
「おつかれ~」
気の抜けた喋り方、そこにわずかに滲む威圧感、相変わらずでやっぱりちょっとかっこいい。練習終わりなのか、さわやかなシトラス系の香りがする。
近所に住んでいる一つ上の幼馴染のスバくんは、僕の初恋の人だ。スバくんは僕の手元のBL漫画をじっと覗き込み、「過激なの読んでるなぁ」と何食わぬ顔で頭を撫でてくれる。とっても心の広い人でもある。
「ちっちがっ……これはストーリーが緻密に作られていて、この幼馴染が実はオメガで……」
「はいはい、わかったわかった。この子がウケでこの子がネコ、うんうん、わかるわかる~」
「全然違うってば! 受けとネコって同じ意味だし!」
僕がどんなに気持ち悪くなっても、スバくんはいつだってそれを、けたけた笑い飛ばしてくれる。そんなの大したことじゃねーじゃん、ってスバくんの口癖をそのまんま映した笑い方が、大好きだった。
「で? 今日は勉強してないんだ?」
本屋からの帰り道、自転車通学のスバくんが、後ろの荷台に僕を乗せてくれた。本当はだめだけど、スバくんとなら悪いこともできちゃう。本当はだめだけれどね。
「今日は新刊の発売日だったし……それにこの間、泉が彼氏連れてきたんだよ。だからちょっと家に帰りにくい」
「えっ!? いっちゃんついに彼氏できたの!?」
「うん、そうみたい。すっごく綺麗な男の子だった。しかもね、同じクラスだっていうから頭もいいんだよきっと。泉と並ぶと少女漫画の世界みたいだった」
つらつらと出てくる感想を、スバくんは時折相槌を挟みながら、おもしろそうに聞いてくれる。僕みたいな話下手にも、話そうという意欲を与えてくれる。スバくんってやっぱりすごい。
「まぁ、いっちゃんにこれまで彼氏がいなかったことのほうが変だよなぁ。このへんじゃ韓ドルよりいっちゃんのほうがよっぽどアイドルじゃん」
実の妹に対する返事としてはやや気持ち悪いかもしれないけれど、僕は「そうだよね」と頷いた。
でもこれに対して僕のことを気持ち悪いとかシスコンという地元民は、たぶんいないと思う。本当に大袈裟じゃなく、泉はこの田舎町のアイドルだ。二卵性双生児といって、僕と泉は双子だけど顔が全然似ていない。性格もだ。それから頭の出来も、運動神経も、悲しくなるくらい似ていない。
「岳、掴まっとけよ。ウンコロード入るぞ」
「はぁい」
野生動物のフンが落ちていることが多い道、いわゆるウンコロードでは蛇行運転になるので、落ちないように掴まってろ、とスバくんが忠告してくれた。もう数えきれないほど二人乗りをしてきたけれど、初めてした日から今日まで、毎回かかさず言ってくれるんだ。
スバくんの大きな背中に合法的に抱きつけるから、僕はいつも野生動物たちに大感謝していた。
「岳はどうなの、最近」
「自分の脳みそが足りなすぎて泣きたくなるけど、まあなんとか」
「相変わらず息するようにネガるね~! 俺、岳のそういうとこおもしろくて好きよ」
「……ほめてんのか、けなされてんのか、わかんない。僕の脳みそじゃ処理できません」
「あっははは! 卑屈ぅ~!!」
下り坂で思い切りペダルを踏み込んだスバくんは、パリピみたいにテンションアゲアゲで僕をなじった。おかしくって、僕も思わず声を出して笑ってしまった。
「岳は笑っとけ、そのほうがかわいいぞ」
スバくんはすごくずるい。
僕がスバくんを好きだったこと知ってるくせに、簡単にこんなこと言って僕の心をひねりつぶす。
スバくんはいつまでも僕を逃がしてくれない。
だから早く、ここから逃げたいんだ。
夏休みに入る少し前、テストも終わって一息ついていたある日のこと。
汗だくでようやくたどり着いた我が家の門扉の前に、凛とした青年が立っていた。
そこにだけ冷風でも吹いているのか、汗とか湿気とか、じめっとしたそういうものとは無縁の爽やかオーラが漂っている。
「岳さん、こんちはっす」
やっぱり、小湊くんだ。
彼がこんちはと言ったので、僕もそれにこんにちはと返したが、それで、えっと……? という謎の沈黙が流れている。
それなのに彼のガラス玉みたいな瞳は、じっと僕を捉えたままだ。ぱちりとまばたきさえ見せない。
いったいどうしてイケメンという人種は、この無言に耐えられるのだろう。僕は今すぐ逃げ出したい衝動に駆られてるっていうのに。こんなに必死に次の言葉を探していること、きっと小湊くんにはわからないんだろうなぁ。
「えっとー……泉は……」
「今日部活っす」
聞いておいて、ええ知っていますと、口を突いて出そうになった。
泉は吹奏楽部でトロンボーンを吹いている。夏のコンクールに向けて本腰を入れて練習することになるから、夜も遅くなると母親に迎えを頼んでいた。なので、知っています。
僕が聞きたいのはつまり、泉はいないのになぜ君がここに立っているんですか、ということだ。
イケメンで頭脳明晰なはずなのに、行間を読むのは苦手なのだろうか。
「そうだよね、練習忙しくなるって言ってたけど……ええっと……」
「あの、俺……」
凛とした佇まいが、ほんの少し揺らいだ。背の高い彼の顔がみるみる眼前に迫って、ごくりと生唾をのんだ次の瞬間、彼は地面にしゃがみこんでしまった。
「えっ!?」
見下ろした彼のうなじは、長めの襟足からほんの少し見えるだけでもわかるほど、真っ赤に染まっている。
「こ、小湊くん、大丈夫? 熱あるの?」
僕もしゃがみこんで目線を合わせると、目も虚ろで、肩で息をしていた。
自分の背中がじりりと焼け付くように熱をもって、ようやく気がつく。
「熱中症……!?」
ああまったく、僕は本当に察しが悪い。いくら爽やかそよそよ涼しげにみえたって、小湊くんだって人間だ。いくら人形のように綺麗な顔をしていたって、生身の人間なのだ。
いつから立っていたのか知らないが、この炎天下のなか日よけもなにもない場所で突っ立っていたら、誰だってそうなる。もっと早くに気づいてあげなきゃいけなかった。
「小湊くん、これ飲めるかな……」
父さんのランニング用にストックしてあったスポーツ飲料を一本頂戴し、小湊くんの熱い手に持たせた。弱々しく頷いた彼がごくりと喉を鳴らしたので、僕は次だと慌てて部屋の冷房を十八度に設定し、冷凍庫からありったけの保冷剤を引っ張り出してきた。
「岳さん、ごめ……」
「いーから、いーから、とにかく冷やそうね。えっと……脇とひざの裏とももの間に挟むといいみたい。できそう?」
ソファーでぐたっとしている彼のおでこに冷却シートを張ろうとすると、ぴくっと肩が震えたのがわかって、間一髪我に返る。
危ない、僕ってばなんておこがましいことをしようと……!
「ごっごめんね! これ、貼るときっとラクになるから、鏡持ってこようか……」
「……いい」
「へ」
「……貼ってもらえませんか」
潤んだ瞳にせがまれて、自分でやってくださいだなんて言える度胸も根性もない。というかそんな立場にすらない。アルファ様がやれと言うなら、従うしかないのだ。
僕はおそるおそる彼の綺麗な肌に触れ、剥きたてのゆで卵みたいにつるんとしたおでこに、シートを貼った。
……まいったな。小湊くんの熱が、きっと伝染してる。僕も冷却シートを身体中に貼りたいくらいだ。余った保冷剤、ほっぺにくっつけて誤魔化しとこ……。
「……やっぱ優しいな岳さん」
うわ言なんか言っちゃって、なんだかちょっとかわいく見えてきて困る。
「……いつからうちの前にいたの?」
「えー……二時間くらい……かなぁ」
二時間って、この子、本当に泉が好きなんだなぁ。僕が帰ってこなかったら、泉の部活が終わるまで待ってるつもりだったのか?
そんなに誰かに愛されるって、いったいどんな気持ちなんだろう。僕には永遠に縁のない話だから、今度泉に聞かせてもらおうかな……いやか、兄にそんな話するのは。
そうしているうちに、だんだん小湊くんの表情に、生気が戻ってきていた。
「どうだろ、ちょっとは気分マシになってきた?」
「ハイ、ほんとにすみません、勝手に待ち伏せしといて俺……」
「えっ、待ち伏せだったの?」
待ち伏せってことは喧嘩でもしたんだろうか。
はだけたシャツから漏れ出る色気にあてられそうになって、僕は慌てて彼から少し距離を取った。
「……俺、岳さんと話したくて。この前誤解させちゃった気がしたんで」
なのに、ソファーから起き上がった小湊くんは、僕の隣にぴったり並んで座る。また、じっと僕を見てくるんだ。たまらず視線を逸らしてしまった。
僕と話がしたいだなんて、そんな真剣な顔で言われたらちょっとこわい。ひょっとして僕のこの間の態度が、歓迎していないふうに見えてしまったのかもしれない。あれはただただ、腐男子バレして字のままひっくりかえったのが恥ずかしかっただけなんだけど……。
「あの、ごめんね。そんなに気にさせてると思ってなくて……あんまり人に言ってないことだったから、まさか妹の彼氏にバレてるなんてさ、」
「やっぱりな。付き合ってないです。美園さんとは付き合ってませんよ」
――え?
小湊くんの大きな手は、さっきほど熱くはなかった。ほっこりする、心地よいあたたかさだ。
で、その手は今、僕の手首を掴んでいるわけだけれど。
「ん……? え、なんて……?」
知らない彼の体温は、僕の思考回路を狂わすのに十分すぎた。今自分がなんて言ってるか、正直よくわかっていない。どんな顔を取り繕うべきかもわからなくて、前髪のカーテンをゆらゆら揺らし、とにかくなにかから隠れたくなった。
「岳さんに会いたくて、美園さんに紹介してくれって頼んだんです」
「……アイタクテ……」
「ていうかこの間も言いましたよね。一目惚れしたって」
「ヒトメボレ……」
紡がれる言葉を反芻しても、やっぱりわからない。一目惚れとはつまり、一目見て、惚れたということだ。
小湊くんが……僕に? ありえない。ないないない。
「どうしても忘れられなくて、もっと知りたくて、それなのに東京の大学行くって言うから……それで美園さんに頼みました。卑怯な手使ってすみませんでした」
宙をさまよう視線が、とうとう交わってしまった。その妙に熱っぽい瞳から逃げられず、背中がじわじわ熱くなっていく。
熱に絆され、ああかまわないよ、なんて二つ返事で真に受けそうになって、慌ててその安易な思考をなぎはらう。危ない危ない。そんなラブコメ展開、ド平凡ベータの僕の身に起こるわけがないんだ。ご都合展開がすぎる。なにかの間違いに決まってる。
僕がそうして脳内会議している間にも、小湊くんは、僕の手首を確かめるように撫でたり、かと思えば強く握ったり、やりたい放題である。僕の心臓は弄ばれっぱなしだ。
「ど、どうして僕なんか……人違いじゃない?」
言葉にして、納得した。そうだ、人違いだこれ。僕みたいなオタク、結構いるし。というか僕って言っても前髪のカーテンでほぼ顔なんて見えないはずなんだ、僕である確証なんてどこにも……
「だから、この間の漫画のタイトル、心当たりありますよね?」
「……あ、ハイ」
「ね、俺の好きな人が買って行った漫画なので、人違いじゃありませーん」
ありませーんじゃない。かわいこぶったってダメだ。一体どこでその情報入手したっていうんだ? 本屋では必ず周囲を警戒しているし、一語一句違わず漫画のタイトルを把握しているなんて、相当ヤバい。僕がBL好きだということを知っているのは、スバくんと泉の二人だけだ。けれどその二人が吹聴したとも考えにくい。だってさすがに、購入した漫画のタイトルまでは知らないはずだし……。
隣で踏ん反り返る小湊くんを、不気味だという意味を込めて見つめると、彼はにこりと微笑む。
「腐男子、っていうんですよね。岳さんは男が好きなんですか?」
「べっべつに、ちがっ……物語として、おもしろいだけだよ」
「……調教指導が……? なるほど、そういう性癖なんです……」
「ちがうっ!! それは君がたまたま把握してるのがそういう……過激なタイトルのものってだけで、BLは尊いんだよ。アルファ様の調教指導だってストーリーはすごく切ないんだ。僕はそういう泣ける系が特に好きで、別に性癖ってわけじゃ……」
――しまった、しゃべりすぎ……
はっと口をつぐんだ僕に、小湊くんはまるで聖母のような慈悲深い微笑みを投げかけてくる。
「うん? それで? 泣ける系を読んで、岳さんは泣くの? ていうかどの立場で読むのそれ」
ふわりと優しく、僕の髪の毛に指を通してくる小湊くん。僕の髪の毛なんか触ったところで、なんの面白みもないだろうに。いったいなにがどうなってその行動にでるのか、僕にはちっとも理解できない。ただとにかく、このほの甘い空気をどうにかしたい。変な汗がとまらない。
「お、幼馴染ものがね、特にいいんだよ。少女漫画では幼馴染って大体当て馬だけど、BLでは正規ルートなことが多いから……」
って、また余計なこと言ってしまった……。なのに、どんどんおかしくなっていく僕を小湊くんはちっとも笑い飛ばさないんだ。
「ふ~ん、俺少女漫画も読まないしわかんないなぁ。岳さんのおすすめ貸してよ」
「やっ、やだよ! ぜったいやだ!!」
「あーわかった、やっぱりエロいのしか持ってないんだ~」
よーしわかった、とまんまと手のひらで転がされてしまった僕は、幾度となく読み返した健全BLを三冊、小湊くんに貸してしまった。
「なにしてんだ僕は……っ!」
ご迷惑おかけしました、と足取り軽そうに帰っていく小湊くんの後ろ姿に後悔を募らせたって、もう遅い。彼の手に渡ってしまったのだ、僕の宝物たちが。
僕が腐男子だと言いふらされるのはともかく、泉にまた迷惑をかけてしまうかもしれない。そんなことが起きてからでは遅いと、部活から帰ってきた泉に慌てて報告すると、「小湊くんは大丈夫に決まってるじゃん」と鼻で笑われた。
夏休み三日目の朝。今日はスバくんたちと話題の映画を観に行くことになっている。
「泉は本当に行かないの? みんな泉目当てで僕を誘ったんだろうに……」
「そんなことないでしょ、それにスバくんたちうるさくて嫌いなんだもん」
「そんなはっきりと……」
歯に衣着せぬ物言いは、父さんに似ている。
僕にいつも「岳には期待してないんだから、好きなようにやれよ!」と白い歯を見せて言うところとか、気にしいな僕はがっくしくるところだけれど、それを隣で聞いている泉は、尊重されていて羨ましいと思っていたらしいから。
まっすぐに言葉のキャッチボールをできるのは、すごく生きやすそうだ。僕はてんでだめ。いつだって裏読みしてしまって、母さんに「気にし過ぎなのよ」と半ば呆れ顔でなぐさめられるまでが、美園家のデフォルトだ。
泉は行かないというので仕方なく一人で準備をして、スバくんのうちへ向かった。
「おっはよー! いやぁ今日もセミがうるせぇ」
「おはよう。 本当、今年は特にすごいね」
「なー」
今日は県央のさらに市街地まで出なければいけないので、いつものマイチャリではなくバスで行く。乗り慣れないバスに浮ついた心持ちでいると、スバくんには「小学生みたい」と馬鹿にされた。
見渡す限り、田んぼ、田んぼ、山山山、田んぼ、川、というこの町ですらこれだと、大都会東京へ出たら一体僕はどうなってしまうのだろうか。不安がないと言えば大嘘になる。
流れていく田園風景をぼんやり眺めているうちに、バスが目的地に到着し、待ち合わせていた面々と合流した。狭い田舎町なので、僕のクラスメイトとスバくんの友達が友達とか、そういう繋がりでたまに遊ぶ面々だ。
「あれ、やっぱり泉ちゃんはいないかぁ。しょぼーん」
「ご、ごめ……」
「きっもぉ、いっちゃんに手出そうなんてトイレで鏡見てこいやぁ」
「あぁ!? ちょっとモテるからって調子のんな、東京行けばお前だって芋だぞ芋!」
「俺が芋なら、お前はぁ……にんにく?」
どっとその場が沸いたけれど、僕は空気になりたかった。
やっぱり泉目当てだったよねという虚無感と、それを庇ってくれたとわかるスバくんの優しさがイタイ。自分がいたたまれなくて、背中が丸まっていくのがわかる。
大ヒット映画の内容は、あんまり覚えていない。ただ冒頭では死んだ魚の目をしていた女の子が、エンドロール直前には幸せそうに笑っていたから、きっといい映画だったんだと思う。
それから僕たちは近くのファミレスでランチすることになった。
僕の住んでいる近所にはファミレスなんてないから、すごく貴重な体験。つまり注文のシステムがさっぱりわからない。
「スバくん、これが食べたいんだけど……どこに載ってるのかな」
「ん? ああこれ、番号を打ち込めばいいんだよ」
「なるほど」
慣れた手つきでタブレットを操作するスバくん。近所に住んでるはずなのに、やっぱりスバくんはすごい。デートでファミレスよく来るのかな。
「スバルと岳って幼馴染なんだっけ」
さっきスバくんに「にんにく」と言われたツッチーが、僕たちを訝しげに見つめてくる。
「そうだよ。ツッチーとウエも幼馴染なんでしょ」
ウエくんは目を細めて「消したい過去」だなんてふざけてた。この二人はとっても息の合う王道ケンカップルってかんじで、僕はひそかに推している。
そのツッチーが、氷をがりがり噛み砕きながら言った。
「俺らじゃ考えられないキョリ感だよな~お前ら」
ああ……これはまずいかもしれない。いつものパターンだ。
嫌な感じがして、僕がまた空気か透明人間になりたくなったところで、話の方向性が変わるわけじゃない。だって僕はその話の舵を切ることさえできないのだから。
「そりゃそうだろ、岳は俺のこと大好きなんだから」
スバくんに、なっ、と兄弟のように肩を組まれても、僕はやっぱり「うん」としか言えなかった。
僕がもっと上手に、嘘っぽくできれば、きっとこの変な空気にはならないんだ。スバくんは何度も僕にチャンスをくれるけれど、僕は一度だってスバくんへの気持ちをうまく誤魔化せたことがない。
「へ、へえ~? それはどこまで本気……」
ツッチーのそれ以上の追及は、ウエくんが止めてくれた。
僕はただ目の前にあるグラスの中のオレンジジュースを、くるくるストローでかき回しているだけ。ずっとそう。僕はスバくんへの気持ちを、真剣にも、笑いごとにもできない。ずっとこうして、混ぜているだけ。
「だけど岳も大学は東京行くって言うし、そしたら俺のことなんて忘れちゃうんだろうなぁ~」
スバくんに顔を覗き込まれると、心臓がぎくりと逸る。
「岳、東京の大学行くの!? えーっめっちゃうらやましい!」
ツッチーがうらやましがるほど、輝かしい夢や希望があるわけじゃない。僕はただここから、この人から逃れたいだけだ。
「受かれば、だけど……」
「東京いいなぁ。てか一人暮らしがまずうらやまだわ」
「女の子連れ込み放題じゃん!」
「でも泉ちゃんに見慣れてたら、女の好みえぐそうではある」
「いやいや、岳はそっちじゃないもんな?」
その一言に、しんっと静まり返るテーブル。空気がとてつもなく重い。
――どうして、そんなことスバくんが言うんだよ。
その僕の気持ちは、やっぱり声にならなかった。できなかった。
笑って誤魔化したい。楽しい夏休みのひと時にしたい。泉がいないのに僕を誘ってくれたツッチーとウエくんに、変な空気を押し付けたくない。
けれど僕はいつもと同じように、なにもできない。惨めな恩知らずで消えたくなる。
「おひやおもちしましたぁ」
ガツン、という強烈な音をたて、目の前に水の入ったグラスが置かれた。びくっと震えたのは、きっと僕だけじゃなかったと思う。ツッチーも声にならない声をあげたのがわかったから。
「お冷もうありま……」
店員さんへそう告げようと、顔をあげたんだ。
薄ら氷のようにぴしっと張りつめた瞳に憎悪が滲んで見えるのは、きっと僕らがうるさかったからだ。店の迷惑ですという意思表示に他ならない。まさか守ってくれただなんて、おこがましい期待をしちゃだめだ。
「……こみなと、くん……」
なのにどうして、僕の声は震えてしまったんだろう。喉元が焼けそうにひりひりする。
バス停前で、スバくんたちとは別れた。
僕はそのベンチで、バスではなく人を待っている。
「岳さん、すんません。暑かったでしょ」
小湊くんこそ、暑い中小走りできてくれたじゃん。たまらず僕は、さっき買ったばかりの麦茶を彼に渡した。
「えっいいですよ、岳さんのでしょ?」
「……ううん、いい。また熱中症になられても困るし」
僕ってやつは、かわいくないな。ツンデレが許されるのはかわいい子だけだと、BLで散々履修しているっていうのに。
「ふふっ……じゃあ、いただきます」
けれど小湊くんには、この微妙な気持ちまでまるっとお見通しな気がする。余裕たっぷりの笑みで言われたら、逆にこっちが恥ずかしくなるじゃん……。
小湊くんは、僕らが会計を済ませたところで、わざわざレジに顔を出してくれた。あと三十分でバイトが終わるから、待っててほしいと呼び止めてくれたのだ。
スバくんのアレはいつものことだし、ツッチーとウエくんも、小湊くんのおひや騒動ですっかり忘れたような空気にしてくれていた。だけど僕はもう、きつかった。小湊くんに間違いなく救われてしまった。
「あの、さっきさ……ありがとうね」
「んー? なにが?」
「えっと、いや、いいや。とにかく僕は救われたので、ありがとう、で……」
一番日差しが強い時間帯に差し掛かり、さすがに日よけの下でも耐えられない暑さになってきていた。田舎へ帰るバスは本数が少ないので、さっき見送った次は一時間後。これ以上、労働終わりの彼を付き合わせるわけにはいかない。お礼も言えたし、と僕がベンチを立とうとしたときだ。
小湊くんの大きな手に手首を掴まれ、簡単に引き戻される。
「どこ行くの」
「ど、どこって、僕はどこも行きませんけど……」
「じゃあなんで立ったの?」
「だって暑いでしょ、そろそろ小湊くんをお見送りしようと」
「えーやだ。俺まだ帰りませんよ」
やだ、って? えっと……なに? それは三十度越えの暑さのなか、僕とこのベンチに座っていたいということでしょうか? そんなことあるわけない、もしや小湊くん、もうすでに熱中症の予兆が出ているとか? 意識が混濁するとかって聞くし、そういうのじゃ……
「ちがうわ、俺はまだ岳さんと話したいの」
「ち、ちがうんだぁ……」
僕のほうがくらくらしてくるよ……。この子、いったいなんなんだ? ひょっとしてスバくんみたいに、僕をおちょくって楽しんでる?
「ほら、この前借りた漫画の感想もお伝えしたいし」
「えっ本当に読んだの?」
「そりゃ読むでしょう。好きな子に借りたんだから。俺は泣きはしなかったけど」
「そ、そっか、なんかそれはごめ……」
「でも岳さんはきっとここのシーンで泣いたんだろうなって思いながら読んだら楽しかったよ」
………それは、ナイ。くしゃっとした五歳児みたいな笑顔に、小湊くんは大丈夫、と前に泉に鼻で笑われたことを思い出した。
今なら僕もそう思う。この子は、そういう子じゃない。
「そうだ。俺んち来ませんか? 漫画返すし」
そうは思っているけれど、漫画を人質にとるのは、ちょっとずるいんじゃないか?
小湊くんのお宅は、駅から徒歩十分ほどの閑静な住宅街に建っていた。
僕んちみたいな昔ながらの瓦屋根じゃなくて、四角いお家だ。おしゃれだし頑丈そうでうらやましい。
「お、お邪魔します」
「大丈夫ですよ、この時間は誰もいませんから」
「あっ……ソウデスカ」
漫画という人質に甘んじてここまでついて来てしまったが、これで本当によかったのだろうか。
せめて自分の恋愛対象は男だと言ってからでないと、なんだか卑怯な気がする。彼は僕を、男友達の一人としてここへ招いてくれたのかもしれないのに。
「あの、ごめん。小湊くん。家に上がる前に言っておかないといけないことがあって」
「なんですか? あ、水虫とか?」
「ちっがうよ!!」
「えー、じゃあなに?」
くだけた表情の彼が、僕の独白を聞いたらどんな顔になるのだろうか。引きつった笑みも、無理に明るく振る舞ってくれる様子も、なんとなく想像できてしまってつらい。
「……僕は、あの、男の人が恋愛対象なんです」
スバくんにしか言ったことのない、僕の本当のこと。
ついさっきのスバくんの笑い声が、頭のなかに響いて痛くなる。立っているのがやっとなくらい、目の前がぐらぐらしている。
「えー……? 知って、ます」
「……へ?」
「見てればわかります」
「見てればって、僕、そんなにわかりやすく小湊くんに接しちゃってたかな……ごめんね、きもちわ、」
「なにいってんの」
強く腕を引かれ、とうとう僕は小湊家へ足を踏み入れてしまった。体幹激よわな自分を呪いたい。
「気持ち悪いとか、言わないでよ。俺は岳さんが好きなのに」
「……す……?」
す、き。
すき。
心の中で、何度も繰り返してみる。
「すき……?」
口に出した途端、どっと心臓が壊れそうなほど暴れ出した。
思わず口からコンニチハしちゃいそうで、慌てて両手で口を塞ぐ。絶対ないと思うけど、あったらどうしようと不安になるくらいには、今僕の心臓は持ち主の言うことを聞いてくれていない。
「まだわかってくれないの」
中学の頃の家庭教師の先生にも言われたな。「何度言えばわかってくれるの」って。そういえばさっきも「好きな子から借りた」とか言ってた気がする。僕の頭って本当に回路がめちゃくちゃに作られてるんだよなぁ……。
「でもそんなの、ありえない……」
その頭で考えたってわかる。僕が誰かに一方的な好意を抱かれることなんて、あるわけがない。まして相手はこの小湊くんだ。
彼は呆れたようなため息を一つ吐いて、僕を部屋の中へと引っ張っていく。
すでに冷房のついていた小湊くんの部屋は、火照った体によく効く。熱が冷めてやっと少し冷静になれそうだ。
「タイマーつけてバイト行くんだ。こんなことしてるから暑さに弱くなるのかもね」
がらがらと勉強机の椅子を引いて持ってきてくれた小湊くんは、それに僕を座らせてくれる。対して彼は、その僕の前にあぐらをかいて座った。
もうお願いだから、これ以上は勘弁してほしい。そんなに僕を大切に扱わないでくれと、慌てて椅子から立ち上がろうとしたんだ。
「っわ!」
「いっ……た、いけど……まいっか?」
「よよよよくないっ! ごめんねすぐ退くから!」
ちょうど椅子のローラー部分に足の指を巻き込まれてしまい、僕はバランスを崩して綺麗に小湊くんの膝の上にのっかってしまった。最低最低最低。僕って本当にもう……本当にもうしか言えない。
「どかしてよぉ……」
精一杯情けない声で懇願してみても、小湊くんは動じない。それどころか腰のあたりを掴んで、絶対離さないぞという気概すら感じる。
「ちょうどいいよ、これなら岳さんも言い逃れできない。俺の気持ち、ちゃんとわかってもらえる」
「こ、こわぁ……」
天下のアルファ様になんてことを、と後悔する気持ちよりも、とにかく腰の手を早く離してほしいという切望のほうがずっとずっと大きい。
小湊くんにとっては日常的スキンシップでも、僕の人生ではありえないことなのに。小湊くんはしらんぷりして、澄んだ瞳に哀れな僕を映す。顔を綻ばせて、憐れな僕を見つめてる。
……もう、心臓つらい……。
「俺ね、勤労学生なの。今日のファミレスと本屋でバイトしてる。M高の近くの本屋、よく来るよね?」
「ああ、うん……あっ!? だから知ってるの!?」
「ピンポーン」
待って、ちょっと、そんなのはどうかと思う。はにかんだ顔してもゼッタイダメ。お客様の趣味嗜好をスマホにメモるなんて言語道断だろ?
「もちろん、そんなの岳さんにだけだよ。当たり前じゃん、他の人はただのお客さんだもん」
「もん、じゃないんだよぉ……!」
「……俺と岳さん、本屋じゃないところでも会ったことあるんだよ」
「え?」
「まあ、それはいっか。きもがられるし」
「えっなに? どこで?」
「とにかくまぁそれで、俺は岳さんを知ってたから。レジにえぐい表紙の漫画持ってきたとき、びっくりしちゃった。男いけるのかって」
「いやいやいや……腐男子っていっても普通に女の子が好きな人のほうが多いと思うよ……?」
僕は偶然そうだっただけで、SNSで繋がっている同志たちも、彼女がいたり結婚している人のほうが断然多い。けれど世間的にはやっぱりそう見えているってことなんだな。
「え、そうなの? そっか……でも岳さんは男が恋愛対象なんだもんね、じゃあセーフだ」
「セーフって、小湊くん、本当にどうかしちゃってるよ。僕みたいなのが君みたいな、例えるならアルファの君がさ」
「アルファ……? ああ、調教のやつか。それはなに、SとかMとは違う属性なの?」
「……ううん、ごめんなんでもないんだ、こっちの話です……」
ついうっかり、いらないことを喋ってしまう。小湊くんといると、僕は僕らしくいられなくなる。
「とろけそうな顔するんだよ岳さん。本屋で漫画を手にするときも、俺にその話してくれるときも」
慈悲深い小湊くんの手が、僕の頭に触れる。まるですごく大事だよって言われてるみたいな優しい触れ方、やめてほしい。
だって僕はそんな価値のある人間でもないし、小湊くんの特殊性癖の琴線に触れたのかもしれないけれど、要するに僕が「ムフッ」とか「グフッ」ってしてるその顔のことだろう?
どう考えても恥ずかしいし、普通にキモいって言ってくれたほうがむしろ安心するまである……。
「あの顔好き。俺にも向けて欲しい」
「な、なに言って……」
「俺も岳さんの好きなものになりたい」
「ちょっ、と、こみなとくん」
「その声もかわいくて好き」
「なっ……なっ!? ちょっともう無理! 限界、くるしい、ギブです、降参降参! 」
「え、なに? 力強い?」
怒涛の攻めに、いよいよ僕は怒りを覚えた。ずるい。経験値が違うんだ。もう少し手加減してほしい。好き好き好き好き、僕には刺激が強すぎる。
どうにか解放された腕から抜け出そうと試みるが、それもあっという間に掴まってしまった。「どこいくの」ってまた言われて、今度は背中に小湊くんの鼓動が響く。
……忙しない心臓、ひょっとして僕だけじゃない……?
「……その……僕はこういうの慣れてないから、あんまり心臓に耐性がない……んです」
自分よりずっと大きな身体に包まれたら、ぽろりと本音を白状してた。顔が見えないこの体勢もちょっと災いしてるかもしれない。
「あぁー……そう……なるほど、俺のこと殺そうとしてんだ、岳さん」
「はあ!? なに馬鹿なこと言って……ん……の」
ついうっかり、小湊くんの腕に抱かれたまま、後ろを振り向いてしまったんだ。すぐそこに顔があること、わかってたのに。
だって変なこと言うから。まるで僕の一言で自分がだめになるみたいな、そんな言い方をするから。
イケメンは、視線一つで人の不安を煽ってくる。じっと見つめられるのは、値踏みされているようで苦手だ。
けれどこの瞬間は、小湊くんの迫るような熱い瞳だけが、信じられるものに思えた。
「ふざけてないよ」
この子、本当に僕なんかのことが好きなんだ……。
夏休みが、あと一週間で終わる。
僕はあの日から何事にもまったく集中できない、体たらくな日々を過ごしてしまっていた。貴重な高二の夏休みをどぶに捨てたと言っても過言じゃない。
「おにぃ、小湊くんから電話」
「あーはい……えっ!?」
「なんで連絡先交換してないのよ、こんなのバレたら、あたしクラス中からハブられちゃうんだけど」
すごく迷惑そうな顔で、泉がスマホを貸してくれた。ところが、ごめんね、と一言謝ったかどうか定かではないほど、僕の頭は大騒ぎである。手が震えている。声まで震えたらどうしようと、耳にあてたスマホに話しかけるのを躊躇っていた。
「あの、岳さんですか?」
「……はっ、ハイ」
ああやっぱり。今日も第一声は裏返ってしまった。かっこわるい。
「今日、なにしてますか?」
「えっと、特になにも……家にいる予定でした」
「あの……ちょっと出てこれます? 夜ですけど」
「よ、夜……えっとあの……」
「西町花火大会、あるでしょ。よかったらそれ、一緒に行ってくれませんか?」
ちょうど冷蔵庫にマグネットで貼ってある、西町花火大会のチラシ。隣町まで僕は自転車で行けるけれど、県央に住んでいる小湊くんはひょっとしたら帰れなくなってしまうかもしれない。
「あの、すごく……嬉しいんだけど、帰りバスあんまり本数ないと思うよ。小湊くん帰れなくな……」
「おにぃ、これ見て。今日はバス増発するんだよ。みんなそれで来るの。うじうじしてないで早くスマホ返してよ、あたしだって友達と花火の約束してるんだから!」
「あっ、なに、そうなの……? えっとじゃあ……」
ごくり、と生唾をのんだ。息を整えたかったのに、泉に貧乏ゆすりで急かされて、ままならなかった。
「い、行きましょう」
声にしたらじわじわ実感が沸いてきた。
花火大会、家族かスバくんたちとしか行ったことなかったけれど、今年は違うんだ。
「やった! そしたら迎えに行きます、俺の連絡先、美園さんに聞いといて?」
いくらか声のボリュームが上がっただけだと思う。まさかそれを喜んでくれているとか、浮かれているとか、そんなおこがましいこと、僕みたいなのが推し量っちゃだめだ。
けれど額面通り受け取るなら、僕と花火大会に行けることを「やった」と言ってくれる人と、今年は一緒に花火を見るってことだ。
「……あ、あの、泉~……?」
「ん? ああ小湊くんの連絡先なら、さっき送っておいたよ?」
「それは、うん、ありがとうなんだけど、それじゃなくてさ」
「……あぁ、いいよ。服でしょ、選んであげる。デートだもんね?」
「ちっちがっ! ちがうよ!」
「やだ、おにぃってそんな大きな声出せるんだぁ」
「ちょっと泉! 本当に違うってば!」
まったく似ていない双子の妹は、とても察しがよく、みなまで言わずとも僕の今夜の服を決めてくれた。よく泉に掻っ攫われていく白いTシャツと、勧められるまま買ったけれど一度も袖を通していない水色のサマーベスト。ゆるいデニムのパンツも、泉がプレゼントしてくれたものだ。
「へ、変じゃない?」
「当然。誰がコーディネートしたと思ってるの?」
「泉さまです……」
ははぁと跪きはしなかったけれど、気持ちの上ではそれくらいに頭を垂れていた。
泉の部屋の姿見に映った僕は、いつもよりちょっとおしゃれだ。素材が素材なので馬子にも衣装ってかんじではあるけれど、それでも普段のくたびれたTシャツ姿よりずっといいはずだ。
「楽しんでおいでね。小湊くんのファンの子たちに囲まれないように、気をつけて!」
「かっ囲まれる……!?」
去り際におっかないことを言って、泉は一足先に家を出た。そわそわ、そわそわ、一階と二階を行ったりきたりして、歯を三回も磨いて待機していると、スマホに通知が届く。
靴、汚ったなぁ……。慌てて靴箱にしまってあるもう一足のほうのスニーカーを選んで、僕も玄関を出た。
「おは、こ、こんばんはっ」
ドアの向こう、麗しい小湊くんと視線が交わる。
「こんばんは。岳さん」
こんなところでキラースマイルを炸裂させないでほしい。僕はもう帰りたくなっている。こんな人と数時間並んで歩くだなんて、僕の心臓はきっともたない。
「……暑いね……」
でも僕は、足を進めた。鍵を閉める手がおぼつかなくて、ちょっと笑えた。
「よし、じゃあ行こっ……あ」
例年の癖が出ていて、はっとする。無意識のうちに軒下の自転車を走らせようとしていたのだ。
「ごめん、ちがうよね、バスで行こっか。それかまあ、歩けなくもないけど!」
僕が慌てて自転車をしまっていると、ちょうど小湊くんの後ろを、二人乗りしたスバくんが通りかかる。昔の僕の指定席に乗っているのは、派手な女の子。スバくんの新しい彼女だろうか。
「あれ、岳ー! 今日花火行かねーの?」
「い、行くよ! いまから!」
「……んえ、野郎二人で?」
けたけたといつものスバくんの陽気な笑い声が聞こえてくる。
僕は慌てて自転車の鍵を閉め直し、門扉を飛び出た。
「なにか問題ありますか?」
「あっ小湊くん、大丈夫大丈夫、ね」
やってやるぞという殺気を感じて、僕は小湊くんを制止した。スバくんはやんちゃで喧嘩も強いので、揉め事になるのはとても簡単なのだ。売られた喧嘩は必ず買う人だから。
「もしかして彼氏? てか、あれ? この間のファミレスのやつじゃん」
彼氏、という単語を聞いてさっきまで無関心を貫いていた彼女らしき女の子が、身を乗り出して僕と小湊くんを交互に見やった。
小湊くんにはうっとりした視線を送ったあと、僕にはふうんという、なんともいえない顔を向けられる。そうだよね、と心の中で頷くと、ちくりと胸が痛んだ。
「彼氏ではないけど、えっと」
その続きは、言えなかった。小湊くんが僕を自分の背中に追いやって、好奇の目から守るみたいに盾になってくれたから。心臓がぎゅっと収縮して、くるしい。
「なに、本気のやつ? なんだよもー東京行くまでもないじゃん。彼氏クン知ってるの? 岳が男漁りに東京の大学行きたいんだってこと」
「なっ……!」
あまりの言いぐさに、さすがの僕だって言い返したかった。けれど先に怒ってくれたのは、小湊くんだ。
「そうだったとして、どうして他人の内情をアナタが話すんですか? アナタには関係ないことですよね?」
……どうして僕のことで、小湊くんが怒るんだろう。怒ってくれるんだろう。だって怖くないのかな、スバくんって見た目怖いし、喋り方に威圧感滲んでるし、きっと小湊くんみたいな子はこれまで関わってこなかったタイプじゃないのかな。殴られたらとか、考えないのかな。
僕はずっと、僕のことなのに、スバくんに怒れなかったのに。
「は? 関係なくはないんじゃん? なあ岳、岳は俺のこと大好きって言ってたもんな?」
僕は、スバくんが好きだった。強くて、悪いコトも平気な顔でやってのけちゃう、たくましい幼馴染のスバくんに憧れてた。気にしいな僕のことを笑い飛ばしてくれるスバくんに、何度も救われてきた。
でももう、もう、いいよ。
「僕は……スバくんが好きだったときもあったけど、もう、違うから……っ」
ぎゅうっと握った拳に力を込めた。
言った……言えた、よな? おそるおそる顔をあげると、やっぱりスバくんは「そんなの大したことじゃねーよ」って笑い方で僕を見ていた。
「そ。イケメンに乗り換えできてよかったな~。あーあ振られちったぁ」
スバくんが女の子にすり寄る。彼女のほうは「話長い」とぴしゃっと言い切って、すごくいい相方だなと思わされた。
僕だってああいうふうに「笑わないでよ」って言えてたらよかったのかもしれない。ぐるぐるぐるぐる、かき回してばかりじゃなんにも変らないこと、わかってたのに。
「……もう、笑い飛ばさなくて大丈夫だから。いつも僕が周りに溶け込めるようにしてくれてたの、ちゃんとわかってるから。迷惑ばっかりかけてごめんね」
「はあ……? 岳どうしちゃったの? 別に俺は……」
「そういうスバくんに助けてもらったことたくさんあったけど、でも僕は……僕の気持ちだけは、笑ってほしくなかったんだ」
僕の部屋でBL漫画を見つけたスバくんに、観念して本音を告げたとき。スバくんはいつもと同じように笑い飛ばしてくれた。気まずくならないように、変な空気にならないようにしてくれたこと、僕はちゃんとわかってた。わかってたはずなのに、本当はすごく、ずっと、悲しかった。
「勝手でごめんね……」
僕は、僕の好きを笑わない人と出会いたい。そういう人と恋をしてみたい。
だから、ここから逃げて東京へ行きたかったんだ。
「別にいーけど。俺はそんなつもりじゃないし。ま、彼氏と仲良くやれば~」
「彼氏じゃないよ……まだ、育み中っていうか……」
「なんだそれ、きっもぉ。じゃあな」
スバくんは自転車を走らせ、去っていく。もうあの自転車の荷台に僕が乗ることは、きっとないのだろう。
スバくんだけが悪者なんじゃない。やめて、悲しいよと言えなかった僕のほうが、ずっと悪い。
「岳さん、大丈夫?」
「あ……ご、ごめんね、なんか巻き込んじゃったね」
いつのまにか僕の手は、小湊くんの黒いシャツの裾を力いっぱいに握りしめていた。手を離したら、くちゃっと皺がついてしまっている。
僕はこの背中に守ってもらって、ようやくやっと、本音が言えたんだ。本当に情けないけれど、どうしようもなくこの背中に泣き縋りたい気持ちになる。
「ごめんね、皺に……」
皺が手アイロンで伸びるわけないことくらい、わかってる。わかってるけど、まだ離したくなかった。依存は破滅のはじまりだと何度唱えても、僕の手は言うことを聞いてくれない。
「いいよ、そんなの」
その手を取るように、小湊くんの長い指が、一本一本、じっくり僕の指に絡んでくる。
さっきの緊張と、安堵と、真夏の暑さが入り混じって手に汗が滲んでいる。だから、離してあげたい。けど離さないでほしい。おかしな気持ちに気づかないふりをして、僕もほんの少しだけ指を絡ませた。
「それよりちょっと、なんですか? 育み中って」
「ご、ごめんね勝手に! あれはその、えっと……」
もう僕のなかでは間違いなく、確実に育まれている。手から溶けていきそうなこの感覚が、その証拠だ。
けれど小湊くんにとっては、気の迷い、狂い咲きって可能性が大きい中で、僕の言葉はとても失礼だったのかもしれない。……いつものネガティブのあと、ちくりと心が痛んだ。
僕、きっといやだな。
小湊くんに「気の迷いでした」なんて訂正されたら、きっといやだ。彼にとってはそのほうがいいってわかっているのに、僕はやっぱり小湊くんといると僕らしくいられなくなる。すごくわがままになるし、見栄っ張りになるし、天邪鬼になる。許されるのなら、この手を離したくないと願ってしまう。
「とにかく……まずは花火行こう? 歩きながら話そう?」
もう会場までは歩いたら間に合わない。近くの高台でよく見える場所があるから、僕はそこへ小湊くんを連れて行くことに決めた。スバくんは自転車に乗っていたし、きっと会場まで行ったことだろうから鉢合わせる可能性もないだろう。
「ほら、ちょっと岳さん。育み中についてお聞かせ願いますよ」
小湊くんの声が、心なしか浮ついて聞こえる。気のせいというか、むしろ願望かもしれないけど。
「も、もう……? なんかこうちょっと、前説的なの必要じゃない……?」
「前説ぅ? あー……刈り上げサンのせいで言いそびれたけど、私服かわ……かっこいいです」
かわ、かっこいい……初めて聞いたけど最上級の褒め言葉じゃないか……。
「やさし……」
手を繋いだままで、僕らは人気のない田んぼ道を歩いた。花火大会の会場のものだろう、西の方角にわずかな灯りがみえる。それを頼りにするくらい、辺りはまっくらだ。
まっくらで、ちょうどよかった。こんなのまともに素顔が見えてたら、絶対できない恥辱の所業だ。
身に余る褒美を頂いてしまったので、僕も正直に気持ちを告げる決心をした。
「僕なんかのどこをっていうのは、まだ思ってる……。けど小湊くんが僕を好いてくれてることは、わかってるつもり。そんなの本当におこがましいことだけどね……」
「本当に枕詞ばっかり挟むな、岳さん」
「だって、そんなの、そうだよ! 信じてるけど信じられない気持ちなんだから」
小湊くんの気持ちは信じてる。信じるしかないくらい、たくさんもらってるから。
でも事象として信じられるかっていうのは別問題じゃないか?
僕みたいな平凡と言うのすら憚られる凡人に、こんな奇跡があっていいわけないんだ。
「……でも、小湊くんがやっぱり違いましたって訂正したら、僕は申し訳ないけど……すごく嫌だなって思う」
声が震えて、情けなくて泣きたくなった。小湊くんは、こんなにも力強く手汗でびっしょりの僕の手を繋いでくれているのに。僕はまだなにかをこわがっているらしい。
「小湊くんの好意に甘えてる自覚はすごくある、から。だからこれからは……これからがもしあるのなら、僕も頑張りたいなって思っている所存、です」
人に自分の気持ちを伝える機会なんて、僕には縁遠かった。そういうことから逃げてきた人生だった。そのツケがまわってきたんだ。きっと小学生よりもたどたどしくなってしまった僕のお気持ち表明は、小湊くんに伝わっただろうか……。おそるおそる、彼の顔を見上げた。
「……うん」
僕の気持ちの精いっぱいを、やっぱり小湊くんは笑わない。足りないと催促もしない。
ただじっと、まるで子猫でも見つめるような柔らかな眼差しで、僕を見下ろしているだけ。
うれしくて、くるしい。小湊くんといると、自分じゃどうしようもない気持ちを抱えさせられる。
「違いましたなんて、言うわけないよ。やっとここまできたんだから」
「へ?」
「これから時間かけて、ゆっくりわからせるから。俺がどれだけ岳さんを……」
わからせるから――
その殺し文句が、まさか自分に投げかけられる日がくるだなんて想像しただろうか。いやしない。漫画で見ていたっていいなと羨むことさえなかった。……いるんだ、現実に。わからせたいって口にする人、いるんだ……。
夏の蒸し暑さに漂う甘い声色が、耳から離れてくれない。全身に汗が滲んで、いよいよ臭いが心配になってくる。
「おーい、岳さん?」
暗闇から伸びた指先が、僕の頬をつっつく。それがスイッチとばかりに、僕の頭はようやく再起動してくれた。
「あ、あのさ、とりあえず、その岳さんってのと、敬語やめるところから……慣らしませんか? そもそも同い年なんだし……」
かろうじでなんとか絞り出した提案は、僕ごと小湊くんの腕のなかに包み込まれてしまった。
この心臓の音、きっと小湊くんのものだ。僕のリズムとはちょっと違う。でも、同じくらい急いでる。
「岳、って呼んでいいの?」
「……っ……」
耳元で囁くように呼ばないでほしい。もっと普通に、ナチュラルに呼ばれるつもりだったので……。 僕はこくりとなんとか首を動かして、次に勇気を振り絞った。もう、もらってばかりは嫌だ。僕だって小湊くんに少しくらいあげたいって、おこがましいけれど思っているんだから。
「こ、小湊くんは、下の名前なんていうの!」
気合いが空回りしてなんだか妙に語気が強くなってしまった。やっぱり小湊くんもちょっと笑ってる。耳に息がかかったもん。
「瑛人。小湊瑛人だよ。……日本語で言うと、数字の8」
――日本語で言うと、数字の8……?
「えいと……くん」
「瑛人、でいいよ」
「瑛人……くん……」
「なーんでだよ!」
瑛人くん。僕の頭に、遠い日の記憶がぼんやり流れ込んでくる。
なんでだよ、と無邪気に笑いながら瑛人が僕の顔を覗き込む。暗くてもわかるくらい、すぐそこにあった。ハーフみたいで、浮世離れした綺麗なご尊顔……。
――数字の、8。ハチ。
八歳の夏、僕は花火大会の会場で見事迷子になった。
何度も母さんに言われていたとおり、はぐれた場所から動かず、迎えにきてくれるのをじっと待っていた。
そのときちょうど、同じ年頃の子が泣きながら歩いてきたんだ。僕は道行く人たちをじっと見つめていたから、その子にすぐ気がついた。すごく綺麗な、泉の持っていたお人形さんみたいな子だと思って、「ハーフなの?」って話しかけた。
その子は「クォーター」だと言って、僕はその意味を教えてもらった。そのとき初めてその単語を聞いたから、記憶力皆無の僕にしてはよく覚えている思い出だ。
その子の名前、たしか英語で……日本語にすると数字だねって話をしたんだ。ちょうど英語を習い始めた頃で、どんなもんだってちょっと鼻にかけたかった気持ちを覚えてる。
いち、に、さん。ワン、ツー、スリー……どれもどっちかが名前っぽくはないなと順を追って頭の中で確認していく。
「はち、エイト……」
――俺と岳さん、本屋じゃないところでも会ったことあるよ
いつだか、瑛人が僕にそう言ったことがある。さらっと流れてそれ以上聞いたことはないけれど、たしかにあった。
点と点が、奇妙に繋がっていく。
「あのー……小湊くん」
「瑛人でしょ」
「あっ、瑛人……は、西町の花火大会、来たことある……?」
「あるよ。八歳の夏からは毎年欠かさず」
「ま、毎年!?」
いつのまにか、夜空に咲く大輪の花が、まっくらな田んぼ道を明るく照らしてくれていた。和太鼓を思い切り打ち鳴らすみたいに、ずしんとその音が腹の底に響き渡る。
「岳、きれーだね。ここからでもよく見える」
そう言ってわざわざ僕の顔を覗き込んでくれた瑛人の甘い顔のほうが、僕はずっとずっと綺麗だと思った。月並みな言葉だけれど、花火よりもずっと。
僕は前にも、似たような気持ちを抱いたことがある。
「瑛人さー……もちろん、ないとは思うんだけど、花火大会で迷子になったことある?」
「………どうだったかなぁ?」
妙に白々しい笑顔を向けられて、思わず息を呑んだ。そんな顔、これまで見たことない。アルファ様すぎる……。
「まあ……いっかぁ……」
これから、ゆっくりわからせてくれるって言ってたし。どう転んでももう僕の中のそれは、芽を出しちゃってるんだから。
僕は一瞬止んだ打ち上げ花火の暗闇に乗じて、瑛人の腕に頬を寄せてみた。あったかくて、心臓おかしくなりそうなのに、すごく安心する。
僕が胸を張ってあの二文字を言える日まで、どうか彼が隣にいてくれますように。そんな願いを込めて、おこがましいけれど今度は僕のほうから手を握ってみた。
「大丈夫だよ、もう絶対離さないから」
複雑な瞳の色にぞくりと、どきりが入り混じる。
僕はこれから一体、なにをわからされるんだろうか……。
八歳になる年の夏、俺は花火大会の会場で見事迷子になった。
気がついたら目の前にいるのは、チョコバナナ屋のおっちゃんだけ。父さんも母さんもいない。頼みの綱のおっちゃんも、てんやわんやでたぶん俺のこと見えてなかったんだと思う。屋台に並ぶ大人たちの視線が痛くて、俺は一人駆け出した。
歩いても歩いても、父さんも母さんもいない。すれ違う大人たちに、俺は見えてなかった。勝手に溢れてくる涙で余計にみじめな気持になった。ひょっとしてこのまま、自分は誰にも見えない子になっちゃうのかも……なんて不安になっていたとき、目の覚めるようなオレンジ色のTシャツが目の前に立ってた。
「ねえ、君も迷子?」
その男の子は、俺をなお追い詰めてきた。
「迷子になったら動いたらダメなんだよ!」
……俺の絶望ったらない。だってもうかなり歩いてきてしまった。振り返ってもチョコバナナ屋なんて見えやしなかった。
大泣きする俺の手を取って、オレンジの子は言った。
「だいじょうぶ! 僕とここで一緒に待ってよ。絶対お母さんが迎えにきてくれるから、そしたら迷子をホゴしてくれるところに連れて行ってもらおうね!」
全然知らない子だけど、俺はこの子に頼るしかなかった。それに不思議とこの子が言うだいじょうぶは、本当に大丈夫な気がしたんだ。
「ハーフなの? イズミ……妹の持ってるお人形さんにそっくりだよ」
「おばあちゃんがフランス人だから……クォーター」
「クォーター!? なぁにそれ!? かっこいい!」
別にヒーロー名じゃないけどなって思いながら、俺はたしかちょっと照れくさくなった。
そのオレンジの彼は、俺のことを「ハチくん」って呼んだ。英語のeightじゃないよって思ってたけど、なんか嬉しそうだし、まあいっかって。後にも先にも、ハチなんて呼ばれたのはあれが初めてだったけど。
「僕はガクだよ! がっくしのガク!」
「がっくし?」
「がっくしだよ、うーんと……今の僕たちの気持ちみたいな? せっかく花火大会来たのに迷子になってがっくし~」
「ああ……しゅんとするみたいな気持ち?」
「そうそう! そんなかんじ!」
歯抜け笑顔でにかって笑われて、全然しゅんとしてないじゃんっておもしろかった。
そのあとすぐにガクくんのお母さんたちが見つけてくれて、俺は無事迷子センターに届けられたわけだけど。ガクくんはその瞬間、なにかの糸が切れたように、わあわあ泣きだしたんだ。
あっそっか、俺があんなに泣いてたから。ガクくんは我慢して笑っててくれたんだと、そのとき初めて気がついた。
「ガクくん、ありがとうね。本当にありがとう」
「ふぇ? どうして? 僕のほうがありがとうだよ! ハチくん、一緒に花火見てくれてありがとう!」
そのときの泣きっ面の笑顔は、甘くてとろけそうで、うれしいのにくるしい変な気持ちになった。胸がぎゅうってした。また会いたいな、また遊びたい、ガクくんはどこに住んでるのかな、どんなゲームが好きかなってぐるぐる考えてたら、今度はうちの親が迎えにきた。
がきんちょだった俺はそれに安心してやっぱり大泣きしちゃって、少し落ち着いてからガクくんにもう一度お礼を言おうと振り返ったら、そこにもうガクくんはいなかったんだ。
また遊ぼうって、言えなかった。ありがとうも、バイバイすら言えなかった。
俺はそのあと、ずっと泣きじゃくっていたらしい。自分でもあんまり覚えていないくらい。
それから俺は、毎年西町の花火大会に行った。オレンジ色のTシャツと、とろけそうなふにゃっとした笑顔を探した。けど当然、見つからなかった。この世に運命なんてないって思った。考えてみれば夏休み中だし、親戚の家に遊びにきてたとか、そういう可能性だってあったわけで。でも俺は、どうしても、ガクくんを忘れられなかった。
「なあ知ってる? A組の美園泉! 超~っかわいいんだって!」
「しらね」
クラスメイトのテンションがうざかったのもあるし、そもそも興味もなかったけれど、俺はその「イズミ」って名前が引っかかってた。数少ないガクくんの情報の一つ。妹の名前は「イズミ」。
めずらしい名前じゃないし、まあないと思った。でも彼女が時折見せる笑い方に面影がないとも言えず、探りを入れてみればすぐにわかった。双子のお兄さんがいて、そのお兄さんの名前は「ガク」。地元の高校に通ってるってこと。
「すんげえ地味なの! 双子なのに全然似てなくてさぁ」
同中だったらしい男子はそう言って笑ってた。
地味……ではなくないか? あの日の目の覚めるようなオレンジ色が、にかっと笑った歯抜けの笑顔が、目に焼きついて離れない。ガクくんは優しくて強くてしっかり者の俺のヒーローだ。地味というか優等生タイプだろって思ってた。
美園さんの地元は割れてたから、ある日俺は彼女を尾行した。ガクくんかどうか、この目で見たほうが早いと思ったんだ。
「ねえ、やめてよ。なに? 小湊くんそんなことするタイプなの?」
……一瞬でバレた。さすが町のアイドル。警戒心が尋常じゃない。
「美園さんのお兄さん……ガクさんに会わせて欲しいんだけど」
「ぜっったいイヤ! どうせおにぃのこと馬鹿にするんで……」
「そうじゃなくて!」
幸にして美園さんは、お兄さんの迷子事件を覚えていた。つまりここで確定したわけだ。彼女がガクくんの妹だってことが。
やっと……やっと会える。
あの日言いそびれたこと、ずっと抱えてきたむずがゆい気持ち、大きくなったガクくん。俺の興奮とは正反対に、美園さんの目は死んでた。
「本気……? だってあんなのほんの一瞬……しかも何年前の話よ……?」
「本気だよ、俺あの日ガクくんが着てた服の色も覚えてるもん」
「こ、こわぁ……」
まあ、そうだよな。俺も俺がこわいよ。けどあの日からずっと、ガクくんのことが頭から離れなかった。どうして繋いだ手を離してしまったんだろう、せめて住んでる場所くらい聞いとけよって何度も何度も後悔したんだ。
「……駅前の本屋によく寄ってる」
「え?」
「おにぃからしたら怖すぎだし、あたしも完全に小湊くん信用したわけじゃないから、紹介は無理。怖いもんアンタ」
……うん、たしかに似てないな。ガクくんはこんな冷めた目絶対しない。
俺はそれから毎日本屋に通った。けれどガクくんは来なかった。なのでしかたなく、家から近いわけでもないけど、そこでバイトを始めることにした。
ある日、いつも見かけるオタクの手本みたいな男の子のレジにあたったときだ。
「カバーおかけします……」
「け、けっこうです」
すげえ食い気味ぃ……。会計の終わった三冊の漫画を揃えて、男の子に渡そうととしたときだ。
半裸……いやほぼ全裸で赤面する男の表紙を見て、彼は口元を緩ませてた。目がとろんとしていて、えっと一瞬息を呑んだ。
「ガ……っ」
「す、すすみませんっ! 失礼しました!」
な、なにが? 一瞬のうちに男の子は漫画を奪い取り、走り去った。
「あれ……?」
ガクくん、俺は彼に向かってそう口走りそうになってた。
すげえ地味なんだよ、といつか笑ってた同級生の声が頭に響く。
「地味っつかあれは……オタク……」
あの子なら、何度もこの本屋で見掛けてた。
あれがガクくん? あの? 俺のヒーロー? がらがらとなにもかも崩れる音がした。
人を見た目で判断なんてしていない。ただ俺の思い描いてきた成長したガクくんと、あまりに違っただけだ。頼もしいしっかり者の優等生を思い描いてただけだ。それがオタクになってたってだけで……。
崩れ去る音とともに、胸に渦巻く妙な気持ちは日に日に増幅していった。
ガクくんは人の顔を見ない。まじで目が合わない。身長差もあるけど、それでもありえないくらい目が合わない。王子様みたい、高嶺の花なんて言われてきた俺にとって、それはめずらしいことだったし、何よりあの日、ガクくんは俺の瞳の色を褒めてくれたんだ。
花火より綺麗だねって。
だから目が合えばきっと気づいてくれるって思ってたのに。全然こっち見ない。ずーっと、やらしい漫画しか目に映ってない。
そんな愛おしそうな目するんだな、ガクくん。たとえば彼女……いや彼氏なのか? ができたらガクくんはあの目で相手を見つめるんだ。
……そんなの、やだな。
それから話し掛けるまでに半年以上かかった。俺は高校二年生になってた。
「……これ、東京の大学っすか?」
ある日ガクくんが、珍しくまともな本だけをレジに持ってきた。普段は参考書と赤面男子の漫画がセットなのに。
「あっえっと、ハイ、そうです」
再会して初めて交わした会話は、俺にとってはあまりに残酷だった。
オタク、地味、俺のヒーロー……自分の中で勝手にぐるぐる考えてるうちに、ガクくんはまたここからいなくなろうとしてた。
もう振り向いてこの子がいないのは、嫌だ。
「お願いします一生のお願いです」
「そんなクソデカ感情持ってて、今まで何してたの!?」
なんと蔑まれたっていい。あまり手持ちはないけどお金を払ったっていい。お願いします美園泉様。俺をガクくんに会わせてください……。
「花火、綺麗だったね」
「……うん」
隣にガクくんが……ちがう、岳がいる。俺は彼を岳って呼べるようになったんだ。やっと、ここまできたんだ。
やべ、なんか泣きそう。
がっくしのガク、あの日そう自分を紹介した岳は、俺にはそんなふうに見えなかった。けどあれから何年もかけて、そのがっくしばかりが煮詰められて今の岳になったんだろうなと思うと、俺はどうしようもなく彼を抱きしめたくなる。
あんまり押し過ぎるとぴゃっと逃げられるから、今日はやめとくけどさ。
「岳……今日来てくれてありがとね」
いつも言うんだ。何かするたび言うんだ。僕なんか、僕みたいなのは、おこがましい、ありえない、ごめんね……うんざりするほど自分を否定する。
「そ、そんなの、僕のほうだよ!」
ほら、今もそう。僕なんかと、って顔に書いてある。こんなになりふり構わず好きって伝えても、岳はまだわかってくれない。
「あ……っと……」
ねえ岳。俺はずっと、出会った日からずっとだよ。ずっと特別に思ってきたよ。もっと早く伝えたかった。そばにいたかった。つらくても自分より相手のために笑える君だってこと、俺は知ってるから。支えたかったよ……それこそおこがましいけどさ。
「ん?」
なにか言いたげだった岳の足が、とうとう止まった。振り向くと、めずらしく視線が交わって心臓が躍る。
気を抜けば手を伸ばしたくなるし、触れたくなる。でも岳には小出しにしていかないと、いつかみたいにキレられるから今日はとりあえず、我慢だ。きっともう岳もいっぱいいっぱいだろ。手を繋げただけで俺的にはとてつもない進歩だし。
前髪のカーテンですべて隠されてしまっているけれど、岳の猫目はかなり愛らしい。じゃれつくように笑う瞬間なんて、もう、食べちゃいたいとすら――じゃなくて、どうした。疲れたのか?
「え、瑛人っ……」
「は、はい?」
そんな改まってなんだ、嫌でも背筋が伸びてしまうんですが……?
「あ、あの……」
やっぱり気の迷いでしたとか言われるのかと、戦々恐々としながら岳の顔をのぞきこむ。
「花火、一緒に見てくれてありがとうっ……!」
……油断した。渾身の一撃、くらった。
――ハチくん、一緒に花火見てくれてありがとう!
あの日の岳と、目の前の岳。全然別人みたいなのに、おんなじこと言うんだ。
俺の方がずっとありがとうなのに、ほんとにもう……鼻の奥がつーんとする。
「それは、ずるい」
「え!? ご、ごめ」
「好きだよ」
「なっなに急に、」
「好き。好き好き好き……」
「まって、人増えてきたから……!」
……うんざりするほど岳が岳を否定するなら、うんざりするほど好きだって俺が伝えよう。
いつか、わかってよ、岳。どれだけ自分が愛されてるか。どれだけ自分が小湊瑛人って人間にとって特別な存在なのか。
照れくさそうに俺を咎めたあと、前髪のカーテンの隙間から、とろけそうな瞳が覗く。岳のこの瞳に、やっと俺が映ったんだ。
「……岳ってさ、ゲームなにが好き?」
「げ、ゲーム? あんまりやらないけど……あつ森とか」
「ふっ……ぽいわ」