夏休みに入る少し前、テストも終わって一息ついていたある日のこと。
 汗だくでようやくたどり着いた我が家の門扉の前に、凛とした青年が立っていた。
 そこにだけ冷風でも吹いているのか、汗とか湿気とか、じめっとしたそういうものとは無縁の爽やかオーラが漂っている。
「岳さん、こんちはっす」
 やっぱり、小湊くんだ。
 彼がこんちはと言ったので、僕もそれにこんにちはと返したが、それで、えっと……? という謎の沈黙が流れている。
 それなのに彼のガラス玉みたいな瞳は、じっと僕を捉えたままだ。ぱちりとまばたきさえ見せない。
 いったいどうしてイケメンという人種は、この無言に耐えられるのだろう。僕は今すぐ逃げ出したい衝動に駆られてるっていうのに。こんなに必死に次の言葉を探していること、きっと小湊くんにはわからないんだろうなぁ。
「えっとー……泉は……」
「今日部活っす」
 聞いておいて、ええ知っていますと、口を突いて出そうになった。
 泉は吹奏楽部でトロンボーンを吹いている。夏のコンクールに向けて本腰を入れて練習することになるから、夜も遅くなると母親に迎えを頼んでいた。なので、知っています。
 僕が聞きたいのはつまり、泉はいないのになぜ君がここに立っているんですか、ということだ。
 イケメンで頭脳明晰なはずなのに、行間を読むのは苦手なのだろうか。
「そうだよね、練習忙しくなるって言ってたけど……ええっと……」
「あの、俺……」
 凛とした佇まいが、ほんの少し揺らいだ。背の高い彼の顔がみるみる眼前に迫って、ごくりと生唾をのんだ次の瞬間、彼は地面にしゃがみこんでしまった。
「えっ!?」
 見下ろした彼のうなじは、長めの襟足からほんの少し見えるだけでもわかるほど、真っ赤に染まっている。
「こ、小湊くん、大丈夫? 熱あるの?」
 僕もしゃがみこんで目線を合わせると、目も虚ろで、肩で息をしていた。
 自分の背中がじりりと焼け付くように熱をもって、ようやく気がつく。
「熱中症……!?」
 ああまったく、僕は本当に察しが悪い。いくら爽やかそよそよ涼しげにみえたって、小湊くんだって人間だ。いくら人形のように綺麗な顔をしていたって、生身の人間なのだ。
 いつから立っていたのか知らないが、この炎天下のなか日よけもなにもない場所で突っ立っていたら、誰だってそうなる。もっと早くに気づいてあげなきゃいけなかった。
「小湊くん、これ飲めるかな……」
 父さんのランニング用にストックしてあったスポーツ飲料を一本頂戴し、小湊くんの熱い手に持たせた。弱々しく頷いた彼がごくりと喉を鳴らしたので、僕は次だと慌てて部屋の冷房を十八度に設定し、冷凍庫からありったけの保冷剤を引っ張り出してきた。
「岳さん、ごめ……」
「いーから、いーから、とにかく冷やそうね。えっと……脇とひざの裏とももの間に挟むといいみたい。できそう?」
 ソファーでぐたっとしている彼のおでこに冷却シートを張ろうとすると、ぴくっと肩が震えたのがわかって、間一髪我に返る。
 危ない、僕ってばなんておこがましいことをしようと……!
「ごっごめんね! これ、貼るときっとラクになるから、鏡持ってこようか……」
「……いい」
「へ」
「……貼ってもらえませんか」
 潤んだ瞳にせがまれて、自分でやってくださいだなんて言える度胸も根性もない。というかそんな立場にすらない。アルファ様がやれと言うなら、従うしかないのだ。
 僕はおそるおそる彼の綺麗な肌に触れ、剥きたてのゆで卵みたいにつるんとしたおでこに、シートを貼った。
 ……まいったな。小湊くんの熱が、きっと伝染してる。僕も冷却シートを身体中に貼りたいくらいだ。余った保冷剤、ほっぺにくっつけて誤魔化しとこ……。
「……やっぱ優しいな岳さん」
 うわ言なんか言っちゃって、なんだかちょっとかわいく見えてきて困る。
「……いつからうちの前にいたの?」
「えー……二時間くらい……かなぁ」
 二時間って、この子、本当に泉が好きなんだなぁ。僕が帰ってこなかったら、泉の部活が終わるまで待ってるつもりだったのか?
 そんなに誰かに愛されるって、いったいどんな気持ちなんだろう。僕には永遠に縁のない話だから、今度泉に聞かせてもらおうかな……いやか、兄にそんな話するのは。

 そうしているうちに、だんだん小湊くんの表情に、生気が戻ってきていた。
「どうだろ、ちょっとは気分マシになってきた?」
「ハイ、ほんとにすみません、勝手に待ち伏せしといて俺……」
「えっ、待ち伏せだったの?」
 待ち伏せってことは喧嘩でもしたんだろうか。
 はだけたシャツから漏れ出る色気にあてられそうになって、僕は慌てて彼から少し距離を取った。
「……俺、岳さんと話したくて。この前誤解させちゃった気がしたんで」
 なのに、ソファーから起き上がった小湊くんは、僕の隣にぴったり並んで座る。また、じっと僕を見てくるんだ。たまらず視線を逸らしてしまった。
 僕と話がしたいだなんて、そんな真剣な顔で言われたらちょっとこわい。ひょっとして僕のこの間の態度が、歓迎していないふうに見えてしまったのかもしれない。あれはただただ、腐男子バレして字のままひっくりかえったのが恥ずかしかっただけなんだけど……。
「あの、ごめんね。そんなに気にさせてると思ってなくて……あんまり人に言ってないことだったから、まさか妹の彼氏にバレてるなんてさ、」
「やっぱりな。付き合ってないです。美園さんとは付き合ってませんよ」
 ――え?
 小湊くんの大きな手は、さっきほど熱くはなかった。ほっこりする、心地よいあたたかさだ。
 で、その手は今、僕の手首を掴んでいるわけだけれど。
「ん……? え、なんて……?」
 知らない彼の体温は、僕の思考回路を狂わすのに十分すぎた。今自分がなんて言ってるか、正直よくわかっていない。どんな顔を取り繕うべきかもわからなくて、前髪のカーテンをゆらゆら揺らし、とにかくなにかから隠れたくなった。
「岳さんに会いたくて、美園さんに紹介してくれって頼んだんです」
「……アイタクテ……」
「ていうかこの間も言いましたよね。一目惚れしたって」
「ヒトメボレ……」
 紡がれる言葉を反芻しても、やっぱりわからない。一目惚れとはつまり、一目見て、惚れたということだ。
 小湊くんが……僕に? ありえない。ないないない。
「どうしても忘れられなくて、もっと知りたくて、それなのに東京の大学行くって言うから……それで美園さんに頼みました。卑怯な手使ってすみませんでした」
 宙をさまよう視線が、とうとう交わってしまった。その妙に熱っぽい瞳から逃げられず、背中がじわじわ熱くなっていく。
 熱に絆され、ああかまわないよ、なんて二つ返事で真に受けそうになって、慌ててその安易な思考をなぎはらう。危ない危ない。そんなラブコメ展開、ド平凡ベータの僕の身に起こるわけがないんだ。ご都合展開がすぎる。なにかの間違いに決まってる。
 僕がそうして脳内会議している間にも、小湊くんは、僕の手首を確かめるように撫でたり、かと思えば強く握ったり、やりたい放題である。僕の心臓は弄ばれっぱなしだ。
「ど、どうして僕なんか……人違いじゃない?」
 言葉にして、納得した。そうだ、人違いだこれ。僕みたいなオタク、結構いるし。というか僕って言っても前髪のカーテンでほぼ顔なんて見えないはずなんだ、僕である確証なんてどこにも……
「だから、この間の漫画のタイトル、心当たりありますよね?」
「……あ、ハイ」
「ね、俺の好きな人が買って行った漫画なので、人違いじゃありませーん」
 ありませーんじゃない。かわいこぶったってダメだ。一体どこでその情報入手したっていうんだ? 本屋では必ず周囲を警戒しているし、一語一句違わず漫画のタイトルを把握しているなんて、相当ヤバい。僕がBL好きだということを知っているのは、スバくんと泉の二人だけだ。けれどその二人が吹聴したとも考えにくい。だってさすがに、購入した漫画のタイトルまでは知らないはずだし……。
 隣で踏ん反り返る小湊くんを、不気味だという意味を込めて見つめると、彼はにこりと微笑む。
「腐男子、っていうんですよね。岳さんは男が好きなんですか?」
「べっべつに、ちがっ……物語として、おもしろいだけだよ」
「……調教指導が……? なるほど、そういう性癖なんです……」
「ちがうっ!! それは君がたまたま把握してるのがそういう……過激なタイトルのものってだけで、BLは尊いんだよ。アルファ様の調教指導だってストーリーはすごく切ないんだ。僕はそういう泣ける系が特に好きで、別に性癖ってわけじゃ……」
 ――しまった、しゃべりすぎ……
 はっと口をつぐんだ僕に、小湊くんはまるで聖母のような慈悲深い微笑みを投げかけてくる。
「うん? それで? 泣ける系を読んで、岳さんは泣くの? ていうかどの立場で読むのそれ」
 ふわりと優しく、僕の髪の毛に指を通してくる小湊くん。僕の髪の毛なんか触ったところで、なんの面白みもないだろうに。いったいなにがどうなってその行動にでるのか、僕にはちっとも理解できない。ただとにかく、このほの甘い空気をどうにかしたい。変な汗がとまらない。
「お、幼馴染ものがね、特にいいんだよ。少女漫画では幼馴染って大体当て馬だけど、BLでは正規ルートなことが多いから……」
 って、また余計なこと言ってしまった……。なのに、どんどんおかしくなっていく僕を小湊くんはちっとも笑い飛ばさないんだ。
「ふ~ん、俺少女漫画も読まないしわかんないなぁ。岳さんのおすすめ貸してよ」
「やっ、やだよ! ぜったいやだ!!」
「あーわかった、やっぱりエロいのしか持ってないんだ~」
 よーしわかった、とまんまと手のひらで転がされてしまった僕は、幾度となく読み返した健全BLを三冊、小湊くんに貸してしまった。
「なにしてんだ僕は……っ!」
 ご迷惑おかけしました、と足取り軽そうに帰っていく小湊くんの後ろ姿に後悔を募らせたって、もう遅い。彼の手に渡ってしまったのだ、僕の宝物たちが。
 僕が腐男子だと言いふらされるのはともかく、泉にまた迷惑をかけてしまうかもしれない。そんなことが起きてからでは遅いと、部活から帰ってきた泉に慌てて報告すると、「小湊くんは大丈夫に決まってるじゃん」と鼻で笑われた。