国道沿いに建つ、薄暗い書店の二階。その一番奥にひっそり構えられたコーナーは、僕のオアシスだ。
「……うん、うん」
 僕自身に二度三度頷いた。アルファ様の新刊に、キミダメ作者さんの新刊、ちゃんと入荷しててよかった。その隣に陳列されていた女装男子モノと思われる表紙の漫画にも、つい手を伸ばしてしまう。『もう、おまえにしか見せないっ……!』だって、こんなの絶対いいもんな。いくらあってもいい。帯考える人って本当天才。
 階段の踊り場から一階の様子を覗い、人気がないことを確認すれば、忍のようにさささっとレジへ向かう。ここで知り合いに会ったら終わるので、一番気を引き締めなければいけないポイントだ。
「カバーおかけしま」
「け、けっこうです」
 カバーなんて冗談じゃない。僕が店員さんに裏表紙のバーコードを差し出すのは、思いやりなんかじゃないのだ。
「ありがとうございました」
 そのちっぽけなプライドに気づかない女性の店員さんは、堂々と半裸の男の子が赤面する表紙を表にして僕へ手渡した。慌ててリュックにそれをしまい、涼しい顔を作って自動ドアを抜ける。滑稽だけれど、僕のささやかな意地だ。
 多様性の時代、BL漫画を読んでなにがおかしい。少女漫画となんら変わらない。たしかにそう思っているし、できれば声高に堂々と宣言したい気持ちだ。けれど、僕みたいな貧相で地味なうえに、根暗、オタクといった明らかな風貌でそれを言うと、引かれる。イケメンや美女が言えば「かっこいい!」となるところ、僕みたいなのじゃだめだ。革命者にはなれっこない。
 長閑な田園風景の広がるこの田舎町で、十七年生きてきた。
 色んなことがあったような、なかったような、どこにでもある平凡な人生を歩む中で、ある日突然、自分は男の人が好きだと気づいてしまった。
 それはおかしいことじゃないらしいけれど、この町ではやっぱりおかしいのだと思う。
 この町から逃げたい――ただそれだけの理由で、僕は東京の大学へ進学するため日夜勉強に励む日々を送っている。そんな空虚な毎日を彩ってくれるBL漫画は、僕の宝物で心の拠り所なんだ。
 ほくほくとした気持ちで田んぼ道を自転車で走り抜ける。耳に流れるのは流行りのポップスなんかじゃなくて、蛙の鳴き声。それでいい。それがいい。きっと都会に蛙はいないだろうし。
「ただいまぁ」
 と部屋の中へ声をかけた瞬間、綺麗に揃えられたローファーが目に入る。丁寧に手入れされ黒光りしているそれ。僕の小汚いスニーカーよりずっと大きい。……男だ。
 双子の妹の(いずみ)はこの田舎町のアイドルなので、なにも不思議じゃない。むしろこれまで誰も連れてこなかったことのほうが異常だ。とうとうやってきたこの日を、どこか覚悟していたはずなのに、そこから先へ足が進んでくれない。玄関先で立ち尽くす僕の元へ、泉がやってきてしまった。
「おにぃ! おかえり、待ってたんだよ」
「ま、待ってなくていいよ、お客さんいるんでしょ」
「そうなの、紹介するね」
 いいよしなくて。僕の心の声は、当然届かない。
「クラスメイトの、小湊(こみなと)くん」
 居間のほうから出てきたその男の子は、襖の枠に頭をぶつけそうになって、ややかがんだ。背たっか……父さんより高いな。
「小湊です、お邪魔してます」
 ぱっと向けられた顔から、咄嗟に目を逸らしてしまった。よく見なくてもわかる。この子、イケメンだ。雰囲気が、オーラが、アルファだもん。
「……あっ、ハイ」
 語彙力の溶けた僕を、泉が咎めた。そりゃそうだ。自己紹介をハイで流していいわけがない。
「ご、ごめんね、ちょっとびっくり……えっと、泉の兄の美園岳(みそのがく)です」
 渋々小湊くんのほうへ目を向ける。……ま、まばゆい……。ちょっと引くくらい綺麗な子だ。瞳の色が僕なんかとは違う。ハーフとか、クォーターとか? 確実に黒ではなく、かといって茶ともグレーとも言い難い複雑な色をしている。
 背が高くて、顔が綺麗で、姿勢も美しく、泉のクラスメイトとなれば県央の進学校の特進クラスというわけだ。
 眉目秀麗、成績優秀、きっと運動神経抜群。僕には縁のない言葉たちがぽんぽん頭に浮かんでくる。
 そんな小湊くんは、まだじっと僕を見ている。イケメンってよくこれやるよなぁ……。まるで値踏みされているようで、ちょっと苦手だ。
「えーっと……?」
 かろうじで声になった戸惑いは、泉がすくい上げてくれた。
「あのー、ほら、小湊くん! ね!」
「あっ、ハイ。えっと……あのー……」
 なんだなんだ? 二人で目配せしあって、僕がいたたまれないからやめてほしい。もう一回外へ出ていようかなと、口を開こうとしたときだ。小湊くんが泉の後ろから一歩前へ、僕に近づいた。
「がっ岳さん」
「は、はい?」
「あの……ずっと見てました」
「………ん?」
 な、なにを? 背中にじんわり嫌な汗をかいていた。だってオーラがすごいんだもの、さすが天下のアルファ様。
「岳さんのこと、ずっと」
「……ぼ、僕? えっと……?」
 なにか悪いことでもしたっけ、と自分の胸に問いかける。たしかに幼馴染のスバくんはやんちゃで、彼といるときはちょっと悪いこともしてきた。たとえば自転車の二人乗りとか。でも万引きとかタバコとか、そんなのはしてない。心当たりはないけれど、ずっと見てただなんて見張ってたってことだろう? 僕一体なにを……
「岳さんに一目惚れしたんです。本屋で」
「…………な、なんて? 一目惚れ? 誰が? 誰に?」
「ちょっとおにぃ! 話ちゃんと聞いてた!?」
 泉に叱られたけれど、間違いなく僕は話を聞いていました。
 ずっと見ていました、一目惚れしました、本屋で……本屋で?
「本屋で!?」
「そうです。岳さんが買って行ったタイトルも全部メモしてあります」
「メモ!?」
「とろけるオメガにオトされた僕、スパダリ彼氏の夜が長い!、アルファ様の調教指導……」
「わぁーっ!? なっなっなにを言ってるの!?!? 小湊くん!?!?」
 僕はそのとき、はじめて見た。
 歯を見せて笑った小湊くんを―― って、そんなことじゃない!
 どうして彼が、僕の愛読書を把握しているんだ……っ!
 驚きのあまり膝の力が抜け、僕は尻もちをつき、その尻は母さんが置きっぱなしにしていたバケツに見事すっぽり収まって、そのままぐるんと世界が回った。
「ちょっ!? おにぃ大丈夫!?」
 ごめんね泉……ださくて腐った兄で本当にごめん……!

 妹の彼氏の小湊くんに、腐男子バレしていたことが発覚してから数日後のこと。
 さすがに地元の本屋には行く気になれず、バスで県央のショッピングモールまで出る羽目になった。オメオト作者さんの新刊は、連載当初からずっと楽しみにしてきたのだ。描き下ろしだって特大の期待を寄せている。今日買わないわけにはいかない。バスの往復運賃というやや余計な出費がかかってしまうけれど、それはもう致し方ないことだ。
「あれ岳じゃん。どうしたの、こんな時間にめずらし~」
「わっ、スバくんっ!」
「おつかれ~」
 気の抜けた喋り方、そこにわずかに滲む威圧感、相変わらずでやっぱりちょっとかっこいい。練習終わりなのか、さわやかなシトラス系の香りがする。
 近所に住んでいる一つ上の幼馴染のスバくんは、僕の初恋の人だ。スバくんは僕の手元のBL漫画をじっと覗き込み、「過激なの読んでるなぁ」と何食わぬ顔で頭を撫でてくれる。とっても心の広い人でもある。
「ちっちがっ……これはストーリーが緻密に作られていて、この幼馴染が実はオメガで……」
「はいはい、わかったわかった。この子がウケでこの子がネコ、うんうん、わかるわかる~」
「全然違うってば! 受けとネコって同じ意味だし!」
 僕がどんなに気持ち悪くなっても、スバくんはいつだってそれを、けたけた笑い飛ばしてくれる。そんなの大したことじゃねーじゃん、ってスバくんの口癖をそのまんま映した笑い方が、大好きだった。
「で? 今日は勉強してないんだ?」
 本屋からの帰り道、自転車通学のスバくんが、後ろの荷台に僕を乗せてくれた。本当はだめだけど、スバくんとなら悪いこともできちゃう。本当はだめだけれどね。
「今日は新刊の発売日だったし……それにこの間、泉が彼氏連れてきたんだよ。だからちょっと家に帰りにくい」
「えっ!? いっちゃんついに彼氏できたの!?」
「うん、そうみたい。すっごく綺麗な男の子だった。しかもね、同じクラスだっていうから頭もいいんだよきっと。泉と並ぶと少女漫画の世界みたいだった」
 つらつらと出てくる感想を、スバくんは時折相槌を挟みながら、おもしろそうに聞いてくれる。僕みたいな話下手にも、話そうという意欲を与えてくれる。スバくんってやっぱりすごい。
「まぁ、いっちゃんにこれまで彼氏がいなかったことのほうが変だよなぁ。このへんじゃ韓ドルよりいっちゃんのほうがよっぽどアイドルじゃん」
 実の妹に対する返事としてはやや気持ち悪いかもしれないけれど、僕は「そうだよね」と頷いた。
 でもこれに対して僕のことを気持ち悪いとかシスコンという地元民は、たぶんいないと思う。本当に大袈裟じゃなく、泉はこの田舎町のアイドルだ。二卵性双生児といって、僕と泉は双子だけど顔が全然似ていない。性格もだ。それから頭の出来も、運動神経も、悲しくなるくらい似ていない。
「岳、掴まっとけよ。ウンコロード入るぞ」
「はぁい」
 野生動物のフンが落ちていることが多い道、いわゆるウンコロードでは蛇行運転になるので、落ちないように掴まってろ、とスバくんが忠告してくれた。もう数えきれないほど二人乗りをしてきたけれど、初めてした日から今日まで、毎回かかさず言ってくれるんだ。
 スバくんの大きな背中に合法的に抱きつけるから、僕はいつも野生動物たちに大感謝していた。
「岳はどうなの、最近」
「自分の脳みそが足りなすぎて泣きたくなるけど、まあなんとか」
「相変わらず息するようにネガるね~! 俺、岳のそういうとこおもしろくて好きよ」
「……ほめてんのか、けなされてんのか、わかんない。僕の脳みそじゃ処理できません」
「あっははは! 卑屈ぅ~!!」
 下り坂で思い切りペダルを踏み込んだスバくんは、パリピみたいにテンションアゲアゲで僕をなじった。おかしくって、僕も思わず声を出して笑ってしまった。
「岳は笑っとけ、そのほうがかわいいぞ」
 スバくんはすごくずるい。
 僕がスバくんを好きだったこと知ってるくせに、簡単にこんなこと言って僕の心をひねりつぶす。
 スバくんはいつまでも僕を逃がしてくれない。
 だから早く、ここから逃げたいんだ。