凛は目の前に立つ黒い服の男を見て、血の気が引いた。

「あなたは…誰?」

男は無表情のまま、凛の顔をじっと見つめていた。彼の手はポケットの中にあり、その仕草が不気味さを際立たせている。凛は身を引きつつ、ドアを閉めようとしたが、男はそれを阻止するかのように一歩足を踏み入れた。

「記憶を渡せ。」

低く、冷たい声。凛の胸がざわめいた。

「記憶って…どういう意味?」

「お前が持っているカードだ。それは本来、ここにいるべきものじゃない。」

男はポケットから小型の端末を取り出し、凛の目の前に突きつけた。それは、記憶取引所の管理端末のようだった。そこには彼女が売却した記憶のデータが表示されている。

「どうしてその端末を…?あなた、取引所の人間なの?」

男は答えず、冷たく笑うだけだった。

次の瞬間、男が凛に向かって飛びかかってきた。驚いた凛はとっさに近くにあったテーブルを掴み、それを盾にして抵抗する。

「離れて!」

凛は叫びながら、力いっぱい男を押し返した。男はバランスを崩し、一瞬の隙ができた。その隙を突いて、凛は部屋の奥に駆け込み、電話を手に取る。だが、男は素早く立ち上がり、彼女に再び迫った。

「渡せと言っているだろう!」

凛は咄嗟に記憶カードをポケットに押し込んだ。そして、男が彼女に手を伸ばした瞬間――。

玄関の向こうから、ドアを蹴破るような音が響いた。

もう一人の黒い服の人物が現れたのだ。

「待て、こいつはまだ使える。」

新たな男は鋭い声でそう言い、最初の男を制止した。

「…分かった。」

最初の男は渋々と手を引き、凛を睨みつけながらこう言った。

「次はないぞ。」

二人は凛の部屋から出て行ったが、凛はその場で動けなくなっていた。心臓が激しく鼓動し、汗が背中を伝う。

「一体…どうなってるの…」




翌日、凛は再び昼間に出会った男――地下マーケットで会った情報提供者――に連絡を取った。彼女は昨夜の出来事を話し、助けを求めた。

「それは『記憶狩り』の連中だ。」

男の言葉に、凛は困惑した表情を浮かべた。

「記憶狩り?」

「記憶を違法に盗み出し、売買する連中だよ。取引所の元従業員や裏社会の連中が関わってる。お前が売った記憶には、奴らが絶対に手放したくない情報が含まれてるんだ。」

「それって…国家機密のこと?」

男は頷いた。

「お前の記憶には、政府が行っていた違法な人体実験の証拠が含まれている。取引所はその記憶を消去するために動いてるんだ。」

「でも、そんなこと知らなかった…私はただ、家族の記憶を売っただけなのに…」

「取引所が記憶を操作してたんだよ。お前の記憶に別の記憶を混ぜた。元々お前の記憶に何が含まれていたのか、もう誰にも分からない。」

凛の手は震えていた。自分がただ平穏を手に入れるために売った記憶が、こんな恐ろしい事態を引き起こすとは思いもしなかった。


その夜、凛は自宅を後にした。男の忠告通り、取引所や記憶狩りの追跡を避けるため、身を隠す必要があった。だが、逃げる途中でも、あの奇妙な既視感が再び彼女を襲う。

「この場所…どこかで見たことがある…」

通りかかった廃墟の建物。その光景は、記憶カードで見た映像の中に登場していた場所だった。

「ここが…私の記憶の中の場所?」

彼女は恐る恐る廃墟の中に足を踏み入れた。そこには血の跡や破壊された機械が散乱していた。どこからか聞こえる風の音が、彼女の背筋を寒くさせた。

すると、建物の奥から何かが動く音が聞こえた。

「誰かいるの?」

凛が声をかけると、暗闇の中から一人の男が姿を現した。その顔を見て、彼女は息を飲んだ。

「あなたは…あの夢に出てきた…」

それは記憶カードの映像に映っていた黒い服の男の一人だった。