凛が記憶取引所を出てから数日が経過した。

生活は一見、以前と変わらないように思えた。朝起きて、仕事をして、夜になれば眠る。それだけの日々。ただ、頭の奥に空洞ができたような違和感が常に付きまとっていた。

彼女は子供時代の記憶をすべて失ったはずだったが、その空虚感はそれ以上の何かを失ったような感覚を伴っていた。それでも彼女は、その感覚を無視しようとしていた。

「これで良かったのよ。」
凛は朝食のトーストをかじりながら、自分に言い聞かせた。

借金は返済した。
辛い思い出も消えた。
だから、もう過去に縛られる必要はない。

そう考えるたびに、胸の中のもやもやは少しだけ軽くなった気がした。



その夜、凛は久々に悪夢を見た。

暗い森の中を走っている。周囲は木々が生い茂り、どこまでも続いているようだった。視界はぼんやりとしているが、何かが迫ってくる気配だけがはっきりと感じられる。

ふいに足が止まり、振り向くとそこには人影があった。黒い服を着た長身の男。その顔は影に覆われ、見えない。それなのに、目が合ったような気がして背筋が凍る。

「戻せ。」

低く響く声。どこか遠くから聞こえてくるような、不気味な声だった。

「戻せ。俺の記憶を。」

凛が逃げようとした瞬間、足元に何かが絡みつき、引きずり倒される感覚――そこで目が覚めた。


翌日、凛は夢のことを気にしないように努めたが、どこか落ち着かない感覚が消えなかった。

仕事帰り、彼女は駅のホームで不思議な視線を感じた。振り返ると、そこには誰もいない。だが、視線の感覚は消えない。

「気のせいよ。」
そう自分に言い聞かせながら帰路についたが、その夜も不安は募るばかりだった。

数日後、ついにその視線の主が目の前に現れる。



夜の帰り道、凛は自宅近くの路地で足音がついてくるのを感じた。振り向くと、そこには黒いフードを深く被った男が立っていた。

「おい。」

男が声をかけてきた。低く、ぞっとするような声だった。

「…何の用ですか?」
凛は勇気を振り絞って尋ねるが、男は答えない。ただ、ゆっくりとポケットから何かを取り出す。それは小さな記憶カードだった。

「これを見ろ。」
男は記憶カードを突きつけてきた。

「何ですか、それ?」

「お前の記憶だ。」

その言葉に凛は凍りついた。自分が売却した記憶は、記憶取引所が管理しているはずだ。なのに、この男がなぜそれを持っているのか?

「冗談ですよね?」

「いいや。これを見ればわかる。」

男は無理やり凛の手にカードを押し付けると、そのまま姿を消した。慌てて後を追おうとしたが、路地のどこにもその姿は見当たらなかった。


その夜、凛は記憶カードを前に、ためらい続けていた。これは自分が売却した記憶だという。だが、どうしてこの男がそれを持っているのか。

「…確認するしかない。」

彼女は記憶再生機を起動し、カードを挿入した。

次の瞬間、彼女の目の前に映像が広がった。それは、自分の知らない風景だった。

廃墟となった施設の中で、血まみれの床を見下ろしている自分。
背後には、黒い服を着た複数の人影。
そして、聞き覚えのない声で叫ぶ自分自身――。

「こんな記憶、私は知らない…」

だが、その中に映る自分の顔は確かに自分だった。