凛はビルのロビーで順番を待っていた。
壁に埋め込まれたスクリーンには、青い空を背景にした明るい宣伝が映し出されている。
「記憶を売って、未来を買おう。」
柔らかな声のナレーションが響き渡り、次の場面では初老の男性が孫たちに囲まれ、幸せそうに笑っている。彼はカメラに向かってこう言う。
「古い悲しみを手放して、新しい喜びを手に入れました。」
凛は苦々しくその映像を眺めながら、自分の順番を待った。受付カウンターには人が並び、誰もが同じように沈んだ表情をしている。高価なスーツを着たビジネスマンもいれば、ボロボロの服を着た中年の女性もいる。人種も年齢も関係ない。この「記憶取引所」に来る人間に共通するのは、皆どこかに「手放したい過去」を抱えているということだ。
「凛・高月さん、お待たせしました。」
電子音声で呼び出され、凛は小さな個室に案内された。室内は無機質な白い壁に囲まれ、中央に置かれた椅子が一つ。天井からぶら下がるカメラが、彼女をじっと見つめているようだった。
担当者が入室してきた。記憶取引所の制服に身を包んだ30代くらいの男性。口元に浮かぶ笑みがどこか人工的だった。
「本日はどういった記憶をお売りになりますか?」
「子供の頃の記憶です。」
凛の声は平坦だった。それを聞いても、担当者は驚きもせず、スムーズにタブレットを操作する。
「承知しました。ご記憶の確認をさせていただきますね。」
机の上に置かれた小型のヘッドセットを、凛は指示通りに頭に装着した。装置が作動すると、頭にひやりとした感触が走り、次の瞬間、彼女の脳裏に幼い頃の記憶が鮮明に蘇った。
彼女は6歳の誕生日に母親が作ってくれたケーキの匂いを感じ、兄と遊んだ夏の日の陽射しの温かさを覚えていた。家族がいた頃の幸せな時間。それを思い出すたびに、彼女の胸には空虚さと苦しみが襲ってきた。
「確認できました。この記憶は非常に高い価値があります。」担当者が言った。「おそらくお客様の記憶が希少なタイプだからでしょう。例えば…」
「理由は聞きたくありません。」
凛は強く言い切った。彼女は、自分の記憶がいかに他人にとって価値があるかなど興味はなかった。ただ、この思い出を切り離し、未来に進むための手段としてしか見ていなかった。
「かしこまりました。」担当者は肩をすくめ、再びタブレットを操作した。「契約書にサインをお願いします。これで取引完了です。」
凛はペンを手に取り、何も考えず署名を終えた。その瞬間、ヘッドセットが再び作動し、脳内から記憶が抜き取られる感覚が襲った。頭の奥が軽くしびれ、温かいものが流れ出ていくような奇妙な感覚だ。
次の瞬間、それは消えた。
母の顔も、兄の声も、家族の思い出も。すべてが頭の中から完全に消え去った。
「これで完了です。」担当者が満足そうに笑った。「新しい人生をお楽しみください。」
凛は深く息をつき、部屋を出た。記憶を売却した直後の虚しさに、胸の奥が冷たく凍るようだった。しかし、彼女はそれを乗り越えなければならないと思った。
「これで、前に進める…」
彼女はそう自分に言い聞かせながら、記憶取引所を後にした。
しかし、凛はまだ知らなかった。
自分が売った記憶が、単なる取引ではなく、巨大な陰謀の始まりであることを。
壁に埋め込まれたスクリーンには、青い空を背景にした明るい宣伝が映し出されている。
「記憶を売って、未来を買おう。」
柔らかな声のナレーションが響き渡り、次の場面では初老の男性が孫たちに囲まれ、幸せそうに笑っている。彼はカメラに向かってこう言う。
「古い悲しみを手放して、新しい喜びを手に入れました。」
凛は苦々しくその映像を眺めながら、自分の順番を待った。受付カウンターには人が並び、誰もが同じように沈んだ表情をしている。高価なスーツを着たビジネスマンもいれば、ボロボロの服を着た中年の女性もいる。人種も年齢も関係ない。この「記憶取引所」に来る人間に共通するのは、皆どこかに「手放したい過去」を抱えているということだ。
「凛・高月さん、お待たせしました。」
電子音声で呼び出され、凛は小さな個室に案内された。室内は無機質な白い壁に囲まれ、中央に置かれた椅子が一つ。天井からぶら下がるカメラが、彼女をじっと見つめているようだった。
担当者が入室してきた。記憶取引所の制服に身を包んだ30代くらいの男性。口元に浮かぶ笑みがどこか人工的だった。
「本日はどういった記憶をお売りになりますか?」
「子供の頃の記憶です。」
凛の声は平坦だった。それを聞いても、担当者は驚きもせず、スムーズにタブレットを操作する。
「承知しました。ご記憶の確認をさせていただきますね。」
机の上に置かれた小型のヘッドセットを、凛は指示通りに頭に装着した。装置が作動すると、頭にひやりとした感触が走り、次の瞬間、彼女の脳裏に幼い頃の記憶が鮮明に蘇った。
彼女は6歳の誕生日に母親が作ってくれたケーキの匂いを感じ、兄と遊んだ夏の日の陽射しの温かさを覚えていた。家族がいた頃の幸せな時間。それを思い出すたびに、彼女の胸には空虚さと苦しみが襲ってきた。
「確認できました。この記憶は非常に高い価値があります。」担当者が言った。「おそらくお客様の記憶が希少なタイプだからでしょう。例えば…」
「理由は聞きたくありません。」
凛は強く言い切った。彼女は、自分の記憶がいかに他人にとって価値があるかなど興味はなかった。ただ、この思い出を切り離し、未来に進むための手段としてしか見ていなかった。
「かしこまりました。」担当者は肩をすくめ、再びタブレットを操作した。「契約書にサインをお願いします。これで取引完了です。」
凛はペンを手に取り、何も考えず署名を終えた。その瞬間、ヘッドセットが再び作動し、脳内から記憶が抜き取られる感覚が襲った。頭の奥が軽くしびれ、温かいものが流れ出ていくような奇妙な感覚だ。
次の瞬間、それは消えた。
母の顔も、兄の声も、家族の思い出も。すべてが頭の中から完全に消え去った。
「これで完了です。」担当者が満足そうに笑った。「新しい人生をお楽しみください。」
凛は深く息をつき、部屋を出た。記憶を売却した直後の虚しさに、胸の奥が冷たく凍るようだった。しかし、彼女はそれを乗り越えなければならないと思った。
「これで、前に進める…」
彼女はそう自分に言い聞かせながら、記憶取引所を後にした。
しかし、凛はまだ知らなかった。
自分が売った記憶が、単なる取引ではなく、巨大な陰謀の始まりであることを。

