おそれながら申し上げます———
ヒズミは震える声を絞った。

「———王太子殿下のご病気の原因は、食物アレルギーではないでしょうか?」

侍医ネネイ師の返事は、意外なものだった。

「娘、食物あれるぎー、とはなんぞ?」

(そこから!?)
こちらは一世一代の覚悟で口にしたというのに…これが異世界かと、あらためてその現実を噛みしめる。

遡ること三ヶ月ほど前、坂巻陽澄(さかまきひずみ)は職場から自宅寮への帰宅途中に、突然足元が抜け落ちたような感覚に襲われ、そのまま気を失った。
目が覚めたら異世界で、自分を覗きこむ見知らぬ人たちに囲まれていたというわけだ。

時空の乱に巻き込まれたと説明された。こちらの世界では稀に起こることとして認識されており、陽澄のような存在は《異境人(いきょうじん)》と呼ばれている。
名はそのままヒズミと呼ばれ、後宮で宮女として仕える身となった。

ヒズミに限らず、異境人は王宮に召し抱えられるのが通例で、それというのもこの世界にはない知識や技術を期待されてのことだ。
高度な何がしかを持っていれば、相応に遇されるのだろうが、あいにくと十九歳で食堂で働いた経験しかないヒズミにできるのは炊事ぐらいのものだ。
寡婦(かふ)だったヒズミの母親は、とある寮の食堂で住み込みで働いており、ヒズミもそこで育ったのだ。
昨年母を病気で亡くしてからは、跡を継ぐように自分も食堂で働いていた。

学校と食堂と厨房がヒズミの知る主な世界で、できることといえば大量の食事の支度ぐらい。
それを知った王宮の役人の顔に、うっすらと失望の色が浮かんだことに密かに傷ついた。

結局、後宮の賄い場で下級の宮女として働く身となった。
貴人の食すものは、むろん専属の料理人が腕をふるうので、ヒズミの役割は後宮で働く大勢の人の食事の支度だ。
洗い物に下ごしらえに大鍋いっぱいのスープを掻き混ぜる…

異世界トリップをしたというのに、やっていることは前の世界とたいして変わらない。
(結局どこにいたって、わたしはわたしってことか…)

給金は貰えるし(それが多いか少ないかも判断がつかない)、同僚は親切で、衣食住が保証されているのだから、恵まれているほうなのだろう。
国が違えば奴隷にされていたかもしれないのだから。
異境人は、感覚としては外国人留学生のような扱いで、珍しがられ多少のことは大目に見てもらえるので、助かる面もある。

新しい世界に、新しい生活に慣れてきた頃、ヒズミは王宮のひいてはこの国の懸案を耳にするようになった。

いたって穏健に王政を営んでいるこの国だが、たった一人の王太子殿下が幼少期から原因不明の病におかされているのだという。
十五歳になるという王太子リライアムは、英明の才に恵まれているが、病が原因で気鬱気味になってしまい、自室にこもりきりで今では人前に姿を現すこともまれだ。
王宮医師団が手を尽くしているものの改善の見込みは薄い。

「どんなご病気でいらっしゃるの?」
半分好奇心でヒズミは同僚のフィオナに聞いてみる。

それがね、とフィオナが語るところによると。
王太子殿下の肌は湿疹で赤らみ、ひどいと水疱になり、いくら軟膏を塗ってもその場しのぎにしかならない。
痒みに肌を掻きむしってしまうので、体に包帯を巻き顔を頭巾で隠していることが多いという。
せめて滋養のつくものをと料理人が丹精こめた食事も、内腑の具合が悪いのか腹痛を訴え、ひどいと嘔吐や呼吸の苦しさ、発熱まで引き起こしてしまう。

国王夫妻も当然心痛の極みであり、湯治やはては祈祷師まで頼んだこともあるというが、効果はなく原因すら不明だ。

「お命どうこうという容体ではないようなのだけど、ずっとこんな状態でいらっしゃると国の将来にも関わることだから」
フィオナは深刻な表情で口を引き結ぶ。

しかしヒズミは全く違うことが頭に浮かんでいた。
(それってひょっとして…)
一つの可能性だが、ありえると思えた。
ヒズミ自身、幼い頃似たような症状で悩まされていたからだ。

ヒズミはフィオナに自分の思いつきを話してみた。深い意味はなく、あくまでも話のネタだ。
だがフィオナはひどくむつかしい、たとえるなら珍味を口に含まされ、美味いとも不味いとも判別しかねる子どものような表情を浮かべてみせた。
なにかいけないことを言ってしまったかと、ヒズミは慌てて打ち消そうとする。
「あの、たいした話じゃないから、忘れて。思いつきで言っただけだから」

「よく分からないけれど、異境にはそういう、あれるぎーという名前の病気があるのね?」
フィオナは知的好奇心旺盛な性質(たち)で、だからこそ異境人であるヒズミに打ち解けて接してくれるわけだが。

「病気というか、体質みたいなものかな」
医者ではないから詳しいことは説明できないと言葉をにごして、その場は終わったと思ったが、事態は思わぬ展開を見せた。

数日後、ヒズミは宮女長の呼び出しを受けたのだ。
なにごとだろうと部屋に入ると、宮女長はフィオナから話を聞いたともの柔らかな表情で切り出した。

「あ、あれは、ただの思いつきで、なんの根拠も…」
自分は医者でも管理栄養士でもない。日々食堂で定食を作っていたので、食材の調理法はそれなりに分かるのと、子供の頃アレルギー体質だったので、母と自分で除去食をあれこれ工夫していたというだけだ。

それでもよいのです、宮女長は静かに口にした。
「医師団も万策尽きているのですから。異境人の新たな知見なら耳に入れる価値があるでしょう」

下級宮女の戯言(ざれごと)と片付けてほしいのだが、異境人というだけでそれなりに重きをおかれてしまうようだ。
それに———本当に藁にもすがる思いなのだろう。

その翌日には王太子殿下の主治医ネネイ師に面会することになった。
いかにも学者然とした物腰の年配の男性だが、威圧感はなく小柄で肉の薄い体つきをしている。
顔に刻まれた皺は、王太子殿下のことを語るとき、いっそう深くなる。
王家への忠誠心と、医師として患者を救うことができないことへの苦悩が垣間見える。

「病を治せなどとは言わぬ。せめて病状が軽くなる、暗闇にさす一(ひとすじ)の光を求めているのだ。宮女長の話では、そなたにはなにか思い当たることがある、と」

その言葉に、ヒズミは震える声を絞った。
「おそれながら申し上げます———王太子殿下のご病気の原因は、食物アレルギーではないでしょうか?」

侍医ネネイ師の返事は、意外なものだった。
「娘、食物あれるぎー、とはなんぞ?」

食物アレルギーと申しますのは…ヒズミは自分の知る限りのことを、なるべく平易な表現で説明を試みた。
我々の身体には、細菌等から身を守るための免疫という機能が備わっている。
アレルギーはその機能の暴走のようなもので、本来無害な物質を敵とみなして攻撃してしまうことによって起こる。

「なんと…」
ネネイ師はあごをさすって、しばし沈思黙考する。
「つまり害のない食物を、体は毒として反応している…と」

「すべてではありません。特定の食材に対してだと思います」

「解せぬ。なぜ殿下のお身体にそんなことが」
首を振り振りネネイ師はぶつぶつとつぶやくが、それが分かれば苦労しないのがアレルギーというものだ。

「どうすればその免疫の暴走を(ただ)すことができるのだ?」

「残念ながら、わたしのおりました異境においても、根本的な治療法は見つかっておりません。対症療法しか…」
身を縮めてヒズミは答える。

しかしながらネネイ師は希望を見出しているようだった。
「どのような対症療法なのだろうな」

「いちばん効果的なのは、やはりその物質を食事から除去することです」

自身幼い頃に食物アレルギーがあったが、できる限りの除去を続けたことで体質が改善し、小学校の終わり頃にはアレルギー反応が出なくなり、今では気にすることなく食事を摂ることができるようになった。

「すべての人が治るとは限りませんが、湿疹や胸のむかつきといった日常の症状が軽くなるだけでも…」
王太子殿下の症状が、本当に食物アレルギーだったとしての話だが。

的外れなことを言っているのではないかと案ずるのだが、ネネイ師の反応からすると思い当たる節があるようだ。

「国王陛下と王太子殿下に奏上せねばなるまい」
確たる口調でそう結論づけた。

ただの思いつきが、宮女仲間とのお喋りが、えらいことになってしまった。
(おのの)きつつも、ヒズミは自分の役割はここまでと思っていた。

あとは医師団と専属の料理人の領域だ。ヒズミの見立てが間違っていても、(とが)を受けることはないだろう。
当たり(ビンゴ)だったら———ひょっとすると(ろく)を賜るかもしれない。
そんなことをつらつら考えながら、皿を洗い、厨房の床を磨き、大鍋をかき混ぜ、合間に仲間の宮女とお喋りを交わす。

であるからして、王太子殿下その人から呼ばれているとネネイ師から聞かされたときには、卒倒しそうになった。

「殿下自らご興味をお持ちになられて、直接話を聞きたいと思し召しなのだ」

「わたしのような一介の宮女が、滅相もございません」
言葉遣いはこれで合っているだろうか。身分制度のない世界から来たので、高位の人への態度や言葉遣いには不安しかない。

「そなたは異境人でもある。殿下はできるだけ自分の目で見、自分の耳で聞き、得心したいという性分であられるのだ」

それはご立派な心がけでと思いつつ、今は迷惑でしかない。断ることができない我が身が恨めしい。
ヒズミはいつもの簡素な宮女の制服ではなく、上質な布で仕立てられた服を与えられ、ネネイ師に連れられ殿下の私室へお目通することとなった。

公の謁見ではないので、緊張せずともよいとネネイ師から言われたものの、これが緊張せずにいられようか。
この国の最高権力者(の子息)に会うのである。

果てしなく長い廊下を衛兵に先導されて歩き、何度も角を曲がり、階段を上ったり下がったりした後、ようやく一つの扉の前で立ち止まった。
中に通されると、聞いていたとおり室内は薄暗かった。カーテンが引かれ、灯りは部屋の隅にあるだけだ。
荒れた肌や顔を見られたくないのだろう。気持ちは分かる。十五歳という自意識の塊のような年頃で、衆人に注目される立場でありながら、赤ら顔や湿疹に悩まされているのだ。

部屋の奥にある大きなソファに、人影があった。
元の世界の知識で表現するなら、中東の男性がまとうトーブのような衣装を身につけている。頭巾をかぶり顔まわりを布で覆っているので、なおさらエキゾチックな雰囲気がただよう。
ゆったりと体を包む服装は、肌への摩擦を減らすためだろう。

「殿下、異境人ヒズミをお連れしました」

ご苦労、と返された声は低い。声変わりを迎えたばかりのまだ音程に不安定さの残る少年の声だ。
ヒズミはネネイ師の後ろでひたすら低頭して肩を丸める。礼を欠かないように必死だ。

ヒズミとやら、名を呼ばれ、おそるおそる顔を上げる。
薄暗がりであり顔には布が垂らされ、はっきりと外貌はうかがえない。
頭巾と前髪の奥からのぞく双眸が、灯りをはじいて光る。よく研がれたナイフで切り出したような端正な顎の輪郭がのぞく。
この方が———リライアム殿下。

「ネネイから話は聞いた。我が病を改善する手立てがあるとのことだな」

「…左様でございます」
ネネイ師に促されるまま、食物アレルギーの説明を試みる。
再確認といった様子でリライアムは耳を傾けている。

「———合点のいくところがある」
ヒズミが説明を終えると、リライアムはぽそりと呟いた。
「以前、流感で何日も寝ついたことがあった。油気のある食事を受け付けず、粥と果物のしぼり汁くらいしか喉を通らなかった。
ずいぶんと衰弱したが、不思議とそのあいだ肌の赤みや痒みは軽くなったのだ」

「アレルゲンを摂りこまなかったからではないかと」
話が早い。評判通りの聡明な王太子殿下だ。

「わたしを害するアレルゲンとやらはいったい何なのだ?」

ネネイ師と検証を重ねたのですが、と前置きする。なるべく責任を分散させてほしい。
(にゅう)(らん)ではないかと」

王太子殿下という立場のおかげで、口にした献立は料理人によって、病状は医師団の診察記録に詳細に残されている。
その二つを突き合わせると、原因物質が浮かび上がってきた。

乳と卵、と繰り返してリライアムは黙りこんだ。やああって口をひらく。
「それは———ほとんど全ての食事に含まれているではないか」

「はい、ですから厄介かと。おそれながら、奇しくも私めも幼少期乳卵(にゅうらん)アレルギーを患っておりました」

「乳と卵を除くということは、ヨーグルトもバターもチーズも、どころかパンすらも食せぬ。馳走(ちそう)を諦めるのはともかく、必要な栄養を摂ることができるのだろうか」
リライアムの声が悲痛の色を帯びる。

ヒズミの身のうちに、ふつふつと湧きあがるものがある。
アレルギーのせいで、子どもの頃は難儀したくらいにしか思っていなかった。大人数の食事の支度と後片付けをこなして日は流れてゆくものだった。
自分が誰かの何かの役に立つ存在だなどと、ついぞ今まで感じたことがなかったのだ。
この体験や知識を活かす———言葉にするならば、それは使命感というべきものだった。

気づけば言葉が口をついていた。
「そんなことはございません」手を胸の前で組み合わせて続ける。
「乳と卵が食せずとも、美味しい料理はたくさんございます。どうか———」
その後が続かなかった。お気を落とさず、というのは自分の立場では不敬に感じられた。

ふっとリライアムが表情をゆるめるのが気配で伝わる。
「これまであらゆる薬や治療法を試してきたが、どれもたいして効果はなかった。
体の痒みになかなか眠れず、浅い眠りから覚めるとシーツは血で汚れ、爪のあいだには掻きむしった皮膚がこびりついている」

聞くだに痛ましい話に、ヒズミは知らず眉根を寄せる。

「その新しい治療法、食事療法というやつか、を試してみよう」

どうかうまくいきますように、と願うのみだ。しつこいようだが、自分は後宮の賄い場で働く一介の宮女に過ぎないのだから。

「そのほう、ヒズミといったな」

はいと、反射的に答える。

「わたしの専属料理人に加えよう。アレルギー除去食とやらを作ってみせよ」

思いがけない事態になってしまった。



ネネイ師と、しきりと恐縮するヒズミが部屋を辞したのち、リライアムの手は無意識に体をまさぐる。
人前では抑制しているが、痒みは常に彼を苛んでいる。
軟膏を塗り、包帯を巻き、柔らかい布地の服をまとっても、肘の内側や首など皮膚の柔らかい箇所は特にただれやすい。
今もじゅくじゅくと体液と血を滲ませている。

それが自分の身体が自分を守ろうとしての症状だとは———ネネイから聞いてもにわかには信じがたい話だった。

無害なものを敵と誤認して攻撃し、結果内から蝕まれている。
それを国と置き換えれば、あるいは、(まつりごと)にも通じることかもしれない。

元来思慮深い性質だったが、病はリライアムの思考をさらに内省的に多層的なものにしていた。

ヒズミという異境人の少女、十九歳というからまだ少女といえる年齢だろう。彼女の手は日々の水仕事で荒れていた。
その手を醜いとは思わない。自分の身体のあちこちも似たようなものだ。
老いと死と病は、身分の如何を問わず平等に与えられているものだ。
自分のこの病になにか意味があるのなら、不遇な立場の者について思いを深くしたことかもしれない。
そうとでも思わなければやりきれなかった。

しかし乳と卵が使えなくて、いったいどんな料理ができるというのか。
味気のない粥や、焼いただけの肉と魚…そういったものしか思いつかない。
ヒズミは何を作ってくるものか、期待せずに待つこととしよう。




「豆から(ちち)を作るなんて、本気で言ってるのか?」

王太子の料理長であるハカンが胡乱(うろん)な目を向けてくる。

うまくいくか分かりませんが、と返す。やってみないことには始まらない。
王太子殿下付きの料理人の一員に加えられてしまい、ヒズミがおっかなびっくり着手したのは、豆乳作りだった。
これがなくては、乳卵除去食のバリエーションは、ひどく貧しいものになってしまう。

正直、自分が料理人たちに快く受け入れられるとは思えなかった。
前の世界で例えるなら、彼らが三つ星レストランのシェフならこちらは大食堂の賄いさんだ。プロとアマチュアほどの差があるだろう。
おまけに殿下の病気の原因は食事にあるなどと言われて、面白いわけがない。

塩対応を覚悟していたヒズミが対面したのは、中年というほどの齢でもない、三十代前半ほどに見える男性だった。
リライアム付きの料理人の長で、ハカンと名乗った。背が高く肩幅が広いがっしりした体躯に、鋭い眼差しが印象的だ。
とはいえ粗野というふうでもなく、こちらへの態度は中立といったところだ。まあ話を聞こうか、というような。

ヒズミは、殿下が乳卵無しでも今までと同様の食事を楽しめるように、豆の乳を作るつもりだと伝えた。

本気で言ってるのか、というハカンに、うまくいくか分かりませんが、と返して続ける。
「何日かかかると思います」

ハカンは腕を組み、顔をぐいと振り向けて「シッカル」と読んだ。
一人の少年が前掛けで手を拭きながら飛んでくる。
「こいつを助手に使っていい。乳が使えないと、俺たちも難儀する。必要な物は用意するから言ってくれ」

「ありがとうございます」と言葉少なに答えた。

料理長、確認をお願いしますと、背後から声がかかる。
銀の盆を二人がそれぞれ(うやうや)しく抱えている。
粉を薄く伸ばして焼いたとおぼしき皮が重ねられ、トッピングが小皿にあれこれと盛られている。
好きな具を包んで食べてもらうという趣向だろう。なかなか美味しそうだ。
もう一つの盆には、果実が瑞々しい肌をみせている。

しかし、本来なら焼き菓子の一つでも欲しいところかもしれない。

「うむ、毒味の後、殿下にお出ししてくれ」
ハカンが短く指示を出す。

ヒズミに向き直り「こちらは仰せのとおり、乳と卵を使わない食事を頭を絞ってお作りするだけだ。異境から来たという、あんたの知恵も貸してもらいたい」と率直な言葉を重ねる。

美味しい豆乳を作ろう、とヒズミは決意した。なんとしても。

こと食材に関しては、外国に来た感覚だ。
麦・米・じゃがいもといった代表的な穀物に関しては、ほぼ同じだ。野菜や果物となると見たこともない物も多い。
おいおい慣れていくだろうが問題は———豆だ。

シッカルに言って、あるだけの種類の乾燥豆を出してもらった。
大きさ・色・形など様々だが、とりあえずできるだけ大豆に似ている豆を選ぶ。

「豆から乳が作れるって、ほんとなのかい?」
シッカルは興味津々といった様子だ。

「この豆が、わたしが異境で知っている豆とよく似ていればだけど」
とはいえアーモンドや麦や米からもミルクが作られていることを考えれば、穀物であればできるはずだ。
この国には菜食主義という概念すらないので、わざわざ穀物をすり潰して乳に似たものを作る製法はないらしい。

豆をたっぷりの水に一晩つけて戻す。
水気を切ると、臼に移し豆の半量ほどの新しい水を加えて、すり棒でよくすり潰す。電気がない世界なので、ここが一番しんどい工程だ。
ミキサーが使えれば楽なのになぁと思いながら、シッカルと交代でごりごりと丁寧に豆をする。

「へぇー、乳っぽい見た目になるもんだな」
乳白のどろっとした液状になった臼の中身を見て、興味深そうにシッカルがつぶやく。

それを鍋に入れ、沸騰しないように弱火でひたすら熱を加えてゆく。焦げつきやすいので辛抱強くヘラでかき混ぜ続ける。
子どもの頃、母と何度か作ったきりだが、案外記憶に残っているものだ。
生っぽさが消えた頃合いで、ざるに敷いたさらしにあけて漉す。

「これで完成なのかい?」

「飲んでみましょう」
美味しければひとまず成功だ。豆乳の状態で美味くなければ、料理に使っても美味いものはできない。

シッカルがおたまで掬い、ガラスのコップに注いでくれた。
白くとろみのある液体をぐっと一口含む。口腔内に広がるほのかな甘味、口触りはなめらかだ。
豆くささは、うん、それほどでもない。いわゆる豆乳だ。飲みこむとするりと喉をとおってゆく。
表情筋が弛むのを感じる。

「牛乳とはちょっと違うけど、ふむ、いけるじゃないか」
飲んだシッカルがにかっと笑みをよこす。

鍋にとぷんと満たされた豆乳。その白さが新雪のように眩しく目に映る。
さて、これを使って殿下になにを作って差し上げようか———



カリッと焼けたトーストが皿に重ねられている。
添えられているのはハチミツとジャムが数種類。

リライアムは一切れ手にとって口に入れる。
粉と塩と水と酵母だけで作られたパンは、実に飾りのないきっぱりした味わいだ。
素材の味が伝わるいいパンだ…と自分に言い聞かせるものの、ときに物足りなさを感じてしまう。
卵やバターがふんだんに練り込まれた芳醇な香りと味わいを知っている身としては。

アレルギー除去食とやらに切り替えて十日ほど。少しずつだが効果を実感している。
新しい湿疹が浮いてこなくなり、爛れていた皮膚もだんだん乾いてきた。
食後に吐き気や胃の違和感に襲われることもめっきり無くなった。

———しかしまさに、味気ない生活だな。
自嘲に唇を曲げる。

殿下、と侍従に声をかけられた。
「よろしければ、食後にデザートがあるそうでございます」

リライアムは鷹揚にうなずきを返す。どうせまた果物だろう。
が、運ばれてきた盆に載せられているのは、意外なものだった。
ガラスの器を透かして、薄黄色、つまり卵色の中身が見てとれる。表面にかかっているのはカラメルソースだ。
「これは———プディングではないか?」
指を差して問う。

「卵も乳も用いていない、とハカンが申しております。ヒズミと作ったそうです」

そんなことが、と(いぶか)りながら匙ですくって口に入れる。
柔らかく口の中でほどける食感と甘味に、カラメルのほろ苦さ。
卵のコクとはやや異なるが、味わいはよく似ていてそして———「美味いな」と漏らす。

侍従が肩の力を抜くのが、気配で伝わってくる。

「これは、材料はなんだ? どうやって作ったのだろうな」
確かめようと口に入れるが、分かるようで分からない。

料理人に説明させましょうと、侍従がいそいそと呼びにやらせる。
すぐ外で控えていたであろうハカンとヒズミが現れた。
ヒズミは———相変わらず張り詰めた表情をしている。顔立ち自体は整っているのだから、もう少しなんというか…ふとそんなことを思う。

これはどうやって作った、と二人に訊く。

「豆をすり潰して熱を加えると乳に似たものができます。それに甘味を加え、ゼラチンで固めて作りました」
ヒズミが硬い声で答えた。

豆…言われてみるとほのかな青くささがある気がするが、カラメルの風味でうまく打ち消しているのだろう。
「しかし、この卵のような色は? 豆では出せないだろう」

「ニンジンを擦りおろしてさらしに広げまして、そこに豆の乳をくぐらせますと、このようにきれいな色がつきます」

なるほど、とリライアムは深くうなずく。
「よく工夫したものだな」

漏らした言葉に、ヒズミが一瞬くしゃりと顔をゆがめた。反応が不安でたまらなかったのだろう。

「また作ってくれ」

少女が頭を下げて小さく「はい」と答える。
透明な雫が一滴、きらりと光ってこぼれ落ちた。