
姫川真依ちゃんと出会ったのは小学校の時でした。
転校してきた真依ちゃんはまじめで、明るくて、誰にでも優しくて、いつもみんなの中心にいるような人物でした。後ろ向きでうじうじしがちな自分とは、最初から住む世界が違っていると思いました。
一度体育の授業でケイドロをやることになった時、同じく泥棒側だった真依ちゃんが、すぐに捕まってしまった鈍臭い私1人を全力で助けに来てくれたことがありました。でもちゃんと話したのはその1回くらいで、その頃は友達とも呼べない関係でした。
ただ一方的に、私は心のどこかであんな風になれたらいいのにと思っていたような気がします。
でも中学に上がっても私の性格は変わりませんでした。それどころか、両親の離婚をきっかけにますます人見知りになったぐらいでした。目を見て話せず、授業で当てられてもおどおどするばかり。小学校から仲の良い人なんていませんでしたから、もちろん友達なんてできません。そんな私をいじめっ子たちが見逃すはずがありませんでした。
私が菊田さんにいじめられるようになったのは、1年生の中頃からでした。きっかけらしいことなどありません。派手な菊田さんの周りに似たような子が集まり、少しずつクラスの実権を握っていった。こうなるのは時間の問題でした。なんなら入学して最初に菊田さんを見た時から、なんとなくこうなる運命を悟っていたぐらいでした。
最初は通り過ぎざまにキモいとかクサイとか、子どもみたいな悪口を言われるところから始まりました。それから物を隠されたり、机に落書きをされたり、内履きに噛んだガムを入れられたりと、少しずつエスカレートしていきました。
クラス内には無視のかんこう令が敷かれましたが、元々友達の居ない私にとってはあまり変化はありません。菊田さんたちは、それが面白くなかったみたいです。もちろん人からはっきりと悪意を向けられた経験は無かったので、私は十分過ぎるほど傷ついていたのですが、彼女たちには今ひとつ物足りないようでした。
結局誰にも相談できないまま2年生になりました。運の悪い私は再び菊田さんたちと同じクラスになってしまいました。でも、1年の時と比べて少し違っていることがありました。同じクラスに、真依ちゃんが居たのです。
私と真依ちゃんは友達というわけではありません。真依ちゃんが私に関心を向けることなどないかもしれません。でももしかしたらとバカな期待をしてしまっている自分が居ました。それほどまでに、私の中で真依ちゃんという存在への憧れは格別だったのです。
そしてその憧れは、より一層強いものになるのです。
新しい教室で、いつものように菊田さんから嫌がらせを受けていた時、「やめなよ」という力強い声が聞こえてきました。顔を上げるとそこには、私をかばうように立つ真依さんの姿がありました。
勢いに気圧されて、菊田さんたちは去って行きました。真依さんはケイドロをしたあの日と同じでした。何の取り柄もない私を牢獄から助け出してくれたのです。ありがとうと言おうとしました。でもあまりにも人と話していないせいで、そんな簡単な言葉でさえ上手く発音することができなくて。どんな表情をすれば良いのか、どういう風に唇を動かせば良いのか、パニックを起こした私は口をパクパクさせるだけで立ち尽くしてしまいました。
でも真依ちゃんは、そんな私をまっすぐに見つめて待っていてくれたんです。
別の世界に生きていると思っていた真依ちゃんは話してみれば良い意味で普通で、共通点も見つかりました。真依ちゃんも多感な時期に両親が離婚していたのです。
いまどき親の離婚なんてよくあることかもしれません。しかし私にとってそれは1つのコンプレックスのようなものでした。他のみんなには当たり前にある幸せが自分には欠けていると、そんな風に思っていたのです。でもそれが、初めてできた友達と同じだった。私はこの出会いを、運命のように感じていました。
その間にも菊田さんからの嫌がらせは続いていましたが、そのたびに真依ちゃんが飛んできて間に入ってくれました。そのおかげで嫌なことをされることも段々と減っていきました。
私たちはいろいろな話をしました。好きな音楽のことや、読んでいる本のこと、密かに好意を抱いている異性のことまで。自分はこれからやっと人並みな学生生活を送れるのだと、この時はのん気に考えていました。でも、幸せな日々は決して長くは続かなかったのです。
ともに帰宅部の真依ちゃんと私は、その日もいつものように並んで家路についていました。国語の先生のモノマネだとか、そんなたわいもない話をしていた時です。突然、真依ちゃんが前方に倒れ込みました。驚いてて振り返るとそこには、菊田さんを筆頭に私をいじめていた面々が揃っていました。真依ちゃんは背中を蹴り飛ばされたのです。
唖然とする私を横目に、菊田さんたちは真依ちゃんに暴力をふるいはじめました。止めようと思ったのですが震えて動くことができず、助けを呼びたいのに息の仕方すら分からなくなるほどパニックを起こしていました。
やがて満足した菊田さんたちが去っていくと、そこには土にまみれた真依ちゃんが横たわっていました。私は彼女に駆け寄り、泣きながら謝りました。でもそんな私を、彼女は女神様のように許してくれたのです。
その日から真依ちゃんは、私の代わりにいじめられるようになりました。私と違って明るくて友達も多い真依ちゃんは、菊田さんにとってはいじめがいのある格好の的のようでした。私には効かなかったことも、真依ちゃんには効果てきめんだったようで、目に見えて弱っていくのが分かりました。私はそれをただ遠くから、祈るように見つめるしかできませんでした。
折角できた唯一の友達だったのに、私たちの距離は次第に広がっていきました。決して離れようと思ったわけではありませんが、休み時間も放課後も、菊田さんがすぐに真依ちゃんの所へ行ってしまうので、近づくことすらできなかったのです。
私に救いの手を差し伸べてくれた、女神のような人。その人を今度は自分が助けるために、臆病な自分にできることを一生懸命考えました。そうして私は先生に相談することを思いついたのです。
自分にはどうしようもできなくとも、大人ならきっとなんとかしてくれる。勇気を振り絞って、担任の須藤先生が居る理科準備室へと向かいました。
普段はあまり行くことのない、3階の廊下。角を曲がると視線の先に人影が見えて、思わず身を隠しました。2人いたうちの1人は須藤先生だと、すぐに分かりました。そっと覗いて目をこらすと、なんともう1人は真依ちゃんだったのです。2人は理科準備室の扉の中へと消えていきました。
その時私は嬉しかったのです。真依ちゃんは同じ時に、同じ人に、同じように助けを求めることを思いついたのだと思いました。先生に会うのも1人でないなら勇気が出ます。私は中に入って真依ちゃんとともに話しをしようと、扉に近づきノックをしかけました。しかしその時、部屋の中からバンという大きな音がして、びっくりして固まってしまいました。
あたりは先程より一層静かになったような気がしました。言いようのない緊張感を覚えて、思わず扉のすりガラスに映らないよう身を低くして、耳を澄ませました。すると部屋の中から、「先生、先生」とすがりつくような真依ちゃんの声がかすかに聞こえてきたのです。
最初は泣いているのかと思いました。でもその声はどこか、甘えているようにも聞こえます。中で2人が何をしているのか、気になって仕方なくなりました。それは好奇心とは違った心境でした。今になってもうまく言葉では言い表せないのですが、恐怖に近かったと思います。この世でたった1人、真依ちゃんにだけ話した私の秘密。それは、私の好きな人が須藤先生であるということでした。
扉には鍵がかかっているかもしれませんし、こっそり開ける勇気はありません。すりガラスからは中の様子はほとんど分かりませんでした。どうにかして中を覗く方法がないか、必死に考えました。そして思いついたのです。
私は少し離れた所に貼ってあったポスターの角から、セロハンテープを1枚剥がしました。破かないようにそっと剥がすのに少し手間取りましたが、なんとか上手くいきました。そして扉の前に戻り、それをすりガラスの端の方に貼り付けました。するとその部分は、普通のガラスのように中が透けて見えるようになりました。原理はよく分かりませんが、以前須藤先生が授業中の雑談でそう言っていたのを思い出したのです。
震える手を握りしめて、そのテープに顔を近づけ、恐らく2人が居るであろう方向に視線をずらしました。そしてすぐに顔を離し、セロハンテープを元の状態に戻すことだけはなんとか忘れずに行って、私はその場から静かに逃走しました。
中を見たのは一瞬のことでしたが、今見た光景が頭にこびりついて離れなくなりました。困惑したような先生の顔、あたりに散らばった真依ちゃんの衣服。その方面にはあまり詳しくありませんが、これだけははっきりと分かりました。私は真依ちゃんに裏切られたのです。
それから私は、今までとは違った理由で真依ちゃんの方を見ることが出来なくなってしまいました。明るくて友達が多くて、私の憧れだった真依ちゃん。私をかばったせいでいじめられたのに、何もできない私を許してくれた優しい真依ちゃん。でもその裏で私の大好きな先生を誘惑し、大人の関係を迫っていたのです。
私は迷いました。もしかすると真依ちゃんは、ずっと前から先生にいじめの相談をもちかけていたのかもしれません。そして優しく話を聞いてくれる先生に、かつての私と同じように、次第に惹かれていった。そしてその気持ちが大きくなり過ぎて抑えられなくなり、あんな行動に走ってしまったのだとしたら……。私には真依ちゃんを攻めることはできません。それくらい先生は魅力的な人ですし、それにいじめられている彼女に何もできなかった自分には何も言う資格はないのかもしれません。でもそれでも、裏でこっそりあんなことをする前に、私に一言相談してほしかったという思いが、胸の中に湧いて出てきて止められないのです。
そうして真依ちゃんと言葉を交わすことなく、クラス替えの時期がやってきました。私たちは別々のクラスになり、より一層関わることがなくなってしまいました。真依ちゃんはまた須藤先生のクラスです。私の胸はチクチク痛みましたが、どうにか気持ちに蓋をして日々を過ごすことに専念していました。
しかししばらくすると、隣のクラスの私にまで、よからぬ噂が聞こえてきたのです。それは真依ちゃんが、身体を売ってお金を稼いでいるという話でした。最初は根も葉もない噂程度の扱いでしたが、次第に金額や過ごせる時間が具体的な数字になり、真実味を帯びていくのが分かりました。かつての私なら、それでもそんな話は信じなかったでしょう。でも今の私には、それを信じるだけの根拠がいくつもあったのです。
3年生になってもいじめられ続けてストレスの溜まっている真依ちゃんなら。お母さんと2人暮らしでお金に困っている真依ちゃんなら。あの日見た、妖艶に男性に取り入ろうとしていた真依ちゃんなら。
そして私の中に1つの仮説が浮かび上がりました。もしも真依ちゃんが最初から先生に取り入るために私に近づいてきたのだとしたら?
いじめられているかわいそうな女の子を助け、自分が代わりに標的となることで、正義感があって優しい上に、かわいそうな自分を演出することができる。そしてそれを武器に、少しずつ先生との関係を深めていくのです。
そんなことはない、やめようと思っているのに、頭は勝手に思考を続けました。もしもそれが真実だとすれば、色々な疑問が解決してしまうのです。賢くて芯の強い真依ちゃんが菊田さんたちにされるがままになっていることも、中学になってから突然私と仲良くしてくれるようになったことも、あの日のことも。
考えを振り解くために歩き回っていた私はいつの間にか、あの日のように3階の廊下に辿り着いていました。嫌なことを思い出す前に戻ろうと振り返ると、目の前に須藤先生が立っていました。
慌てて通り過ぎようとした私の肩を、先生が優しく掴みました。具合が悪そうにしていたのを心配してくれたのです。その優しさに私の感情は止まらなくなり、大胆な行動を取らせました。先生を理科準備室に押し込んで、あの日見たことを洗いざらい話したのです。
「先生は真依ちゃんのことをどう思ってるんですか?」
言ってしまってから、先生の方を見るのが怖くなりました。もしも先生も真依ちゃんのことを好きだったらと思うと、心が張り裂けそうでした。でも勇気を持って顔を上げた先には、困惑と戸惑いに満ちた先生の顔があったのです。
先生は真依ちゃんの行動に困り果てていました。あの日もなんとか説得し服を着させて、家に送り届けたそうです。しかしそれでも真依ちゃんは諦めず、先生に何度も何度も迫ってきたというのです。
「実は今日もこの後、姫川さんに屋上に呼び出されているんです。毎回なんとか説得してますが、そもそもこんな話は誰もいないところでしかできませんからね。本当はいけないんですが、屋上の鍵を開けたままにしてあるんです」
ひび割れた状態でなんとか凌ぎ続けていた女神像のメッキが、ボロボロと剥がれ落ちていく音が聞こえました。その内側に入っていたのは神様などではなく、醜い顔のただの人間だったのです。真依ちゃんは私をただの道具としか思っていなかったのでしょう。私たちは最初から、友達などではなかったのです。
驚くほど冷静になった私は、先生に屋上に代わりに行っても良いかと尋ねました。先生はどこかほっとしたような顔で、私に頼みたいと言ってきました。そしてあの日、私は1人で真依ちゃんの待つ屋上へと向かったのです。
初めて開く、赤茶に錆びた屋上へ続くドア。その先に真依ちゃんは立っていました。振り返った彼女は私の姿を認めると、ひどく驚いていました。
私は彼女に、自分が暴いた真相を淡々と聞かせてやろうと思っていました。しかし話ているうちに感情は乱れ、怒りと悲しみが入り混じってあふれ出し、言葉は濁流のようになってしまいました。真依ちゃんは傷ついたような顔をしていました。それが腹立たしくて、私の言葉は呪詛のように恨みと憎しみをはらみはじめました。でもそれと同時に、涙があふれて止まらなくなったのです。
自分でもわけが分からなくなり、私は彼女を残して逃走しました。裏切られて悔しいはずなのに、利用されて悲しいはずなのに、どうしても彼女のことを憎みきれない自分がいて涙を流すのです。階段の途中で座り込み、なんとか気持ちを落ち着けようとしました。しかしその時、窓の外から何かが弾けるような、すごい音がしたのです。それは、真依ちゃんの命が終わりを告げた時の音でした。
私が真依ちゃんを殺したんです。だって本当はあの時、屋上から彼女を突き落とそうと考えていたんですから。涙があふれて止まらなくなって、結局走ってその場から逃げることしかできませんでしたが、私は確かにあの時殺意を持って屋上へ向かったのですから。
私が真依ちゃんを殺したんです。
