部活終わりはもう暗くなる季節だ。肌寒くてジャージを上から羽織った。
 来週の練習試合に向けての調整が続いていた。ゴール前の攻めの連携、攻守の切り替え。どれも僕がいないと成り立たないプレーだった。ポジション的に当然だけれど、まだ足の疲れが取れない。一歩踏み出すたびに膝が軋んで音を立てるようだった。
「茜、明日の小テスト大丈夫そ?」
「えーヤバい。帰ったら詰め込むわ」
「再試めんどいから半分は取らないと」
「めんどー」
 バドミントン部の女子たちが駆けていく。ラケットを持って、嵐みたいに横を抜けていった。
 そうだ、英単語。僕と同じクラスの子の声だったのか。だとしたら……上村さん? 半年前に僕に告白してきて以降は、普通には話せなくなってしまった。そんな彼女が今は生き生きと喋っているのが、嬉しいような、苦しいような。
 単語帳を鞄から探る。全部の教科書の下敷きになり、表紙がぐちゃぐちゃに折れていた。
 ああ、傷ついてるな。
 なぜか足が止まった。早く帰らなきゃ、早く覚えなきゃ。やるべきことは分かりきっている。いつも通りだ。でもそう言い聞かせるほどに、頭も体も反対を向いてしまう。
 周りはどんどん進んでいく。サッカー部の仲間ももうほとんど残っていない。僕は一人、冷たい風に吹かれて取り残される。
 夜なのに雲のせいで土みたいな色の空だった。

 恐ろしいほどの青空だった。青色が驚くほど平坦で、きっと俺の技術では油絵には描けないだろうと思いながら、校門をくぐった。
 校門から昇降口までの間に、ちょっとした花壇がある。低木や花や草が、ある程度整えられて並んでいて、庭と呼ぶ方が適切かもしれない。ただ、校庭とは灰色の砂が敷き詰められたグラウンドを指す言葉だから、慣習的に花壇と呼んでいた。
「あ、あ……」
 妙な声がした。しわがれた、喉の底から絞り出したような、切実な声だった。声をした方を振り返る。あのグレーのパーカーが、震えていた。
「なんで……」
 弱々しく、恨みの籠もった三文字だった。見たことのない薄の姿が怖くなるが、一旦周囲を見渡す。それは俺の目からしても、嫌な光景だった。
 花壇が荒らされている、と言うには中途半端で、それが余計に不快だ。花の鉢はひっくり返され、木の枝は折られ、腐葉土を蹴り散らしたのか葉には茶色がこびりついている。何もかもが無造作だった。花の赤や黄色が踏みにじられて汁を流す。明らかに死んだ色をしていた。
 無事な植物を薄は、必死で元の状態に戻そうとしている。半分だけ折れてぶら下がる枝を折り取り、葉にかかった土をのける。その背中はずっと震えている。俺は見ていられなくて、昇降口へ早足で抜けた。日陰に入った途端、肌寒くなった。

 普段は一瞬で終わるショートホームルームで、植野の様子が変だった。
 近隣住民の方から苦情があったと言うのと同じテンションで、今朝あった事件について淡々と話している。花壇が荒らされたそうだ。でもずっと声が震えている。まるで、平静を無理に装っているみたいだ。
 一通り、生徒指導部から渡されたであろう紙を読み終わる。いつものように、「高校生としての自覚を持って過ごすよう各々が意識してください」と締められていた。私をはじめ、クラスの全員が、そのまま植野がヘラヘラ笑って終わると思っていた。違った。
 ゆっくりと、植野が私たちを見る。目が充血している。
「あのさ」
 そこから一息で植野は言った。
「悪戯だって他の先生たち言ってるみたいだけど、悪戯の方がタチ悪いよ。……やってること、理解してる? いや、別にここにいる人の大半は何もやってないだろうけど、今の話を聞く態度。『またかよダルいな』って思った奴、いるでしょ? 俺はね、週二回も授業してるんだよ、君らに。……生き物を潰すって、意味分かってる? 生きているものを、殺す。植物は、生きるために生きてる、それがすげえの。動物には、特に人間には絶対無理だよな。俺らはそれをさあ私怨で、生きるためじゃなく、ただの暇つぶしで潰す。それがどんなに愚かなことか、伝わんなかったか、残念。まあ俺ごときの授業じゃあ無理ないけど。学校の公序良俗とか、俺はマジでどうでもいい。でも人として、人間なんだろ? 君ら。生きてるものが生きてるものを、生きてることを踏みつけるようじゃ。そんな奴が人間として、ましてや今高校で学んで、真っ当な大人になるなんて、俺は許さない。…………まあいいんですけどね。皆さんの人生だから。僕なんかは、ただの隠居モンですから。お説教は終わり」
 目はまだ赤い。教室は恐ろしいほど静かだった。クラスそのものが、植野の異様な雰囲気に気圧されている。
「早く終わりましょう」
 そう言って出て行った。ドアの閉まる音が、鋭く響いた。

 教室は、いつもとは違う低めいたざわめきで支配されている。耳に痛くないその騒がしさは、少しだけ心地がいい。
 薄のキレる様子には、俺もかなり驚いた。ちゃんと「教員」をやれること、ちゃんと「教員」らしく説教には筋が通っていないこと。三者面談で俺を擁護してくれた薄とは、別人としか思えない声をしていた。
 その恐ろしさにも関わらず俺が妙にすっきりした気分だったのは、クラスの奴らの反応のせいだった。ちゃんと、怖がっていた。半分くらいは訝しんでいるだけかもしれない。しかしそれでも、普段は教員の説教など冷笑して相手にしないような奴らが、ちゃんと薄を話題にしている。
 ただ「ダメ人間」とあだ名をつけられるだけの軽薄な教員じゃない、無駄に強くて、しなやかで、真っ直ぐで、薄はそういう人だ。それがクラスにバレたんだ。こう考え直してもやっぱり、薄が教員に向いている気はしないけれど。
 「あいつヤバかったよね」と声を潜めている隣で俺は、欠伸をした。眠くはなかったけれど目が覚めた気がした。

 生物の授業前、どことなくソワソワしている。無理もなかった、今朝あれだけしっかりキレた植野の授業だから。一体どんな顔をしてドアを開けるのだろうと、私を含めて全員が思っている。
「植野、マジでどうしたんだろね」
「ねーめっちゃ不穏。超キレてたし」
「花壇ごときでさあ。子供じゃないんだから」
「でもあいつ、花壇の世話めっちゃしてたらしい」
「そうなんだ、え、もしかして服汚れてんのってそれ? キモいんだけど」
 初めて知った。服装がだらしないのは本当に嫌だったけど、キモいは言い過ぎてる。流れで言ってしまった。また、二人に追いつこうとして。
「それなー」
 それは何に対しての同意? よく分からない会話が最近増えたなと思う。
「茜? どうした?」
「え?」
「いやなんか、心ここにあらずだなあって。疲れてたりする?」
 自然と見ていたのは北川くんの席だった。今でもたまに、彼が本当に好きだった頃を思い出しは、する。珍しく今日は休みだった。良かったと思う。彼は責任感も強いし、優しい。きっと今回の一件で植野の説教を聞いたら、それだけで気に病んでしまう。そういう人なのだ。
 植野の気持ちも分からなくはない。生物が、生き物が本当に好きだから許せないのだろう。大学ではバリバリ研究していたのだ、熱量だってきっと半端じゃない。でも、私たち全員に言わなくても良かったんじゃ……納得いかない部分はあった。やっぱりまだあいつは、私にとってはヤバい教師だ。
「やっぱ植野嫌い」
「急に真面目な顔になったと思ったらそれかよー分かるけどさ」
「結局どいつもこいつもウザいのは同じだもんね」
 多分二人とは胸の内は全く違う。どう言ったらいいのか分からない気持ちが、胸の奥をぐるぐる回り続けていた。

 今日は部活はないので、絵画教室に直行する。手に持った画材鞄が重い。ガチャガチャ鳴ってしまうので、腕になるべく衝撃が行かないように歩かないといけなかった。
 昇降口を出て、花壇の横を通った。ほんの少し期待して見回したが、薄はいなかった。代わりに今朝ひどいことになっていた花壇は整えられている。しかし綺麗にされ過ぎて、そこで何かがあったことは勘づいてしまう、そういう綺麗さだ。
 たった六時間ほどで、クラスではもう花壇を荒らした犯人の憶測が始まっていた。出席日数ギリギリの不良だとか、不登校の生徒の腹いせだとか、裏山からの野生動物だとか。薄の本気の爆発も、もう噂話の肥やしでしかない。でもまあ、そんなもんか。
 俺自身はこの事件にはほとんど興味はない。生物基礎の授業みたいなものだった。薄が関わっているというだけだ。薄に関心があるみたいで少し悔しいが、「成り行きに任せた」と彼が吐いてくれたときから、どこかで恩を感じている。
 ――画材鞄を持っているのもそういうことだ。三者面談の後、割と簡単に母親は折れてくれて、父親も「とりあえず一年頑張れ」と一応は納得してくれた。今はあの絵画教室の本格的なコースに、週三回通っている。開始時間が早まって、学校から直接行くためにこうして鞄も持っている。
 薄と、俺の描く絵と、進路と、ぐちゃぐちゃな花壇と、オギという植物と。色々なものを雑多に思い返して、感情までぐちゃぐちゃになっていく。今日の自由制作はこの感情と向き合うことになりそうだった。

 生徒指導室に入った僕は、多分死刑囚みたいな顔をしていた。植野先生が待っていた。
 一切感情のない表情で、僕の担任は言った。
「北川さん、でしょ。花壇荒らしたの」
 予想通りの言葉だったから、僕は予定通り無視を決め込んだ。下を向くと、机の脚の間から、植野先生の足元も見えた。かかとがわずかに震えている。貧乏揺すりを我慢しているというのが、僕には分かった。僕もたまにそうなるからだ。
「どうして、なんですか?」
 先生の黒目は全く揺れなかった。僕だけを見る目。それを僕は一番恐れていたはずなのに、なぜか怖くはなかった。力を入れた唇が、緩む。
「……抑えられなかったんです」
「というと?」
 軽蔑も怒りもなく、先生はただ僕を見つめ続けている。言うべき言葉はいくらでも、心の奥底に沈んでいた。
「あの、僕……昔からこうなんです。えっと、色んなストレスが、圧が、物や人を傷つけてしまって。……中学になった頃からは、人を傷つけるのだけはだめだと、物に当たることが多くて。その、本当にすみません」
 ここまでは、いいだろ。意味不明な加害性を告白した僕を、植野先生はきっと憎んでくれる。叱ってくれる。それで終わり。完璧な僕は崩れるけど、醜い僕には誰も注目しない。それで、良かった。なのに、
「へえ」
 先生はまだ無表情だ。それは言ってみれば、観察する目。植物をスケッチするときに、植物を好きとか嫌いとか、ムカつくとか可愛いとか思ったりしない。そういう、完全に中性な視線だった。
「反省しているんです。悪いって分かっているんです。……でも、やめられなかった。高二にもなって馬鹿ですよね。もう二度としたくないです」
 慌てて言葉を付け足す。嘘ではない。でも抑えられないから、無理だとも分かっている。
「じゃあほんとの原因は?」
「……え?」
 思わず高い声が出た。
「何かに追い詰められるから、やるんでしょ? その中身が分かんなきゃ、解決にはなんないよね」
「それは……」
「別に、これは僕だけの問題、植野薄が勝手に気にしてるだけ。何かあるなら、言っちゃったほうが楽だと思いますよ」
「い、いや……」
「別に誰にも言いませんよ。端から見れば小さい事件だし『悪戯』だから、何か不利になることはありませんから」
 悪戯、と言うときだけ先生は顔をしかめた。全部言いそうになるのをずっと、ずっと堪えてきたのに。この人の目は、あまりにも僕自体には無関心で、だからもういいんじゃないかって思いそうになる。いや、思っている。どうせ、めちゃくちゃな先生だ。ヤバい教師だ。
――そうして僕は、とうとう口を開いた。
「ほんとに、何もないんですよ。……ただ僕は、学校でも家でもかなりうまくやってる。自分で言うのも変ですが、成績は悪くないし部活もレギュラー、何なら来年は部長かもしれない。親も将来に期待してくれている」
「うん。それは知ってる」
「逃げ場がないんです。友達もいるし、先生もいるし、家族もいる。……妹はまだ小さくて、僕のことを『お兄ちゃん』って言って好いてくれてるんです」
「それに、疲弊しちゃったと?」
「疲弊というか……良くない感情が溜まっていく感じがします。どこにも出ないそれが、一気に何かを壊してしまう」
「ふーん」
「すみません。どうしようもないですよね、こんなの」
「いや」
「あなたが勘違いしていたらそれは、完全に僕らがいけないんだけど、少なくとも僕ら大人は、あなたに完璧は要求しない。絶対に」
「僕は特に教員だから、生徒になるべく『うまくやって』ほしい。教えたことを身につけてほしい。でもそれは、あくまで練習。社会に出る前の」
「僕らは未成年のあなたたちに、失敗を許す場を提供する義務がある。それが伝わっていないのは、完全に僕の失態です。……申し訳ない」
「あ、謝らないでください。全部僕が悪いので……」
「確かに、僕としては植物を傷つけるのは許しがたいね。でもそれはそれ、これはこれ。僕らがあなたを生きにくくしちゃったわけでしょ?」
「そんな……」
「ねえ、北川さん」
「あなたは生きてる。傷つけながら、それ以上に傷ついて」
「僕が好きなのは生きているものです。だから、完全じゃないあなたを否定しないでいいから、少しずつ、守りましょう。……すみません話しすぎて。嫌ですよねこういうの」
「あ、いや……」
「無視していいですよ。僕はただ、あなたよりほんの少し長く生きているだけだから」
「あの、すみませんでした。本当に」
「まあ、これはこれなんだけど。やっぱりさ、植物は大事にしてほしいから……」
「こうしない?」
「え?」
 先生の提案に僕は、罪悪感に苛まれながらも、驚いて声を上げてしまった。

 このクラスで過ごした一年も終わりに近づいていたが、俺にはやはり何の感傷もなかった。そんなある日、薄はホームルームで妙なことを言う。
「もしかしたら知ってるかもしれないんですけど、僕、個人的に校庭の花壇手入れしてるんですよね」
 個人的に? 花壇? 手入れ? 教室はざわつきと既知で半々だった。どうもそれなりに有名な事実らしい。花壇が荒らされた日のあの薄の様子に、やっと納得する。
しかし、また薄の変人ポイントが上がった。全くどこまでも掴めない奴だ。
「で、今度ちょっといくつか植え替えをしたくて、何人か手伝ってほしいんだけど、やってくれる人いたらお願いします」
「あー日は終業式の日です。そこしか空いてなかったからね」
 ところどころ笑いが起きる。薄がこのクラスに馴染み、このクラスが薄に馴染んだことの証拠だった。
「残ってくれれば僕が指示するんで、暇な人いたら是非」
 薄まで薄笑いしているのは、あまり生徒に期待していないからだろう。何だか腹が立った。こんなに変なのに、まだ生徒の関心から逃れられていると信じている。
「じゃ、よろしくお願いします。ホームルーム終わりー」
 去り際、学級委員の北川に何か話しかけると、いつも通り足早に出ていった。何事もない、二月の終わりだった。

 出すしかない膝上がまだ肌寒い体育館で、校長は話し続けている。現代の国際情勢のヘタクソな解説や、繰り返される「未来を担う皆さん」の言葉。聞いているようで聞いていない生徒が大半だろう。私もそうだ。
 この一年を振り返ってみても、確かな何かを得たと言い切ることは全然できなかった。恋したし、フラれたし、ケンカしたし、仲直りしたし、走ったし、転んだし。雑然とした記憶がランダムに呼び起こされる。背が高くて頭が一つ飛び出ている北川くんの背中を見ても、今はもう少し胸が温かくなるだけだ。思い出ってこういうことなのかと、一人で笑ってみた。
 植野は、体育館の壁に寄りかかっているかいないかギリギリの姿勢を保っている。終業式はスーツの義務はないみたいだけれど、大半の教員が黒や紺のジャケットを着込む中、いつものパーカー姿なのはやっぱり変だった。でももう、その変さも板についていて、不思議と違和感はない。そういう意味では、一年前と印象は違う。
 植野がいたからどうとか全然思ったことはないけれど、来年はこの人との接点がなくなると思うと少し寂しい。植野はちゃんとしてなくて、自我が強くて、それに私は安心した。こんなんでもいいんだ、大人だから完璧である必要はない、虚勢を張らなくてもいい。好意的に捉えすぎかもしれないけれど、植野を見ていてそう思った。
 いつの間に校長の話は終わったみたいで、体育館の重い引き戸が開く。春の匂いが吹き込む。

「ありがとねーじゃあこれ」
 植野先生から雑に投げられたのは軍手だった。まあ、土いじりなのだから当然だけれど。
「やるのは植え替え。もう苗は届いてるんだけど、先に雑草は抜かなきゃいけないから、それを頼みます」
 僕は、あんな事件を起こした代わりに強制参加だった。あのとき、停学レベルの罰を覚悟し震えていた僕に植野先生は、
「世話してみない? そしたら植物のこと、きっと好きになれる」
 と言った。二つ返事で了承した、というかするしかなかった。そこから何回か、先生がやる植物の手入れを一緒にやらされた。それもきっと今日が最後だ。
「あっ、雑草という名の草はないよ。それぞれがそれぞれのために生きてる。それに敬意を評して名前があるんです」
 早口でまくし立てる先生に、手伝いの生徒は笑った。僕もつられたが、よく考えたらこの言葉は、僕のために言っていたのではないかと思う。
「んーでも木の成長を妨げちゃうから抜くのは仕方ない。抜いた草はまとめといて。あとで僕が校舎裏にまとめて土に還るようにしとくから」
 生えている草を、抜く。友達同士で来ている人は雑談をしながら、それ以外の人は黙々と。僕以外の人は何を思ってこんなことしているのか、分からない。
 上村さんがいた。あの子、根は優しいのは分かっていたが、こういうのに参加するような子だっけ? もうあのときのことは意にも介していないようだった。
 先生はどこかに行っていた。苗を用意しているのだろう。草は抜くたびに生々しい匂いがした。命の匂いだ、と思う。
 横で一心不乱に草と向き合っていたのは、金沢くんだ。出席番号が二個前の子だけれど、接点は特になかった。シャツの袖口は、絵の具なのだろうか、赤や黄色が点々と飛び散っていた。彼はそれには気づかないで、草を抜く。ブチブチと音が鳴る。
大体片付いたところで、先生が苗をまとめて持ってきた。何かは分からなかったけれど、低木の苗だった。常緑広葉樹。確かそういう分類だったと思う。
「あとは穴掘って植えるだけです。ありがとうございます」
 スコップは二本あって、先生は当たり前みたいに僕にもう一本を渡した。
地面にスコップを突き刺し掘っていった。多分他の人たちは、僕が学級委員だからスコップを渡されたとでも思っているのだろう。植野先生と僕だけが、本当の意味を知っていた。罪人は穴を掘るものだ。僕らの担任はこんなとこまで、気が利くんだか利かないんだか。よく分からない人だ。
「オッケー」
 そう言うと先生はスコップを放った。思ったよりずっと、大きく深い穴だった。苗の根の部分を、そっと、穴の上に置いていく。
もう僕たちにやることはなかったが、せっかくなら最後まで見ていこうと、植木を囲んだ。優しく土をかける植野先生の顔は、今まで見たどの顔とも違った。命を見る顔。命を宿すものにではなく、命そのものに視線を送っている。
生きるために生きてる、そんな言葉を思い出した。
 植野先生は、端的に言って変人だ。生物教員なのに動物が好きじゃないし、授業への文句も平気な顔で言う。沸点も全然分からない。植物を傷つけ彼を悲しませたのは、僕の、僕なりの重大な罪だけれど。
 でも彼は、今ここではただの愛する人でしかない。生命を愛し、可愛がり、尊ぶ人。その姿に僕は、なんて真っ直ぐなんだろうと、初めて今、感心している。
「あ、もう帰っていいですよ。学年末にすみませんね。……皆さんもこの木と一緒に、真っ直ぐ伸びていけば大丈夫です」
「生きてるんだから」
 最後は誰に言うでもなく、呟くようだった。僕への言葉なのか、クラス全員への言葉なのか、高校生というものへの言葉なのか、はたまた植野先生自身への言葉なのか。それは分からない。
 何事もなかったかのように先生は駆け足で去っていった。土で大きく汚れたパーカー姿が、小さくなっていく。少しだけ、鳥のさえずりのような高くて透き通った音がした。何だろう。 
 取り残された僕らは互いに目を見合わせて、誰が合図したわけでもないのに一斉に散っていった。部活へ、自宅へ、塾へ。目的地は様々でも、ここから歩み出したことに変わりはない。
 僕も部活に遅れないように更衣室に向かう。春の日差しを浴びた緑の鮮やかさを、全身に浴びていた。
 あ。あれ、先生の口笛だ。遅れて気づく。
 植野先生は何も変わらず一年間、僕らの前で植野薄でいてみせた。大人としては尊敬できたものではないかもしれないけれど、今、なぜだかそれが嬉しい。
 大丈夫、生きてるんだから。今度は僕自身の声で言う。不思議と暖かい。
 先生が植えた木を背に、走り出す。