「んじゃあ次は肝臓かな? 肝臓は体内の化学工場なんて呼ばれたりして……」
正直言って、俺は薄の授業自体にはあまり興味がない。生物基礎、暗記モノ。面倒な必修であり、睡眠時間になることも多かった。
でも、前の実験の授業で、薄のスケッチを見てからは、授業を聞いてみようという気になっている。
あの、馬鹿みたいに上手いスケッチが一体どこから出てくるのか、突き止めたい。俺の絵にもあんなリアルさが欲しかった。絵描きの実力の源は、様々なところにある。観察力や発想力、器用さやモチーフへの執念。薄のそれは、生物への拘りなんじゃないかと思った。こいつの授業でそれを判断しようと、珍しく教員の話に耳を傾けている。
薄は喋り続ける。要ること要らないこと、教師として言って良いこと悪いこと、境界を軽く飛び越えていく。
「正直僕はね、人体とか全然興味ないわけ。人間とか、こんな馬鹿な生命を理解するより他にやることあるでしょ? 皆さんも高校生とはいえそこまで暇じゃないよねえ」
なんかすごい爆弾発言みたいに聞こえたが、薄はどこ吹く風だった。
しかしその割に、薄の説明は芯を食っている。俺は授業態度が壊滅的なので自分で教科書を読み返して試験対策をすることが多かった。生物基礎の教科書を読んだ上で今日の授業に臨んだが、薄の説明の方が教科書の文章よりよっぽど分かりやすい。
「動物界は嫌いなんですよ。動くものが好きじゃないんです、元来ね」
あー頭の中で褒めて損した、と思う。やっぱりこいつの発言はまずい。
一人で笑ってる薄を見ながら、前見た繊細なスケッチを思い出した。どうもあれが、こんな人の手から生まれたとは信じられなかった。
「肝臓は機能が多いので、中々めんどいんですよね」
渋々授業を進める植野先生は、板書も心なしか雑になっていた。説明があっちこっちに飛んで、ノートにまとめるのが難しい。けれど図解するためのイラストだけは、いつも通りの精密さだった。
シャーペンを走らせる。僕もいつもより字が雑だ。はねやはらいが乱れている。罫線をはみ出るそれは、僕の心持ちを映しているようだった。
この前の校内模試。順位自体は校内十位以内、偏差値も悪くはなかった。だが僕にとっての問題は、志望校のギリギリC判定とずっと横ばいの折れ線グラフだった。
基準偏差値から高々マイナス〇・一で変わるアルファベット。そんなものに意味がないのは頭では分かっている。第一まだ本腰を入れた受験勉強はしてない。でも心持ちがまるで違う、BとCでは。それは投資とギャンブルの違いみたいなものだった。
「よかったねえ。このまま頑張れば大丈夫じゃない?」
そんな親の言葉が思い起こされる。特に悪気はなく、過度に責め立てられているわけでもない。でも引っかかった。この何だか分からない色々を並行して、誰から見てもちゃんとしてる生活を続けるのは、案外簡単じゃない。ニコニコ「このまま」なんて言えるほど楽じゃないんだ。人の目から見える自分をうまくやろうとすると、だんだん自分で自分が見えなくなる気がした。
「じゃあ、進めますよ。このあたりは共通テストでも頻出かもね、紛らわしいから」
先生の発した言葉に苛立つ。こんなグダグダな人が教員で、生徒の前でも全然取り繕おうともしないで、簡単に素を見せて、そのくせ一丁前に入試も語る。どうして先生なんかが、先生なのに。
ボキッと鳴った。連続して、バキ、バキと手元から音がする。シャーペンの芯を、無意識に折っていた。シャーペンから出た芯ではなくて、ケースに入っている芯を直接手で折っている。二三本の芯の欠片がノートの上に散乱していて、ノートと手には黒い線がついていた。
顔をしかめた。またか、もうやめたんじゃなかったのか? とにかく芯を片付けた。その間の板書は取れず、ノートに不自然な空白ができた。
「生物が暗記科目だって思ってる人」
少しだけ入試の話に触れた後、植野は調子に乗ったのか説教臭いことを話し始めた。
「まあそう思われるのもしょうがないんだけどね。単語は多いし、原理はちゃんと理解するより表面だけ覚える方が早いし。でもねえ、自然科学はさ、やっぱり暗記ではありえない」
言っていることはクソ真面目な割に、表情はふざけ切っていた。説教臭い植野を、植野自身が馬鹿にしているみたいだった。極めつけには、
「——って立花先生もおっしゃってましたよ?」
とか言う。立花先生、という単語に多くの生徒も反応した。植野が馴れ馴れしく杏先生の話しないでよ、ムカつくわ。
部活終わりで体育館の鍵を返しに行くとき、教員室に入らないといけない。中では教員同士で立ち話をしていることもあるから、こっそりと横目で観察する。あの先生とこの先生が仲良いのか、なんて分かって少し楽しかった。
最近、杏先生が植野と喋っているのを見かけた。それも一度や二度じゃない。
杏先生は、授業も丁寧で分かりやすいし質問も優しく対応してくれるし、生徒から人気があった。私も杏先生の笑顔を見たくて物理だけはちゃんと予習するし、分からないところは質問も行く。先生は私の顔を覚えてくれているんじゃないかと密かに期待していた。
対して植野は、だらしないおっさんだ。年はそこまで行ってないはずだけれど、猫背で眉間にシワを寄せているから老けて見える。喋りもボヤッとしていてやる気もなさそう。社交性もないのか、他の教員からもハブられているらしい。
なのに杏先生だけは、植野と楽しそうに喋る。植野はいつもの間延びした喋り方だけれど、表情は柔らかい。お互いに、ある種のリスペクトすら感じられた。
なんで。どうして、植野なんかと。
思いを巡らせるうちに、チャイムは鳴る。教壇を見ると、植野はもういなかった。キリがいいからとか理由をつけてさっさと終わらせたのだろう。いつも通りにざわめく教室で、溜め息をついた。
「んー、じゃ、配るね」
下らない学年便りを配るテンションで担任が配ったのは、進路調査票だった。僕たち高二が最も恐れている紙、と言っても過言ではない。教室も、いつもとは違う妙にピリついた雰囲気だった。
「期限は今月中、よろしくお願いしまーす」
今月中とはいっても、残り二週間もない。ざわつく。植野先生は特に何の説明もしなかった。進路関連でお決まりの、「おうちの方とよく考えて」とか「大事な書類だからなくすなよ」とかいうセリフもなかった。
幸い、と言うべきか、僕の進路はもう決まっていた。文系の僕は、自宅から通える国公立大の経済学部だ。どうせなら名の通った大学、就職にも活きるように、妹もいるから金銭的事情も考えての志望だった。親も納得している。僕がすべきことは、高校生活と大学進学のための勉強の両立だけだ。前の校内模試の結果を受けた対策も始めている。問題ないはずだ。
クラスの予想以上のうるささを植野先生は無視して、さっさと終礼を終えてしまった。高校教員がここまで生徒の進路指導に無頓着なことって、あるのか? 僕は考えているからいいが、もっと無計画な人もきっといる。そこをどうにかするのが先生じゃないのか?
いつもどおり雑な担任に呆れつつ、窓の外を眺めた。いつの間にか木々は色づいている。
生物の授業中、窓の外を見ていた先生の言葉を思い出した。
「もうこんな時期ですか。色が変わるってことは、生きてるんですねえ」
全く呑気な人だった。
ここで絵を描くのは、家で描くのとも学校の美術室で描くのとも違う。一筆ごとに背筋が伸びる、そういう場所だ。
中学のときから通っている絵画教室。高校受験で中断はしたものの、かれこれ五年目だ。週一回、静かにキャンバスに向き合うこの教室は、小規模ながら内容は本格的だった。
石膏や静物のデッサン、平面構成、自由作品、やることも多種多様だ。かといって美大への進学を専門にした画塾のようなピリつきはなく、五十代くらいの楠木先生が優しく教えてくれる。
今日やっていたのは油絵での風景画。先生の指導はいつも以上に熱心だった。
「モチーフをよく見る。それに尽きますよ。見たものを、あなたが見たと信じたものを描けば良いんです」
たまに精神論めいたことも言うが、陰影の甘さやタッチの加減の指摘は鋭い。先生の指導で明らかに俺の絵は上達した。おかげで俺は、美術の授業中だけはクラスから一目置かれる、その程度には絵を描ける。
「あ、金沢くん。もしかして『小麦畑』意識してる?」
楠木先生はゴッホが大好きで、その影響か俺もゴッホの絵にはいくらか思い入れがある。今日は折角だと思って、草や空のタッチを真似てみた。若いときは画家として活躍していた楠木先生からすれば、子供の遊びみたいなものだろうが。拙くて恥ずかしいから黙っていたのに、見抜かれてしまう。
「んー、じゃあもっと質感に大胆さがあるといいかも。ゴッホの絵はよく見ると、筆の跡が分かるくらい大胆に描かれているのよ。知っているでしょう?」
「は、はい……」
その後は黙って制作を続けた。時間が来ると、先生は生徒に声をかけ、皆画材を片付け始める。俺は少しだけ描き続けていたので、教室を出る頃には生徒はいなくなっていた。
「金沢くん」
「何ですか?」
「そろそろ冬期講習の申し込みの時期じゃない? うち、季節講習だと美大受験コース用意してるの、知ってるよね?」
「まあ……通常の教室とは別で、受験に必要な技術に特化した講習ですよね」
「そう。それでなんだけど、金沢くん、受験コースに興味ないかしら?」
「え?」
思わず反射で聞き返してしまう。今まで考えたこともなかった。いや、わざと考えないようにしていた。それは、俺の未来、俺のアイデンティティ、俺の全部を揺るがす問題だったからだ。
「いや、いつも金沢くん、とっても熱心に描いているから。ほら、うちの教室って、趣味で描く人の方が多いでしょう? だから分かるのよ。金沢くんが、いつもどれだけ目の前の絵に真剣に向き合っているのか」
多分、褒め言葉として受け取っていいはずだったのに、素直に喜べなかった。進路を決める時期がもう目の前に迫っていると、気づかされてしまうからだ。
「あ、えっと、興味はあるんですが、まだちゃんと進路、決めていなくて……」
「あらそうだったの? 意外ねえ。金沢くんはてっきり、絵画一本の生徒さんだと思っていたわ」
絵画一本。先生はその言葉の重さを知っているはずだ。俺には分からない、絵で食っていく、ということの意味を。
「すみません。ちょっと、考えさせてください」
「私はいつでもお待ちしていますよ、金沢くん」
丁重に礼を言い、足早に教室を出た。満月が出ていて、綺麗な空だった。
教室のドアを開けると、大量の段ボールが雑然と積まれている。ガヤガヤとした雰囲気が、僕が入ることで一瞬だけ静まった。
「楓、おつかれー」
どこからともなく声がする。教室は机と椅子が全て取り払われ、元は白かった、しかし今は薄汚れて灰色の床がむき出しになっている。いつも僕らが授業を受けている教室と同じ場所だとは、どうしても思えない。
「待たせてごめんね。じゃ、設営始めようか」
一対多数に話すときの声を出す。ポイントは、やり過ぎだと思うくらい高い声にすることと、声を発する前に手を叩いて注目を集めること。
事前にグループラインで役割分担はしておいたので、クラスメイトは各々動き出した。お化け屋敷。文化祭では大抵三つくらいあるそれのうちの一つが、僕たちのクラスだった。
段ボールを立てて仕切りにして迷路を作り、黒いゴミ袋を被せる。時々お化けが出られるようにすき間を作る。ネットの記事で紹介されていた方法だった。強度面の問題はありそうだけれど、高校生が一日だけで準備するにはちょうどいい。
「北川くんこっちどうすればいいー?」
「今行くね」
事前に作った図面を手に駆け足になる。その図面は参加団体のレポートを兼ねていて、そこに書いてある責任者の名は僕ではない。軽音部の芹田くんだ。初めての話し合いのときに喜んで責任者を名乗り出た彼は、今は教室の真ん中にあぐらをかいて駄弁っている。トレードマークの茶髪は、文化祭に合わせて一層明るい色になっていた。
溜め息を我慢する。多分それは、お祭り騒ぎには最もふさわしくない仕草だ。このまとめ役は僕が好きでやっているし、みんなもそのあり方で満足している。教室は段ボールを切り分ける音、ガムテープをちぎる音、それと笑い声で満ちていて、準備も含めて文化祭だとするなら、それはきっと理想的な光景だ。
アドバイスをした後、教室を見渡す。この分なら、きっとうまくいくだろう。無根拠にそう思った。気持ちとは裏腹に、また溜め息が出そうになる。図面を握り潰しそうになる。我慢をしようと全身に力を入れると、肩がブルっと震えた。
自分でも少し怖くなって、教室を出る。僕はクラスメイトからなぜか忙しいと思われているから、違和感はないはずだ。廊下には誰もいない。各クラスから準備の音が反響するばかりだ。大きく息を吸った。身体に酸素が回るように、教室でも息苦しくないように。
美術部の受付ほど暇な仕事もそう多くはない。俺は二時間連続のシフトに飽き飽きしながら、まばらな客たちを眺め続けていた。大抵は部員の保護者、じゃなきゃ冷やかしの生徒だ。
俺のあの絵も、不釣り合いなほど立派なイーゼルに乗せられ展示されていた。全体的に黒っぽいキャンバスに、少しだけ月光の黄色が混ざる。ススキも夜闇に紛れながら、ひっそりと佇んでいた。
しかし、改めて見ると酷い代物に思える。そもそも素人の油絵など、タッチと雑さの区別などうまくつかない。俺の印象派に近い光の描き方は、粗いと一蹴することもできた。これ以上こんな駄作を眺めていても仕方ないと、先輩たちの作品に目を移す。
引退済みの三年生は自由制作、受験勉強の合間を縫って作ったものだから、クオリティもピンキリだ。簡単に描けるデジタル系のイラストのビビッドな色彩が目を引く横で、ひっそりと佇むデッサンがあった。普通の、と言ってしまえば普通のデッサン。テーブルクロスの上の果物とグラスを鉛筆で描いた、ありふれたものだ。
でも、俺には分かる。描き込みの細かさ。質感を表現するための塗り重ね。消しゴムで再現された微妙な光の照り返し。なまじ絵画に片足を突っ込んでいたから、自分にはないその技術に目を見張るしかなかった。
これは、前部長の絵だ。彼は忙しくて作品制作ができず、先日「画塾のデッサンでごめんね」と出してきたのがこれだった。美大志望だろう。その進路に全く違和感を感じないくらい、先輩は絵が上手かった。
俺も一年後にはこんな作品を……いや、これはただのデッサン、これ以上の何かを生み出せるのか。全く見当がつかなかった。進路調査票は、鞄の中のファイルに挟まれている。決断の時は近かった。なのに俺は、まだまだ揺れて、勉強にも絵にも全力は注げず、ただ時間を漫然と空費している。今だってそうだ。
いつの間にか下を向いていたので、慌てて顔を上げる。僕の前に、誰かいた。保護者か? だが、そのパーカー姿には見覚えしかない。
その人は、まもなくツカツカとこちらへ歩いてきた。
「これ、あなたの作品だよね?」
薄だ。思わず立ち上がる。椅子がガタンと音を立てた。
「あっ、え、はい……」
「ふーん。これ、ススキ描こうとしてたんだよね?」
は? 絵の質問なのか? てっきり不審者でも出たのかと思った。文化祭当日、教員は校内を巡回するパトロール役だ。その証拠に薄の右手には、他の教員との連絡用にランシーバーが握られていた。
「はあ、そうですが」
「ススキはね、横には増えないんだよ。株になるの。だからこの絵みたいに均等には生えない」
「これっぽいのは、オギって言う植物。穂も白いし。まあよく似ているけどね……」
一瞬、薄は完全に生物の授業のときの喋り方になった。しかし、絵の文句なら余計なお世話だ。本物を本物のまま描くのだけが芸術じゃない。お前に絵画の何が分かる? 担任している生徒の作品だからって何か言わないと気が済まないのか? 反論はいくらでも思いついたが、妙にニヤニヤしたその顔を見て、こんな奴に言っても無駄だと気づく。
「へえ、そうなんですね」
「まあよければ覚えといてよ」
「ええ……」
同意とも困惑とも取れる曖昧な返事をした。自分でも状況がよく分からない。
「他に何か用件は、あるんですか?」
話題を変えようとして尋ねる。
「いいや。そろそろ体育館の方回らないといけないし、それじゃ」
回れ右をして歩いていく。言いたいことだけ言って逃げんのかよ。絵の文句に対する怒りがふつふつと、遅れて湧いてくる。
「あの」
刺々しく言った。
「俺の作品、どうだったんですか? 植物がどうとかじゃなくて、絵として」
言い終わってすぐに後悔する。これでは逆ギレそのものじゃないか。
「……僕は芸術は分からないよ」
「でも、スケッチは上手いですよね、先生」
「どうして僕のスケッチ知ってるの?」
半笑いで聞いてくる。
「それはいいじゃないですか。俺の絵は、ちゃんと描けていますか。世界のリアルに、なってますか」
振り絞るように声を出した。途端に緊張で汗が出る。
「知らない。それを決めるのはあなたなんじゃないの? でも、描こうと苦労してるのは分かりますよ」
「じゃ、今度こそこれで」
いつも通りの早足で去ってしまった。右手を少し上げて手を振ったように見えたのは、俺の気のせいだろうか。
教員室がいつもよりざわついているのは、まだ文化祭明け数日だからだろう。後片付けに決算に、先生からハンコをもらいたい生徒が大勢いるんだろう。
簡単な質問を繰り返しても、杏先生は嫌な顔一つせずに優しく答えてくれた。
「っていうのがエネルギー保存かな? 難しいよね」
「はい、でも先生のおかげでなんとなく掴めそうです。あの、最後に一個だけ聞きたいんですけど」
「何ですか?」
屈託のない笑顔が本当に素敵だった。
「あの、この、光エネルギーとか化学エネルギーとか原子のエネルギーとかって、どういうことなんですか?」
「あーね。まず原子のエネルギーについては、難しいんだけど原子は陽子と中性子と電子からできるっていうのは習ったよね?」
確か化学で一年のときにやった。おぼろげな記憶を引っ張り出して頷く。
「まあ難しいんだけど、そういう粒子は集まっているだけで、いわゆる運動エネルギーとか位置エネルギーとかとは別の種類のエネルギーを持ってるんだよね。それを応用したのが原子力発電とか、あるいは原爆とか」
「な、なるほど……」
「難しいけれど、気になったら自分で調べてみるといいですよ。現代の話だから社会的にも知っておくべきではありますし」
誠実で鋭い目だった。
「で、もう一つは」
ぱん、と手を叩いて元の微笑みに戻る。
「光とか化学エネルギー、これは一発で分かるのが、光合成ですね」
「ああ、なるほど」
声が出る。その発想はなかった。
「エネルギーの変換っていうのは分かりやすいよね。光を使って化学反応で栄養を作るわけだから」
分かるような、分からないような微妙な感じだった。杏先生はそれを感じ取ったのか、
「うーん何て言えばいいんだろね。私も生物は詳しくないからさ……あ、そうだ」
頭にクエスチョンマークを浮かべたまま先生の方を向く。
「植野先生なら、その辺詳しいよ。聞いてみたらいいんじゃな――」
「なんでですか」
「え?」
こちらを見つめる先生のきれいな目に、失敗したと感じる。植野は嫌いで、杏先生は好きだった。最近は、部活も勉強も恋愛も全然上手くいかなくて、杏先生のことばかり考えるようになっていた。優しい語り口と柔らかい笑顔、それを思い浮かべるだけで荒んだ気持ちがちょっとマシになる。
でもそんな感情は表に出さない方がいい。こんな嫉妬丸出しの反応をしたら、杏先生を困らせてしまう。気を取り直して、
「あ、いや。そういえば立花先生って植野……先生と仲良いんですか? よく話してますよね」
まるで何でもない雑談みたいに、聞いた。
「ああ、そう見えた? 私はただの後輩だけど、確かによく話すかもね。面白いしとっても優秀なのよ、植野先生」
後輩? どういうこと? 頭の中たくさんの疑問が渦巻いた。
顧問の説教は二十分目に入っている。それとなく校舎の外側にくっついた時計を見て、針がもう三分の一周しているのに驚く。他の部員は下を向いていた。
「最近、目に見えてやる気なくなってるよな? このままで一月の試合、本気出せるのか?」
同じ内容を繰り返してもう何回目だろうか。こんなのには慣れきっていたから、僕も顧問と目が合わないように、でも目が泳ぎすぎないようにという塩梅を探っていた。意味もなく時間は流れる。
「あのな、チームプレーってのは、誰ひとり欠けちゃダメなんだよ。連帯責任の世界」
連帯連帯って、結局個人プレーだろうが、サッカーなんて。その証拠に顧問が僕らに強いる練習の大半が個人練だ。ドリブルからディフェンスからシュートまで、個人の技術を強調してるのはそっちじゃないか。
この説教の時間が僕にとって居心地悪いのは、この顧問の別の顔も知っているからだった。吉川先生、サッカー部の顧問にして、体育教員にして、僕のクラスの副担任。たまに僕たちの教室にも来て事務なんかをしているが、そのときの表情といったら。今の表情の逆みたいな妙な笑顔を浮かべて、生徒にも不自然に優しくして。それで生徒の人気を得られると、本気で思っているんだろうか?
裏表の激しい人だというのは、部内でも評判だった。チームメイトの多くは彼のことを、他の教員と同程度には嫌っている。僕も、どうしても好きになれなかった。優しい副担任吉川先生と、鬼顧問吉川の二面性でバランスを取っているのが嫌だった。
厳粛な表情のまま喋り続ける吉川を見て、こんな先生でもうちの担任より人気なんだよなあ、とぼんやり思う。出そうになった溜め息を、喉の奥で抑えた。
チームメイトと話したことがある。吉川先生のこと、どう思う? と問うと、別に何とも、と返ってきた。別にあんな奴気にしないで、自分にできるプレーをすればいいだけじゃね? 彼は表情も変えずに言った。それを聞いて、僕は彼と全く違う種類の人間なんだと気がついた。そして少し悲しくなった。
気にしない、ができなかった。親の目も、教員の目も、僕は気にすることでうまくやってきたんだ。だから背けない。たとえ僕が好きになれない大人からの指示でも。彼らが望んだ道から外れて失敗して、呆れられてしまうのが怖かった。
「じゃ、練習再開。いつも以上に声出してけよ」
チームメイトの返事は声量はあったが、声はバラバラだった。
ふと足元を見た。灰色の砂利ではなく土色の土が見えた。大きく凹んでいる。周囲は僕の足によってのけられた砂が広がって、ちょっとした火山の噴火口みたいになっていた。多分無意識に足を動かして、地面を抉ってしまったのだろう。
「ランニングから」
顧問の合図で、跳ねるように駆け出す。土は戻して、元の平らな地面に。そういえば、と思って手元を見ると、ささくれから血が出ていた。
植野の授業はいつもと変わりなく、一人で好き勝手喋る時間が続いていた。
だから植野が生き生きと見えるのは、きっと私の受け取り方の問題なんだと思う。
杏先生が話してくれた植野の話。植野は杏先生の大学の先輩で、教職課程の授業で知り合ったのだという。模擬授業なんかをした仲なんだと。
杏先生の出身大学はなんとなくバレていたので、植野もそんな難関大の出身だと知って驚いた。でもそれ以上に衝撃的だったのは、植野はこの学校に来るまで、相当な切れ者で大学でも有名だったことだ。
今の自分勝手で授業の愚痴も垂れる植野からは想像もつかなかった。生物の研究一筋で、次に教授になるのは彼だろうと言われていた植野など。杏先生は、当時から一貫して彼を尊敬しているのだという。あれだけ科学に真っ直ぐな人を私は見たことない、そう言っていた。その目は澄んでいて、植野を本当に慕っているのが私にも分かった。
それを知って授業を聞くと、確かに、と思う部分もある。
植野の言動は一見荒唐無稽だけれど、実は芯が通っている。あいつは植物が好きで動物は嫌い。生きるために生きてないから。学校も担任業務もめんどくさがって、たまにサボる。生物の授業以外には関心がないから。だから授業中は早口になって、その異常に詳しい説明は、生徒には半分も伝わっていない。
そんな、やっぱりめちゃくちゃな植野が今は、何だかきらきらして見えた。外が晴れているからだけじゃない、きっと。
私のどこを探してもない、植野の、笑えるほどの純粋さ。
「あれさ、どーする?」
「まあ適当でいいしょ。三者面談に使うだけだろうし」
「そうだね」
百パーセントの同意を口では返したけれど、内心は疑問でいっぱいだった。進路調査票って、仮にも自分の将来を指し示す紙なんじゃないの? 適当にって、卒業後も適当に進学して、適当に会社入って、結婚してって、そういう人生しか思い描いてないんじゃないの? あー、今も彼氏いるしね。私みたいに思い悩んだりしないのか。絵里香も由梨も。
「茜どしたんー? 顔暗いよ」
「ねー眉にシワ寄ってる。笑顔の方がカワイイよ」
そんな悪気のない発言にも、曖昧に笑うことでしか返せなかった。人を妬んで、恨んで、そのくせ見た目も頭も普通以下で。自分が思ったことすら口にできない自分が嫌だった。そんな私よりも、この誰にも合わせない、むしろ近寄らせない植野の方が、よっぽどマシじゃん。
パーカーに土をつけた生物教員が、そこだけ羨ましい。
「……あの、私はこの子に幸せになってほしいんです」
優しいその言葉は、俺の心に何よりも鋭く突き刺さる。三者面談も佳境だ。母親についに美大に行きたいと告げ、もしそうするとしたらどうなるか、という話を薄はした。知ってはいたが、茨の道だった。受験も特殊で金がかかる上、美大は数が少なくまともなところに行こうとすると相当な実力が必要。植野の話を簡単にまとめるとそういうことだった。
「お母様のお言葉、よく分かります。志望校という意味でも、最近は安定思考の生徒が多いので……」
一貫して保護者の前ではちゃんとしてる風な薄が、どこか可笑しかった。今ここで、俺が決まってしまう。絵に生きるのか、諦めるのか。この先約六十年の人生が懸かっていると考えると、面談用にセットされた机がひどく陳腐なものに見える。
「ではやはり……」
母親の眉は大きく下がっていた。その表情からは本気の心配が読み取れる。だからこそ心苦しかった。黙るしかない。わがままを言っているのは、覚悟が足りないのは、俺だ。
沈黙を破ったのは、植野だった。
「私事になりますが、私は大学では生物学専攻で、植物の研究をしていました」
「?」
俺は母親とほぼ同時に首を傾げた。突然薄が自分語りを始めたから、だけではない。無理に作った真面目な表情が、いつもの薄に、戻った。
「……オギというイネ科の植物ですが、農業系の研究ではなかったので、就職先も多くはありませんでした。研究者のポストを目指すのを辞めてこの学校にたどり着くまでには、それなりに時間がかかりましたね」
薄の目を見た。真っ直ぐ、何も恐れることのない視線だった。
「ですが、私はこの選択に後悔していません」
唾を飲んだ。音が、母親と薄にまで聞こえている気がする。
「それは、そのときそのときを、正しいと思うままに選んだからです。悪く言えば、成り行きに任せた、ということでしょうが……」
そこまで聞いて初めて分かった。俺の熱意を、薄は擁護してくれているのだ。文化祭のあの時を思い出す。薄は俺の絵を、ちゃんと見てくれた。俺の絵を立ち止まって細部まで見てくれた人が、今まで一体何人いただろう? 薄はもう覚えていないかもしれない。いや、忘れているに決まってる、だってそういう奴だから。でも、俺はやっぱり、こいつの言葉を、自分の醒めることのない熱を、信じようと思った。
もう下を向いている場合じゃない。
「ねえ、母さん。やらせてくれないかな。 迷惑かけるだろうし、つらいことも多いだろうけど」
薄と母親の視線が、俺へと移った。膝の上に置いた手を、強く握る。こわばって声帯がうまく動かない。震えたままの声で言う。
「これが、今、俺が幸せになれると信じる道だから」
言い切った後の沈黙は、俺の人生の中で最も長く、重い沈黙だった。カラスが鳴く声すらはっきり聞こえた。
「……私から言うことはもうありません。最後に決めるのは、金沢さん自身なので。保護者の方とよく話して、納得いく決断をしてください」
「……ありがとうございます」
薄のシャツの袖口に、土がついているのに気づく。
「ありがとうございます、先生。この子ともよく話し合います」
「じゃ、いいですかね」
教室を出た。昇降口と教員室は逆方向だから、薄は逆向きに歩いていく。足早だった。授業後ダルそうに出ていくのと、同じ足取りだった。
正直言って、俺は薄の授業自体にはあまり興味がない。生物基礎、暗記モノ。面倒な必修であり、睡眠時間になることも多かった。
でも、前の実験の授業で、薄のスケッチを見てからは、授業を聞いてみようという気になっている。
あの、馬鹿みたいに上手いスケッチが一体どこから出てくるのか、突き止めたい。俺の絵にもあんなリアルさが欲しかった。絵描きの実力の源は、様々なところにある。観察力や発想力、器用さやモチーフへの執念。薄のそれは、生物への拘りなんじゃないかと思った。こいつの授業でそれを判断しようと、珍しく教員の話に耳を傾けている。
薄は喋り続ける。要ること要らないこと、教師として言って良いこと悪いこと、境界を軽く飛び越えていく。
「正直僕はね、人体とか全然興味ないわけ。人間とか、こんな馬鹿な生命を理解するより他にやることあるでしょ? 皆さんも高校生とはいえそこまで暇じゃないよねえ」
なんかすごい爆弾発言みたいに聞こえたが、薄はどこ吹く風だった。
しかしその割に、薄の説明は芯を食っている。俺は授業態度が壊滅的なので自分で教科書を読み返して試験対策をすることが多かった。生物基礎の教科書を読んだ上で今日の授業に臨んだが、薄の説明の方が教科書の文章よりよっぽど分かりやすい。
「動物界は嫌いなんですよ。動くものが好きじゃないんです、元来ね」
あー頭の中で褒めて損した、と思う。やっぱりこいつの発言はまずい。
一人で笑ってる薄を見ながら、前見た繊細なスケッチを思い出した。どうもあれが、こんな人の手から生まれたとは信じられなかった。
「肝臓は機能が多いので、中々めんどいんですよね」
渋々授業を進める植野先生は、板書も心なしか雑になっていた。説明があっちこっちに飛んで、ノートにまとめるのが難しい。けれど図解するためのイラストだけは、いつも通りの精密さだった。
シャーペンを走らせる。僕もいつもより字が雑だ。はねやはらいが乱れている。罫線をはみ出るそれは、僕の心持ちを映しているようだった。
この前の校内模試。順位自体は校内十位以内、偏差値も悪くはなかった。だが僕にとっての問題は、志望校のギリギリC判定とずっと横ばいの折れ線グラフだった。
基準偏差値から高々マイナス〇・一で変わるアルファベット。そんなものに意味がないのは頭では分かっている。第一まだ本腰を入れた受験勉強はしてない。でも心持ちがまるで違う、BとCでは。それは投資とギャンブルの違いみたいなものだった。
「よかったねえ。このまま頑張れば大丈夫じゃない?」
そんな親の言葉が思い起こされる。特に悪気はなく、過度に責め立てられているわけでもない。でも引っかかった。この何だか分からない色々を並行して、誰から見てもちゃんとしてる生活を続けるのは、案外簡単じゃない。ニコニコ「このまま」なんて言えるほど楽じゃないんだ。人の目から見える自分をうまくやろうとすると、だんだん自分で自分が見えなくなる気がした。
「じゃあ、進めますよ。このあたりは共通テストでも頻出かもね、紛らわしいから」
先生の発した言葉に苛立つ。こんなグダグダな人が教員で、生徒の前でも全然取り繕おうともしないで、簡単に素を見せて、そのくせ一丁前に入試も語る。どうして先生なんかが、先生なのに。
ボキッと鳴った。連続して、バキ、バキと手元から音がする。シャーペンの芯を、無意識に折っていた。シャーペンから出た芯ではなくて、ケースに入っている芯を直接手で折っている。二三本の芯の欠片がノートの上に散乱していて、ノートと手には黒い線がついていた。
顔をしかめた。またか、もうやめたんじゃなかったのか? とにかく芯を片付けた。その間の板書は取れず、ノートに不自然な空白ができた。
「生物が暗記科目だって思ってる人」
少しだけ入試の話に触れた後、植野は調子に乗ったのか説教臭いことを話し始めた。
「まあそう思われるのもしょうがないんだけどね。単語は多いし、原理はちゃんと理解するより表面だけ覚える方が早いし。でもねえ、自然科学はさ、やっぱり暗記ではありえない」
言っていることはクソ真面目な割に、表情はふざけ切っていた。説教臭い植野を、植野自身が馬鹿にしているみたいだった。極めつけには、
「——って立花先生もおっしゃってましたよ?」
とか言う。立花先生、という単語に多くの生徒も反応した。植野が馴れ馴れしく杏先生の話しないでよ、ムカつくわ。
部活終わりで体育館の鍵を返しに行くとき、教員室に入らないといけない。中では教員同士で立ち話をしていることもあるから、こっそりと横目で観察する。あの先生とこの先生が仲良いのか、なんて分かって少し楽しかった。
最近、杏先生が植野と喋っているのを見かけた。それも一度や二度じゃない。
杏先生は、授業も丁寧で分かりやすいし質問も優しく対応してくれるし、生徒から人気があった。私も杏先生の笑顔を見たくて物理だけはちゃんと予習するし、分からないところは質問も行く。先生は私の顔を覚えてくれているんじゃないかと密かに期待していた。
対して植野は、だらしないおっさんだ。年はそこまで行ってないはずだけれど、猫背で眉間にシワを寄せているから老けて見える。喋りもボヤッとしていてやる気もなさそう。社交性もないのか、他の教員からもハブられているらしい。
なのに杏先生だけは、植野と楽しそうに喋る。植野はいつもの間延びした喋り方だけれど、表情は柔らかい。お互いに、ある種のリスペクトすら感じられた。
なんで。どうして、植野なんかと。
思いを巡らせるうちに、チャイムは鳴る。教壇を見ると、植野はもういなかった。キリがいいからとか理由をつけてさっさと終わらせたのだろう。いつも通りにざわめく教室で、溜め息をついた。
「んー、じゃ、配るね」
下らない学年便りを配るテンションで担任が配ったのは、進路調査票だった。僕たち高二が最も恐れている紙、と言っても過言ではない。教室も、いつもとは違う妙にピリついた雰囲気だった。
「期限は今月中、よろしくお願いしまーす」
今月中とはいっても、残り二週間もない。ざわつく。植野先生は特に何の説明もしなかった。進路関連でお決まりの、「おうちの方とよく考えて」とか「大事な書類だからなくすなよ」とかいうセリフもなかった。
幸い、と言うべきか、僕の進路はもう決まっていた。文系の僕は、自宅から通える国公立大の経済学部だ。どうせなら名の通った大学、就職にも活きるように、妹もいるから金銭的事情も考えての志望だった。親も納得している。僕がすべきことは、高校生活と大学進学のための勉強の両立だけだ。前の校内模試の結果を受けた対策も始めている。問題ないはずだ。
クラスの予想以上のうるささを植野先生は無視して、さっさと終礼を終えてしまった。高校教員がここまで生徒の進路指導に無頓着なことって、あるのか? 僕は考えているからいいが、もっと無計画な人もきっといる。そこをどうにかするのが先生じゃないのか?
いつもどおり雑な担任に呆れつつ、窓の外を眺めた。いつの間にか木々は色づいている。
生物の授業中、窓の外を見ていた先生の言葉を思い出した。
「もうこんな時期ですか。色が変わるってことは、生きてるんですねえ」
全く呑気な人だった。
ここで絵を描くのは、家で描くのとも学校の美術室で描くのとも違う。一筆ごとに背筋が伸びる、そういう場所だ。
中学のときから通っている絵画教室。高校受験で中断はしたものの、かれこれ五年目だ。週一回、静かにキャンバスに向き合うこの教室は、小規模ながら内容は本格的だった。
石膏や静物のデッサン、平面構成、自由作品、やることも多種多様だ。かといって美大への進学を専門にした画塾のようなピリつきはなく、五十代くらいの楠木先生が優しく教えてくれる。
今日やっていたのは油絵での風景画。先生の指導はいつも以上に熱心だった。
「モチーフをよく見る。それに尽きますよ。見たものを、あなたが見たと信じたものを描けば良いんです」
たまに精神論めいたことも言うが、陰影の甘さやタッチの加減の指摘は鋭い。先生の指導で明らかに俺の絵は上達した。おかげで俺は、美術の授業中だけはクラスから一目置かれる、その程度には絵を描ける。
「あ、金沢くん。もしかして『小麦畑』意識してる?」
楠木先生はゴッホが大好きで、その影響か俺もゴッホの絵にはいくらか思い入れがある。今日は折角だと思って、草や空のタッチを真似てみた。若いときは画家として活躍していた楠木先生からすれば、子供の遊びみたいなものだろうが。拙くて恥ずかしいから黙っていたのに、見抜かれてしまう。
「んー、じゃあもっと質感に大胆さがあるといいかも。ゴッホの絵はよく見ると、筆の跡が分かるくらい大胆に描かれているのよ。知っているでしょう?」
「は、はい……」
その後は黙って制作を続けた。時間が来ると、先生は生徒に声をかけ、皆画材を片付け始める。俺は少しだけ描き続けていたので、教室を出る頃には生徒はいなくなっていた。
「金沢くん」
「何ですか?」
「そろそろ冬期講習の申し込みの時期じゃない? うち、季節講習だと美大受験コース用意してるの、知ってるよね?」
「まあ……通常の教室とは別で、受験に必要な技術に特化した講習ですよね」
「そう。それでなんだけど、金沢くん、受験コースに興味ないかしら?」
「え?」
思わず反射で聞き返してしまう。今まで考えたこともなかった。いや、わざと考えないようにしていた。それは、俺の未来、俺のアイデンティティ、俺の全部を揺るがす問題だったからだ。
「いや、いつも金沢くん、とっても熱心に描いているから。ほら、うちの教室って、趣味で描く人の方が多いでしょう? だから分かるのよ。金沢くんが、いつもどれだけ目の前の絵に真剣に向き合っているのか」
多分、褒め言葉として受け取っていいはずだったのに、素直に喜べなかった。進路を決める時期がもう目の前に迫っていると、気づかされてしまうからだ。
「あ、えっと、興味はあるんですが、まだちゃんと進路、決めていなくて……」
「あらそうだったの? 意外ねえ。金沢くんはてっきり、絵画一本の生徒さんだと思っていたわ」
絵画一本。先生はその言葉の重さを知っているはずだ。俺には分からない、絵で食っていく、ということの意味を。
「すみません。ちょっと、考えさせてください」
「私はいつでもお待ちしていますよ、金沢くん」
丁重に礼を言い、足早に教室を出た。満月が出ていて、綺麗な空だった。
教室のドアを開けると、大量の段ボールが雑然と積まれている。ガヤガヤとした雰囲気が、僕が入ることで一瞬だけ静まった。
「楓、おつかれー」
どこからともなく声がする。教室は机と椅子が全て取り払われ、元は白かった、しかし今は薄汚れて灰色の床がむき出しになっている。いつも僕らが授業を受けている教室と同じ場所だとは、どうしても思えない。
「待たせてごめんね。じゃ、設営始めようか」
一対多数に話すときの声を出す。ポイントは、やり過ぎだと思うくらい高い声にすることと、声を発する前に手を叩いて注目を集めること。
事前にグループラインで役割分担はしておいたので、クラスメイトは各々動き出した。お化け屋敷。文化祭では大抵三つくらいあるそれのうちの一つが、僕たちのクラスだった。
段ボールを立てて仕切りにして迷路を作り、黒いゴミ袋を被せる。時々お化けが出られるようにすき間を作る。ネットの記事で紹介されていた方法だった。強度面の問題はありそうだけれど、高校生が一日だけで準備するにはちょうどいい。
「北川くんこっちどうすればいいー?」
「今行くね」
事前に作った図面を手に駆け足になる。その図面は参加団体のレポートを兼ねていて、そこに書いてある責任者の名は僕ではない。軽音部の芹田くんだ。初めての話し合いのときに喜んで責任者を名乗り出た彼は、今は教室の真ん中にあぐらをかいて駄弁っている。トレードマークの茶髪は、文化祭に合わせて一層明るい色になっていた。
溜め息を我慢する。多分それは、お祭り騒ぎには最もふさわしくない仕草だ。このまとめ役は僕が好きでやっているし、みんなもそのあり方で満足している。教室は段ボールを切り分ける音、ガムテープをちぎる音、それと笑い声で満ちていて、準備も含めて文化祭だとするなら、それはきっと理想的な光景だ。
アドバイスをした後、教室を見渡す。この分なら、きっとうまくいくだろう。無根拠にそう思った。気持ちとは裏腹に、また溜め息が出そうになる。図面を握り潰しそうになる。我慢をしようと全身に力を入れると、肩がブルっと震えた。
自分でも少し怖くなって、教室を出る。僕はクラスメイトからなぜか忙しいと思われているから、違和感はないはずだ。廊下には誰もいない。各クラスから準備の音が反響するばかりだ。大きく息を吸った。身体に酸素が回るように、教室でも息苦しくないように。
美術部の受付ほど暇な仕事もそう多くはない。俺は二時間連続のシフトに飽き飽きしながら、まばらな客たちを眺め続けていた。大抵は部員の保護者、じゃなきゃ冷やかしの生徒だ。
俺のあの絵も、不釣り合いなほど立派なイーゼルに乗せられ展示されていた。全体的に黒っぽいキャンバスに、少しだけ月光の黄色が混ざる。ススキも夜闇に紛れながら、ひっそりと佇んでいた。
しかし、改めて見ると酷い代物に思える。そもそも素人の油絵など、タッチと雑さの区別などうまくつかない。俺の印象派に近い光の描き方は、粗いと一蹴することもできた。これ以上こんな駄作を眺めていても仕方ないと、先輩たちの作品に目を移す。
引退済みの三年生は自由制作、受験勉強の合間を縫って作ったものだから、クオリティもピンキリだ。簡単に描けるデジタル系のイラストのビビッドな色彩が目を引く横で、ひっそりと佇むデッサンがあった。普通の、と言ってしまえば普通のデッサン。テーブルクロスの上の果物とグラスを鉛筆で描いた、ありふれたものだ。
でも、俺には分かる。描き込みの細かさ。質感を表現するための塗り重ね。消しゴムで再現された微妙な光の照り返し。なまじ絵画に片足を突っ込んでいたから、自分にはないその技術に目を見張るしかなかった。
これは、前部長の絵だ。彼は忙しくて作品制作ができず、先日「画塾のデッサンでごめんね」と出してきたのがこれだった。美大志望だろう。その進路に全く違和感を感じないくらい、先輩は絵が上手かった。
俺も一年後にはこんな作品を……いや、これはただのデッサン、これ以上の何かを生み出せるのか。全く見当がつかなかった。進路調査票は、鞄の中のファイルに挟まれている。決断の時は近かった。なのに俺は、まだまだ揺れて、勉強にも絵にも全力は注げず、ただ時間を漫然と空費している。今だってそうだ。
いつの間にか下を向いていたので、慌てて顔を上げる。僕の前に、誰かいた。保護者か? だが、そのパーカー姿には見覚えしかない。
その人は、まもなくツカツカとこちらへ歩いてきた。
「これ、あなたの作品だよね?」
薄だ。思わず立ち上がる。椅子がガタンと音を立てた。
「あっ、え、はい……」
「ふーん。これ、ススキ描こうとしてたんだよね?」
は? 絵の質問なのか? てっきり不審者でも出たのかと思った。文化祭当日、教員は校内を巡回するパトロール役だ。その証拠に薄の右手には、他の教員との連絡用にランシーバーが握られていた。
「はあ、そうですが」
「ススキはね、横には増えないんだよ。株になるの。だからこの絵みたいに均等には生えない」
「これっぽいのは、オギって言う植物。穂も白いし。まあよく似ているけどね……」
一瞬、薄は完全に生物の授業のときの喋り方になった。しかし、絵の文句なら余計なお世話だ。本物を本物のまま描くのだけが芸術じゃない。お前に絵画の何が分かる? 担任している生徒の作品だからって何か言わないと気が済まないのか? 反論はいくらでも思いついたが、妙にニヤニヤしたその顔を見て、こんな奴に言っても無駄だと気づく。
「へえ、そうなんですね」
「まあよければ覚えといてよ」
「ええ……」
同意とも困惑とも取れる曖昧な返事をした。自分でも状況がよく分からない。
「他に何か用件は、あるんですか?」
話題を変えようとして尋ねる。
「いいや。そろそろ体育館の方回らないといけないし、それじゃ」
回れ右をして歩いていく。言いたいことだけ言って逃げんのかよ。絵の文句に対する怒りがふつふつと、遅れて湧いてくる。
「あの」
刺々しく言った。
「俺の作品、どうだったんですか? 植物がどうとかじゃなくて、絵として」
言い終わってすぐに後悔する。これでは逆ギレそのものじゃないか。
「……僕は芸術は分からないよ」
「でも、スケッチは上手いですよね、先生」
「どうして僕のスケッチ知ってるの?」
半笑いで聞いてくる。
「それはいいじゃないですか。俺の絵は、ちゃんと描けていますか。世界のリアルに、なってますか」
振り絞るように声を出した。途端に緊張で汗が出る。
「知らない。それを決めるのはあなたなんじゃないの? でも、描こうと苦労してるのは分かりますよ」
「じゃ、今度こそこれで」
いつも通りの早足で去ってしまった。右手を少し上げて手を振ったように見えたのは、俺の気のせいだろうか。
教員室がいつもよりざわついているのは、まだ文化祭明け数日だからだろう。後片付けに決算に、先生からハンコをもらいたい生徒が大勢いるんだろう。
簡単な質問を繰り返しても、杏先生は嫌な顔一つせずに優しく答えてくれた。
「っていうのがエネルギー保存かな? 難しいよね」
「はい、でも先生のおかげでなんとなく掴めそうです。あの、最後に一個だけ聞きたいんですけど」
「何ですか?」
屈託のない笑顔が本当に素敵だった。
「あの、この、光エネルギーとか化学エネルギーとか原子のエネルギーとかって、どういうことなんですか?」
「あーね。まず原子のエネルギーについては、難しいんだけど原子は陽子と中性子と電子からできるっていうのは習ったよね?」
確か化学で一年のときにやった。おぼろげな記憶を引っ張り出して頷く。
「まあ難しいんだけど、そういう粒子は集まっているだけで、いわゆる運動エネルギーとか位置エネルギーとかとは別の種類のエネルギーを持ってるんだよね。それを応用したのが原子力発電とか、あるいは原爆とか」
「な、なるほど……」
「難しいけれど、気になったら自分で調べてみるといいですよ。現代の話だから社会的にも知っておくべきではありますし」
誠実で鋭い目だった。
「で、もう一つは」
ぱん、と手を叩いて元の微笑みに戻る。
「光とか化学エネルギー、これは一発で分かるのが、光合成ですね」
「ああ、なるほど」
声が出る。その発想はなかった。
「エネルギーの変換っていうのは分かりやすいよね。光を使って化学反応で栄養を作るわけだから」
分かるような、分からないような微妙な感じだった。杏先生はそれを感じ取ったのか、
「うーん何て言えばいいんだろね。私も生物は詳しくないからさ……あ、そうだ」
頭にクエスチョンマークを浮かべたまま先生の方を向く。
「植野先生なら、その辺詳しいよ。聞いてみたらいいんじゃな――」
「なんでですか」
「え?」
こちらを見つめる先生のきれいな目に、失敗したと感じる。植野は嫌いで、杏先生は好きだった。最近は、部活も勉強も恋愛も全然上手くいかなくて、杏先生のことばかり考えるようになっていた。優しい語り口と柔らかい笑顔、それを思い浮かべるだけで荒んだ気持ちがちょっとマシになる。
でもそんな感情は表に出さない方がいい。こんな嫉妬丸出しの反応をしたら、杏先生を困らせてしまう。気を取り直して、
「あ、いや。そういえば立花先生って植野……先生と仲良いんですか? よく話してますよね」
まるで何でもない雑談みたいに、聞いた。
「ああ、そう見えた? 私はただの後輩だけど、確かによく話すかもね。面白いしとっても優秀なのよ、植野先生」
後輩? どういうこと? 頭の中たくさんの疑問が渦巻いた。
顧問の説教は二十分目に入っている。それとなく校舎の外側にくっついた時計を見て、針がもう三分の一周しているのに驚く。他の部員は下を向いていた。
「最近、目に見えてやる気なくなってるよな? このままで一月の試合、本気出せるのか?」
同じ内容を繰り返してもう何回目だろうか。こんなのには慣れきっていたから、僕も顧問と目が合わないように、でも目が泳ぎすぎないようにという塩梅を探っていた。意味もなく時間は流れる。
「あのな、チームプレーってのは、誰ひとり欠けちゃダメなんだよ。連帯責任の世界」
連帯連帯って、結局個人プレーだろうが、サッカーなんて。その証拠に顧問が僕らに強いる練習の大半が個人練だ。ドリブルからディフェンスからシュートまで、個人の技術を強調してるのはそっちじゃないか。
この説教の時間が僕にとって居心地悪いのは、この顧問の別の顔も知っているからだった。吉川先生、サッカー部の顧問にして、体育教員にして、僕のクラスの副担任。たまに僕たちの教室にも来て事務なんかをしているが、そのときの表情といったら。今の表情の逆みたいな妙な笑顔を浮かべて、生徒にも不自然に優しくして。それで生徒の人気を得られると、本気で思っているんだろうか?
裏表の激しい人だというのは、部内でも評判だった。チームメイトの多くは彼のことを、他の教員と同程度には嫌っている。僕も、どうしても好きになれなかった。優しい副担任吉川先生と、鬼顧問吉川の二面性でバランスを取っているのが嫌だった。
厳粛な表情のまま喋り続ける吉川を見て、こんな先生でもうちの担任より人気なんだよなあ、とぼんやり思う。出そうになった溜め息を、喉の奥で抑えた。
チームメイトと話したことがある。吉川先生のこと、どう思う? と問うと、別に何とも、と返ってきた。別にあんな奴気にしないで、自分にできるプレーをすればいいだけじゃね? 彼は表情も変えずに言った。それを聞いて、僕は彼と全く違う種類の人間なんだと気がついた。そして少し悲しくなった。
気にしない、ができなかった。親の目も、教員の目も、僕は気にすることでうまくやってきたんだ。だから背けない。たとえ僕が好きになれない大人からの指示でも。彼らが望んだ道から外れて失敗して、呆れられてしまうのが怖かった。
「じゃ、練習再開。いつも以上に声出してけよ」
チームメイトの返事は声量はあったが、声はバラバラだった。
ふと足元を見た。灰色の砂利ではなく土色の土が見えた。大きく凹んでいる。周囲は僕の足によってのけられた砂が広がって、ちょっとした火山の噴火口みたいになっていた。多分無意識に足を動かして、地面を抉ってしまったのだろう。
「ランニングから」
顧問の合図で、跳ねるように駆け出す。土は戻して、元の平らな地面に。そういえば、と思って手元を見ると、ささくれから血が出ていた。
植野の授業はいつもと変わりなく、一人で好き勝手喋る時間が続いていた。
だから植野が生き生きと見えるのは、きっと私の受け取り方の問題なんだと思う。
杏先生が話してくれた植野の話。植野は杏先生の大学の先輩で、教職課程の授業で知り合ったのだという。模擬授業なんかをした仲なんだと。
杏先生の出身大学はなんとなくバレていたので、植野もそんな難関大の出身だと知って驚いた。でもそれ以上に衝撃的だったのは、植野はこの学校に来るまで、相当な切れ者で大学でも有名だったことだ。
今の自分勝手で授業の愚痴も垂れる植野からは想像もつかなかった。生物の研究一筋で、次に教授になるのは彼だろうと言われていた植野など。杏先生は、当時から一貫して彼を尊敬しているのだという。あれだけ科学に真っ直ぐな人を私は見たことない、そう言っていた。その目は澄んでいて、植野を本当に慕っているのが私にも分かった。
それを知って授業を聞くと、確かに、と思う部分もある。
植野の言動は一見荒唐無稽だけれど、実は芯が通っている。あいつは植物が好きで動物は嫌い。生きるために生きてないから。学校も担任業務もめんどくさがって、たまにサボる。生物の授業以外には関心がないから。だから授業中は早口になって、その異常に詳しい説明は、生徒には半分も伝わっていない。
そんな、やっぱりめちゃくちゃな植野が今は、何だかきらきらして見えた。外が晴れているからだけじゃない、きっと。
私のどこを探してもない、植野の、笑えるほどの純粋さ。
「あれさ、どーする?」
「まあ適当でいいしょ。三者面談に使うだけだろうし」
「そうだね」
百パーセントの同意を口では返したけれど、内心は疑問でいっぱいだった。進路調査票って、仮にも自分の将来を指し示す紙なんじゃないの? 適当にって、卒業後も適当に進学して、適当に会社入って、結婚してって、そういう人生しか思い描いてないんじゃないの? あー、今も彼氏いるしね。私みたいに思い悩んだりしないのか。絵里香も由梨も。
「茜どしたんー? 顔暗いよ」
「ねー眉にシワ寄ってる。笑顔の方がカワイイよ」
そんな悪気のない発言にも、曖昧に笑うことでしか返せなかった。人を妬んで、恨んで、そのくせ見た目も頭も普通以下で。自分が思ったことすら口にできない自分が嫌だった。そんな私よりも、この誰にも合わせない、むしろ近寄らせない植野の方が、よっぽどマシじゃん。
パーカーに土をつけた生物教員が、そこだけ羨ましい。
「……あの、私はこの子に幸せになってほしいんです」
優しいその言葉は、俺の心に何よりも鋭く突き刺さる。三者面談も佳境だ。母親についに美大に行きたいと告げ、もしそうするとしたらどうなるか、という話を薄はした。知ってはいたが、茨の道だった。受験も特殊で金がかかる上、美大は数が少なくまともなところに行こうとすると相当な実力が必要。植野の話を簡単にまとめるとそういうことだった。
「お母様のお言葉、よく分かります。志望校という意味でも、最近は安定思考の生徒が多いので……」
一貫して保護者の前ではちゃんとしてる風な薄が、どこか可笑しかった。今ここで、俺が決まってしまう。絵に生きるのか、諦めるのか。この先約六十年の人生が懸かっていると考えると、面談用にセットされた机がひどく陳腐なものに見える。
「ではやはり……」
母親の眉は大きく下がっていた。その表情からは本気の心配が読み取れる。だからこそ心苦しかった。黙るしかない。わがままを言っているのは、覚悟が足りないのは、俺だ。
沈黙を破ったのは、植野だった。
「私事になりますが、私は大学では生物学専攻で、植物の研究をしていました」
「?」
俺は母親とほぼ同時に首を傾げた。突然薄が自分語りを始めたから、だけではない。無理に作った真面目な表情が、いつもの薄に、戻った。
「……オギというイネ科の植物ですが、農業系の研究ではなかったので、就職先も多くはありませんでした。研究者のポストを目指すのを辞めてこの学校にたどり着くまでには、それなりに時間がかかりましたね」
薄の目を見た。真っ直ぐ、何も恐れることのない視線だった。
「ですが、私はこの選択に後悔していません」
唾を飲んだ。音が、母親と薄にまで聞こえている気がする。
「それは、そのときそのときを、正しいと思うままに選んだからです。悪く言えば、成り行きに任せた、ということでしょうが……」
そこまで聞いて初めて分かった。俺の熱意を、薄は擁護してくれているのだ。文化祭のあの時を思い出す。薄は俺の絵を、ちゃんと見てくれた。俺の絵を立ち止まって細部まで見てくれた人が、今まで一体何人いただろう? 薄はもう覚えていないかもしれない。いや、忘れているに決まってる、だってそういう奴だから。でも、俺はやっぱり、こいつの言葉を、自分の醒めることのない熱を、信じようと思った。
もう下を向いている場合じゃない。
「ねえ、母さん。やらせてくれないかな。 迷惑かけるだろうし、つらいことも多いだろうけど」
薄と母親の視線が、俺へと移った。膝の上に置いた手を、強く握る。こわばって声帯がうまく動かない。震えたままの声で言う。
「これが、今、俺が幸せになれると信じる道だから」
言い切った後の沈黙は、俺の人生の中で最も長く、重い沈黙だった。カラスが鳴く声すらはっきり聞こえた。
「……私から言うことはもうありません。最後に決めるのは、金沢さん自身なので。保護者の方とよく話して、納得いく決断をしてください」
「……ありがとうございます」
薄のシャツの袖口に、土がついているのに気づく。
「ありがとうございます、先生。この子ともよく話し合います」
「じゃ、いいですかね」
教室を出た。昇降口と教員室は逆方向だから、薄は逆向きに歩いていく。足早だった。授業後ダルそうに出ていくのと、同じ足取りだった。
