教室に入ってきた担任の姿は、僕の知っている教師というものを完璧に覆した。
 シャツ、の上にグレーのパーカー。なぜかところどころに土がついている。ボサボサの長い前髪で顔の半分は見えない。
 植野(すすき)、という珍しい名前の僕の担任は、有り体に言えば変な人だった。
 昨日の始業式では流石にスーツだったが、それも全く似合っていない。新入社員みたいな、スーツに着られている感じがした。まだ僕ら生徒の方が、シャツもジャケットもネクタイも着こなしていた。
「おはようございまーす」
 間延びした声も、彼の癖のようだった。昨日は発言もところどころ適当で、そのたびに新たなクラスメイトと目を見合わせていた。
「あ、僕、あんまり担任業務好きじゃないんで、皆さん頼みますよー。特に学級委員のお二人はお世話になります」
 こちらを見て軽く頭を下げた。教員とは思えないセリフ。しかし呆気に取られている場合ではなかった。僕は学級委員なのだ。
「は、はい……」
 新たな担任への戸惑いは隠せず、歯切れの悪い返事になってしまった。
「よろしくお願いします」
 気を取り直して言う。仮にもクラスの代表なんだ、気張れよ、北川(かえで)
「おっ、嬉しいですね。これで安心して有給も使える」
 ……有給? 何言ってんだこの人。
「じゃ、ホームルームはこんなもんでいい? 皆さんも早く休み時間にしたいでしょ」
 初日でまだ緊張の残るクラスの空気が、そのときだけは一つになる。早く休み時間になれ。全員が強く念じていた。
「終わりますねー」
 跳ねるような語尾でそう言うと、新しい担任植野先生は、頭を掻きながら教室を後にした。まるでこんなことには飽き飽きしているみたいな、早足だった。
 
 大して先生の声は耳に入らなかった。ボソボソ喋るから私の席まで届かないっていうのもあるし、私は北川くんに気を取られていた。
 また北川くんと同じクラスになれたのだ。こればっかりは神様に感謝するしかない。出席番号は彼の一個前。席が前後だったらいいななんて淡い期待はしてたけれど、私が一番後ろで北川くんは次の列の一番前だった。
 まあでも、北川くんをずっと眺められるって意味では、悪くないか。
 あ、北川くんと先生がなんか喋ってる。確か植野とかいう人だ。一年のときは校内で見たことがなかった。まあ気配薄そうだし納得。服も新学年だってのにパーカーだし汚れていて、なんかぼやっとした人だなあと思う。
「終わりますねー」
 あ、終わった。前後の文脈を全然聞いていなかったから、どうしてホームルームがチャイムより十五分も早く終わったのか分からない。一発目のホームルームって、やること山程あるでしょ普通。
「プリント配るんで、まだちょっと席いてくれますか」
 北川くんだ。学級委員に真っ先に立候補して、仕事も率先してやってくれる。まさに頼れるリーダー。今日も素敵だった。
 北川くんの列にプリントを配るとき、彼は自分の席に一枚置いて、後ろの席の子に残りを渡す。後ろにプリントを回しやすくする気遣い。そういう小さな優しい仕草が、とっても魅力的だった。
 私までプリントが来る。ほとんど反射的に、名前欄に上村(あかね)と書き込む。紙は白茶けていたけれど、なんだか温かく見えた。

 全く、つまらないほどに同じだった。進級、新しい教室、新しいクラス、新しい担任、新しい席。見た目は変わっても中身は一緒。そもそもたかが十六歳が、二週間ちょっとの春休みで別人になるはずがない。
 学級委員が喧騒の中、健気にプリントを配布していた。黒板の上の時計によれば、まだ休み時間までは十分以上ある。朝からこれほど時間を意識しまうとは、と落胆する。今日も長い一日になりそうだった。
 プリントを後ろの女子に回して、机に顔を伏せた。一年間で身につけた、自分自身のバリア方法。ぼっちをやり過ごす方法。寝てしまえれば楽なのだが、あいにく睡眠時間は足りていた。
 早めに教室を出てしまった担任のことを思い出す。植野薄、生物教師。なぜかパーカーを着ていた。すすき、という珍しい下の名前が頭に残る。
 無気力そうなあいつなら、何も声かけられずにやり過ごせるか。去年は出席日数がギリギリで、担任だった女性教師に何度も面談をさせられた。
「金沢さん、いや……(しゅう)さんと呼んでもいいですか」
無理矢理に距離を詰めようと急な下の名前で呼ばれて背筋が凍ったのを、今でもよく覚えている。あんなのはもうこりごりだ。
 息を殺して、クラスメイトの声に耳をそばだてる。またお前と一緒かよ。茜ちゃん、今年も一緒にお昼食べようね。後ろからそんな音がどっと襲ってきた。
 チャイムはまだだが教室を出る。他のクラスはまだホームルームを続けているようだが、構わず歩く。耳に邪魔にならない程度の音が教室から漏れて、心地よかった。

 コツコツと、チョークの先で黒板を叩く音が教室に響き渡っていた。チョークの先から出た粉が僕にまでかかりそうになる。
「まあ、こんな感じですかね。必修の生物基礎だから、気軽で大丈夫ですよ。多くの人がそう考えてると思うけど、単位取れりゃいいっていうのは間違ってないからね。そこそこの勉強でそこそこの実力が出ればいいわけ。コスパ重視でいきましょ」
 植野先生が持ってるのは生物基礎の授業だった。必修の科目に対する生徒のモチベーションが低いのは分かっていたが、教員側までこんな感じで大丈夫なのか? サボりのことしか考えてない生徒に合わせて、授業は成立するんだろうか?
「んーじゃあつまんない前置きはこのくらいにして、始めましょうか。細胞の構造からですねえ」
 動きにキレがなく、ゆるゆると黒板に向かう。左手にチョーク、右手はポケットに入れたまま。生徒の僕が呆れる態度だった。板書は勢いよく始まるが、決して綺麗とは言えない字。早口の説明。ぼそぼそした声の補足。どれをとっても、教員とは程遠い仕草。
 説明は続く。変にスピードは速いので、ノートは真面目に取ろうとするとギリギリ追いつけるかどうか、という感じだ。
 そんな授業が急に止まる。
「はあ。僕疲れちゃったから一旦休みますね……その辺の緑でも見てください。癒されますよー」
 あまりの突拍子もなさに、僕が聞き間違えたのかと思った。疲れたから? 癒される? あまりにも意味不明だ。
 当の植野先生は、窓の外を見ている。木々が面しているので新緑でいっぱいだ。心なしかさっきよりも穏やかな表情だった。口角も上がっているように見える。
「やっぱ植物はいいですよね、逃げないし授業中寝たりもしないので。そう考えると人間、特に若い人間は愚かそのものですよ」
 笑いとも困惑とも取れないざわめきが起こる。僕たち生徒への皮肉にも、本当に何も考えてないようにも思えた。
「あのプラタナスの木とかから見れば僕も皆さんもひよっこですけどねえ」
 先生の話を理解しようとするのは諦めよう、そう決意した。始業式の日から薄々感じてはいたけれど、独特なペースの人なのだ。だらしないし、なんで教員なんかやってんだ? みたいな不思議な人。別にこの人に僕のペースまで崩される必要はない。授業として、聞くべきところを聞く、それでいいんだ。
「まあね、細胞は植物も動物もみーんな持ってるわけだから、やるのはしょうがないよね」
 植野先生は、置いてけぼりな生徒なんか見もしないで、喋り続けている。

 前日からのややこしい準備も終わって、清々しい朝を迎えていた。パンパンという音は、年に一度だけ聞ける空砲。五月のよく晴れた空は、絶好の体育祭日和だ。
 楽しみはたくさんあったけれど、一番はクラス対抗リレーだ。北川くんにバトンを渡す。そのことを考えるだけでもう緊張してきた。慌てて気持ちを切り替える。
「お、おはようございます」
 ドアを開けて入ってきたのは、ジャージ姿の担任……ではなかった。
 立花杏先生。私たちは今物理を教わっている。でも特にクラスとしての関わりはない。意外な人物の登場に、生徒の視線は集中した。
「あ、すみませんね。植野先生、今日お休みみたいで。副担任の吉川先生も今日は準備で忙しくて……今日は代わりに私が色々やります」
 申し訳なさそうな表情で杏先生は言った。うちのクラスの副担任吉川、通称ゴリラは体育教員で、今日忙しいのは納得できる。だが植野は? 何もないだろうし、昨日は普通に授業していた。色んな文句を垂れながら。
「体育祭、僕苦手でね……だってみんな暴れるし僕何してればいいの? 別に走り回る生徒見てもねえ……」
 そんな興ざめ極まりないセリフを吐いて……あ、サボったな。植野ならやりかねない。直感だけれど、妙に納得のいく答えだった。
 まあそんなことより、ポニーテールの可愛い杏先生を間近で見られて、北川くんとたくさん話せる機会も保証されていて、最高の一日が始まりそうだった。なるべく可愛く巻いたハチマキが、ズレていないか触って確認する。

 日差しにジリジリと頭が熱せられている。何が楽しくて一日中日光を浴びて騒ぐのか、よく分からない。一応は巻いている、というか巻かされているハチマキは、蒸れて不快だった。
 どお、っと地鳴りのような歓声がした。どうやら体育祭の一番の目玉、クラス対抗リレーが始まるようだった。クラス随一の陽キャ連中が集まって、昼休みに自主練なんかして。そういう、みんなでやろう! という雰囲気の楽しさが理解できないまま、俺はもう十七歳になろうとしている。
「わー茜速いね! さすがバド部一の身軽さ」
「ね! すごい!」
「あ、バトンパス。大丈夫かな?」
「北川くんとめっちゃ練習したって言ってたし、いけるよ!」
 ギャアギャアと騒ぐ声がする。茜って、確か上村の下の名前か? 出席番号で一つ後ろだから、名前だけは覚えていた。ストレートの長い黒髪が目立つから、心の中で「クロ」と呼んでいた。
「がんば! ってかさ、茜、北川くんと最近いい感じじゃない?」
「それなー。そろそろ告っちゃうんじゃない?」
「ねー。まあさ、茜もお目が高いというか」
「まあね、言っちゃアレだけどさ、茜はまあ普通だから。北川くんみたいなスーパーマンと比べるとね」
 盗み聞きしていい種類の会話ではなかったことに後悔するが、そもそも大声で話している方が悪い。女子同士の人間関係が、改めて怖くなる。
「あ! バトンパス終わっちゃったよ! 成功したっぽい!」
「良かったーってか、北川くん足速っ」
 活躍する奴、応援する奴、傍観する奴……結局、体育祭も楽しみ方は人それぞれってことだろう。ふと振り返ると、担任席には立花とかいう物理教員がいた。薄は今日は欠席らしい。
 あんなナヨナヨした奴は体育祭のこの空気感合わないよな、と勝手に薄の内心を想像しながら、惰性で出席して文句を垂れる俺よりはいいな、とも思った。俺もこういう行事が嫌なら、嫌だと言って休んでしまえばいい。そこまで踏ん切りがつかず、見た目だけでも合わせようとハチマキなんかしてる自分が嫌だった。
 一位のクラスがゴールテープを切る。歓声は最高潮。何にそんなに声を張れるのか、やはり分からない。

 キャーという、女子の甲高い声が近づいてきた。リレーの走者たちは、一斉に僕に向かって駆け寄ってくる。僕が数人抜いたリードを最後まで守って勝利した。それ自体は喜ばしいし、アンカーがゴールテープを切ったときは思わずガッツポーズした。
しかし歓喜の渦の中心が、どうしてアンカーじゃなくて僕なんだ? アンカーでぶっちぎった陸上部の彼を評価するべきだろう。
 ほとんど抱きつきそうなくらいに近寄ってきた上村さんが、
「やったね北川くん! 一位!」
 と叫んでいる。喜びを溢れさせて身振り手振りが激しい。顔も心なしか紅潮しているように見えた。大げさな反応に驚くが、必要以上に避けてしまわないように気をつける。
「僕も嬉しいよ! 上村さんいいバトンパスありがとね」
 こういう騒ぎ方は得意じゃないが、彼女に敵意がないことを示すために笑みを浮かべた。途端、上村さんは我に返ったのか、下を向いて黙ってしまう。何か反応を間違えただろうか。
 順位発表のアナウンスで改めて歓声を上げる。その熱気は僕中心に出ているのに、僕は熱気に入り込めていない、そんな妙な感じがした。その感じも、クラスの人たちに喜びの声でもみくちゃにされ、少しずつ薄らいでいった。
 結局体育祭は、僕たち赤組の勝利に終わった。点数で言えば数十点でしかないクラス対抗リレーが、MVPみたいに賞賛されていた。僕は周囲の熱気に浮かされ少し疲れたが、ファミレスでの打ち上げはさらに盛り上がった。僕は活躍できて、クラスのみんなも笑顔で、喜び以外の感情はないはずだ。頭が冷めてしまわないように、わざと迷惑なくらい大きい声で笑った。
 走っていた時の空を思い出す。カラッと晴れていて、目が痛いほどに眩しい青色をしていた。

 一年で一番校内がうるさくなる体育祭は終わったが、耳に痛い音は終わってくれなかった。あちこちでガチャガチャ鳴っている。顕微鏡の準備だった。金属やガラスの硬いこすれる音が、俺はあまり得意ではない。
 普段、観察や実験の授業は教員の怠慢か生徒の馴れ合いのどちらかあるいは両方だと割り切っている。いかにやっているフリをしながら頭で別のことを考えるかだけを意識している。でも今日は、いつになくやる気があった。
 薄のスケッチが見えてしまったのだ。
 実験のときの座席は普段と違うから、俺は一番前で、教卓を覗こうと思えば覗ける位置だった。いつものように薄は机をぐちゃぐちゃにしていて、一枚のプリントがはみ出ていた。
 それはおそらく、メモとして書いていた細胞のスケッチ。生徒がやる前に予め準備していたものだろう。
 一目見ただけで、教科書にも書いてあるあの細胞のことだと分かった。上手かった。生物のスケッチは、俺が普段やっているデッサンとは違う部分が多い。対象の構造を把握するためのスケッチは、モチーフを正確に表現するデッサンとはそもそも目的が違う。
 それでも薄のスケッチは、特徴を適切に掴んでいて、陰影はないのに触れそうなくらいリアルだった。顕微鏡を覗いたそのままの様子が、シワの寄った裏紙に無造作に書いてある。
 あいつは腐っても生物教師だ。スケッチも仕事のうちだろうから、俺が描いてもあんな風にうまくはいかないだろう。でも張り合いたかった。上手いものを見たらそれを吸収し自分の絵にするのが、俺の使命に思えた。
 わざわざデッサン用の鉛筆を取り出した。鏡筒の中を見る。普段はやらない視力の使い方だ。この小さな視界を写し取るのか。 
 想像したよりずっと難しかった。何より、頭の中に細胞の像を留めながら用紙に向かい、また顕微鏡を見る。この繰り返しが堪える。
「そろそろ片付け始めてくださいねー」
 薄がそう言うまで、授業時間の大半を使っていたことに気づかなかった。右手は6Bの鉛筆の芯で真っ黒だ。思考に靄がかかるほど疲労した。
 チャイムから遅れること三分、薄にプリントを提出した。薄はいつもの無関心そうな顔で提出物の束を凝視していた。

 顕微鏡を使った観察。細胞の染色とスケッチ。そんな単純な作業なのに実験教室は熱が籠もっていた。汚れる場面も少ないのに着ている白衣が暑いからだろうか。
 僕はほとんど済んでいた。絵は得意ではなかったけれど、陰影などを意識する必要のない生物のスケッチなのでそこそこの出来だった。まあ提出物評価ならAはつくだろう。試験を真面目にやればその程度で十分だ。
「な、なにこれ。めっちゃブツブツ。見えないんだけど」
 前から一際高い声がした。上村さんだった。
 一年のときからクラスが同じで、出席番号も二年連続で隣り合っている。何だかんだよく話す友達だし、行事の時に一緒に撮った写真なんかもあった。
「どうしたの?」
「あ……北川くん」
「困ってたらなんか手伝おうか? 僕もうほぼ終わってるから」
「い、いいの? ごめんね、なんか顕微鏡うまく使えなくて……」
 問題はすぐに分かった。顕微鏡は低倍率である程度視界を決めてから、段階を踏んで倍率を上げないと対象物はうまく見えない。上村さんはそれに失敗して、細胞じゃない汚れか何かを見ていたんだと思う。
 一度調整し直して、細胞が視野に入っていることを確認する。
「これでどうかな? ちょっと見てみてくれない?」
 顔を上げて話しかけると、上村さんの表情に少し違和感があった。まるで、顕微鏡じゃなくてずっと僕を見ていたみたいな。
「あ! 見えたよ! マジでありがとう! な、なんかお返しするね今度」
「えー気にしないで。うまく行きそうでよかったよ」
 彼女の感謝の言葉にほんの少し高揚が含まれている気がして、うまく目を合わせられなかった。素っ気なく思われていたらどうしよう、と不安になる。
 プリントを提出するとき、上村さんを横目で見た。スケッチは線も曲がって雑なのに本人は晴れ渡るような笑顔で、なぜか申し訳なくなった。
 植野先生は、実験というだけで騒いでいた生徒に冷ややかな視線を送っている。僕たち生徒を馬鹿にしているような、蔑むような目が少し怖かった。

 放課後の美術室は、俺の数少ない安心できる場所だ。絵の具の匂いで篭っていて、空気は冷え切っていて、筆を走らせる音だけが鳴る。ここだけ時間が止まったような感じが好きだった。
 キャンバスに向かい始めてもう一時間が経つ。絵の中の夜の闇は一層深く、月明かりは一層明るくなっていた。
 今描いているのは、美術部の文化祭に出す予定の作品だった。最低一人一作品は作らなければならない。二年生は油絵が通例だ。特に思い入れのあるものを描く必要はないから、シンプルに月夜を描いている。光と影の勉強になればいいという目論みもあった。
 青くて黒い空と、白くて黄色い月の光。それだけではあまり素朴になので、草原の上に空が広がる構図にした。文化祭の季節に合わせて、ススキを描き入れている。
 大まかなモチーフは描き終わり、光と影を描き入れる。ススキは風に揺れているのが分かるように茎をやや曲げて描く。草原は深緑、ススキはそこから突き出して、月光に手を伸ばしているかのように。白い穂は、優しい光に染まるように。夜の闇はもっと暗く。光がもっと光るように。
 描きながら考えていることは、絵とは直接関係ないことも多い。定期試験への不安とか、自分の将来とか、風呂の中で考えることに近い。今日、頭に浮かんでいたのは、ススキを描いているからか、担任のことだった。
 そんな人は誰もいないのに、俺は担任を心の中で「薄」と呼んでいた。多分、イメージがぴったりだったからだと思う。
 元々俺は、勝手に人にあだ名をつけて、自分の中ではそう呼び続ける癖がある。クラスメイトとか、本名が覚えにくい人によくやってしまう。そして勝手な連想で名付ける。俺の中だけの、下らない遊びだ。
 薄というのもその中の一つだろうが、よく考えたらあだ名でもなんでもない、ただの下の名前だ。よく女子がやってる、女性教員を下の名前で呼ぶみたいな。それにしては植野は全然人気はないが。
 でもその頼りない雰囲気と読めない発言が、やっぱり薄らしかった。多分俺は、薄が本当は植野明とかいう名前でも、薄と呼んでいたと思う。それだけ彼は、薄が似合う。
 などと考える間に、絵の完成は近づいていた。細部を確認しようと顔をキャンバスに寄せると、濃い絵の具の匂いが香った。

 練習の中で一番好きなのは、ロングシュート練だった。
 ボールと向かい合う瞬間、世界は僕とボールとゴールだけになる。キーパーも同級生も顧問もいない。ただ僕が勢いよく蹴り上げる。自分の力を、自分の中にあるものを全部ボールにぶつける。日々を忘れられる、たまらなく気持ちいい瞬間だった。
 ばん、と蹴る音がする。チームメイトが蹴ったボールがきれいな放物線を描いて、ゴールを大きく外れる。ロングシュートは難しいから、よくある光景だった。僕の頭上を通過していく。
「僕、取り行くよ」
 声を張った。
「楓ごめーん。ありがと!」
 チームメイトの快活な返事を耳に、走る。
 ボールはグラウンドの隅に着地し、外に転がっていった。僕もコンクリの歩道の方へ向かう。
 多分この辺かと目星をつけた位置は、小さな花壇だった。花壇といっても花だけでなく植物や小さな木もあり、ちょっとした庭園みたいになっている。ボールを目で探っていると、何やら丸い影が見えた。ん? ボールか?
 それは人影だった。小柄な男性がかがんでいる。用務員の人だろうか。何にせよ邪魔はしない方がいいだろう。
 人影とは逆側にボールを発見して、そちらへ小走りで近寄る。ボールを拾い上げたところで、小さな音がした。
 鳴き声、鳥の? いや、口笛だ。結構うまい。聞いたことのない曲だがきれいなメロディーだった。
 音の方を振り返ると、さっきの人影だ。まだ植物の手入れを続けている。グレーのパーカー。少し土で汚れている。
 思い当たって、当人にはバレないように回り込む。幸いその人は地面に夢中でこちらには全く気づいていなかった。前髪で隠れた顔を確認して、何事もなかったかのようにグラウンドへ戻る。
 植野先生だ。放課後、教師たちの一番忙しい時間であるはずなのに、呑気に口笛吹いて植物と触れ合っている。その姿はメルヘンチックにすら見えた。
「おーい北川、遅いぞ」
 いつの間にか顧問は集合の合図をしていたようだ。今見てきたものを振り払って、全速力を出す。僕は僕のやることをやらなきゃいけない。あんな自分勝手な先生とは違う。
 僕が戻ると顧問は、お前を待っていたんだとばかりに話し始めた。チームメイトからの視線も集まっている。
 走ったときの汗は、いつの間にか乾いていた。

 夏休み前最後の日。言うなら今しかないと思った。北川くんを放課後に空き教室に呼び出して、私は、自分でもびっくりするくらい単純な告白をした。
 嫌な沈黙が流れ、今までの出来事が走馬灯のように流れていく。
 体育祭で笑いかけてくれたこと。実験の授業で助けてくれたこと。友達と一緒にカラオケ行ったこと。休み時間、何の気なく話したこと。思い出せる北川くんはいつも爽やかな笑顔だった。それと優しい言葉。誰にだって言う、そんなことは分かっていたけど、私も言われてしまったからしょうがない。恋って多分、そういう――
「ご、ごめんね」
 何か言った、北川くんが。きっとそれは、人生で一番確実に聞き取らなきゃいけない言葉だったけれど、どうしても耳に入らなかった。音は分かるのに、意味にならなかった。
「えっ?」
「あ、いや。ごめんね」
今度は分かった。北川くんは、誠実な目だった。そういうところが好き、だったはずなのに。
「いや、いいの、こっちこそ、こんな勝手なこと言って」
 人生最大の絶望が襲って来るはずのその瞬間に私は、嫌なほど冷静だった。
「うん。じゃあ、またね。これからも、クラスメイトとして仲良くしてくれたら嬉しいな」
 クラスメイト、という部分を強調して北川くんは言った。
「ありがと、ね……」
 耐えられなくて、言い切る前に目を背けてしまった。考えてみれば北川くんのことを私は、「北川くん」としか呼んだことがない。そんな相手への告白が、どうしてうまくいくと勘違いしてたんだろう?
 夕暮れに染まる廊下を駆けながら、巡るのは激しい後悔と、少しの安堵だった。
 そうだよね、私ごときがさ。北川くんと思い合えているなんておかしいよね。あーあ、なんで告白したんだろ。なんで北川くんに惚れたんだろ。
そもそも、私がしていたのはちゃんとした恋だった? 盲目ではあった、確かに。でも、北川くんへの憧れはただの憧れで、それを恋と勘違いしたのは、彼氏がいるっていう安心感欲しさだったりしない? いつも一緒にいる三人で、彼氏がいないのは私だけだ。絵里香と由梨が恋バナで盛り上がって、部活の帰り道に疎外感を感じることもあった。
でも、どちらにせよ失敗した。私は失恋して、北川くんは完璧なままで、やっぱり恋バナには加われない。こんなに悲しい現状維持は、初めてだった。
 校舎を出て花壇を通ったとき、パチンパチンと、枝を切る音が聞こえた。木の手入れ? こんな時間に?
 ふと横を向くと、見覚えのあるグレーのパーカーだった。薄暗くて顔までは見えない。一心不乱に剪定をしていた。
 ははっ。声が出た。私はフラれたっていうのに、植野はいつも通り、仕事もしないで草と向き合ってる。そんな日常が、たまらなく憎い。
 校舎の外に出てからも早足で帰ったせいで、家に着くのはいつもより十分も早かった。