平均気温、氷点下30度から40度。それより大きく下がる日は多々あれど、逆はない。この世界において炎とは、氷雪を溶かすものではなく、氷雪によって凍らされるものだ。

 白銀の大地が、どこまでも続いている。大地の上に一面広がるのはどっしりとした灰色の雲。無限に降ってくるのは雪だ。上が灰、下が白。その色彩はどこまで進んでも変わらない。

 所々隆起する箇所のあるこの場所は、正確には地面ではなく「海」だ。歴史の本によると「海」とは遙か昔は液体で、青色で、波が寄せては返し、穏やかにどこまでも続くものだったらしい。だが自分の知る海とは、凍っていて、白色で、冷たくて、動かないものだ。

 白い髪に灰色の瞳の少年、シュニーは一人、そんな氷海の上にしゃがみ、ピッケルを右手に持ち、氷を削っていた。 
 寒い。風が痛い。薄茶色の毛皮の防寒着が防げる寒さと痛さは微々たるものだ。だがどんなに寒くても、この手を止めるわけにはいかない。震えながら、手を動かしていたときだった。

「な、何してるんだ?」

 シュニーが顔を上げると、いつの間にかそばに、大きな白い犬を連れた一人の男が立っていた。30代から40代の男性で、短い焦げ茶の髪に濃い橙色の瞳をしている。顔をよく見ると、彼はレグラスという同じ集落の住人であることがわかった。
 こいつがな、と男性は犬の頭に手を置いた。

「オルムが急に立ち止まって吠えるから、何かあるのかと来てみたら……。シュニー、お前、子供がこんなところで何をしてるんだ?」
「こんにちは、レグラスさん。偶然ですね。お仕事ですか?」

 シュニーはぺこりと頭を下げたあと、氷を掘る作業に戻った。少しでも手を止めれば、削った箇所に雪が埋まり、凍り、また最初からやり直しになる。他の一切に時間を取られている暇はなかった。

「仕事っていうか、いつも採氷していた地点の氷が分厚すぎて道具が通らなくなったから、道具が通れる薄さの氷がある場所を探してたんだよ。シュニーは? 採氷の仕事に興味を持ったとかか?」
「違います」

 レグラスは採氷といって、氷を掘っては集落に持ち帰る仕事をしている。掘った氷は溶かして飲み水や生活用水などに利用される。この世界では氷を溶かす以外に、液体の水を得る手段はない。レグラスだけでなく、集落のほとんどの大人は、狩猟もそうだが、自分達の命を繋ぐ上で必須となるこの仕事をしていた。

 だがシュニーは、水が欲しいから氷を掘っているのではない。

「僕はこの下にいる、父さんと母さんを見つけるために氷を掘っているのです」

 レグラスは「え」と、普段と音程が違う声を零し、両目を点にさせた。その間もシュニーは、決して手を止めない。

 息は吐いたそばから白くなり、風に煽られ横に流れていく。顔の表面からわずかに突起した鼻という部位は寒さをもろに受け止めてしまい、もう感覚が朧気になるくらい冷えている。いや、鼻だけではない。全てが寒い。冷たい。重い防寒着を着込んでいても。厚い手袋を貫通して、冷気が手をかじかませる。意識を手先に集中させていないと、すぐ道具を取り落としてしまいそうになる。

 だがシュニーは、手の感覚が消えそうになる度にピッケルを痛いほど握りしめるのだった。削っても削っても、海の上を覆う分厚い氷は、全く減らない。いつだって、ピッケルの刃のほうが先に音を上げる。既に両手両足の指の本数を超えるピッケルをだめにした。それでもやめるわけにはいかなかった。やめるつもりはなかった。この氷の下に、父さんと母さんがいる。一年前、シュニーが十二歳のときに、採氷の途中で“白の怒り現象”に巻き込まれて行方不明になった二人が――。

「うーん、なるほど……。そうかそうか……。……ええ?」

 レグラスは気付け薬をがぶ飲みしたような声を発した。気にもとめないでいると、シュニーの肩にレグラスの肩が置かれた。

「とりあえず戻ろう。な? こんなところに子供を一人置いておくわけにもいかないし」
「一人で帰れるので、レグラスさんはお先にどうぞ。それじゃ、さようなら」
「いや、“白の怒り”の予報が出たんだよ」

 シュニーは、この日初めてピッケルを持つ手を止めた。

「今急いで戻るところだったんだ。早く帰ろう。二度と、その、氷が掘れなくなるぞ?」

 わん、と犬のオルムが吠えた。シュニーは道具をしまうと、場所の目印である旗をいつも通り、強く深く突き刺した。
 
 

 歩いて二十分ほどのところに、シュニーやレグラスが暮らす集落がある。といっても地上には、大きなかまくらが一つあるだけで、他には何もない。集落があるのは地下だからだ。この世界に、地上で暮らす人間は一人もいない。
 
 集落への入り口であるかまくらを通って地下集落に入る。雪を深く掘った先に広がる集落は、氷のブロックでできた天井、床、壁と、いくつかに分かれた通路と多くの“部屋”によってできている。その部屋がそれぞれ住人の住む住居や店、施設となっている。世界のどこにも人間が快適に過ごせる場所などないが、数少ない人間達は、知恵を出し合い、力を合わせながら、なんとか日々を生きている。

 世界が氷雪に包まれてから数百年間の間で人類が発展させた技術は、いかに寒さから身をしのぐことができるかというものだった。この地下集落もその技術が集まっている。気温も湿度も常に一定で、一応人が住める環境を保っている。

 この集落に住む住人達は合わせて40名ほどで、全員が顔見知りだ。レグラスと通路を進んでいると、何人かの住人とすれ違った。住人はシュニーと目が合うなり、顔を背け、足早に通りすぎていった。

「では。送ってくれてありがとうございました」

 身寄りのないシュニーは、同じように親のいない子供を集めて共同生活を送る“部屋”で毎日を過ごしている。その部屋の扉の前で、シュニーはレグラスにお辞儀をし、別れようとした。が、レグラスは、「ちょっと待て」と引き止めてきた。

「なんでしょう?」
「えーと、な。さっきの、氷海の下に父親と母親がいるって話、どういう意味だ? それともお前、熱でもあったりするのか?」
「教えません。でも僕は、嘘ついてないです」

 レグラスはわかりやすく眉根を寄せた。何度も首を捻っている。顔を知っている程度の仲のレグラスに信じてもらおうなどと思っていない。では、と今度こそ立ち去ろうとしたときだった。

「ミルクがあるんだ。イカナトの。温かいやつ、特別にご馳走するぞ」

 レグラスは声を潜めてそう言った。



 レグラスの部屋は、必要最低限のものしか置かれていない。リビングにも敷物しか敷かれていなかった。シンプルを極めているのだが、壁に唯一、青や紫、白や緑色が使われた、綺麗な組み紐が飾られていた。

「あの、それで」
「ミルクな。ちょっと待ってろよ」

 レグラスはキッチンに引っ込んだ。ごとごと、がちゃがちゃと音がする。子供っぽい気がするので、なるべく平静を装うとするが、どうしてもそわそわしてしまう。オルムが心を見透かすかのようにじっと見つめてきたので、シュニーは目を逸らした。
 少しして、レグラスが湯気の昇るカップを手に戻ってきた。はい、と渡される。中を確かめて、わあ、とシュニーは思わず声を上げた。

「本当にミルクだ!」
「そうだぞ。誰にも言うなよ?」
「もちろん言わないです。じゃ、いただきます……!」

 両手でカップを持って、ふうふうと少し冷まし、中の白い液体を啜る。口に広がるクリーミーな味とまろやかな舌触りは、間違いなくミルクだった。

 イカナトは栄養価の高い乳を出してくれるのだが、近年更に世界の気温が下がった影響で、生息数を減らしていた。まだ数のいる近縁種であるイカナディアから乳を搾っているが、そちらは味がかなり薄い。
 イカナディアから採れるミルクはイカナディアミルクと呼ばれるので、単にミルクと言うと、それは今や珍しいイカナトのミルクのことを指すのだ。

 貴重なミルクを、シュニーはゆっくり少しずつ味わった。なくなってほしくないが、飲み続ければやがて必ずなくなってしまう。最後の一滴まで飲み干すと、名残惜しさのあまり空っぽのカップの底を見つめてから、「ごちそうさまでした」と、あぐらをかいてこちらを見ていたレグラスにカップを返した。

「はい、どうもな」
「こんな貴重な飲み物、どうやって手に入れたんです?」
「ふふん。たまたまはぐれイカナトを見つけてな。こっそり連れて帰って絞ったんだよ。その後すぐ集落のやつらに見つかってイカナトは没収されたんだが、ミルクは隠してたおかげで死守できたんだ。……それで、シュニー。どうして、あそこで氷を掘ってたんだ?」
「……でもミルクのお礼にはつり合わない話だと思いますよ? なんでそこまでして知りたいんです?」
「だって、仕事でもなければおかしくなったわけでもないのに、子供が長い時間外に出てあの分厚い氷を削り続けるなんて、よっぽどの事情がないと妙すぎるだろう。気になるんだよ、単純に」

 シュニーは躊躇ったが、ミルクを貰ってしまった以上、話さないわけにはいかなかった。一つ、息を吐く。
「……見たんです」

「見た?」
「父さんと母さんを。あの場所で」

 一年前、シュニーの両親は亡くなった。正確には行方不明になった。シュニーの父親は、レグラスと同じく、採氷の仕事をしていた。あの日もいつものように採氷に出かけていった。ところがその日、緊急の白の怒り警報が予報された。

 突然として吹雪が起こる現象、「白の怒り」。50mから60mの風が吹き荒れ、時には70mから80mまで達する。十分以内に収まることもあれば、十日以上続くこともあるこの嵐は、どうして起きるか、その仕組みはほとんどわかっていない。

 もし集落付近で長期の白の怒りが起きれば、猛烈な雪と風のせいで、集落は孤立し続け、やがて滅ぶ。実際、白の怒りによって滅んだ集落は多く、ただでさえ少ない人間の数を更に減らしている。当然巻き込まれれば、命の保証はない。

 白の怒りがいつ、どこで起こるか、ある程度予測できる計測機自体はある。集落の中心地点である広場に設置されている、大きな風車のようなカラクリがそれだ。この計測機の予報によって、人々はその日外に出て作業するかどうかを決める。が、それでも100%とは言えず、計測機が計測していないのにもかかわらず白の怒り現象が起きたことも幾度となくある。

 あのときもそうだった。朝は警報のけの字も出ていなかったのに、突然として報じられたのだ。しかも予測された白の怒りは、ちょうど父親が仕事に出ている現場で起きる可能性が極めて高いとのことだった。母親は、父親に戻ってくるよう伝えてくるとシュニーに言い残し、集落を出ていった。

 その約十分後、白の怒り現象が一帯を襲った。父と母は、帰ってこなかった。厳密には行方不明だ。だが、間違いなく亡くなっていると言って良い。白の怒りに巻き込まれて生きて帰ってこられた者はいない。また風雪の向こうにかき消えた遺体を探し出すことは極めて困難なのだ。

 孤児となったシュニーは、六ヶ月前、散歩と称して地上を歩いていた。不意の白の怒り現象がいつ起こるか知れないので、あまり地上に出ることは良くないとされているが、そのときのシュニーは、ここで白の怒りに巻き込まれても構わないと思っていた。むしろここで白の怒りが起きれば、父さんと母さんと同じところに行けるとまで思っていた。

 ぼんやり歩いていると、徐々に、風が強くなってくるのを感じた。地上の世界はいつでも冷たい風が吹きすさんでいるが、明らかに威力が増してきたのだ。ああ、白の怒りかなと思ったが、特段恐怖を感じなかった。シュニーはその場に立ったまま、じっと、己が運命を受け入れようとした。

 雪が風に煽られ、舞い上がる。巨大な布が宙を躍っているかのように、目の前が白色で遮られる。そのときだった。雪の向こうに、二人の人影を見たのは。シュニーは目を凝らし、そうして、言葉を失った。

「そこで見つけたのが、父さんと母さんだったんです。追いかけたら、消えてしまったんですけれど……。その消えた場所が、あの場所だったんです」

 シュニーはレグラスに説明した。

「幻……なのはわかっています。でも、幻だからこそ、あの場所に、父さんと母さんが埋まっているんじゃないかって思うんです。二人が僕に、自分達はここにいるって伝えようとしているんじゃないかって」
「そういうことだったのか……」

 レグラスはわずかに下を向いた。

「それで僕、父さんと母さんを見た日から毎日、あの場所に行って氷を掘っているんです」
「六ヶ月間、毎日か?」
「はい」
「周りは何も……いや、そうか……」

 レグラスは勘付いたのか、そこで黙った。集落の住人達の中で、シュニーに注意する者はいない。皆、シュニーがどこで何をしようが、一切気にしない。存在を無視しているためだ。

 だからシュニーは、勝手にしている。こっそりピッケルを頂戴して、六ヶ月間毎日、氷を掘りに出かけている。
 全ては父と母と、ちゃんとお別れしたいからだ。そのための方法が、たとえゼロに等しかったとしても、可能性が残っているならば試したいのだ。ゴールは全く見えないが、何十年かかってもやり遂げるつもりでいた。

「なるほどな。事情はよくわかった。けどな……。やっぱり、シュニーのしていることを、俺は止めなきゃいけないよ」
「なぜです」
「単純に危ないからだよ。それに、シュニーはピッケルを使っていたけど、あれだって貴重な道具で、無限にあるものじゃないんだよ。もう何度も換えているんじゃないのか?」

 シュニーはレグラスを睨んだ。この世界でシュニーの味方は、やはり両親だけだ。「ミルクありがとうございました」と無感情に言って腰を浮かせる。

「つまり、何が言いたいかっていうとな。俺も手伝ってやるってことだ」

 レグラスは膝を叩き、立ち上がった。逆にシュニーは腰を浮かせた姿のまま固まった。

「ど……どうして」
「あれだよ」

 レグラスは壁を指さした。正確には、飾られている綺麗な組み紐に向けて。

「あれ、妻が使っていたものなんだ。シュニーも知っているだろう? 二年前、白の怒りに巻き込まれて、帰ってこなかったこと。遺体もまだ見つかっていない」

 レグラスはシュニーを見下ろすと、困ったように笑った。

「家族を見つけたいって気持ちは、よくわかるんだよ」
 
 
 
 翌日、シュニーはレグラスを両親の幻を見た場所に連れて行った。レグラスはピッケル以外の氷を掘るための道具を多数持参してきた。そうしてシュニーが見ているそばで、どんどん氷を掘り進めていった。

「うーん……堅いな、やっぱりこの辺の氷は。お前、よく何ヶ月も削り続けたなあ」

 そんなことを言う割には、レグラスは手際よく、さくさくと作業を進めていく。ここの氷は言うほど堅くないのではないかと錯覚してしまうほどのスピードだった。

 だが、氷掘りの達人が「堅い」と言うだけあり、難航する場面も多々あった。シュニーにできることはないので、オルムと共にレグラスを見守りながら待つ。

 このペースなら、いけるかもしれない。シュニーは緊張と期待で、拳を握りしめた。
 顔を上げる。雪と風でいつでも視界は不良だ。はっきり見えないからこそ、雪の向こうに、父と母の姿が見えてくる、気がする。

「父さん、母さん……」

 レグラスに聞こえないように呟く。
 あの日、二人がいなくなった日。シュニーは両親と喧嘩をしていた。理由ははっきり覚えていない。朝、まだ寝ていたかったのに起こされて、それがやけに腹が立ったとかだったように思う。いずれにせよ、極めて下らない理由だ。馬鹿みたいな理由でへそを曲げて、叱られて、怒られて。謝れないまま、二人は帰ってこなかった。

 謝りたい。何度願ったかわからない。見つかった二人が、もう目を開けなかったとしても。謝って、お別れしたいのだ。

 涙が滲みそうになり、シュニーは急いで上を向いた。泣けば雫はたちまち凍り付き、顔の皮膚を傷つけ、体温を奪う。シュニーは懸命に耐えた。泣くのは、後でいい。

「お? なんだこれ」

 三十分ほど経った頃か。シュニーの膝下まで埋まるくらい氷を掘り進めたレグラスが、身を屈めた。それまで大きな道具を用いていたのを、小さい道具に持ち替え、慎重な手つきで氷を削っていく。

 ついにそのときが来たのだろうか。シュニーは息を飲み、レグラスの背中を見つめた。その時間は、レグラスが氷を掘るのを待っていたときよりも、ずっと長く感じられた。

「んんっ?」

 レグラスが道具を傍らに置いた。振り向き、シュニーを呼ぶ。

「……これ、お前の親か?」

 レグラスは右手に、何かを持っていた。それは人形だった。片方のサイドの髪だけ白く、下のほうが結ばれているのが特徴的な長い黒髪に、白色の瞳に、白いワンピースを着た、少女の人形だった。

「そんなわけないでしょう」
「だよな……。なんでこんなところに人形が……」
「落とし物でしょう。それより父さんと母さん、もっと深くにいるのかも」
「だいぶ掘ったけどなあ。まあもう少し粘ってみるか」

 人形は奇妙だが、それについて考えるのは後からいくらでもできる。レグラスも同じことを思ったようで、首を捻りながらも、とりあえずといった調子で人形を鞄にしまおうとした。そのときだった。

「ウッ?!」

 突然の目眩が、シュニーを襲った。いや、ただの目眩ではない。脳がどろどろになって、ゆっくりかき混ぜられているかのような……。今までにない目眩であり、頭痛だった。足下がぐらつき、シュニーはその場に四つん這いになった。危うく皮膚が氷にくっつきそうになる。そうなったら皮膚ごと剥がれる危険があるが、そんなことを気にしていられる余裕はなかった。

「な、なんだこれ……?!」

 レグラスが頭を押さえ、辺りを見回した。同じ状態になっているようだ。いきなり様子のおかしくなった二人の人間に、オルムが戸惑ったように何度も吠えた。

 ぐらぐらと回る世界の中で、シュニーは、レグラスが握る人形が視界に入った。

 白色の瞳が、こちらを見ている。シュニーが見たのではない。人形が見ている。目を、合わせられたのだ。なぜか、そう感じた直後だった。

『会いたい人が、いますか?』

 少女の声が、流れてきた。耳が捉えたのではない。渦を巻く脳の中心に、小石が落とされたみたいに、声が割って入ってきた。

『氷と雪に、寒さと冷たさに奪われた人が、いるのではないですか?』
「だ、誰だ!」

 レグラスが頭を押さえながら、前後左右を見る。レグラスさん、とシュニーは声を絞り出した。

「それ……それが、言ってます……!」

 目が回る。全てが歪み、真っ直ぐなものが存在していない。目を開けていられない。だが、“それ”から。人形から、目が離せない。

『貴方の会いたい人は、この下にいます。この氷の下の、海の底。そこに、全てがあります。この世界が氷に閉ざされた秘密も、全てが眠っています――』

 その瞬間、空中に放り出されたように、目眩が収まった。余韻として頭がくらくらしているが、景色は正常に戻っている。全てが夢だったように。レグラスがこわごわと、人形を持ち上げた。シュニーは人形を覗き込んだ。どんなに見つめても、もう「見られている」とは感じなかった。オルムがシュニー達を見上げながら、クウンと不安げな声を発した。
 
 

 地下集落の一番奥には、いくつかの水中船が置かれた専用の船倉がある。シュニーは一人その船倉を訪れ、魚のような形をした水中船を見上げていた。水中船は、「白の怒り」の観測機と並んで、何百年もかけて生み出された人類の最大の発明品だ。この極寒の世界で生き抜くために、人間が全ての叡智を結集させたものだ。

「何度来ても同じことだぞ」

 振り返ると、声の主が両腕を組み、入り口を背に立っていた。

「あの日から七日……。毎日ここに来ているそうじゃないか。だがいくら来たって、シュニー一人じゃ何もできないだろ」
「わかってますが……」
「そんなに気になるのか? あの変な人形のことが」
「逆に、レグラスさんは気にならないんですか?」

 氷の下に埋まっていた人形の言っていた言葉。海の底に、会いたい人がいる。海の底に、この世界が氷に閉ざされた秘密が眠っている――。
 レグラスは首を振った。

「気になるが、本気にしちゃいない。明らかに怪しいからな。この世界が凍ったのは、大昔の気候変動が原因だ。常識だよ。海の底に眠らせておくような大層な秘密なんてない。あんな不気味な人形を持ち帰ったシュニーが不思議でしょうがないよ俺は」

 七日前、人形の声を聞いた後、レグラスは人形を怖すぎると言って空高く放り捨てようとした。シュニーはそれを止め、人形を引き取った。持ち帰って、今も歴史の本と一緒に、部屋の隅の氷のブロックの下に隠してある。
 あの日以降、氷を掘りには行っていない。人形の存在が、人形が放ったであろう言葉が、頭に引っかかって離れないからだ。

「けど、もし、もしも……。実は父さんと母さんが生きているなら……。また会えるなら、お話しできるならと思ったら……。レグラスさんなら、わかるんじゃないんですか? これが、どれくらいの希望になるか」
「それは……」
「歴史の本によると、大昔の気候変動が起きる前、世界は“暖かい”で満ちていたそうです。もっと言うと、暖かいを超えた“暑い”っていうのがあって、その“暑い”ときに、この世界でいくらでも見つかる氷を触ると、“涼しい”を感じて気持ちいいそうです。……僕の両親は、寒さに奪われました。この世界が凍っていなければ、二人はまだ生きていたかもしれないんです。この世界が凍った理由がわかるなら、僕は、それを知りたいです」

 レグラスはじっとシュニーを見つめていた。シュニーも負けじと、レグラスを見た。
 やがて、レグラスは目を伏せ、鼻から長い息を吐いた。

「……俺だって、会えるものならまた会いたい人はいる。だが、それはそれだ。割り切っていくしかないんだよ。さあ、今から漁なんだ。お前はもう戻れ」
「じゃあ漁について行っていいですか」
「シュニー……!」
「諦めきれないだけです。何もしませんから。僕一人じゃ、水中船をどう操作すればいいかとか全然わからないし」

 だがレグラスはだめだと言い張り、この話は終わりだとばかりに船倉を出て行った。そうやって先に出て行ってしまうのが甘いのだとシュニーは思った。改めて水中船を見上げる。レグラスの班がどの船を使うかは知っている。また詳しい操作方法は知らないが、船への入り方は知っている。シュニーは誰もいないことを確認すると、その船に、こっそり忍び込んだ。



 「なんでここにいるんだよ……!」
「だめだと言われたら忍び込みますって言おうとしたんですけど、その前にレグラスさんが出て行っちゃったんじゃないですか」

 水中船の中の、道具などを入れておく物置に身を潜めていると、早くもレグラスに見つかった。急にオルムが走り出し、物置の前で立ち止まって鳴き出したのだ。嫌な予感がして覗くと、案の定というわけだった。鋭いねと、お座りしているオルムを撫でると、言ってる場合かと怒られた。だが追い返すことはできないはずだ。船は既に海へと潜っているのだから。

 二週に一度、大人の男達が総出で水中船に乗り込み、海に潜る日がある。目的は漁で、海中を泳ぐ魚を捕るためだ。地上で海が液体の場所はどこにもないため、水中船を氷海の真上まで運んだ後、船の機能で真下の氷を溶かし、直接海に潜る。漁は丸一日かけて行い、再び浮上する頃には一度溶かした氷は完全に塞がっているため、また氷を溶かして、そこから地上に上がる。

 食糧不足の危機はいつでも隣り合わせなため、本当なら毎日にでも漁に出たいところを二週に一度というペースなのは、この氷を溶かす作業に多大な燃料を消費するためだ。燃料の原料は魚の油をもとに加工したもので、漁の結果次第では、マイナスの収獲量になることも有り得る。この二週間に一度の漁の日は、どれだけ食料に回せる魚を捕れるか、大きな勝負の日なのだ。

 レグラスはシュニーを地上に帰すためにもう一度浮上して燃料を消費するのと、このままシュニーを連れていくのと、どちらがいいか天秤にかけたらしい。心底悩んだ顔を見せた後、わかった、と頷いた。

「ただし俺の監視付きだからな。お前は何をするかわかったもんじゃない」
「信用ないなあ。さすがに船で勝手なことはしませんってば」
「どうだかな……」

 レグラスはシュニーの手元を見た。シュニーは持ってきていた例の人形を見下ろした。海に連れてくれば何らかの反応を見せるかと思って一応持ってきたのだが、人形はうんともすんとも言わないでいた。

 レグラスに連れられて、シュニーは操舵室に向かった。何人かの大人達がおり、入ってきたシュニーをちらりと見やると、すぐに全員が目を逸らした。シュニーは小さく息を吐き、部屋の隅に移動した。丸い形の小窓から、外を覗く。

 果ての見えない、深い青色の世界が広がっている。他に色がなさすぎて、逆にすぐそこが行き止まりのようにも見える。だがもし一度でも外に出てしまえば、あっという間にこの青色に飲まれて、二度と戻れなくなるだろう。地上ではお目にかかれない液体の水が、ここにはいくらでもある。飲むには塩辛すぎる代物なものの。分厚い氷の下に広がる海だけが、この世界で唯一、雪にも風にも晒されない場所だった。

「どうだ、魚は見つかったか? 群れがいると一番いいんだけどな」

 レグラスが一番近くにいた若い船員に話しかけた。まだですね、と船員はぎこちなく言った。その船員はシュニーのことを見やって、レグラスにぼそぼそと話しかけた。

 レグラスさん、あの子供は。
 ああ、困るよな。物置に忍び込んでたんだ。どうしても漁について行きたいって。
 あまりシュニーに話しかけないほうがいいですよ。首長からも言われているでしょ。レグラスさんまでのけ者にされますよ。

 全部耳に届いているけれど、小声で話す必要はあるのか。シュニーは思った。

「まあ、うん。そうだな」

 レグラスは曖昧な返事をした。まだ何か言いたそうな船員を無視して、そばの窓を、首からかけた双眼鏡越しに覗き込み、魚を探す。
 シュニーがその後ろ姿を見ていると、オルムが寄ってきた。顎の下辺りを撫でてから、シュニーも再び、窓の向こうに視線を戻した。

 下に向かうにつれて濃く、暗くなっていく水中の世界。どんなに見つめても、目を凝らしても、底は欠片も見えない。青色の分厚い布に覆われているように。その布の向こうに、何があるというのだろうか。この海の底に辿り着いたら、本当に父と母に会えるのだろうか。

 そんなことを考えながら、しばらく視線を下に向けていたが、同じ姿勢を保ち続けると疲れてくる。シュニーは首を戻し、視線を正面に向けた。そのときだった。

「……ん?」

 水中を漂う小さな影を見つけた。最初、魚かと思った。もしくは他の水中船。だが自分の中にある、「海の中を漂っていてもおかしくないもの」のどれと照らし合わせても、どうにも拭えない小さな違和感があった。

 両目をぎゅっと細め、目を凝らす。進路が同じなのか、水中船が、その影との距離を徐々に縮めていく。距離が狭まっていくにつれ、目を凝らし続けるにつれ、その影の正体に、段々と察しがついていく。まさか、と思った。体が震えた。こんなことがあっていいのか。しかし、あるわけがないと思い込みたくても、その影は、もはやどう見ても。

「レグラスさんっ!!!」
「なんだ、どうした?!」

 他の船員はシュニーを一瞬見ただけで、駆けつけたのはレグラスだけだった。あれ、とシュニーは窓の外の影を指さした。

「ひとが、います」
「はっ?」
「人が、海に、います!」
「はあ?!」

 レグラスは窓にかじりつき、双眼鏡を覗いた。姿勢が前のめりになって五秒後、手から双眼鏡が滑り落ちた。

「人だ……!」

 シュニーが見つけたもの、それはまさしく、人だった。頭に、胴体に、二本の手と二本の足。服のようなものまで着ている。遠くてはっきりと見えないが、人と断定するに相応しい、シルエットの形だ。

 小さな人影は、まるで空中に漂うみたいに、ふわふわと浮いていた。沈むでもなく浮かぶでもなく、流れに身を任せて揺蕩うように、ふわふわと。

 レグラスは大慌てで他の船員に報告した。さすがに船員達も驚愕して、操舵室はパニックに陥った。とにかく助けようという話になり、他の水中船とも連絡を取り合った。

 船員達が水中船に付属している、更に小型の水中船に乗り込み、外に出る。普段は小回りの利く小型水中船で連携して魚を追い込んで捕まえるのだが、この方法で人間を捕らえたのは、もちろん初めてだった。

 影を小型水中船が回収し、母船に戻ってくる。操舵室に運び込まれたのは、やはり、人間だった。人間の少女だった。シュニーとそう歳が変わらないように見える少女は、両目を閉じていた。規則正しく上下する胸は、少女が眠っていることを示していた。海を漂っていた少女の長い髪は、服は、全く濡れていなかった。長袖の白いに服も、長い黒髪にも、水滴一つ……。

「あ」

 少女は髪のサイドの片側だけ白く、下のほうが結ばれていた。既視感のある姿に、シュニーは持っていた人形と少女を見比べた。

 二つは、そっくりだった。とてもよく似ていた。大きさと、「人間と人形」という種族以外に、違うところが見つからなかった。少女のほうは目を閉じているが、きっと少女の瞳は人形と同じで、真っ白な色をしているのだろう。



 「この娘は、集落に災いをもたらす」

 首長のイルヤンネは、真っ白な長い髭を蓄えているのが特徴だ。その髭は首長が長く生きてきたことを示している。

 地下集落を統べる彼は、短いながらも重い口調で告げた。イルヤンネは部屋の隅に横たえられた少女を見、すぐに逸らした。全く忌まわしきものを目にしたとばかりに。

 首長の広々とした部屋に集まっていた住人達が一斉にざわめきだす。やはりそうだったのか、という種類のざわつきだ。

「どういうことですか」

 首長の正面に正座しているシュニーは聞いた。隣に座るレグラスも硬い表情をしている。開口一番それなのか、と思った。

 海の中を、少女が生身で漂っていた。しかも生きている。漁どころではなくなり、水中船は少女を回収した後、即座に全ての船が浮上した。前代未聞の緊急事態に、集落は大騒ぎになった。とにかく首長の判断を仰ごうと、依然眠ったままの少女は、首長の部屋に運び込まれた。事情を聞いた首長は、少女をじっくり見つめた。話の流れで、シュニーが氷の下から見つけた人形についても話すことになった。少女とそっくりな人形も調べた首長は、静かに首を振ったのだった。

「この娘を最初に発見したのは誰だ」

 イルヤンネは聞いた。

「俺とシュニーです」

 シュニーの隣に座るレグラスが、緊張した面持ちで答える。

「では二人が責任を持って、この娘を海に戻してきなさい」
「えっ……」
「どういうことです」

 シュニーは聞いた。

「この娘は人間のようななりをしているが、人間ではない。明らかだ。あの冷たい海を漂っていたのに、濡れずに生きているなどおかしいではないか。この娘は人間の世界にいるべき存在ではない。元いた場所に戻してこなければ、どんな災いが降りかかるか知れぬ」
「しかし……まだ子供ですよ」

 レグラスは少女に視線をやった。多分普通の人間ではないのだろうということはシュニーにもわかるが、それにしては、あまりにも人間に近い見た目をしすぎている。

「もしどうしても気になるというなら、他の集落に連れて行きなさい。とにかく、ここの集落ではこの娘を受け入れることはできない」

 一番近い集落でも、数百キロは離れている。二択のようで、実質一択だ。シュニーは挙手をした。

「お言葉を返すようですが、首長。とりあえずこの子が目を覚ますまで待つのはどうでしょうか。海を漂っていた理由、生身で海にいたのに生きていた理由……。それらについて、納得いく答えを話してくれるかもしれません」
「それを知る必要はないのだ、シュニー」

 イルヤンネは断言した。

「娘は間違いなく災いの象徴だ。集落から人は減る一方で、いつ白の怒りに全滅させられるかわからない今、秩序を乱す可能性のある芽は、早いうちに摘み取らなくてはいけないのだ。この集落の、束の間の平穏を乱す者は、なんびとであっても許してはいかん」

「ですが……」

 その直後だった。わあああ、と、住人達から悲鳴が上がった。

「あ、あの……。私……」

 振り向いた先にあった白色の瞳と、目が合った。少女が体を起こしていたのだ。やはりその目の色は、人形と同じ色をしていた。

「わ、私……ここは、どこですか……?」

 少女が辺りを見回す。少女と目が合った住人は、悲鳴を上げ、顔を背け、子供を庇い、後ずさった。人々の態度に、少女はますます困惑を露わにした。集落を統べる長が災いと言ったのだから、少女は集落のどこに行っても、「災い」としか見られない。

「おお……。目が覚めてしまったか……」

 イルヤンネは両目を見開いた。あの、と少女が縋るように手を伸ばすのと同時に、首長は声を張った。

「レグラスでもシュニーでも他の者でも誰でもいい! 今すぐこの娘を地下集落から追い出せ!」
「えっ……」
「待って下さい、首長」

 少女の顔が強張る。シュニーは言い募ろうとした。それより周りの人間が少女を立ち上がらせるため、細い腕を掴もうとするほうが先か。そのときだった。

「わかりました」

 レグラスが立ち上がり、少女の手を掴んで立たせた。

「見つけたのは俺です。俺が責任を持って追い出します」
「レグラスさん……」

 戸惑うしかできない少女も、シュニーの声も無視して、レグラスは少女を連れ、部屋を出て行った。

 「災い」がいなくなることが確定したからか、皆に、明らかなる安堵が広がっていった。思い思いなことを話しながら、解散を始める。程なくして誰もいなくなった。シュニーは息を吐き出し、腰を上げた。

「良かったんですか、首長。何か話が聞けるかもしれなかったのに」
「シュニーよ。余計なことは気にするな。余計なことに首を突っ込むな。少しでも平穏を長続きさせたかったらな。それよりお前、言いつけどおり歴史の本は処分したのか」
「まだです。あれは父さんと母さんの形見ですから。それに内容も面白いし……」
「本を捨てない限り、お前は集落から孤立した状態が続くぞ」

 イルヤンネはしわがれた声で言った。
「過去など知らなくていい。何が起こるかわからないこの世界で大事なのは、“今”と“未来”だ。いや、先行き不透明なのだから、最も大切にすべきなのは“現在”のみだ。お前の家族は、どうしてこんな大事なことがわからないのか……」

 話をしている途中で、シュニーは部屋を出て行った。



 「失礼します、レグラスさん」

 その日の夜、少女を追い出しに行ったレグラスが戻ってきたので、シュニーはレグラスの部屋を訪れた。特にこれといった理由はない。強いて言うなら、嫌みを言うためだ。

「レグラスさんは他の頭が固い大人達とは違うと思ってましたけど、やっぱり一緒だったんですね。でもやっぱり、あんなに早くあの子を追い出さなくても、もっと話を聞いてからでも良かったんじゃ……」

 声が途中で止まった。ドアを開けてすぐのところにあるリビングの絨毯の上に、お腹を見せて寝転がるオルムと、そのお腹を両手で撫でる、あの少女の姿があったからだ。

 オルム、少女、そして近くにいたレグラスとばっちり目が合う。オルム以外、全員固まっている。
 あ。シュニーの口から声が漏れた。

「しーっ!!」

 レグラスが口に人差し指を当てた。手を左右に勢いよく振り、早く閉めろとジェスチャーで訴える。シュニーは部屋の中に体を滑り込ませ、ドアを素速く閉めた。

「レ、レグラスさん、何をしてるんです……?」
「い、いやまあ、なんていうか……」
「この人は、私を匿ってくれたんです」

 話したのは少女だった。

「集落から出るふりをして、こっそりここまで連れて来てくれて。食事も出してくれたんですよ」
「さすがにこんな子供を追い出すのは、この辺がもやもやしてなあ」

 レグラスは胸の辺りを摩った。

「それにこの子、話せば話すほど“災い”とは思えなくて。いい子なんだよ、礼儀正しくて。オルムもこんなに懐いてる。ふてぶてしいシュニーとは大違いだ」
「誰がふてぶてしいと?」
「それだよ、そういう態度だよ」

 シュニーとレグラスのやり取りに、少女はくすくすと笑った。

「あなたも、レグラスさんと同じで、私を見つけてくれたのですよね? ありがとうございます、ちゃんとお礼を言いたかったんです」
「ううん、僕は本当にただ見つけただけだから……。あと同い年くらいに見えるし、敬語じゃなくていいよ。僕はシュニー。君は?」
「じゃあ……。私、ユキ。ユキっていうの。よろしくね、シュニー」
「うん。早速だけど、ユキにいくつか聞きたいことがあって。いいかな」

 少女が、ユキが無事だったなら、聞きたいことも聞けるというものだ。シュニーはユキに、ユキそっくりの人形を見せた。

「これ、知ってる? 氷の下から見つかったものなんだけど」
「わ、私……?」

 ユキは目を見開いた。人形を手に取り、上から下から、じっくり眺める。そうした後で、左右に頭を振った。

「ごめんなさい、全然見覚えがないわ……。私そっくりというのは気になるのだけれど」

 ユキは人形を返したあと、実は、と言いにくそうに伝えてきた。

「私……記憶が全くないの。ここで目が覚める前、自分がどこでどうしていたか、何も覚えていなくて……。だからこの人形も、もしかしたら知っているのかもしれないけれど、全くわからない」
「記憶が……?」
「この部屋に匿われたとき、レグラスさんからも色々聞かれたの。どこから来たのかとか、家族はいるのかとか、なんで海にいたのかとか。けれど、そのどれにも答えられなかった……」

 ユキは床を見つめた。瞳が不安げに揺れている。うーん、とレグラスは頭を掻いた。

「人形にそっくりだし……何も関係がない、っていうのは有り得ないんだと思うんだよな。じゃあどういう関係があるのかって聞かれると皆目見当つかないんだが……」
「だったら人形が言っていたことと、何か繋がりがあるかも」
「人形が?」

 聞いたのはユキだ。シュニーはユキに、人形が話していたこと、正確には人形を掘り出した途端に頭の中に聞こえてきた言葉について説明した。

「僕の会いたい人……父さんと母さんは海の底にいるって。この世界が凍った秘密が眠っているって、レグラスさんと、確かにそう聞いたんだ。何か、心当たりとかある?」
「いいえ……」

 ユキは力なくかぶりを振った。ひどく申し訳なさそうだった。

「まあまあ。焦らなくても、そのうち思い出すだろ。大丈夫だ」

 レグラスが励ますように、明るい声を発した。ありがとうございます、とユキは表情を緩ませた。

「あの……レグラスさんは、どうして私に良くして下さるんですか? その、こんなことを言うのもなんだけれど、他の集落の人達と全然違うなと思って……」
「あ、そうか。シュニーなら事情を知っているが、嬢ちゃんは知らないか。そうだな……。一言で言うなら、妻なら嬢ちゃんを助けただろうと思ったからだな」

 レグラスは壁にかけられた組み紐を指さした。

「ポランネっていうんだけどな。凄く優しくて、面倒見いいやつだったんだ。世界が冷たいから、何もしないでいたら人の心もどんどん冷たくなっていく。だから精一杯抗わないといけないんだっていうのが口癖でね。どんなに世界が凍り付いても、人の心だけは永遠に“暖かい”ままでいることができるんだって信じていた人だった」
「……僕にも、僕の家族にも、よく話しかけてくれたよ」

「けど二年前な。別の集落からやって来たらしい夫婦が、ここの集落を訪れたんだ。集落の外に出たら死しか待っていないのに、よく辿り着けたものだよ。けどその夫婦が集落を追い出された理由が、食料を盗んだからって知ってしまった途端、ここの住人達は夫婦を追い出した。ここの集落でも盗みを働くかもしれないからって。そうしたらポランネは、このままだとあの二人は死んでしまう、せめて食料と水を渡してくるって出て行って……さっき、食事のときに説明しただろう? 例の、白の怒りに襲われて、帰ってこなかったんだ」
「そんな……」

 ユキは言葉を失っていた。室内に、重い沈黙が立ちこめる。それを振り払うように、レグラスは自分の膝をぱーんと叩いた。

「ってなわけで、俺はポランネの心を継いで、温かい心であろうとしてるわけだ! だからユキは何も気にすることはないんだよ!」
「通り越して熱すぎるくらいですけどね、レグラスさんは」
「シュニー!!」

 ユキは吹き出し、ころころと笑った。ようやく部屋の緊張が、少しだけほぐれる。
 そのときだった。レグラスの部屋の扉が、勢いよく開け放たれた。オルムが跳ね起き、ユキの前に出た。

「やはりか、レグラス」

 そこには、杖をついたイルヤンネがいた。これは、とレグラスは視線をさ迷わせた。

「……ポランネがああいう死に方をしたのだ。お主が素直にその娘を追い出すはずがないと思っていた」

 ポランネの名前が出たとき、レグラスは壁の組紐に、一瞬だけ視線をやった。

「話を聞いていたが、結局その娘には記憶がなかったのだろう。ならばもう、用はないはずだ。もといた海に帰すか、遙か遠く離れた別の集落まで連れて行くか。どちらか選べ」
「お、お言葉ですが、海に帰すと言っても、持っている水中船は長期間潜水し続けることができないですし、あまり深く潜ることもできません。性能的に、この子が元いた場所まで連れて行けるかどうか……」

 すると、イルヤンネは、皺だらけの左手を前に突き出した。一つの鍵が握られていた。

「深海探査船を貸してやろう。ついてきなさい」

 イルヤンネが向かった先は、水中船を保管してある船倉だった。その船倉の奥には、いつも鍵がかかっている大きな扉がある。イルヤンネはその鍵穴に、持っていた鍵を差し込んだ。

 開いた扉の向こうには、部屋のほとんどを占める、他のどの水中船よりもずっと大きな水中船が、一隻置かれていた。ユキは目をぱちくりさせながら探査船を見上げた。確かに知らない人が見れば圧倒されるだろう。

「深海探査船“アブソリュートゼロ”。最後の一隻だ。これを使うといい」

 深海探査船がこの船倉に置かれていることは、シュニーもレグラスも知っていた。

 探査船という名前だが、もとは深い海に棲む魚も捕るためという目的で使われていた。
 本来なら、空を飛ぶ乗り物を開発されるはずだった。だがどう足掻いても作れないと判断され、代わりに開発されたのがこの深海探査船だった。飛行船のような見た目はその名残だ。

 だが深海に近づけば近づくほど、事故も多発する。昔は深海探査船が何隻もあったそうだが、乗組員と共に、この一隻を残して全て残骸になり、海に散った。リスクを背負ってまで深く潜って魚を捕る必要はないと判断され、ちょうどシュニーが生まれた年に、深海探査船の使用が無期限に中止された。だがいずれ使うときがくるかもしれないと、定期的に手入れはされていた。だから使う分には問題はない、と。

「三十分やる。その間に、どうするか決めなさい」

 イルヤンネはそう言うと、船倉を出て行った。
 
 
 
 「なっ……!」

 地上の世界の有様に、ユキは絶句していた。

 どこまでもどこまでも続く、白一色。空はほぼ一日中雲に覆われ、雲は雪を生み出し続けている。常に強めの風が吹き、雪は風に煽られ、地平線は白く煙っている。

 この環境に、人工物は耐えられない。自然物は生きていけない。無機物も有機物も、どちらも平等に存在しない地上は、何もかもを拒絶する。拒むことが当たり前と言わんばかりに。
 地上を吹く風は、風の中に刃が秘められているかのようだ。寒いも冷たいも超えて、ただただ痛い。防寒着無しではすぐに死が傍まで寄ってきて、防寒着を着込んでいても、とどまり続ければやはり死を呼ぶ。こうして立っているだけで、刻一刻と命が削られていく。

 “寒い”はいつでも“寒い”で、寒さに慣れてはいるが、当たり前にはならない。シュニーでさえこうなのだから、初めてこの世界を見たらしきユキは、容赦ない寒さにがたがたと体を震わせていた。

「こんな、真っ白な景色、初めて、見た、わ」

 シュニーが貸した予備の防寒着を着込んだユキは、かちかち歯を鳴らしながら言った。喋ることすらも一苦労のようだった。
 教えたかった景色は教えられたので、シュニーはユキを連れて、地下集落の出入り口付近までに引っ込んだ。ああ、とユキは体を弛緩させ、ほっとしたような、生き返ったような声を発した。

「シュニー。私……断片的にだけど、私が元いた世界の風景が、頭の中にいくつかあるの。だけどさっき見た景色は、そのどれとも違っていた。とても、衝撃だったわ……」

 そうか、とシュニーは呟いた。

「ユキは、“暖かい”を知っているんだね? 暖かいって、どういうものなの?」

 ユキはしばらく黙っていた。やがてシュニーと目を合わせ、微笑んだ。

「一言で言うなら、世界に受け入れられている感覚、かな」
「世界に……」
「そう。穏やかで、優しくて。空気が皮膚にじんわり染みこんでいく感じ。それが全然嫌だと感じない。暖かいが満ちているなら、どこまでも歩いて行けそうな、そんな力が湧いてくる。世界が自分を肯定して、包み込んでくれているような……それが私の思う、“暖かい”よ。それ以上のことは……」

 ユキは頭を押さえた。目を閉じ、険しい表情になる。記憶を掘り返そうとしているようだが、上手く行かなかったようで、頭を押さえていた腕をだらりと下げた。

「だめだわ……思い出せない。ごめんなさい」
「謝らなくていいよ。でも、そっか。“暖かい”って、そういうものなのか」

 穏やかさも、染みこむ空気も、湧いてくる力も、肯定も、包み込みも、全て感じたことがない。この世界で感じられないものの全てが、ユキが元いた場所には揃っているらしい。

「ユキ。これからどうする? 数百キロ離れた別の集落に行ってそこで生きていくか。それとも、元いた場所を探して、そこに戻るか」
「元いた場所……」
「ユキは海から来たのだから、海のどこかに故郷があるってことになるでしょう。そこに帰るか、生きて辿り着ける保証が一切無い、違う集落を探しに向かうか」
「一択じゃない」

 ユキは苦笑した。

「全然覚えていないけれど……やっぱり、故郷に戻りたいわ。私が今まで“そこ”で生きていたのなら、そこが私の帰る場所ということになるもの」
「そう言うと思っていた。だからユキ、お願いがあるんだ。僕も連れて行ってくれない?」

 シュニーは一歩前に出た。え、とユキは大きく瞬きをした。

「でも、あなたにこれ以上迷惑をかけるわけには。私と関わったら、集落の人達になんと言われるか……」
「迷惑じゃなくて、そうしたいから申し出たんだ。それに僕、もともとずっと首長の命令で集落の人達から避けられていたから、今更なんだよね」
「避けられていた……?」
「そう。家族ごと」

 イルヤンネの方針で、シュニーの住む集落は、過去を学ぶことを良しとしていなかった。そんな集落で極めて珍しく、シュニーの親は、二人共が歴史に興味を持っていた。両親が子供の頃は、まだ周辺に滅びを迎えていない別の集落がいくつかあって、集落間の交易も行われていた。シュニーの両親は交易で、極めて貴重とされる歴史書を奇跡的に手に入れて以降ずっと愛読しており、シュニーにも積極的に読ませていた。

 歴史の本と言っても、正直内容は薄味だ。「暖かい」があったこと以外はほぼ想像で書かれていて、史実に沿っているのか怪しい。そんな本を読んで両親は最大限まで想像を膨らまし、自らの作り出した「暖かい世界」へいつもシュニーを連れていった。

 首長の方針に背き続けている、いわば掟破りの一家だったのだ。人手不足のため、一家は一応集落にいることを許されていたものの、他の住人から、微妙に避けられていた。仕事は手伝うが馴れ合いはしない、そういう関係性だった。全てイルヤンネからの指示だった。それこそ話しかけてくれていたのはレグラスとポランネだけだった。

 だが両親は、一切気にしていなかった。掟を守って生活するよりも、知らないものを知ること――今や限られた文献の限られた内容でしか確認できない、「世界が暖かかった頃」に思いを馳せることを優先していた。彼らは変わっていた。変わっている両親を、シュニーは誇りに思っていた。

「気になるものは、たとえそれがどんなに小さくても無視するなっていうのが、父さんと母さんの口癖だった。父さんと母さんが亡くなってから、歴史の本を捨てるよう何度も言われたけど、そんなの断固お断りだ。本は僕と、父さんと母さんを繋ぐ唯一のものだから」

 目を閉じれば、毎晩歴史の本を読み聞かせてくれた父と母の姿が思い浮かぶ。“暖かい世界”がどういうものなのか、夢と想像をふんだんに膨らませた話を聞かせてくれた。命の危機に脅かされることなくのびのびと生きていける、自由にいつでも外で遊べる、そんな世界の話を。

 その思い出を、なかったことにしたくない。何度も“暖かい”に興味を持つなと首長から命じられてきたが、全て無視してきた。結果として集落でシュニーに話しかける者はレグラス以外にいなくなったが、後悔はしていない。

「僕、どうしても気になるんだ。君に似た人形が言っていたこと。父さんと母さんにまた会えるのなら、その秘密が海にあるのなら、僕はそれに賭けてみたい。どのみちここに居場所はないんだ。だからユキ、僕も連れて行ってほしい」

 シュニーはユキの前に、右手を差し出した。ユキは手袋に包まれた手をじっと見ていたが、顔を上げると、真顔で頷いた。

「そういうことなら、シュニー。協力しましょう。私も記憶がないわけだし、一人だと不安だわ。一緒に、海に旅立ちましょう」

 ユキはシュニーの手を取り、握り返した。
 そのときだ。

「おう。結論が出たみたいだな」

 現れたのはレグラスだった。オルムもいる。

「話聞いてたんですか、レグラスさん」
「ああ。とりあえず船のところまで行くか」

 船倉に移動し、深海探査船「アブソリュートゼロ」のそばまで行く。探査船を見上げながら、レグラスが聞いた。

「記憶喪失の嬢ちゃんはともかく、シュニー、操作はできるのかよ?」
「マニュアルを読めば、なんとか……。というか、なんとかするしかないでしょう」

 物覚えはいいほうだ。父も母も、よく褒めてくれた。とはいえ、だいぶ無茶なことを言っているのはわかっている。するとレグラスが探査船を指さした。

「どうやらこの探査船、普通の水中船と、操作方法が似ているところが多いらしいんだよな」
「はあ……」
「で、俺は水中船を、何度も操作した経験がある」
「……つまり?」

 そこまで言ったときだ。シュニーの脳内で“つまり”が、“まさか”に置き換わる。レグラスはにっと笑った。

「俺もついていくよ。シュニー。ユキ。俺も海に出てみるとしよう」
「ど、どうして、です?」

 聞いたのはユキだ。シュニーは呆然としてしまっていた。

「シュニー、ユキ。どうして住人達は、ここまで掟を守ることを第一にしているのだと思う?」

 シュニーは首を傾げた。そういう決まりだから、だろうか。

「失いたくないものがあるからさ」

 レグラスは答えた。

「家族、友人、仲間、恋人……。どんなに大切に思っていても、いつ失うとしれない世の中だ。少しでも失う危険性を減らすため、平穏を一日でも引き延ばすためには、“普通と違うもの”は天敵だ。首長の命令を無視するシュニーを避けるのも、ユキを追い出すことを即決したのも、そのためだ。でも俺は違う。もうこれ以上、失うものがない。あ、オルムは別だぞ?」

 レグラスは苦笑しながら、オルムの頭を撫でた。その手首には、壁に掛けられていた組紐が巻かれていた。ポランネの組紐だ。レグラスはそれをシュニーとユキに見せた。

「もしポランネが生きていたら、俺は申し出ていなかっただろう。ユキを匿うことも、シュニーに話しかけることもしていなかった。だがそれはもしもの話だ。俺にはもう、“何もない”。でも、旅に出たら……」

 レグラスはユキをちらりと見やった。

「人形が、言っていただろう? 会いたい人に会えるみたいなこと」

 シュニーはユキと顔を見合わせた。ユキが先に頷く。顔は微笑を浮かべていた。シュニーはレグラスを見上げ、頭を縦に振った。

「来てくれるなら、助かりますよ、僕は」
「私もです。良かった、大人が来てくれて。安心感が桁違い!」
「よし、じゃあ、行くとするか!」

 三人は、互いに頷き合った。



 三人で力を合わせて、食料や水などの必要な荷物の詰め込み、船のメンテナンスなど、諸々の準備を夜通しかけて行い、次の日の朝、出立の時間がやって来た。誰一人見送りに来なかった。集落に執着のないシュニーや、集落に訪れたばかりのユキと違い、レグラスは少し思うところがあったようだが、その未練をはっきりと表に出すことはなかった。気遣ってくれたのだろう。

「うーん、深海かあ……。どんな場所なのか、全く見当がつかないな……」

 操舵室で船を操作しながら、レグラスはぼやいた。

「いや、よくよく考えたら嬢ちゃんが深海から来たっていう保証はどこにもないんだよな。案外かなり浅い水深で、嬢ちゃんの故郷が見つかるかも」
「でも、この人形が深海について言っていたなら、何か関係があるのかもしれませんよ」

 ユキは手元の人形を見ながら言った。
 ユキそっくりの人形と、シュニーの歴史の本。これらは生活の必需品ではない。だがこの旅における、最大の必須品だ。

「というか今思ったんだが、嬢ちゃん、海が故郷ってどういうことだ……? 実は魚とかなのか?!」
「あはは! 実は体に小さな骨がいっぱいあるのかもしれませんね」
「おいおいまじかよ!」

 レグラスとユキが話す横で、シュニーは椅子に座りながら、歴史の本を読んでいた。どの本も、始まりの一文はこう書かれている。

 ――かつて世界は、暖かかったと言われる。今、その温度を知る者はいない。

 ワンと声がして、シュニーは顔を上げた。オルムが足下で尻尾を振りながらシュニーを見つめていた。頭を軽く撫でてから、丸窓の外に目をやる。

 果てしない青色が、船を包んでいる。何かを隠しているような濃い青が、続いている。



 完