「あれ、宮城?」

 呼ばれて、頬杖を突いたまま拓人が目を向けると、教室の入り口に牟田春樹が立っていた。まだ秋の残照が差し込む時間、野球部在籍の春樹は、ユニフォーム姿だった。高校生にしては少し幼く見える顔で首をかしげる。

「珍しいな。いつも終礼すんだらダッシュで帰るのに」 

 クラスメイトの名前も顔もうろ覚えの拓人だが、春樹のことはかろうじて覚えている。高校入学後すぐ行われた運動会で大活躍して、一躍クラスのヒーローになったからだ。

「……うん、ちょっと」

 めったに笑わない拓人が、ひっそりと微笑む。春樹から顔をそらして俯いた姿は、影をまとったかのようで黒ずんでさえ見えた。
 春樹はずんずんと拓人に近づくと、深く頭を下げる。

「え? なに?」

 春樹から謝罪されるようなことに心当たりはない。そもそも拓人はクラスメイトと関わることがない。

「触ってみて、オレの頭」

「え?」

 意味がわからず戸惑う拓人の前にずいずいと頭を寄せて、「ほらほら」と、触れ触れと強要する。
 至近に迫られて立ち上がることも出来ず、拓人は意味も分からないまま春樹の頭に手を置いた。
 短く刈り込まれた黒髪は少し硬くて、チクチクするような、くすぐったいような、絶妙な触り心地だった。いつまでも撫でていたくなる。

 拓人が両手で頭を撫でくりまわしている間、春樹は微動だにせず、腰を折り続けていた。
 ふと手が離れて、春樹が顔を上げると、拓人は静かに涙をこぼしていた。じっと春樹の目を見て、涙が途切れることはない。
 春樹は拓人の隣の席に座って、黙って拓人の涙を見守った。

 それから5分近く拓人は泣き続けた。泣きやんだ時には瞼が腫れて目は真っ赤。かわいそうな見た目になっていた。

「ありがとうな」

 ふいに春樹が言うと、拓人は首をかしげた。

「なにが?」

「オレの前で泣いてくれて。オレがいてもジャマにならなかったんだろ。嬉しいよ」

 黙って側にいてくれる。それがどれだけ優しい気持ちをくれるのか、春樹は知っているのだろうか。拓人はまた湧き出そうになった涙を堰き止めるために笑みを浮かべた。

「こちらこそ、ありがとう。少し元気出た」

「良かった。もう一回、撫でとく?」

 頭を差し出す春樹に、拓人はもう一度「ありがとう」と呟いて手を伸ばす。

「ほんとにマロみたいだ」

 ぽつり。零れた言葉に春樹は顔を上げた。

「マロって?」

「僕の犬。いつも側にいてくれたんだ」

「そうか」

「黒い豆柴でね、すごく触り心地が良かったんだよ。いつまでも撫でていたくなった」

「そうか」

「うん」

 外はもう暗くなりつつある。晩秋だ。冷えてきた。

「オレの頭、また撫でてくれよな」

 春樹がまっすぐに拓人の目を見つめる。暗い教室でも、なぜか春樹の瞳は輝いている。拓人は目をそらせず、二人はしばらく黙って見つめ合った。

「いいの?」

 恐る恐る拓人が尋ねると、春樹はパッと明るい笑顔を見せる。

「もちろん! 宮城の手って、癒しの手だよな」
 
「癒しの手?」

 初めて聞いた言葉を拓人が復唱すると、春樹は丁寧に答えた。

「看護師さんとかさ、撫でてくれると、すっげー安心するんだ。心の奥から、なんだかあったかくなるっていうか。そういうの、癒しの手を持つ人って言うんだって」

「そうなんだ。僕は看護師さんに撫でてもらったことないな。君はあるんだね」

「小さい頃、病気ばっかで。入院何度もしたから、いろんな人に撫でてもらった。宮城はその中でダントツに気持ちいいよ。信じられないくらい」

 目を細める春樹が、本当にマロのようで、拓人はそっと手を伸ばして、最後に一撫で、春樹の頭に触れた。




 マロに会いたくて、いつもダッシュで帰っていた拓人は、今は一人の部屋にいたくなくて毎日ぼんやりと教室に居残るようになっていたのだ。クラスメイトは誰も仏頂面の拓人に話しかけることなく、次第に教室を出ていく。
 みぞれ模様の寒いなか、一人になった拓人は教室にいれば家にマロがいてくれるような気がして、今日も立ち上がれない。

「宮城」

 春樹に呼ばれて振り向く。今日もやはり野球部のユニフォーム姿の春樹は、にこりと笑顔を見せて足取り軽く近寄ってきた。

「また居残り?」

「君は部活は? さぼり?」

「いや、水筒忘れてさ。取りに来たんだ」

 そう言いながら、春樹は拓人の隣の席に座り込む。

「戻らないの?」

「また宮城に撫でてもらいたいなと思って」

 やっぱり、マロみたいだ。なぜか拓人の気持ちを分かってくれて、側にいてくれる。
 拓人は手を伸ばして、春樹の頭を撫でた。春樹が嬉しそうに目を細めるのも、どこかマロに似ていた。

「ねえ、また泣いていい?」

「いつでも、どうぞ」

 軽い返事が妙におかしくて、拓人はクスリと笑う。

「じゃあ、またよろしくお願いします」

「まかせとけ。っと、そうだ」

 春樹は頭に載っている拓人の手を取ると、自分の腹に押し付ける。

「ちょっと、ここ撫でてくれない? 冷えると古傷が痛んでさあ」

「古傷?」

 春樹はユニフォームの裾をたくし上げて素肌をさらす。臍の下、やや右側に白く膨れた横線がある。

「手術の跡なんだけど、ときどき痛むんだ。癒しの手なら良くなるかもと思って」

 拓人はそっとその傷跡に触れた。温かく、少ししっとりとした肌。柔らかな肌のなか、傷跡だけが少し硬い。

「ちょっとくすぐったい」

「あ、ごめん」

 引っ込めようとした拓人の手を春樹が優しく握る。

「くすぐったい以上に気持ちいいよ。やっぱ宮城はすごいな」

「僕なんて何もすごくないよ。ダメダメだよ」

 謙遜ではなく、自己卑下。暗い性格のせいで人と交わらない拓人が本音を口にしているのだと、伏せた顔がこわばっているのを見ればわかる。

「オレ、人前だと泣けなくてさ。ほら、皆をビックリさせちゃうだろ」

 突然の話題の転換に、拓人は不思議そうな表情を浮かべた。

「でも、今は少し泣きそう。痛みを消してもらえるって、なんか涙腺ゆるむ」

「いいよ、泣いて。ビックリするけど」

「予告してもビックリするんだ」

「だって、君が泣くところなんて想像できなくて」

「春樹」

「え?」

「オレの名前。覚えてくれよ、拓人。寂しいから」

 名前を知らないと見抜かれてバツが悪く、名前で呼ばれて気恥ずかしく、拓人は照れ笑いを浮かべる。

「春樹。大丈夫、覚えた。それと、春樹も泣くってことも」

「ああ。フラレたときには泣きにくるから。拓人の前なら安心して泣けそう」

 フラレたときには。そうか、春樹には好きな人がいるのか。自分とは違って誰かを特別に思っているのか。そう思うと羨ましくもあるが少し気が滅入るようでもあった。その気持ちを悟られないようにと拓人は笑顔を作る。

「待ってる」

「フラれるのを待たれるのもビミョーだけど。でも、拓人が撫でてくれるなら、悪くないか」

 立ち上がると、ユニフォームを整えて春樹は教室を出ようとした。

「じゃあ、またな」

「春樹、水筒は?」

 ハッとした春樹が慌てて戻って来て自分の荷物を漁る。取り出した大きな水筒から一口飲んで拓人に笑顔を見せると、今度こそ教室から駆け出ていった。
 もう一度笑顔が見たくて去っていく背中に手を伸ばしたいと思う拓人は、しかし静かに立ち上がり、窓の外を見つめた。
 自分の頬が熱いのは夕焼けのせいかなと思いながら。



 春樹の頭をクラスメイトは代わる代わる撫でに行く。休み時間、春樹の周りにはいつも誰かがいる。そこには笑顔が溢れて、春樹の明るい声が聞こえる。
 その声をいつまでも聞いていたいと拓人は思う。けれど、自分以外に向けられる笑顔を見たくないとも思う。
 人間に関心を持つことなどなかった。拓人は自分の気持ちに戸惑い、持て余した。

 今日もまた教室に居残る。理由は帰りたくないからじゃない。春樹に会いたいからだと自覚している。
 春樹と呼びたい。頭を撫でたい。傷跡の柔らかな硬さを思い出す。
 そしてなにより、春樹の涙が見たかった。見せてくれると約束した自分だけの涙が。

「宮城くん」

 呼ばれて振り向くと、クラスメイトの女子生徒が教室の入り口に立っていた。
 顔だけは覚えていた。しょっちゅう春樹の頭を撫でている小柄な少女だ。見ていないフリをしながら、それでも視界に入ってしまう。顔を覚えたくなどないのに、春樹を見やれば彼女も見える。

「なにか、用?」

 思わず声が尖る。よく知りもしない人物に対して失礼だとは思うが、自分の気持ちを抑えられない。これは嫉妬だとわかっているのに。

「あのね、お願いがあるんだけど」

「なに?」

「私と付き合ってください」

 意外な言葉に拓人は動きを止めた。

「ずっと、宮城くんのこと、かっこいいなって思ってたの。でも近寄りがたくて」

 なにを言われているか理解できないまま、拓人は耳を傾ける。

「最近、なんか雰囲気が柔らかくなったなって。で、思い切って言っちゃった」

 頬を染める少女にイラ立ちを覚えた。自分はなにも変わってなどいない。そもそも少女と話したことすらないというのに。

「どうかな?」

 口を開きたくもなかった。拓人は黙ったまま立ち上がると少女を無視して教室を出た。

「春樹?」

 ドアを出ると、廊下の角を駆けて曲がっていく春樹の背中が、一瞬だけ見えた。

「聞かれちゃったかな」

 少女の呟きが耳に突き刺さったように感じた。聞かれた。そして春樹は逃げていった。
 春樹の涙を、見ることはできなくなった。
 春樹は一人で泣くだろう。拓人の手になど二度と触れたくないと。

「春樹!」

 駆け出した拓人は、しかし春樹の俊足に追いつくことができない。
 息をきらして、野球部が練習しているグラウンドにも行ってみた。
 クラスメイトが溜まり場にしている科学準備室にも行ってみた。
 春樹はいない。
 きっと一人でいるのに。
 きっと一人で泣いているのに。

「春樹!」

 君の涙が見たいんだ。



 それから学校には行っていない。
 誰とも会いたくなくて部屋に閉じこもっている。マロのにおいがする。そんな気がする。
 あのフワフワで少しチクチクする黒い……。
 撫でたいな。
 ああ。
 一人でいると涙は流れなかった。


 小雪がちらつく日、拓人を訪ねてきた担任教師が通信制の高校に編入しないかと提案した。
 興味深い申し出だ。けれど拓人は別の学校に通うことなど想像もできない。そう告げると、担任教師は軽いため息とともに言葉を吐いた。

「宮城もか。牟田も同じことを言うんだが……」

「春樹が? もしかして、学校に来ていないんですか?」

「ああ。宮城と同じ日から休んでる。お前たち、なにかあったのか?」

「なにも……、なにも、ありません」

 そうだ、今はまだ、なにも。
 春樹は今も泣いている。それが自分のせいだと思うと気が滅入るのに、同時にうっとりとするような胸の高鳴りを覚える。担任教師にそんな気持ちを悟られないよう、強く唇を引き結ぶ。

「大学進学を考えてるなら、早く動いたほうがいいんだが」

 ブツブツ言いながら担任が帰っていくとすぐ、拓人は一度も使ったことがないクラスのグループラインを開いた。春樹にコンタクトを取って、はたして反応が返ってくるだろうか。ふと不安になって手が止まる。
 失恋は春樹にとって学校に通えなくなるほど心を傷めることだったのだ。好きな人を奪われたと思って、自分を恨んでいるかもしれない。
 怖い。けれど確かめたい。会いたくないのは、見たくないのは、あの少女なのか、自分なのかを。自分のことを考えてくれているのかを。

 手が震えてメッセージを送るために正確にタップできそうにもなく、拓人は息を思い切り吸い込むと、目をつぶって通話という文字を叩いた。

「はい……、だれ?」

 スマホからの春樹の声は深夜の空のように真っ暗だった。

「春樹」

 通話はそこで途切れた。切られたと思う間もなく、拓人の指はスマホの上を這う。
 ヒヤリとするパネルの奥に、ひっそりとした春樹の熱を探るかのように。 
 何度も発信して、全て無視された。けれど拒否はされていない。春樹は自分を待っている。拓人はスマホを握りしめて、撫でさする。春樹に触れたときのように、優しくくすぐるように。





「春樹」

 マンションの一室から出てきた春樹に声をかけると、春樹はびくりと肩を揺らして勢いよく振り返った。一瞬、目を大きく開いたが、すぐに拓人を睨みつけ、背を向ける。

「傷ついた?」

 拓人の言葉に、踏み出そうとした春樹の足が止まった。

「告白もしてないのに彼女にフラレて、泣きたいでしょ?」

「泣きたくなんかない。オレには関係ないから」

 背中を向けた春樹の腕を、拓人がしっかりと握る。

「心臓が破れそうなほど悔しいでしょ?」 

「オレには関係ない」

「一人は怖いでしょ?」

 意外な言葉だったようで、春樹は振り返って拓人の目を見た。
 拓人は春樹の瞳の奥にこんこんと湧く泉を見つけた。

「君はかわいそうだね、春樹。君の気持ちは一方通行だ」

「なにを言いにきたんだよ。オレを笑いにきたのか? オレのことなんか放っておいて、小林さんと仲良くしてやれよ」

「小林さんって、だれ?」

 真顔で問うと春樹の顔が見る間に赤く怒りに染まった。

「自分を好きだって言ってくれた人の名前も覚えてないのかよ」

 怒っている。けれどそれ以上に泣きたくなっている。瞳が揺れていた。そのきらめく黒い瞳から拓人は目をそらせない。

「僕が名前を知らないくらい、僕とあの人は関係ない。あの人は僕と話したこともないのに、僕のどこを好きだと言うんだろうね」

 皮肉な物言いに、春樹の表情が少し和らぐ。

「……あの人なんて言うなよ。名前で呼べよ」

「他人の名前を覚える気なんてない」

「オレの名前は覚えてるじゃないか」

「春樹は他人じゃないから」

 表情は不審げではあるが、春樹に怒りはもうない。涙も引っ込んだようだ。拓人はホッとし、同時に泣かない春樹に気落ちする自分にも気付いた。

「他人じゃないなら、なんだよ」

「僕が涙を見せられる唯一の人」

 その言葉が春樹の顔を赤くした。怒りではない紅潮を見て、拓人の満面に笑みが浮かぶ。春樹はあわてて顰め面を作って、怒っていると見せかけようとしているが、通用するはずもない。

「春樹も思ってよ。僕のこと、同じように」

「……イヤだ」

「僕なら、君を癒やしてあげられる」

 春樹は顔を伏せてポツリと呟く。

「オレのなにを知ってるんだよ。拓人とだって、ろくに話したこともない。オレのことなんか知らないだろ」

「君が傍にいてくれたら、僕は幸せになれるって知ってる。君に触れると暖かな気持ちになる。君を見ていると触れたくなる。それに」

 言葉を切る。雪が降ってきた。拓人はチラチラ舞う粉雪を見つめる。すぐに消えてしまいそうな弱々しい雪を。
 無言の拓人を春樹が促す。

「それに?」

「約束したよね、フラレたら僕のところで泣いてくれるって。その言葉がどれくらい嬉しかったか、僕は君にどうやったら伝えられるかな」

「春樹」

「え?」

 そらしていた視線を春樹に戻す。今度は春樹が拓人から目をそらす。

「オレの名前、覚えたんじゃなかったのかよ」

「どうだろ。忘れたかも」

 ムッとした春樹が軽く拓人を睨む。

「覚えてろよ。オレだけ片思いみたいで恥ずかしいじゃないか」

「片思い」

 拓人はプッと吹き出した。

「なに笑ってんだよ」

「大丈夫。ちゃんと両想いだよ、春樹」

 拓人が近づいても春樹は動かず、黙って拓人を見つめている。手を伸ばして春樹の頭を撫でると、春樹は情けなく眉尻を落とした。

「失恋の原因から慰められるのって、複雑すぎるんだけど」

「気にしないでよ。僕が好きで撫でてるだけなんだから」

 軽いため息をつく春樹の頬にぽろりと涙がこぼれた。春樹はあわてて手のひらで頬を擦りあげる。

「な、泣いてないぞ!」

「なにも言ってないよ」

 春樹の手をそっと撫でて、拓人は微笑む。

「ありがとう」

 春樹は不思議そうに首をかしげる。

「なにが?」

「僕の前で泣いてくれて」

 真面目くさった拓人を、春樹が笑い飛ばす。

「そのセリフ、オレが言ったやつじゃないか。盗用はダメだろ」

「ふふふ。叱られちゃった」

「でも、言われると嬉しいもんなんだな。そんなこと言えるオレ、すごくない?」

 照れ隠しに胸を張ってみせる春樹の頭を、拓人は両手でぐしゃぐしゃと撫で回す。

「ぐあ、やめろー」

 やめろーと言いながら、春樹は拓人の手を払いはしない。逆に頭を押し付けるように首を伸ばす。

「やめる? 気持ちよくない?」

「……気持ちいい。やめなくていい」

「癒やしになる?」

「……なる」

「古傷も撫でてあげようか?」

 拓人が手を止めると、春樹は拓人の手を取った。

「冷たいな」

「寒いからね」

「こんな冷たい手で撫でられたら、腹を壊しそう。温めようぜ」

 玄関のドアを開けて拓人を手まねく。

「あれ? 出かけるんじゃなかったの?」

 春樹は悲しそうに肩を縮めて、手にしている鍵を見下ろした。鍵と拓人を見比べてから、ふと微笑む。

「小林さんに呼び出されたんだよ」

 拓人は黙って春樹を見つめる。春樹は目をそらすことなく、しかし小さく何度か瞬いた。拓人が春樹の頬を撫でる。春樹の瞳がまた揺れる。

「失恋したから、話を聞いてほしいってさ」

「そういう話ができるほど仲良しなんだったら、慰めてるうちに彼女の気持ちが変わるかもしれないよ。いいの? 行かなくて」

 拓人の視線は刺すほどにきつい。

「オレ、小林さんの前じゃ泣きたくないから。だから、もう会えないと思う」

 ドアを大きく開いて、春樹は促す。

「もう少し、傍にいてくれよ。こんな話、拓人にしかできないからさ」

「僕でいいの? 本当に?」

 真剣過ぎる拓人を、春樹が笑う。

「なんだよ、確認するなよ。なんか恥ずかしいじゃないか」

「僕のこと、恨んでない?」 

「まだ恨んでない。ギリギリセーフ」

「なにそれ。どうやったらアウトなの?」

 春樹が拓人の手を取って部屋に招き入れる。

「オレ以外の誰かの前で泣いたら、恨むからな」

「そんなこと、あるわけない。春樹も、僕以外の人の前で泣かないでね」

 拓人はすがるような口調で訴える。重いその空気を春樹は逃げることなく受け止めた。

「泣かないよ。拓人以上の癒やしの手を持ってる人なんかいないからな」

 この手を欲してくれるなら、切り取って差し出してもいい。そんなことを思いながら、拓人は春樹の家に入った。