妻が事故にあったのは2人でトムラウシに行ってから5ヶ月後の事だった。買い物に行く途中、家の近くの横断歩道で青信号を渡ろうとしたところ車道を走っていた自転車とぶつかったのだ。
幸い、妻は命に別状がなかったが子供はダメだった。道路にうずくまり、股から血を流す妻を置いて、自転車に乗っていた外国人の若者はそのまま逃げ出したという。
また、子宮が傷ついたことでもう一度妊娠することは難しく、出来たとしても流産する危険性があるとのことだった。俺たちは新しい家族を授かる事を許されなかった。
退院してから、妻がしばらく休職し、家で過ごすようになった。特に何かをするということもなく、最低限の家事をこなし、1日のほとんどは俺のパッド端末で動画を見ているようだった。
俺はそんな妻を元気づけることもできず、仕事だなんだといって家にあまり帰らなくなった。自分の子を守ることができず、これから新たに命を宿すことも出来なくなった妻に、一体どのように声をかければいいのか分からなくなった。
たまにどういう動画を見ているのかと聞くと、東くんの動画を見ていると答えた。3人で心霊検証とかいって動画を撮ったこともあったね、と。
そういう彼女はただただ死んだ魚のような目でスマートフォンから送られる情報の光を受け入れ、そこから楽しさや嬉しさというものを生み出すことはなかった。彼女は事故以来、一切笑わなくなった。
なぜ、日々をただ正しく、静かに生きている妻がこのような目にあってしまったのか、俺には分からなかった。
ある時から、妻はこう言うようになった。
「頭が二つある女性がこちらを見ていることがある」
「なんだ、それは」
「本当よ、家の中にいるとね、たまに視線を感じるの。昼下がりにソファに座ってぼーっとしてるとね、窓から差し込む光がゆらゆら揺れていることに気づくの。何かなって思って窓の方を見るとね窓を閉めているのにカーテンがゆらゆら揺れていて、少し膨らんでいるの。カーテンの中に誰かいるんだわ。そうしてカーテンの下の方を見るとね、人の足があるのよ。裸足だったわ」
「東の怖い動画ばっかり見てるからそういう怖い夢を見るんだ」
「違うのよ、夢じゃないの。カーテンの下から足が見えていることに気づいて少しずつ視線を上に上げていくとね、カーテンの一番上のフックのあたりから人の頭がはみ出ていたの、それも二つも頭があったのよ。もう私怖くて恐ろしくておかしくって笑っちゃったの。そうするとね彼女もつられて笑うのよ。大きな口を開けて笑うの。その笑い声もおかしくってまるでカモとかアヒルの鳴き声を低くしたようにガアガア笑うのよ。しかも口も二つあるわけだからうるさくってしょうがないの。楽しくって面白くって、どれくらいそうしていたかしら。私、彼女に聞いてみたの、いつからそこにいたんですか?って、そしたら彼女、山からずっとついてきてたんですって、山ってトムラウシの事かしら。あそこは綺麗だったわね、あんな綺麗なところからよくこんな汚い場所に来てくれたねってありがとうって言ったわ。そしたら彼女、にっこり笑って、お前の夫が呼んだんだって、あなたに連れてこられたらしいわよ。それでね、更に彼女はこう言うの。お前の子供は女の子だったって。かわいくて真っ赤で小さくってとても美味しかったって。産むことが出来なかったのは残念だけれど、彼女が喜んでくれたのなら私、納得するわ。それから彼女といろんな事を話したわ。私を轢いた外国人はもう解体工事の現場で瓦礫に潰されて死んだ事、生まれるはずの赤ちゃんには障害があった事、あなたは私に会うのが怖くてわざと遅く帰ってきている事、あなたはトムラウシ山で彼女に気づいたのに無視した事、あなたは結婚する前、他の女をホテルに行っていた事、私は救われる方法はたったひとつって事」
久子が意味不明な言葉を次々と紡いでいる中で俺はあることに気づいた。妻の言葉は確かに妻の声として俺に聞こえてきてはいるが、妻の口から聞こえる音はガアガアという異音だった。妻はガアガア、ガアガアと鳴き、それと同時に妻の声が俺の耳に入り込んでいる。まるで外国の映画の元の音声と吹き替えを同時に再生しているようだった。
妻の狂気的な語りは更に興奮を増し、ついに妻は勢いよく立ち上がった。その時椅子を思いっきり倒してしまったがそんなことは妻からしたらおかまいなしだった。
すると、俺の背後でリビングと廊下を繋ぐドアがガチャリと音を立ててゆっくりと開き始めた。
俺は音だけを聞き、ドアの方は見なかった。一方で妻は語りをやめ、廊下の方を大きく目を開いて視線を送り、拍手をしている。まるで推しの歌手のコンサートで一番手前の席で歌手の入場を迎えるファンのようだった。
ぎ、ぎ、ぎ、ぎ、ぎ、
ドアはゆっくり、ゆっくりと開き、廊下から流れ込む冷たい空気がそっと俺の首を絞めた。
ばん!
その瞬間、ドアは思いっきり閉じ、大きな音を立てた。それと同時にそれまで狂気的な笑みで拍手をしていた妻は崩れ落ち、そのまま眠ってしまった。
次の日から、妻がすっかり元気になった。家事をテキパキとこなし、買い物に行き、来週からは仕事に復帰すると言い出した。流石に早すぎる、もう少し休んでも構わないと言ったが聞く耳は持たなかった。昨日の事は覚えていないようで俺も話題に出す事はしなかった。
休みの日、俺はトムラウシで見たバケモノと妻が見ていると言う頭が二つある女について調べてみることにした。精神病的な行動なのかそれとも心霊的な霊障なのか、妻を脅かす脅威を取り除きたかった。
だが、いくら調べてもそういったものはでてこない。こんなものをいくら調べても意味はないかと思った時、ふと頭の片隅にあった記憶が呼び覚まされた。
おばあちゃんが昔、1人で山に遊びに行こうとする俺に聞かせた話、ツプサパフチ(二つの頭の老婆)のことをだ。
俺が8歳のころ、父親はよく長期休みにはおばあちゃんの家に俺を預けていた。友達もおらず、父親のこともあまり好きではなかった俺にとって大好きなおばあちゃんの家に泊まれることは何より楽しかった。
俺はよく、おばあちゃんの家の近くの山に入り、キノコを拾ってみたり、木に登ったりしていた。木や土の香り、自然の手触りが俺の感覚を鋭く尖らせ、俺の小さな体と脳みそをスパークさせた。そうやって野山遊びに夢中で帰ってくるのが遅くなる俺をおばあちゃんはツプサパフチ(二つの頭の老婆)の話でおどかせたのだ。おばあちゃんはアイヌの子孫で、色んな神様や妖怪の話をしてくれた。
ある時、この世界に空と大地がなく、煙のような気だけがあったころ、一滴の油から大きな炎が舞い上がり、立ち上った煙が空になった。そして炎がさんざんと燃え広がった後、海に浮かんだ濁った塊が集まり、島となった。さらに空気中を漂うモヤモヤとした気があつまり、一柱の神(カムイ) となった。さらに空を漂う気からも神(カムイ)が生まれ、五色の雲を更に分けてさまざまなものを生み出した。水が生まれ、土が生まれ、動物たちが生まれた。そしてそれを統率させるために二柱の神(カムイ)は沢山の神(カムイ)を生み出した。
日の光のカムイのペケレチュプ、月の光のカムイのクンネチュプ、それらの光の神はアイヌの大地を優しく照らし、火は水のカムイは人々に食料を調理する方法を教えた。
さまざまなカムイが生まれ、北海道の大地に根ざしたが全てがアイヌにとって有益な存在ではなかった。ツプサパフチもそのうちのひとつだ。
ツプサパフチは山で1人で彷徨うアイヌの元へ現れ、不幸をもたらす。真っ赤な着物に長い紙、手足がひょろひょろと長く、恐ろしくも頭は二つある。黒く長い髪で顔は隠されているが正体を表すと髪を掻き分け狂気的な笑みを浮かべる老婆の顔をしているという。そして気に入った人間はどこかへ連れ去ってしまうのだ。
おばあちゃんは部屋を暗くし、蝋燭を一本だけつけてその話を俺にした。幼い俺は震え、一人で暗くなるまで山で遊ばないことを約束した。しばらくの間、俺は完全にツプサパフチの恐怖の虜になり、夜、布団を敷いて寝ている時に聞こえる些細な物音や、障子越しに見える廊下を行く影にツプサパフチを見出し、冷や汗をかいた。
しかし、大人になるにつれてツプサパフチのことはすっかり忘れ、山で遊ぶどころかサバイバルを楽しむようになっていた。
そんなツプサパフチが今、妻に取り憑いているのではないか?トムラウシからここまでついてきて、俺たちに不幸を振り撒いているのではないか?
しかし、そう思ってしまう半分、ツプサパフチなどいないこともわかっていた。北海道の大地は神が作ったのではなく、太古の昔に大きなユーラシア大陸から日本が分離し、更に海面上昇によって北海道は一つの大きな島になったのだ。ツプサパフチも、アイヌ民族が子供を脅かして一人で山へ遊びに行かないように親たちが考えだしたものだろうと、おばあちゃんはきっと、先祖と同じように俺にツプサパフチの話をしたのだ。
妻は今、精神を弱らせている。子を失い、子宮を失い、未来を奪われた。そしてトムラウシで見たショッキングな現場を脳が呼び起こし、見間違いと妄想がツプサパフチを生み出したのだ。
しかし、そうであるならばなぜ、妻は、妻を轢いた外国人が死んだとか、生まれるはずの赤ちゃんには障害があったとか、誰も知り得ないことを断言し、俺があいつに会うのが怖くてわざと遅く帰ってきている事とか、俺が久子と結婚する前に元カノとホテルに行っていた事を知っていたのか。妻の言動や行動は狂気的ではあるがどこか冷静なようにも見えた。なにか根拠があるかのような物言いでもあった。なにか超常的なカムイの力が及び、妻に神託を与えているのではないかとも。
寝室へ行くと妻はぐっすりと眠っていた。明日は仕事に復帰するために早く寝ると言う。明日、彼女が仕事から帰ってきたら心療内科を進めようと考えた。
しかし、次の日、彼女が帰ってはこなかった。
仕事へ行くために家を出た彼女はそのままどこかへ消えてしまった。
連絡が取れない事に気づき、彼女の職場や家族、友人に連絡をとり、彼女が起きそうな場所を探したが手掛かりは一切なかった。警察へ捜索願をしてから3日後、あるマンションのエレベーターの監視カメラに彼女らしき人物映っていたので確かめにきて欲しいと言われ、そのマンションへ向かった。そのマンションは俺の自宅からすぐ近くの10階建てのマンションだった。しかし、そこは自宅から駅へ向かう方とは逆方向であり、彼女の訪問介護先でもなかった。
マンションへ行くと担当の警察官に迎えられ、管理室へと入った。そこにはマンションの管理会社の社員2名と警備員がいた。全員、なにやら難しい顔をしていた。
警察官が話を始めた。
「大山さん、奥様らしき人がこのマンションの1階から10階までを繋ぐエレベーターに設置されていた監視カメラに映っておりました。まず、映っている女性が奥様かどうかを確かめていただきます。そしてもう一つ……」
「なんです?」
「今からご覧にいれる映像は非常に不可解です。信じられないかもしれませんが我々はこの映像に対してなんの加工や編集もしておりません。管理会社の皆様にも確認はとっております。その上でビデオの内容を大山様の目で確かめていただきたいのです」
いったい、なんなんだ。警察官が椅子に座る警備員に目配せをすると警備員はモニターのリモコンを操作し、映像を流し始めた。
色味の薄く、画質の悪い、狭いエレベーターを写した映像が始まる。初めは誰も乗っておらず空っぽだが、1階へ向かって下降を始めている。
1階へ到達したエレベーターはドアを開き、そこから一人の女性が乗り込んでくる。長く伸びた黒髪に灰色のコートに白いニット、手作りのハンドバッグに茶色いロングスカート。
間違いなく、あの日家を出た妻そのものだった。
